毎日、ほんとうに暑いですね。
あい変らずテニスをしています。でも、2時間と少しを休みながらなのです。
1L入りの冷蔵ボトルを2本もっていきます。だいたい飲みほしてしまいます。
こうした気温の状態が続いていると参加者が少ないのです。今日は午後の
2時半からはコートを3面取ってある日なのですが、参加者はmax13名。
+女子の参加者が少ないのです。参加する女子は、みなさん烏天狗のような
顔を覆うマスクもどきをしてプレーをしています。すべて手作りなのです。
ぼくなどは、AEDのお世話になってはいけないので、無理をしないという
ことを第一原則にしています。
昨日配信の、孫崎享さんの(108円/月額)メルマガを読んでいたら、とても
気になる記事だったので、自分のツイッターにスクラップしておくだけではなく
、ここに投稿しておきたいとおもいます。
読む時間があって、気になるようでしたらぜひともお読みください。
配信記事では、『週刊朝日』に書かれている、創価学会員の間で安保法制に
たいする反論が拡がっているという記事が紹介されています。
孫崎さんのメルマガですけど、書き方はだいたいきまっているのです。まず
検討課題があり、それに対して、A・事実関係、そして、B・評価となっていま
す。もちろん、なにごとかについての紹介や簡単なコメントだけという場合も
あります。
この「安保法制にたいする創価学会と公明党の動き」のメルマガ記事は二の
次にして、まず、下記の配信記事をお読みいただけたらと思うのですが。
「今回の安保関連法案の是非について考えるとき、日本の文脈だけで考えて
いては見えてこないものがあるのではないか、と思っていた。外務省の元
国際情報局長で、米、英国、イランなど、世界を様々な視点から見てきた
孫崎氏に、国際的な文脈を踏まえての視点を聞いてみたかった」
以下はその一問一答である。論旨を明確にするため、言葉を整理した部分
がある。
(取材日 7月10日、小林恭子)
[安保関連法案]「反対の声が将来に歯止めをかける」孫崎享氏に聞く」
(ハフィントンポスト)
この記事の元ネタは、小林恭子さんのブログ(英国在住で元「英字読売」
記者)
孫崎さんのこうしたまとめ方について、政治・経済・軍事など関連する学者
や評論家のコメントを聞いてみたいものです。
それから、今話題になっている『絶歌』ー神戸連続児童殺傷事件ー
元少年A、太田出版、について感想を書こうと思っているのですけど、
難しい問題なのでとても僕の手には負えず、頭がまわらない状態です。
それでも、実は、少しばかり考えようとはしているのです。
そうしたなかで、ドストエフスキーの『カラマゾフノ兄弟』の中の気になる
個所を読んでみたくなったのです。
そしてほんとうに久しぶりに、拾い読みをしてみましたのです。
第5編「肯定と否定」第4反逆。
ドストエフスキーは、神と人間、死と生、愛と救済、罪と罰、国家と社会とい
った人間の究極的な問題を鋭くついきゅうします。
この個所は、無垢な子供にたいする大人の側からの虐待を許せるのか。
そのようなことを見逃す神を許せるのか、といった兄弟による神と信仰に
関する論争が中心になっている場面。この部分であったかどうかは忘れ
たのですが、「神がいなければ、全てが許される」というセリフは有名。
米川正夫さんの訳でS40年の20版で390円。なんとも懐かしいのです。
読んでみたいと思ったところが、赤と青の2色鉛筆(今でも発売?)の棒線
が、あちこちのページに目一杯ひかれているのでびっくり。
そもそも、鉛筆の芯を削らずにひいているので活字が読みにくいのです。
しかし、そんなことごとはまったく余計なことです。
なぜ、ドストエフスキーでしかも『カラマゾフの兄弟』なのか……
実は、あの『絶歌』を読んだ後に、被害少年の父親、土師守さんが書かれ
た『淳』、新潮社、2002年、と加害少年の両親が書かれた『 「少年A」 こ
の子を生んで……』ー父と母 悔恨の手記ー文藝春秋、2001年、
土師守さんとノンフィクションライターの本田信一郎さんが書いた
『淳それから』新潮社2005年、を読んでみたのです。
上記3人の関係者が書いたそれぞれの本を読んだあとでは、自分の感想
をまとめたいと思っても、それまでの安易な理解のしかたやいいかげんな
気持ちだけではすまされなくなってしまったのです。
また、自分は子どももいないし、だから当然子育ての経験もなく、世間的
な評価からしたら例外者の部類に入るわけです。
ですから、大切に育ててきた愛するわが子をあのような形で殺された親
の気持ちというものを心底から想像することもできないわけです。
Aさんが書いた本を読んだ後まででは、土師守さんは医師をされているの
だし、どんなに凶悪な犯罪ではあっても、また少年法の立法の趣旨から考
えても、Aさんという少年の犯罪にたいして少し厳しすぎる見方をされてい
るのではないかという感想を、ぼくはもっていたとおもうのです。
土師さんは、出版社にたいして出版の差し止めを要求していたということ
も、僕は知っていました。
土師医師は、もう少し客観的になることはできないものなのか。
また、人間が生きているということ、人間の存在に伴うリスクというのは、
臨戦態勢下の限界状況におかれた人間と同じであるという認識が必要
なのではないかといった感想をもっていたこともたしかでした。
しかし事実としては、A少年の犯罪は、通常の神経の持ち主であったなら
ば起こしえないような、信じがたい猟奇的で悪質な犯罪であることは間違
いないわけです。
そのころ、一番はじめに思ったことは、こうした少年によるこうした犯罪は、
その個別少年の問題だけでは済まされる問題ではないのではないかと
いうことでした。その少年についての個別的なことがらはともかく、問題の
の根底にあるのは、人類、人間の存在の始原と共にある問題、課題なの
ではないか、という僕の思いなのでした。
それは、人間の意識の始まりに関係したことでもあるし、また遺伝子レ
ベルでの変容という人類・人間がその自然過程であらしめられてしまっ
た事態にもかんけいしていることなのではないか。その、ゲノムのある
部分の傾きとか濃淡とかといった(科学的な現象としてはあり得ない
のでしょうけど)、ともかく、イメージとしてはそのような遺伝子の変異
の過程で人のこころの世界のどこかに関係する遺伝子に陰りみたい
なものができてしまったのではないか、などといった感想をもつのです。
つまり、ひとりの個人・個体にだけ責任を負わせることはできないので
はないか、といった側面があるのではないか。だれであっても、同じよ
うな立場になりうる可能性がある、ということなのです。
つまり、誰であっても、そうした事件の加害者にも被害者にもなりうる可
能性があるのは確かなことである、と思うのです。
犯罪学というのは聞いたことがありますが、犯罪史という分野もあるの
だと思います。ひもとけば、人類の歴史とはとほうもない残酷な歴史、
犯罪史の連続であると思うのです。その事件を知ったときに、またA
さんの本をよんだ後に思い浮かんだ本がありました。
V・フランクルの『夜と霧』、ドストエフスキーの『罪と罰』、『カラマゾフの
兄弟』、遠藤周作の『海と毒薬』などでした。ドストエフスキーの小説は
ともかく、フランクルや遠藤さんの本は実話であるわけです。そこでの
出来事は、まさに人類が犯した最近の犯罪の一コマでしかないわけ
です。この暑い夏の季節に、人類・人間がなした広島、長崎の原爆投下
にしても、人類・人間の、問題・課題を象徴する犯罪行為であるというこ
とをおわざるをえないわけです。
今、「人類、犯罪」をネットで検索したら、
「まったく歴史とは、そのほとんどが人類の犯罪、愚行、不運の登記簿
にほかならない」というギボン(1737)という歴史家の言葉がありました。
例えば、戦国時代に出世をするためには、戦場で敵方の大将の首を刎
ねて味方の大将のもとにぶら下げてもっていくのが一番であったという
、そうしたことがその時代では普通のことというか、善であるとは言わな
いまでも、少なくとも「よくやった」と誉められたことがらであったわけでし
ょう。
ここでぼくは、どうにかしてAさんの犯罪は、Aさんだけがわるいわけで
はないのだといった、Aさんをかばうための方途を考えようとしている
のでしょうか。
きみの想像力や考え方はおかしいよ、という声も聞こえてくるわけです。
加害者によって殺されたときの被害者の叫び声をもっと真剣に、適当と
かいいかげんにではなく、被害者のぬぐえきれない涙の重さをかんがえ
てみなさい。 そのときの被害者の恐怖する心を想像することは不可能
なはずだ。それなのに君は!
でもぼくはここで、吉本隆明さんの親鸞を語る言葉を思い起こすのです。
「往相」の課題としては喫緊の課題を、「還相」の課題としては永続的な
課題をかんがえることが必須なのだと。そうした枠組みでしか解決への
道筋というか、救済とか倫理という問題を考えるためにはそういう方途を
設定する以外にはないのではないかと。
「往相」というのは往きの言葉であって、この世間を支配している倫理や
価値観などのこと。「還相」というのは還リ道のことばであって、この世界
の価値や倫理を相対化する視線を含んだ道筋のことば。
じゃあ、往くというのはどこへ行くことなのか、還るというのはどこからど
こへという道筋なのか。そして、どういう意味があるのか。
親鸞のかんがえる往相というのは、衆生の苦悩の救済にかかわること
であって浄土へ往く道筋のことらしいのです。また還相というのはこの
世の衆生の救済にかかわることであっても、浄土を経由して透過視線
というか、世界視線を手中にしたようなというといいかげんな表現かも
しれませんけど、この世界の事象を認識する際に、人間の理解の次元
を超えた別の視線から捉えなおすことが可能となる道筋のことのよう
なのですが。
でも、ここで浄土などという言葉が突然出てくると、ようするに宗教なの
だねということになるのかもしれません。でも親鸞が生きた時代にあっ
ては、哲学も倫理学も社会科学といった学問もなかった時代なのだと
おもうのです。その時代の仏教の位置づけというのは、現代のそれと
はまったく異なっていたことは確かであったはずです。
そしてまた、親鸞が生きた頃の時代背景も問題になるとおもうのです。
「貴族社会から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的
な構造変化が起こった。また、戦乱・飢饉・地震により、洛中も荒廃した」
「方丈記では、市中に遺体があふれていたことが記されている。
旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷は様々な加持祈祷を試
みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲った。
仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに
死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、養和二年
四月・五月の左京だけで、42300余人に達したという。」(姜尚中さん)
でも、でも、だからどうしたのだ、ということにもなりそうですね
興味をもたれたら、正確なところは、吉本さんに直接お聞きください。
つまり、A少年の問題は、喫緊の課題としては解決できない種類の問
題なのではないのか。 それは永続的な問題であり課題でしかありえ
ず、人類と人間の永遠の問題なのだと。
そしてまたぼくは、キリスト教の罪という概念をおもうのです。
ぼくにとっては、キリスト教でいう、例えばカール・バルトなどのいう
”人間の罪”という概念にこころがひかれる点があります。
バルトの本はたくさん翻訳されていますので
また、吉本さんは晩年に「存在倫理」ということばを言っているのです。
オーム真理教による無差別テロ事件。その6年後のアメリカ・ニューヨ
ークでの世界貿易センター自爆テロ事件をかんがえる過程で、吉本
さんが構想し提出した概念のようなのです。
「……社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫
理でも、民族的な倫理でも、何でもいいんですけれども、そういうもの
のほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、
という意味合いの倫理、『存在倫理』という言葉を使うとすれば、そう
いうのがまた全然別にあると考えます。……」
(「存在について」『群像』2002年1月号)
なんだかよくわからないことばかりを、とにかく、書いてしまいました。
いま読み直してみて、書き足りないことがたくさんあります。
被害者である淳くんのご家族というのは、ほんとうに自分にとってまっ
たく想像できないような心温かい4人家族であったんですよね。
本を読んで涙をこぼしてしまうといったことはめったにないことなの
です。でも、この淳くんの父上である土師医師が書いた本をよんで、
感動している自分があったということなのでした。
A少年のご両親についても、ほんとうに言葉がありません。時間があ
ったら是非とも、この本を読んでみてください。淳くんの父上の本には
このAさんのご両親とのかんけいについても書かれている個所があり
ます。土師さんが共著で書かれている本にはAくんとご両親にたいす
る率直な意見を述べられているところもあります。ノンフィクションライ
ターの本田さんを通して、父上の気持ちを書かれている部分も。
『絶歌』の出版は許される範囲のことがらだと思うのです。そして、だれ
でもが読んだ方が良い本であるとおもうのです。 そしてこの本と共に、
ぼくが読んだ3冊の関連する本も読むとよいとおもわずにはいられま
せん。この書物を通して、人間とは?といったことごとを考えさせられ
てしまうのです。
書き足しをしてるのですが、A少年の審判の過程で、精神鑑定を務め
たのは中井久夫先生だったそうなのでびっくりしました。
中井先生はよいお弟子さんをたくさん育てた方だし、ぼくも分らないな
がら、そのお考えについてですけど、でも好きな方なのです。
鑑定書などもぜひ読んでみたいと思っています。審判を務めた裁判官
も興味をひかれる方です。
それから、『文藝春秋』の8月号の巻頭言で書かれている立花隆さん
の「少年Aよりも」という文章には、まったく100%がっかりしました。
ぼくががっかりしてもあまり意味はないわけですけど、でもしかし、
あの立花先生がどうしてこういった文章を書かれてしまうのだろうか?
ということを痛切に思ってしまいました。
立花さんは編集部から書くかと問われた際、
「……私はノーと答えた。あの本にたいする私の評価はゼロである。
……読んでいて不快だった。一読ナンジャコレハとあきれる文章が多
く、この少年は病気が治っていないのでは(?)とすら思った。……
……もともと少年Aは、悪くない頭を持ち一般の少年以上の内省力と
文章力をも持っていたのに、少年院生活を続けたら、それがともに
一般水準以下に以下になってしまったのだ。なんのための少年院
だったのかと言いたい……」
立花さんのピントとぼくのピントが、たんに合っていないだけなのか
もしれません。だから、ぼくのピントからしたら、立花先生、ピンボケ
ではありませんか?ということになるのだと思います。
ぼくには、あの立花さんがなぜ、という思いが強くあるわけです。
思いだしたので書き足しなのですけど、立花さんは、どの本でだった
忘れましたけど、フロイトやユングについて興味をもたれることはなく、
どちらかというとお好きではない、ということを言われていたとおも
います。上記、巻頭随筆での立花さんの言われていることは、この
フロイトやユングにほとんど興味をもたれることがない立花さんの
人としての資質からきていることなのかなと思ったりするのです。
書棚をみると、ほとんど読んではいないのですけど、その問題意
識に共鳴して何冊ものご著書を買わせていただきました。臨死問
題については立花さんが一番的に頼りになります。
科学の諸分野の問題についても、素人が知ろうとした場合には頼
りになるのではないかと思うのですが。
でも今、WIKIうを検索したら立花さんにたいしていろいろな意見が
あるようです。上杉隆さんが、立花さんの取材方法のずさんさを批
判しているという記事を読んでびっくりします。ことの真偽は分りませ
んけど、政治家について書く場合には、当事者や周辺にたいする取
材がな必須なことは僕でも分ります。
でももしかしたら、立花さんの情報収集は、出版社経由のスタッフを
使って取材するので、目立たなかっただけなのかもしれませんよね。
しかし、wikiを読んでみて知ったことは、立花さん牧師の子どもさん
かと思っていたのですが、母上がキリスト者であったということでした。
今は、目が覚めて書き足しの朝、になっています。
今日も暑くなりそうです。