老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『西瓜』 

2006-10-07 19:04:04 | 映画
土曜の午後に見るのにちょうどいい卑猥な映画である。
ひと言で言えば音によるエロス。

渇水のため水道が止まってしまった真夏の台湾で、西瓜を水代わりに飲むような生活に耐える若者たち。SEXにも西瓜を使って、2つに割った真っ赤な実に男が指を突っ込んでこねくりまわす。そのグチュグチュする音がSEXそのものの音と重ねられ、せりふのほとんどない映画の中で性的な興奮が盛り上がる。
ストーリーはあるようなないようなだが、映像と音で、見るものの心理ではなく生理に訴えかけるような映画だ。
西瓜まみれになったSEXの後で、エレベーターに乗った女の体を蟻が這い回り、狂ったように服を脱いでいくシーンがよかった。

台湾ではこの映画が去年の興行収入1位だったそうで、みんなでこんな映画見て、あの国も盛り上がったことだろう。
それに比べてニッポンでは路上キスくらいで大騒ぎして、しかも主婦相手のお昼のワイドショーが代議士やニュースキャスターのモラルを問題にしてるあたりは滑稽のキワミだ。
主婦の皆サンは本当は代議士は1回で果てたのか、それとも2回3回とがんばったのかを知りたいんじゃないのか。それから不倫好きのキャスターはどんなテクニックで攻め立てたのか、代議士がどんな風にヨロコンダかを知りたいんじゃないのかね。
「人のセックスを笑うな」って小説を見たとき、題名として大いに共感した。みんなひとがどんなセックスしてるかなんてわからないし、わかったところでわが身を省みれば笑えるもんじゃあない。意外な人が意外な楽しいセックスをして充実したジンセイを送っているかもしれないわけだ。

それにしても最後のシーンはさすがのセックス好きのニッポン人もびっくりというくらいの激しいものだった。喉を通り過ぎる、というか、そういう感じの音のリアルさがすごい。それだけでも見る価値がある映画である。おまけに突然挿入されるミュージカルシーン?も味わい深いものとなっている。

ツァイ・ミンリャン監督作品
2005年 台湾映画 プレノンアッシュ配給


『血族』 山口瞳

2006-10-07 00:48:59 | 文学
山口瞳の名作。
自分の母方の祖母の家業が母親によって自分に隠されてきたという疑いにはまり込んで、母の死後、それが何であったかを突き止めていく話。
家族ではなく、血のつながりとしての血族として、自分の血の中に流れているものの深さを描いている。
本人が作中で何度も書いているが、それを知ったところで何になるのかということを、それを知らなければ自己の存在が否定されるかのように追い求める姿が、本当に痛ましい。

誰でも自分の生まれや育ちについて一つくらいは疑問を感じるものをもっている。
ワタシの場合は自分の本籍がどんなところかを学生のときに見に行って、神戸の三宮駅前の超一等地であったことがわかって、それが一体何を意味するのかという思いは既に30年近く消えないままなのであるが、結局それについては知らされないまま、今となっては知る方法もなくなっている。
昭和のはじめに全財産をもって台湾に進出した出発点として、それを本籍に残したのか。あるいは終戦後、全財産を奪われて帰国した際に、そのときの自己を否定して過去に立ち戻るためにそのようにしたのかと、想像はいくらでもできるが。
3代くらいでも血筋を遡ればすぐに明治のはじめの頃の風景が目の前に広がるようで、それ自体は楽しいことかもしれないが、結局は、それを知ったところで何になるのかと、振り出しに戻ってしまう。
どんなことをしても自分の中に流れている血は換えようがないということだ。

全然話は違うが、ワタシは他人の子どもをかわいいと思ったことがない。子どもという存在そのものがもともと好きではないということかもしれない。
一方で自分の子に関しては自分で言うのも変だが溺愛状態で、自分の命よりも大切であると言い切れる。
にもかかわらず、自分の子が時々嫌な存在に見えることもあって、それは子の中に自分自身を見てしまう時なんじゃないかということが最近になってわかり始めた。
明日できることは今日やらない、とか、結果が見えている勝負はがんばらない、とか。
ほんとうにどうしようもない血のつながりだと、この小説を読んで、あきらめるしかないと思った。

文春文庫版 1982年刊。