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文部省唱歌 『朧月夜』

2017-03-01 02:16:26 | 日記

 

文部省唱歌 『朧月夜』 ユーチューブです。聞きながら読んでいただけたら、文章のお粗末さが……。
でも、聞きながら読むことができるのは、パソコンの場合だけですね。スマホでは無理のようです。
このサイトには、たくさんの童謡・唱歌があります。
https://www.youtube.com/watch?v=djNC73V-X0c
1914年(大正3年)初出 作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一 歌:NHK東京放送児童合唱団

菜の花畠(ばたけ)に 入り日薄れ
見わたす山の端(は) 霞(かすみ)ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて におい淡(あわ)し


    

「菜の花がいっぱい咲いています。
晴れた空の下で、広々とした菜の花畑がとってもきれいです」
といったような文章を、小学3年生のころに宿題でかいて、賞をもらったことがありました。
そして、おまけにその詩のような文章が、近在の小・中学校生徒の作品集として、立派な本になってしまったのでした。
今でも、その本は手元にあるのです。そして少し前に、小学校の同級生が15人ほど集まって食事会をしたのです。
その席には、お世話になった先生も久しぶりにお呼びしたのです。

先生はぼくの顔をみるなり、「おお、変わってないね」「Sくんのあの詩はよかったよ。Xにも載ったしね」と言われて、ぼくは、先生のその記憶力に驚きながらも、憶えていてくださったのがうれしかったのでした。でも、先生はクラスの担任ではなかったのにどうして憶えてくださっているのかな、と、なにか不思議な気持ちはいまでもあるのです。

そしてまた、先生には、先生の記憶のなかにある昔のいろいろなことを話していただいたわけです。そして、その話のなかに、ぼくがまったく知らなかった、びっくりするような話がいくつかあったのです。「Xくんはあの時、ああしていたんだよ。Yにはそういった事情があったんだよ」といったことごとを話してくださった。
ああ、そうか、そういうことだったのか……。
ぼくは酔いがまわるなかで、そのころの先生のことや、小学校低学年でも意識の成長が遅れていたじぶんのことや、そのころの友だちのなんにんかを想いだすなかで、なぜか感慨無量の気持ちでいっぱいになってしまったというわけでした。

でも、実はそのときに、ぼくは先生に、必ず言わなければいけなかったことがあったのです。そのことを先生に言うつもりではいたのです。うそでなくほんとうに。でも、でも結局、そのことは言えなかった。お酒のせいなのかなともおもうのです。でもお酒とはかんけいなどなく、ぼくがそこで先生に言えなかったということは、なんだかとてもひきょうな気もしたのです。いまでもそうなのです。

でも今更しかたない、言えなかったのだから。でも、そのほうがよかった、という気持ちも、実はあるのです。
そして、そこで先生がなんどもあの子どもの頃のことごとを、そしてまたあの詩はよかったよ、と言ってくださった気持ちがうれしかったし、ありがたかったし。

そして、そのとき、ぼくが先生に言いだせなかったことなのですが。
実はここで言うのも恥ずかしい話なのです。
それは、ほんとうに、じぶんの人生で最大級の、世界への裏切り行為!などというとほとんどおおげさ過ぎてしまいますけど。でも、それは、じぶんの、ぼくにとって消すことのできない“うそつき”としてのおてん、であることは確かなことなのです。

そのことをいま、この場をお借りして独語させていただくしだいです。
勘のいいかたは、もうたぶんお分かりだと思います。
そうなんです。実はそのことは、まことにみっともないことなのです。
実は、あの詩というのは、座卓に向かうぼくの傍らで、母が一語一語ゆっくりとかみしめるように、口にしてくれたことばだったのです。

あるとき、ぼくがもっと小さかった頃に、あの『家なき子』を涙ながらに読んでくれた母が、忙しい母が、どうしてあのようなはんざいもどきのことをしてくれたのか。
そうしたことごとのすべては、いまでは夢のなかの出来事でしかないのですが。
その頃も、母に宿題をみてもらったことなんか、ほとんどなかったように思うのです。
しかし、そこでの情景が真実どのようなことごとであったのか、もちろん今では、とおい宇宙のはての星々のできごとのせかいのようなことごとになってしまいました。

でも、確かにあの詩は、ぼくの創作ではなかったのです。ここでぼくは、いや、あれは母との共作だった。
と言いたいような誘惑にもかられるのです、でもあの詩は、ぼくの心のなかから出てくるはずがないことばであった。そのことは確かなことなのです。
そうなんです。

それにしても、文章というのでしょうか、ことばを紡ぎだすということはほんとうにむずかしいですね。
ぼくにとってはいつでも、紡ぎだすというより吐きだすという表現がぴったりします。紡ぐためには、いつだって、それなりの要件がなければだめなんですね。それをつぐもうとする気持ちと道具と作業がキチンとそろっていなければ無理なわけです。だから、ぼくの紡ぎかたが毎度トンチンカンであってもとうぜんだし、分かりやすくて、それなりの文章などというのは、ないものねだりのことでしかありません。それでもめげることなく勝手放題を……