老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『夏の闇』 開高健

2007-09-01 11:08:58 | 文学
この2週間、ほぼ毎日出張であちこち飛び回っていたら、いつのまにか夏が終わっていた。あんなに元気だったアブラ蝉も、いまでは白い蛇腹の腹を上に向けて地面の上にころがっている。そのうち、蟻に食われて、、それも柔らかい腹の辺りから喰らいつかれて、透明の羽だけがあとに残される。いつもの夏の終わりだ。
ワタシのほうは相変わらず、こっちの都合などまったく気にしないクライアントのしつこい電話や、政治屋の口利きでしか動かないヤクニンの超法規的行政シドウや、、毎夜、ワタシのスネに暑苦しいカラダを擦りつけにくる我が家の猫どもにホトホト疲れているというのに。こんな本読んで、持病がますます悪化してきた。

ひとことで言えば、作家自身のベトナム体験後の喪失感の中で、これから残りの時間をどうやって生きていけばいいのか、というような、深い海の底で苦しみ抜く感じの息苦しい文章であるが、ストーリーはあるようなないような。そういう「物語」でないのは明らかで、最初の10ページくらいを3度繰り返して読んで、やっと中に入れた。
ベトナムから帰った「私」はその後ヨーロッパをさまよい歩いている。北のほうの古い町で何年か前に別れた女と会って、ほとんど毎日溺れまくる。

・・小皺を集めてしっかりと閉じた肛門のかなしげな、とぼけて親しそうな、それでいて嘲っているような奇妙な顔つきも、淡褐色のくちびるをひらけるだけひらいた、びしょ濡れの玄も、そのはぜたような赤いせりだしのたたずまいも、小さな襞の群れのさざめきも、ざわざわするあたたかい森も、すべてがその位置にあり、質にある。壮大な渓谷のなかによこたわったままわずかに顔をあげて舌でくすぐったり、くちびるにくわえたりしながら私は遠くにある光景を眺めている。・・

なんかよくわかる。何かに瞬間的に熱中しても、次の瞬間には遠くを見ている。
「私」は女に尽くされながらも、それはオママゴトのままでいてくれと願う。山奥の湖に釣りにも行く。最初の獲物が針に刺さった瞬間に、一瞬、自分が蘇ってくるがそれもやがて霞のように消えていく。ある時、女が持ってきた新聞の切れ端に、ベトナム戦争末期の状況を伝える記事を見つける。それが引き金になって、何かが変わっていく。
海の底では女は輝いて見えていた。何かに熱中して、外国の町を生き生きと歩き回っていた。それが、「私」が戦争の世界にふたたび戻るきっかけをつかんだ瞬間に、そのカラダは醜く、皺だらけで、たるんで見えてくる。今度は逆に、捨てられると思った女が海の底に沈んでいく。「私」はそれを呆然と見ている。


夏の終わりはいつも海の底に沈んでいる。なかなか浮かび上がれずに、ゆらゆら揺れる海面を下から見ている。死んだ蝉が木々の葉陰から太陽を眺めているように。
そのうち喉が渇いて眼が覚めるが、風景は当分変わらないのだ。

新潮文庫版 1983年刊。オリジナルは1972年刊。