「不良債権としての『文学』」(「群像」2002年6月号) 大塚英志
どうやら僕等が抱えている問題は相当根深いものであることに気付きました。
ここでうだうだ議論を重ねる事は
おそらくもう、僕自身の停滞以外の何者でもないでしょう。
「本を売りたい」「本を作りたい」「本を書きたい」「何かを書きたい」「何かを伝えたい」
それらは曖昧に一体となっていたからこそ、
僕等は同じ場を共有できました。
何故、KenさんがBFから間接的に追い出されて
(あるいは自発的に抜け出て)
今の現状に至ったのか、僕はようやくわかってきました。
それぞれの人達が、自分の場を、力点を、重力を、
必死になって守り続けているからです。
だけどそれは幻想です。
その必死なプライドの固持は、読者の前に立っていません。
このコミュがある種の閉鎖性の中で活発に議論され、
BLOG上で透明性を持って議論されなかったこと、
それは僕等が現実から目を背けているからです。
僕は、本を出したいとは本質的に願っていません。
これは、わどさんとの共同生活が失敗した事の、
本質的な原因でもあっただろうと思います。
僕がこの場に参加している限り、
BLOG FRIENDSは前進する事が出来ない気がしてなりません。
僕自身が頑なに守っているへんてこな場は、
たぶん既に現実が見えているあなた達の遙か後方です。
僕が何かを主張すれば主張するほど、
BFはその枠を広げる事でしか繋がりを保てません。
現状の小さな集団構成を維持している限り、
「本を売りたい」~「何かを伝えたい」までを幅広くサポートすることは
ほとんど不可能ではないかと考えます。
それゆえに、僕は僕自身が本を望むまで
「本」という場から退くべきであると考えます。
そしてまた、僕が「本」というチャンネルを選ぶならば
突発的に、衝動的に、僕自身のエゴによって
多分僕一人でどこかへ動きます。
今、僕に、「本を作るための友達」は必要ありません。
多分僕に必要だったのはBLOGの友達、だったような気がするから。
BLOGがなんであるか、それが明確化してきたことで
僕にとってのBLOGは可能性を失っていきました。
無くなったわけではありませんが。
mixiというある種の萎縮性
それは便利で仲良し、という見せかけの演技でもありますが
僕はmixiにもBLOGにもまだなんらかの可能性があると考えます。
ピラミッドを造りたいとは思わない。
遠くの時代へ向けて、まだ見ぬ他者へ向けて、
巨大な墓を見せたいとは思わない。
だけど、本を作りたいと思うことはあるかもしれない。
その時が来たらまた、僕は本について考えよう。
紙について考えよう。
文字について考えよう。
だけど今はまだ、僕に本は必要ない。
僕が今感じている心の呼吸は、
誰かの心の中で消費されて透明になっていけばいい。
形が解らないからこそ、伝わるものだってきっとあるだろう。
今の僕が望んでいる世界は
僕の為にある宇宙の自殺だから。
どうやら僕等が抱えている問題は相当根深いものであることに気付きました。
ここでうだうだ議論を重ねる事は
おそらくもう、僕自身の停滞以外の何者でもないでしょう。
「本を売りたい」「本を作りたい」「本を書きたい」「何かを書きたい」「何かを伝えたい」
それらは曖昧に一体となっていたからこそ、
僕等は同じ場を共有できました。
何故、KenさんがBFから間接的に追い出されて
(あるいは自発的に抜け出て)
今の現状に至ったのか、僕はようやくわかってきました。
それぞれの人達が、自分の場を、力点を、重力を、
必死になって守り続けているからです。
だけどそれは幻想です。
その必死なプライドの固持は、読者の前に立っていません。
このコミュがある種の閉鎖性の中で活発に議論され、
BLOG上で透明性を持って議論されなかったこと、
それは僕等が現実から目を背けているからです。
僕は、本を出したいとは本質的に願っていません。
これは、わどさんとの共同生活が失敗した事の、
本質的な原因でもあっただろうと思います。
僕がこの場に参加している限り、
BLOG FRIENDSは前進する事が出来ない気がしてなりません。
僕自身が頑なに守っているへんてこな場は、
たぶん既に現実が見えているあなた達の遙か後方です。
僕が何かを主張すれば主張するほど、
BFはその枠を広げる事でしか繋がりを保てません。
現状の小さな集団構成を維持している限り、
「本を売りたい」~「何かを伝えたい」までを幅広くサポートすることは
ほとんど不可能ではないかと考えます。
それゆえに、僕は僕自身が本を望むまで
「本」という場から退くべきであると考えます。
そしてまた、僕が「本」というチャンネルを選ぶならば
突発的に、衝動的に、僕自身のエゴによって
多分僕一人でどこかへ動きます。
今、僕に、「本を作るための友達」は必要ありません。
多分僕に必要だったのはBLOGの友達、だったような気がするから。
BLOGがなんであるか、それが明確化してきたことで
僕にとってのBLOGは可能性を失っていきました。
無くなったわけではありませんが。
mixiというある種の萎縮性
それは便利で仲良し、という見せかけの演技でもありますが
僕はmixiにもBLOGにもまだなんらかの可能性があると考えます。
ピラミッドを造りたいとは思わない。
遠くの時代へ向けて、まだ見ぬ他者へ向けて、
巨大な墓を見せたいとは思わない。
だけど、本を作りたいと思うことはあるかもしれない。
その時が来たらまた、僕は本について考えよう。
紙について考えよう。
文字について考えよう。
だけど今はまだ、僕に本は必要ない。
僕が今感じている心の呼吸は、
誰かの心の中で消費されて透明になっていけばいい。
形が解らないからこそ、伝わるものだってきっとあるだろう。
今の僕が望んでいる世界は
僕の為にある宇宙の自殺だから。