老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

ひかりごけ 武田泰淳

2006-08-03 22:42:45 | 文学
毎朝の満員電車の楽しみは、なるべく早くつり革までたどりついて、いつ立つか、いつ立つか、と前に座ってる人のちょっとした動作に心動かし、多くの場合、最後まで立ち続けたときの、苦しみに耐え通した達成感を味わうことです。
今日も一日が終わりました。。

でも小説世界の苦しみは、そんなもんじゃない。
戦争中の人肉喰いの話である武田泰淳のこの傑作は、精神病院を舞台にはしていないが、ワタシ的には精神病院文学と呼ぶべきもの。

そこに共通するテーマは、世の中、まともに見える人間が本当は異常で、多くの人から異常と思われている人間こそが、まともだ、ということだ。

この作品は3つの場面で構成されている。

最初は作者自身が取材のため、北海道の羅臼を訪れ、ひかりごけという、洞窟の中で微かな光を発する植物を見た後、その土地に伝わる、戦争末期の遭難船での人肉喰いの話を聞く場面。ドキュメンタリー調である。
野上弥生子の「海神丸」や大岡昇平の「野火」を持ち出して、この人肉を喰った主人公の船長の異常さを強調している。今読んでも斬新な導入。

2つ目はその人肉喰いの場面をきわめてリアルに、そして最後は、その船長が裁判で裁かれるところを社会派っぽく、どちらも、戯曲形式で描いている。
ドキュメンタリーの中にドラマが挿入されているこの構成、何か覚えがある、と思ったら、テレビのドキュメンタリードラマみたいな、伊丹十三とかテレビマンユニオンとかが得意とするあの手法ではないか。やはり斬新だ。

中身については読まないとわからない。途中、吐き気をもよおすような場面もあるが、最後は感動の嵐。マチガイないっ。
戦争中、人肉を喰べた人間を、人肉を喰べずにすんだ者が裁く。そんなヤツに裁かれたくないと、主人公がその代表としての天皇までも激しく批判する。
そして最後には、人肉を実際は食べていない側の人間こそが、本当は、皆そろって、人肉を食べていたことになるのだという、船長の弱々しい怒りを、洞窟で微かに光るひかりごけの光のように、静かに語らせている。


戦後60年、そこいらのカラオケではしゃぐサラリーマンのような、プレスリー猿まね総理を頂くわれ等は、われ等自身が見ても世界の笑いもの。ついでに金で勝たせてもらった、あの目つきの悪いプロボクサーも。

こういう本を読むと、終戦後から昭和30年頃までの、ニッポンのまともさがよくわかる。