老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『闘争領域の拡大』 ミシェル・ウエルベック

2006-08-19 09:29:13 | 文学
こういう本がないことを確かめるために時々立ち寄っていた、あの安売りリサイクル書店で発見した。重量と紙の汚れ具合だけで値段が決められていると思うと悲しいが。
ウエルベックの、小説としては最初の作品。フランスで1994年に出版され、日本語訳はほかの2作品の後を受け、2004年に角川から出された。
競争社会の中で脱落していったものが、精神に異常をきたし死んでいくまでの過程を描いた話。実に身近なテーマだ。

世の中には約束事に従って生きていればいい「ルールの領域」がある。結婚式の披露宴とか、会社の飲み会とか、電車の座席争奪戦とか、。まともな人間と思われたければ、その中でいい人を演じていればいい。親殺しを何度も試みておきながら感謝の花束!を贈ったり、ボケた上司の下ネタに付き合ってまずい酒を飲んだり、妊婦か単なる肥満か、判断に苦しんでも、とりあえず席を譲ったりして。
ところがある時、そこから飛び出したくなる。その先にあるのが「闘争の領域」だ。

闘争の領域が拡大していくと、「まともな人間」から見るとキチガイ状態となる。オフィスでいきなりボケ上司に向かって、パソコンも満足に使えないオマエは無能だ、とか叫んだりする。これは事実であっても、ルールの領域から見ればキチガイとみなされる。無能を無能と呼んではいけないのがルールだからだ。

・・・あなたは、ただルールに従っていればいいという領域に満足できなくなった。もうそれ以上、ルールの領域では生きられなかった。だから闘争の領域に飛び込んだんだ。どうかその瞬間に立ち返ってみてほしい。それはずっと昔のことだろう?思い出してみてくれ。あのときの水の冷たさを。・・・


訳者の中村佳子さんはあとがきで、ウェルベックの作品で注目すべきは、他人の苦しみへの「同情」の能力だと書いている。
競争社会とは結局は階級社会であり、「性的行動はひとつの社会階級システムである」と言って、オンナとやりたくてもやれない、背が低く豚のような顔をした登場人物に同情する。
そして情報化社会とは非情報化社会であり、真実を知らされずに、仕組まれたプログラムの下で蟻のように働く人々に同情する。
そういう社会にとどまることができなくなって、コンピュータエンジニアである「僕」は、闘争の領域に飛び出して自由を得る。

そんな小説で、おおいに共感した。