嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

眼鏡をかけたラクダは めぇと啼く。

2007年10月07日 04時17分02秒 | 駄文(詩とは呼べない)
人の死をきちんと悲しむ事ができるのは
すでに生を選んでいる人だけだと思う。

今から死のうか生きようか迷っているような人は、
死に対して、あまりにも真剣すぎて、どこか希薄で鈍感で
感情が幽離している部分があるように思う。

そういう意味では、僕は家族の死をきちんと受け止めたり、
処理したりする事ができていない、
ある見かたをすれば、消化不良のような状態かもしれないと思う。

死について、いろいろ考えたりはするけれど、
そのことが、痛みではなくて、どこかブラックボックスで、
逃げ続ける解けない紐としての、棺桶という結び目や、
死体の謎という肉薄する疑問体が詰め込まれていて
あるいはもしかしたら、死体を食す事によってしか、
それは理解できない事なのかもしれない。

腐敗していく身体の臭いと、
生が失われていく臭いは、
果たして同一のものなのだろうか?

垢の臭いは、死の臭いなのか?

僕は、それはなんだか少し違うような気がしている。
もっと戦慄する恐怖のような、
冷たさや熱さに似た固い硬いこわばったもので出来ていて
それを理解できない事が、
【生】そのものとしての、ある種の壁だと思う。

もし、現実に死を理解できる者が居たとしたら、
それはあらゆる固さと柔らかさを超越した軟度を、
すでに身につけてしまった人なのではないか?

そういえば昔、肉体を槍で貫かれても死なない人が居た。
寝なくても平気という人も居た。
そういうオカルトじみた話にも、
どこかしら不思議な規則性があるように思う。
オカルトにはオカルトの法則があって、
それを超える事はできず、
オカルト的な何かによって、
やはり滅んでしまったりする。

別にその事が悲しいわけではないけれど、
やっぱり少しは不思議な事だと思いはする。また、思う。

今も。

喪失が哀しいと思う事はたびたびあるのに、
景色を儚いと感じる事もたまにあるのに、
それでも人の死が悲しいとうまく理解できないのは、
僕が冷たく閉じた人間だからなんだろうか?

それもまた、やっぱり少し違うような気がしていて
むしろ僕を心が無いと非難した人間の方にも、
大事な心構えや道徳性が欠けていたように思うから。

しかしだからといって、
僕に全く問題が無いということにはならない。
やっぱり僕はなにかしらの問題を抱えていて、
それがうまく、自分で掴めていないのだから。

積み重ねた努力を放棄する時、
僕は登山の荷物を一つ失う。
頂上で弁当を食べる喜びが無くなるようなものだ。
だけど僕はその時、たいがいにして、
自分から何が失われたのか、ほとんど全くといっていいほど
気づけないほどの頭の悪い人間なのだ。

でも、何かが失われた、という喪失感だけは残る。

それを考えあぐねている間、
やっぱり僕の歩行は停滞する。

僕の中で失われた何か、
僕の中で鈍くなっていく感情、
自分の危機にしか流れないような水っぽい涙。

枯れたオアシスのようなこの自分という砂漠で、
僕は明日を掴み取って、【昨日として】数える。

誰かに会うたびに、僕は死んでいく自分の数をかぞえる。
その癖が無くなる頃には、僕という自分の砂も、とうに無くなっているのだろうか。

喪失の地平で.

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