太平洋戦争末期に捕虜として捕らえた米兵を、裁判にもかけずに死刑にしたことで、敗戦後、B級戦犯として絞首刑にされた東海軍司令官、岡田資(たすく)中将の裁判を追った作品。と書くと、いかにもそんなことしたら死刑になるのも仕方ない、と思えるだろうが、立場によってモノの見方はまったく変わってくるというわけで、コレを読んで、この前のイラク戦争開戦のときに、ドイツ人作家のギュンター・グラスがアサヒ新聞に投稿した「強者の不正」ということばを思い出した。
この場合の強者もアメリカのことを指しているわけだが、なんの証拠もないのに、というか、石油の利権を略奪するだけのために、独裁者という、都合のいい標的があったことからイラクに侵略したブッシュに対して、それを「強者の不正」といって非難していることに、この本の中で詳細に記述されたアメリカ側の攻撃が、同じような「強者の不正」だったと思えるような内容になっている。
岡田中将は裁判を「法戦」ととらえ、戦争そのものには負けたものの、ニッポン民族として、その一方的に決め付けられた戦争犯罪を裁く裁判には負けられないとして、凄まじい執念で強者の側の裁判官や検察官に挑んでいく。
岡田中将が捕らえた米兵は、国際法に違反して、一般市民を殺害するために名古屋周辺を無差別に爆撃していた者等で、捕虜としてではなく、戦争犯罪人として捕らえた、というのが岡田中将の主張で、多くの証言から、それは誰が見ても明らかに見える。犯罪人だから、戦時の混乱の中、略式の裁判で死刑にした、という実にわかりやすい流れなのだが、占領側による裁判は、自国民向けのポーズとしても無罪にはしようとしない。
もちろん岡田中将は、自分が無罪になることを求めて戦っているのではなく、戦争という混乱の中で、勝った側が負けた側を一方的に裁くことが正しいことなのかということを、戦争を共に戦った人間同士として訴えている。原爆をはじめとして、アメリカ側にも裁かれるべきことがあるだろうに、ということだ。
負けたんだからしょうがない、という考えも当然あって、それが今の卑屈なアメリカ属国主義を生んでいるのだが、無差別爆撃という、今日なお続けられている「強者の不正」に、一人の人間として立ち向かい、アメリカ側の裁判官や検事の一部にも少なからず共感を呼ぶ。そういう微かな勝利を得て、岡田中将は満足して処刑台に上がっていく。出版された頃の、高度経済成長を経たニッポン人に、奇妙な自信を与えた本だったろうと思う。
こういう裁判では必ず登場する、完全にニッポン人の側に立って、真剣に弁護するアメリカ人弁護士の姿も、今では遠い、民主主義の香りを伝えている。
大岡作品のいつもの例にならって、本文のあとに後記があり、その後に膨大な参考文献リストが続く。ただそれで終わればいいものを、残念なことにこの本に限っては上坂冬子氏の「解説」が、求められてもいない押し売りのガラクタのように本を汚している。
新潮文庫版、1986年刊
この場合の強者もアメリカのことを指しているわけだが、なんの証拠もないのに、というか、石油の利権を略奪するだけのために、独裁者という、都合のいい標的があったことからイラクに侵略したブッシュに対して、それを「強者の不正」といって非難していることに、この本の中で詳細に記述されたアメリカ側の攻撃が、同じような「強者の不正」だったと思えるような内容になっている。
岡田中将は裁判を「法戦」ととらえ、戦争そのものには負けたものの、ニッポン民族として、その一方的に決め付けられた戦争犯罪を裁く裁判には負けられないとして、凄まじい執念で強者の側の裁判官や検察官に挑んでいく。
岡田中将が捕らえた米兵は、国際法に違反して、一般市民を殺害するために名古屋周辺を無差別に爆撃していた者等で、捕虜としてではなく、戦争犯罪人として捕らえた、というのが岡田中将の主張で、多くの証言から、それは誰が見ても明らかに見える。犯罪人だから、戦時の混乱の中、略式の裁判で死刑にした、という実にわかりやすい流れなのだが、占領側による裁判は、自国民向けのポーズとしても無罪にはしようとしない。
もちろん岡田中将は、自分が無罪になることを求めて戦っているのではなく、戦争という混乱の中で、勝った側が負けた側を一方的に裁くことが正しいことなのかということを、戦争を共に戦った人間同士として訴えている。原爆をはじめとして、アメリカ側にも裁かれるべきことがあるだろうに、ということだ。
負けたんだからしょうがない、という考えも当然あって、それが今の卑屈なアメリカ属国主義を生んでいるのだが、無差別爆撃という、今日なお続けられている「強者の不正」に、一人の人間として立ち向かい、アメリカ側の裁判官や検事の一部にも少なからず共感を呼ぶ。そういう微かな勝利を得て、岡田中将は満足して処刑台に上がっていく。出版された頃の、高度経済成長を経たニッポン人に、奇妙な自信を与えた本だったろうと思う。
こういう裁判では必ず登場する、完全にニッポン人の側に立って、真剣に弁護するアメリカ人弁護士の姿も、今では遠い、民主主義の香りを伝えている。
大岡作品のいつもの例にならって、本文のあとに後記があり、その後に膨大な参考文献リストが続く。ただそれで終わればいいものを、残念なことにこの本に限っては上坂冬子氏の「解説」が、求められてもいない押し売りのガラクタのように本を汚している。
新潮文庫版、1986年刊