おぐち自給農園、2反百姓の日記

-都市の貧困と農村の貧しさをつなぐ、「生き方」としての有機農業を目指して-

鳥取から帰省、震災のこと。

2011年03月28日 18時14分01秒 | 雑感
 1か月以上ぶりのブログの更新。2月中旬から鳥取県智頭町の新田集落に1か月間滞在していたのだが、サボっていたわけではなく、ただインターネット環境になかったので更新できずにいました。

 1か月間、現地の人にも温かく接してもらい、山村の魅力をこれぞとばかりに味わってきました。研修を終え、長野の実家に戻り、現在は大学の研究室に通う日々に戻っています。

 大震災の時は、鳥取にいて、作業を終えて、お茶を飲もうと集落の人の家に上がりこんだ時、そこの奥さんが「大変なことになってるで~」とテレビを指差し、見てみると、ちょうど津波で田畑、家々がさらわれていく衝撃な映像が映し出され、「これはかなわんな~」と言いながら、地元の人たちとテレビを見ながら事態を見守り、僕もただただ「うわ~」としか声が出ませんでした。

 智頭町は関西圏に近いため、子どもたちが関西方面で働いている人も多く、阪神淡路大震災を身内で体験しているという方もいます。なので、これから被害がどんどん大きくなってくると言っていたとおり、地震の大きさも訂正され、日に日に被害は大きくなり、また、地震、津波に加え、原発による被害にまで広がっています。

 僕の友人たちは無事でした。ただ、集落が消える、村が消える、さらには町が消えるという言葉を聞いた時、この災害の大きさに愕然としました。この場を借りて、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

 想像を絶するとはこのことです。毎日のように震災後の被災した世界が映像に映し出されますが、これだけでは到底想像もできない世界が現地には広がっているのだと思います。現地にいないので無責任なことを言ってしまうかもしれませんが、それは被害が甚大で現地では絶望の世界が広がっているのか、もしくは、被災したがそこから這い上がろうと希望の世界が広がりつつあるのか、現地にいない僕には想像もできません。

 おそらく想像ができないために、どこか客観的に見てしまっている自分がいたり、なんだか何かをやろうとしてもなんだか手に着かなず、落ち着かない自分がいるのだと思います。

 現在は、その情報の取捨選択に頭を痛めています。それはとくに、原発関連のものです。鳥取から帰ってきて、パソコンメールを開くと、尋常ではない原発関連のMLが流れていて、今でも整理できていません。どれが正しいのか、有用なのかなどと考えていると、「ああ~」となってメールを閉じてしまいます。

 その中からは、今回の原発事故を機に、そのようなものには依存しない脱原発の社会へ、そして新しい社会へのシフト謳うものもあります。僕ももちろん、そうしなければいけないと思っているのですが、被災している現地では、まだまだ緊急支援が必要で、行方不明者の捜索や遺体の身元確認も十分進んでいないのに、一方では新しい社会へシフトに向けたスタートだと新たな連帯を唱え、もう一方では、被災地で今日明日の食べ物をどうするか、身内が見つからない、仕事はどうすればいいのかという目の前にある問題を抱えている人たちがいて、という構図を前に、このような危機をチャンスに新しい社会へのシフトって、少し楽観的じゃない?と思ってしまったりと、自分の気持ちに整理がついていない証拠です。

 最後に原発について触れなければなりません。地震や津波は天災ですが、原発による一連の被害は明らかに人災です。戦後、原子力の平和利用という矛盾した名目で、“作らされた”原発は、危険であることがわかっていながら、現在、50基以上が日本国中を覆っています。こんな狭い国土に多くの原発を抱えているのは日本くらいです。

 そして地震大国である日本では常にその危険性について言われていました。大きな地震が起これば、すぐに原発が稼働停止したとかニュースでは大きく取り上げられます。結局実際に地震が起きて、事故に合わないとわからないのかと。

 チェルノブイリ原発事故後、現地に入り、「ナージャの村」や「アレクセイと泉」を撮影した本橋成一さんから、「人間は洗濯機の操作だってボタン1個で間違うんだから、そういう人間が原発の管理をして、一歩間違えれば大変なことになる」というニュアンスの言葉を聞いたことがあります。

 人間というのは完全ではありません。そして機械だって完全ではありません。その完全ではない人間がこれまた完全ではない原発を管理するのは無理があります。これはどの近代技術にも言えることです。原発に限って言えば、人間の管理能力を超えています。

 それは今回の事故で明らかです。例えば、テレビで原発の説明を聞いたって、あんなのほとんどの人が理解できていません。解説者の人が安全だと言えば、安全だし、危険な状況にあると言えば、危機感を煽られるというように、自分が理解できる言葉で現状を理解して一喜一憂しています。専門的なことを研究している人にしか理解できない、そういうものにこれまで依存してきたわけです。
 
 そして、それは原発内部で働いている人たちにも言えます。いわゆる原発労働者、被爆労働者とも言われていますが、その人たちです。こんな危険をおかしてまで働いている人たちを犠牲にして、原発は動かす必要はないですし、そのような労働者は、東電の社員ではなく、下請け、孫請けの人たちです。しかも、放射能の許容量がありますので、常に若い労働者あるいは経験年数の浅い人たちが働いています。許容量があるので、知識や経験のあるベテランは働くことができません。きわめて流動的な仕事です。今回の事故でも、労働者のミスがあったり、くるぶしの辺りまで水につかり作業をして被ばくしたとか、働いている人たちも、原発の危険性については共有できていないこともわかりました。
 
 さらに、被災地のために節電するという人もいますが、これまたきちんとした情報が共有されていません。福島原発の電力は、被災地、東北のためにあるのではなく、関東地域の電力をまかなっているのだから、節電したって、被災地のためにはなりません。それは都市を維持するための節電です。

 そして現状は悪化する一方です。おそらく、政府や東電、テレビに出ている御用学者たちは真実を隠すのに必死でしょう。

 おそらく、だから、いずれどこかで誤ちが起こるだろうと、交付金をちらつかせて原発は地方へひたすら押しつけられているのです。これは都市のワガママで、原発がある現地の人がその電力を使っていないという歪な電力供給構造が生まれています。

 昔、脱原発運動に関わっていたものとして、反省を込めて説教じみたことを書いてしまいました。
 これは、六ヶ所村再処理工場のことですが、昔、仲間とやっていた活動で、フリーペーパーに記事があります。
 http://boomerang-net.org/
 
 4号ほど出したのですが、まだ在庫があったと思うのでもし欲しい方がいれば、送りますので連絡をください。
 
 震災のために何かしなければいけないという空気を日本中が包んでいますが、少し自分のペースを取り戻して、できることから始めたいと思います。まずは、農的なるものを大事にし、分かち合うことから始めます。気持ちの整理はついていませんが、僕にとって農的な営みはますます大切になってくるだろうということだけは、確信できます。マイペースに耕し、種をまきながら、また考えたいと思います。今週末、帰省します。





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