武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

055. グアダルーペへの旅 -Guadalupe/Trujillo-

2018-11-17 | 旅日記

 今年の日本での個展は例年より遅い時期だ。
 帰国まで少し隙間ができたので旅をすることにした。
 ロンドンかマドリッドなど、どこか美術館にでも行ってみたいところだが、どこもここもテロが頻発しているし、治安も悪化していて、なかなか腰が上らない。

 ポルトガルの国境からも近い、スペインのグアダルーペにエル・グレコがあるというのでそれを観に行く事にした。ゴヤとスルバランそれにミケランジェロもあるらしい。グアダルーペならクルマで簡単に行ける。ポルトガルは良い季節、往き帰りで野草の花盛りも楽しめるだろう。

 ということで、3泊分の着替えを詰めて、我が家を朝9時に出発した。
 アライオロスのあたりでアンタ(古墳)の標識を見つけたので休憩代わりに寄っていくことにしたが、あいにく見つからなかった。でも田舎道の牧場脇には珍しい野草がいろいろ咲いていて、一つ一つ見ているとなかなか前へ進まない。
 ボルバでアレンテージョの煮込み料理のセルフサービスで簡単に昼食。
 花を見ている時間が長かったので、予定より1時間遅れで国境を通過。国境といっても [ESPAÑA] という看板が一つあるだけで何もないが…。

 スペインに入って早速ガソリンを満タンに…。ガソリンに関してはスペインはポルトガルよりかなり安い。
 バダホスでうっかり道を間違えて街中に入ってしまう。
 丁度シエスタ(昼寝)前のラッシュ時で、本来は外環の高速道路を通れば、もっと早くバダホスを抜けることができた筈だ。スペインのこのあたりの高速道路は無料だから出入りが自由で助かる。

 メリダも過ぎて、きょうの目的地トルヒーリョに到着したのが、まだ15時にはなっていなかった。ポルトガル時間なら14時。1時間の時差がある。
 宿を決めツーリスモで地図を貰う。

 
 部屋はマヨール広場に面していて、この街の象徴である、紋章のある建物が真正面にある。

1.部屋から見るマヨール広場

 屋根にはコウノトリが巣を架けている。ピサロの騎馬像も左手に見える。

2.フランシスコ・ピサロの騎馬像

 フランシスコ・ピサロ (1471/78-1541.6.26) は南米・ペルーを征服したスペインの英雄だ。
 宿の背後には重厚なムーアの城が聳えている。そのムーア人をレコンキスタ(国土奪還戦争)で追い払った勢いを駆って南米大陸に財宝を求めたのがフランシスコ・ピサロだ。その財宝によりトルヒーリョのマヨール広場には豪勢な邸宅が作られた。

3.モーロ城から望むマヨール広場

 僕たちが泊ったのも15世紀に建てられたラ・カデーナ邸という貴族の邸宅で遺産建造物に指定されている。内部は使い易く現代風にリメイクされていて、部屋は小さく区切られているのだろうと思うが、天井は高い。

 ピサロはスペインに富をもたらした英雄でも、南米のインカ文明を破壊し、キリスト教に改宗させた人物なので、僕の個人的な感情としては、同じモンゴロイドとしてあまり面白くはないし、それ程見たくはないのだが、一応、向学のため 『ピサロ博物館』 を観ることにした。ピサロの父、ゴンサーロ・ピサロの館だった建物で、その頃の生活の様子と2階には南米に趣く変遷と殺害されるまでが時代順に展示されている。

 当時のインカ帝国には既に高度な文明が営まれていた。
 彼らの言い伝えには不幸にも「天上から白い神が現れる」というものがあったのだ。白人であるスペインからの侵略者を神だと讃えたのだ。インカ帝国の人々にとってキリスト教への改宗はいとも簡単に行なわれたのは言うまでもない。フランシスコ・ピサロには運も味方したのだろう。南米大陸には豊富な金鉱脈と銀鉱山そして宝石の原石が眠っていた。その金、銀、宝石は本国のスペインへ、そしてフランスへヨーロッパ各国へと流れて行った。16~18世紀のヨーロッパの華麗な宮廷文化は南米の財宝によって花開いたのだ。
 モーロの城壁の上には何とも可愛いピンクの花がびっしりと咲いている。

4.城壁の上に咲く可憐な野草

 スペイン人の団体観光客が多い。殆どが女性だ。おばさんばかり、何をこの城壁の上、大声でお喋りをすることがあるのだろうか?ことのほか騒々しい。

5.野生のラベンダー(Rosmaninho)が花盛り

 マヨール広場でビールを飲む。セトゥーバルのボカージュ広場で飲む2倍程の値段だ。昼に食べたポルトガルの煮込み料理が案外腹持ちが良くお腹が空かないので、ホテルのバーでワインと3種類(ムール貝のサラダ、芋サラダ、アンチョビの酢漬け)のタパス(つまみ)だけで夕食にする。バーに続々と人が集まってきて、まるで集会所の様な騒ぎだ。ワインも1本空けたし、部屋に退散しようとしたら、その階段のところでプロのカメラマンが撮影をしていた。作家だろうか?そんな雰囲気の人が難しい顔をしてポーズをとらされていた。

 由緒のある建物を改装した宿で経済的な価格にも拘わらず、その夜の宿泊客は僕たち2人だけであった。部屋の窓の上にはラス・カデナス家のものだろう。石の紋章が施されている。



6.部屋の窓の上の紋章

 次の日は朝1番にサンタ・マリア・マヨール教会の祭壇画を見る。

7.サンタ・マリア・マヨール教会の祭壇画

 10時の筈の開場を待ったが、ようやく開いたのは10時15分。スペイン時間なのかも知れない。切符売りの女性が「この券で鐘楼まで登れます。」と言うのでついつい登ってしまったが、鳩の糞がいっぱいで、鳥インフルの心配をした程だ。お蔭で普段運動不足の足がガクガクになった。

8.サンタ・マリア・マヨール教会鐘楼から望むムーア城

 マヨール広場に面したサン・マルタン教会にも入った。トルヒーリョはどこもかしこも少しづつだが、入場料がいる。
 昨日はアマゾン川を探検したホアン・ピサロ・デ・オレリャナの屋敷を見学しようと出かけた。
 入口のところで2人の子供が手芸小物を売っている。初めはジプシーの子供かなと思っていた。その子供たちが「そこのベルを押せば中に入れますよ」と言うのでベルを押した。中から老修道女が出てきて「どうぞ中に入ってご覧下さい」と言う。ここでは入場料はいらない。でも見るものはパティオ(中庭)だけで他には何もない。
 今、この場所は学校として使われていて、2階では授業が行なわれている。老修道女はトルヒーリョのガイドブックを持ってきて「7ユーロですが、できたら買って下さい」と言う。別に欲しくはなかったが、入場料代わりに何となく買わされてしまった格好だ。入口の子供が売っている小物はアフリカの子供たち支援の手作り小物だ。ジプシーではなく敬虔なカトリック教徒の子供たちだったのだ。

9.サンタ・マリア・マヨール教会のステンドグラス

 狭い路地に駐車していた僕たちのクルマにコウノトリだろうか?大きな糞がべっとりとついている。
 いよいよ今日は山道を抜けてグアダルーペへ向かう。と覚悟していたら、案外真っ直ぐで立派な道であった。途中、野生のラベンダーが見事に群生していた。
 グアダルーペの少し手前の村でサンドイッチとノンアルコールビールで遅い昼食。そのサンドイッチがボリューム満点。

 グアダルーペでは修道院の中にあるグレコ、ゴヤ、スルバランそしてミケランジェロを観るのだ。
 その修道院の宿坊をホテルにしたという宿に泊まった。
 着いたのが2時半。3時半からガイドつきの見学が始まる。
 少し町を散策して、部屋に戻り休憩してから見学に臨んだ。

10.修道院宿坊入口の看板

11.修道院回廊中庭のムハデル・ゴシック様式の聖堂

12.修道院の宿坊


 部屋は広く昨夜よりも更に天井が高く豪華であったが、何となくアンバランスなところが可笑しい。壁に架かった額縁はどれも印刷物だが、それもアンバランスだ。でも1枚は何とシスレーの油彩複製画で、昨年訪れた、モレ・シュル・ロアンの風景だ。

 

13.額にはシスレーのモレ・シュル・ロアン

 

14.宿泊した修道院の部屋入口

 

15.修道院宿坊の部屋。グアダルーペのマリア像がベッドの上に


 3時半に入口に行くと大勢の見学者でごった返していた。

 入場券を買ってからも長いこと待たされた。やがてガイドが現れて入場したのが4時。
 羊皮紙に描かれた聖歌の楽譜。豪華絢爛な聖職者が纏う真珠や宝石をちりばめたマント。部屋部屋の天井には絵や模様が施され、壁や床も色とりどりの大理石で敷かれている。

 グレコは思っていたよりも意外と小さくて20号くらいだったろうか?一見してすぐにわかるいかにもグレコらしいキリスト図と、20号Mくらいの縦絵の聖人図が2点、これは珍しい絵で写真を撮りたかったが撮影禁止。せめて帰りに絵葉書でもと思ったのだがあいにく売り切れ。
 ゴヤは例の黒シリーズの6号くらいの小さな習作が1点だけ。ミケランジェロの作とされるキリスト磔刑の像も小さなものであったが、さすがミケランジェロならではの躍動感溢れた彫刻であった。スルバランは大作のシリーズで見事なものであったが、ガイド付きなのであまりゆっくりは観る事ができない。それに修道院内の教会の仰ぎ見るところに架けられていて少し光って観づらい。元々この宗教画はこの場所に設置されるために描かれたものであろうから、美術館で目の高さで観るよりもこれが本来の観かたなのかも知れない。

16.グアダルーペの下町には植木鉢がいっぱい

17.グアダルーペ修道院正面

18.サンタ・マリア・デ・グアダルーペ広場


 最後に背広姿のガイドは僧服の神父さんに交代して、お説教の様なものが始まった。そして神父の言葉に続いて皆でなにやら唱えるのだ。それも「待ってました!」と言わんばかりに…。
 このガイド付き見学に参加している5~60人のうち、我々も含めてドイツやイギリスなど、外国からの観光客も少しは居るが、大半はスペインの巡礼者だったのだ。観光と巡礼を兼ねてスペイン各地から訪れているのであろう。神父は厳かに扉を開けた。そしてスポットライトのスイッチを入れた。そこにはグアダルーペの聖母像が祀られていた。

 巡礼者は順番に聖母像のマントに付いた銀盆の様なものに接吻をするのだ。我々はその儀式は遠慮した。

19.宿坊中庭の壁にグアダルーペ聖母像を模したセラミック

 グアダルーペの聖母像は1300年の頃、一人の羊飼いがグアダルーペの川のほとりで木彫りの聖母像を見つけた。1340年、この聖母像に加護を祈願した直後にモーロ人を破ることができたアフォンソ11世はここに壮大な修道院を築いた。その後、この修道院は聖母マリア崇拝の中心地となり、コロンブスが新大陸からインディオたちをここに連れてきて、最初のキリスト教徒に改宗させたという。

20.修道院レストラン内部

 夕食は開店の9時まで待って修道院ホテルのレストランで定食を食べた。前菜、パン、ワイン、スープ、主菜、デザートとたっぷりだ。毎夜の9時からこんな夕食を取っていたら僕ならすぐに病気になってしまう。

21.Sopa Castellana(ニンニク、卵、パンのスープ)

22.Codorinices Estofada(ウズラの煮込み)

23.Conejo al Romero(ウサギの煮込み)

 修道院レストランの定食(この他にワイン1本とパン前菜(生チーズ)も付く)

24.Helado(アイスクリーム)

25.Flan(プリン)

 帰りもポルトガルの国境の手前でガソリンを満タンにする。
 国境を越える時、猛烈な雨がクルマに叩きつけた。
 ポルトガルでクルマを買って7年になるが、こんな激しい雨は初めてである。ワイパーが外れそうになって、2度、路肩にクルマを停車させた。この猛烈な雨のお蔭でフロントガラスに付いた虫の痕や屋根のコウノトリの糞が綺麗に落ち、まるで洗車機を通した様なピカピカのクルマになって帰ることができた。
 ポルトガルはスペインに比べるとガソリンもかなり高いし、高速道路も有料になる。高速から下りて、一般の田舎道に入った。やはりポルトガルに入ったというだけでなぜかほっとする。5分も走ると、道路は全く濡れていない。
 あの時の国境地点での集中豪雨。あれはいったい何だったのだろう?
 なくなってしまった国境地点を再確認させる雨の様でもあった。
VIT

 

 

(この文は2007年5月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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054. カモメの翼 -Gaivota-

2018-11-16 | 独言(ひとりごと)

 階下のラジオからファドが流れてきている。
 アマリアの「カモメ」だ。
 「カモメのように自由に空を飛べたら~。」といった内容なのだろうと思う。
 朗々として、なかなか哀愁をおびた好きな歌の一つだ。
 日本でもカモメを歌った唄は多い。


1.
 カモメは波止場など身近なところにいるし、又鳴き声に哀愁を感じて唄になりやすいのかもしれない。
 身近なところだけではなく、絶海の孤島などにも生息しているのだろう。種類も多いようだ。
 トウゾクカモメという恐ろしげな正式名をもつ種属もいるくらいで、意外とどう猛で、ペンギンやツノメドリの雛や卵を狙ったりする。
 波止場では群れになり残飯を漁ったりもしている姿は近寄り難く恐ろしくもある。貪欲な雑食だ。
 白いことが得しているのかも知れない。黒かったらカラスと変わらないのかもしれないが、カラスと違う点は人を襲ったりはしない。カラスよりは少し臆病なのだろう。近寄るとすぐに遠ざかる。


2.
 カモメが我が家のベランダの前を悠々と旋回している。
 何かを狙っているのかも知れないと思って見ていたら、隣の建物のおばさんが毎朝、鳩に投げ与えるパンくずのところに2羽が舞い降りて食べている。鳩はさすがに恐いのだろう。電線に止まって見守って降りては行かない。カモメが翼を広げるとかなり大きく、上下左右に自由自在に飛び回る。

  
3.4.
 我が家から波止場までは直線距離で1キロたらずだろうか?
 春から秋の間はここまで来ることはないが、毎年冬になればやってくる。海が荒れて餌が取れないのかも知れない。
 セトゥーバルでは鳩に餌をやる人は多いが、カモメに餌をやっている姿を見かけたことがない。
 いや、漁師が漁をする準備で仕掛けた餌の残飯を放り投げているのを、待ちかまえて食べたりはしているから、好むと好まざるに拘わらずカモメにも餌を与えているということになるのだろう。

 かつてストックホルムに住んでいた時には、パンくずを持ってよく波止場へ出かけた。パンを放り投げるとカモメは空中でキャッチするのだ。まことに巧いもので、殆ど海面に落ちることはなく、それが面白くて餌やりに時々出かけたものだ。

5.
 今、世界中で鳥インフルエンザが大きな話題になっている。広がる原因の一つに野鳥が揚げられている。渡り鳥には国境がなく、北から南に、南から北に移動する。まさにフリーダム(自由)の象徴だ。
 それが恐れられているのだ。
 鳥インフルエンザ・ウイルスが鳥から人へ、人から人へと変異すると大変なことになるらしい。
 何でも世界中で何百万もの人が犠牲になるとシュミレーションされている。我が家も非常事態に備えて、乾パンなど食料と普段食べる事のない、桃の缶詰めなどを備蓄した。この先、どうなるのか取り越し苦労に終れば良いのだが…。

6.
 かつて人類は鳥が自由に空を飛ぶのを見て、その翼を手に入れたいと願った。
 レオナルド・ダ・ヴィンチなども多くの設計図を残している。まだ自転車もない時代、その自転車や軍用車両などの設計をしているのだが、ヘリコプターのようなものまでも設計しているのには驚かされる。

 ヤマハが軍用に転用可能な無人ヘリコプターを不正に中国に輸出して問題になっている。

 自転車屋のライト兄弟が操縦可能なエンジン飛行機を開発して初めて空を飛ぶことに成功したのが、1903年12月というから僅か100年あまりの歴史だ。しかも初めは百数十フィートだけ空中を飛んだのに過ぎない。
 それから後の進歩は想像をはるかに超えためざましいものがある。
 戦争がそれに拍車をかけた。
 人類はいつの時代も残念ながら戦争によって飛躍的に進歩を遂げることになってしまっている。今、北朝鮮やイランが原子力開発をしているのに世界中が注目している。
 そんな中、原爆保有大国はウイルスやバクテリア、遺伝子など目に見えないものの研究に力を注いでいる。野鳥にばらまけば兵器にもなりうるのかも知れない。かつて軍用に伝書鳩を飼育したのとは訳が違う。

 音速をはるかに超える戦闘機や巨大なエア・バス、ジャンボなど、今、人類は確かに大空をも征服したのかもしれない。
 しかし自由に!とはまだ言い難い。
 小さなネジ1本で大惨事とも隣り合わせだ。
 それにまだ上下左右自由自在のカモメの翼とはすこしかけ離れている。

 もちろんカモメにはカモメの言い分があるだろうし、カモメの苦労もあるのだろう。
 人類はカモメの翼は手に入れないほうが地球の為には良いような気もする。
 でも鉄腕アトムのように自由に空を飛ぶ事が出来る様になるのももうすぐそこまで来ているのかも知れない。

VIT

7.写真は全てセトゥーバルのカモメ

 ポルトガルギターの湯浅隆さんから渡辺真知子さんと打ち上げか何かで一緒に飲んでいる写真と共に『渡辺真知子のかもめが翔んだ日』がネットで送られてきた。「カモメのつながりで…」というコメントが書かれて。最近レコーディングしなおしたものらしく、バックに湯浅氏のポルトガルギターがフューチャーされている。この曲に何とぴったりだ。唄の途中はスペイン語で歌われているのだが、これがポルトガル語ならもっと良かったのに…。しかしこのページをアップして僅か19分後に送られてきたのには驚きである。今や人類自らが飛ぶ必要はなくなったのかも知れない。代りに電波が飛んでくれる。湯浅さん有難う御座いました。

 

(この文は2007年4月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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053. フェリー -Ferry-

2018-11-15 | 独言(ひとりごと)

 我が家のベランダからフェリーの往き来が見える。
 セトゥーバルとトロイア半島を結ぶフェリーだ。
 24時間、少ない夜中の時間帯でも1時間に1本、多い時は15分おきにダイヤが組まれている。
 クルマが満杯になれば時間前でも次から次に出航する。
 それの往復だからひっきりなしだ。
 対岸までおおよそ3~4キロ、20分の船旅でクルマと大人2人で6,85ユーロ。
 1隻のフェリーにクルマ30台ほどを載せる。
 夏はそれにクルマなしの海水浴客がおおぜい乗り込む。
 単にトロイアの海水浴場に行くだけではなく、国道として機能しているのだ。

 トロイアから国道をまっすぐ南下すると、アルガルヴェ地方の最西南端サグレス岬まで繋がっている。
 1438年、エンリケ航海王子が、大航海時代の先駆けになった航海学校を開いたところだ。
 それを東に行くとラゴス、ポルティマオン、ファロ、タヴィラなど、古くからの都市を通って、やがてグアディアナ河で国境を越え、スペインのアヤモンテに入る。
 アヤモンテの先には、コロンブスがアメリカ大陸に到達(1492年)した時に船出したウエルバの港町がある。
 そしてそこからセビリアまですぐだ。

 トロイア行きのフェリーの甲板から、運が良ければイルカの群れが見える。
 我が家からフェリーの往き来は見えるが、イルカまでは見えない。

 先日、久しぶりにそのフェリーに乗った。
 クルマ10台程が乗り込んだだけでがら空きだ。
 やがてフェリーは出航する。別にドラなどは鳴らさない。
 何の合図もなく、いつ出港したのかも判らないくらい静かな船出だ。
 我が家からフェリーが見えるのだから、当然フェリーからも我が家が見える。
 知っているから判るけれど、町なみの中に溶け込んでいて目を凝らさないと確認できない。

 進むに従って我が家もセトゥーバルの町なみと一緒に遠ざかっていく。
 サンタ・マリア・デラ・グラサ教会やサン・ジュリアン教会の尖塔がある旧市街。さらに後方にはパルメラの城。
 丘にへばりついて町なみが上に伸びているフランシスコ地区とアヌンシアーダ教会。反対側には丘が迫っているベラ・ヴィスタの界隈。
 セトゥーバルがもっとも美しく見えるのは恐らくフェリーからの眺めだろう。そしてポルトガルらしい風景だ。
 さらに進むと、左手にはサン・フィリッペ城。白い風車小屋群。後方にアラビダ山。岬にはオウタォンの城。
 見えなくてもいいのがその手前にあるオウタォンのセメント工場。大きな貨物船がフェリーを遮る様に停泊している。ドックが空くのを待っているのだろう。

1.我が家からフェリーの行き来が見える。


 宮崎に住んでいた時は毎年フェリーに乗って大阪まで行きNACK展に欠かさず出品した。
 自宅から3時間クルマを走らせ日向のフェリー乗り場にようやく到着。
 込み合うフェリーでゆっくりも眠れず、早朝大阪南港に着岸。
 夕方からNACK展の搬入。1週間後の搬出は父に頼み、再びフェリーで宮崎に戻る。作品があるので飛行機は使えない。クルマに作品を載せフェリーで行く。飛行機よりもかえって高くついた。

 作品が小さい時、1度は750ccのバイクでも行った。自宅から大分の佐伯まで走り、四国高知の宿毛までフェリーで渡る。足摺岬、室戸岬とツーリングして徳島から大阪南港まで再びフェリーに乗った。
 そのフェリーにたどり着いた時には力尽き、メインスタンドを起こすことが出来ずにいたら、他のバイク野郎が見かねて助けてくれた。僕もまだ若かったが、今では元気な時でもナナハンのメインスタンドを起こす力はないであろう…。

 宮崎に住んでいた時には、フェリーで甑島へも渡った。まさに絶海の孤島という感じで自然豊かな美しい島である。
 種子島へも行きたくて調べてはみたのだが、フェリー代が案外と高くついたので断念、未だ果たせていない。
 長崎から有明海をフェリーで渡り天草の島巡りをし、古いキリスト教会などを訪ねたこともある。
 そんなこともポルトガル移住を決断した一因になったのかも知れない。
 そういえば櫻島湾フェリーも何度か利用した。
 九州はポルトガル人宣教師やフランシスコ・ザビエルなどと深くかかわりのある土地である。
 バスク人宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航したのは1549年。その12年前(1537年)ここセトゥーバルにも足跡を残していて、港の公園にその像が建っている。

2.セトゥーバル港公園のサン・フランシスコ・ザビエル像。

 僕はかつてストックホルムに住んでいた。
 スカンジナビアから南のヨーロッパに入るには必ずフェリーに乗る。
 スウェーデンのヘルシンボリィからデンマークのヘルシノアへ僅か1時間たらずの船旅だが、幾度となく乗った。
 デンマークのヘルシノアにはハムレットの城がある。
 更に少し走りロッドビィハムンからドイツのリューベックまで再びフェリーに乗る。そうするとハンブルグは目の先だ。お決まりのコースだった。

 スウェーデンの最南端イスタッドからポーランドのシチェチンへのフェリーにも乗った。
 確か1晩の船旅だったがいつも空いていた。
 僕たちが2度ポーランドを訪れたのはベルリンの壁、崩壊以前で、ワレサ議長率いる「連帯」が発祥した地がそのシチェチンであったと聞いたことがある。その後「連帯」の運動はグダ二スクなどへと広がっていった。
 その頃は、まるで19世紀の古き良きヨーロッパが残っている様に感じたポーランドであった。ブラック・マーケットでの両替は公定の5倍にもなった。遠い昔の記憶の様でもあり、つい先日のことの様にも感じる。

 ノルウェーを北上してノードカップを目ざしたこともある。
 オスロのムンク美術館で今観てきたばかりの不思議な風景。とろける様な太陽を見たのはこの時だ。そんな白夜の中を夢心地で走る。突然国道が途切れて湖が現れる。待っていると前からフェリーが姿を現す。美しすぎる風景の中をフェリーは進む。フィヨルドだ。そんなことを幾度か繰り返し、最北端ノードカップにたどり着くのだ。

 ジブラルタル海峡のアルへシラスからセウタまでフェリーに乗り、モロッコに入ったこともある。
 セウタはエンリケ航海王子が1415年、武力で制圧した土地だが、アフリカ大陸上にあるにも拘わらず、未だにスペインの領土として残されているのは何だか不思議な感じだ。

 気が付かなかったのだが、モロッコに入った時ちょうどグリーンカード(クルマの保険)が切れてしまったところで、それを指摘され1週間だけの割高な保険に加入させられた。
 それとは別に道路にチェーンを張りターバンを巻いたおじさんから通行税も取られたりもした。
 旨い完熟バナナが1本1円程で買えた。何でも5分の1に値切って買物をするのだ。
 市場で老婆が売っているニンジンを値切ろうとしてしまったこともあった。これは観光用ではないから値切ってはいけなかったのだ。だがそのニンジンには割り箸を齧るくらいに硬いスジがあったのもご愛敬だろう。
 実はもっとゆっくり旅を楽しみたかったのだが、保険の関係で1週間だけで断念したのだ。

 そんなこんな旅は体力的に恐らくもう出来ない。
 せめて目の前のトロイアのフェリーにたまには乗って、トロイア半島の付け根、コンポルタ村のコウノトリを見に行くのも悪くない。

VIT

3.フェリー発着場。

(この文は2007年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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028. 明けましておめでとうございます

2018-11-15 | 独言(ひとりごと)

 ポルトガルに住み始めた一年目、1991年の元旦は個展の関係で日本でした。

 帰省客で混みあう年末、年始の宮崎空港ギャラリーに一年目のポルトガルの絵を並べて観ていただきました。

 その時を除いても今回ポルトガルで14回目のお正月を迎えたことになります。15年前には想像もできなかった歳月です。

 

 最初に海外に住んだのはストックホルムです。もう30数年前、1971年のことでした。1ドルが360円固定相場制で、外貨持ち出し制限もあった時代です。

 『ヨーロッパ経由でインドまで行ってしばらく住んでみる』と言うのが当初の計画でした。でもどういうわけかストックホルムに4年半も費やしたのです。

 その後結局インドには行かず、ニューヨークに一年暮らし、中南米を10ヶ月かけて旅をしたのは《おまけ》の様なものです。

 そのおまけは僕にとっては宝物になりました。

 

 その30年前当時からすれば考えもつかない時代の変化です。

 当時は日本の情報などは皆無と言っても良くときたまに回ってくる日本の新聞紙をむさぼり読んだものです。

 フランスにいる時には日本大使館に出かけ新聞を閲覧させてもらったりもしていました。

 ちょうど『浅間山荘事件』が紙面を埋め尽くしていた頃です。

 ストックホルムでは在住日本人のために『NHK紅白歌合戦』が回ってきます。会場を借り切って『紅白』を上映するのです。毎年楽しみに観に行きましたが4月頃です。

 

 ポルトガルに住み始めてからの日本の情報源はもっぱら短波ラジオでした。毎朝、アフリカ・ガボンを中継してNHKの電波が届くのです。行ったこともないガボンを身近に感じたものです。

 

 数年前から日本のテレビが衛星で写る様になって情報源は格段に進歩しました。なにしろ日本と同時にニュース番組を観ることが出来るのですから。時差の関係でお昼の1時に『ニュース10』で、夜10時から『おはよう日本7時台のスタート』です。

 

 そして今はインターネットもあります。

 いつでも好きな時にパソコンを開いて刻々と変わるニュースを読むことも出来るのです。

 

 2年前には自分でもホームページを立ち上げることになりました。昨年の1月には出身高校美術部OBのサイトも立ち上げました。それもまもなく1年になります。

 当初考えていたのとは少し方向が違ってきている様にも思えます。

 このところの『掲示板』では美術の歴史に関心は移っていて、それはいろんな発見があって勉強にもなりますし面白いものです。当初考えも及ばなかった嬉しい誤算で、サイトを立ち上げてほんとうに良かったと感じている今日この頃です。

 

 当初、思っていたのとは違う方向に行くのはサイトばかりではありません。

 ポルトガルに住んでいること自体もそうです。

 これほど長く住むなどとは当初考えもしなかったし、何の情報もなく偶然住みはじめたここセトゥーバルが大きすぎもせず、小さすぎもせず、身の丈にあった変身を遂げてゆくのが飽きさせないのかも知れません。

 まさに住めば都です。

 

 考えていたのとは違う方向に行ってしまうと言うのでは《絵》などはその典型です。

 スケッチをしながら『どんな油彩にしよう』と頭に描きながら鉛筆を動かします。でもいざキャンバスに向うと自分とは違うもう一人の自分があらぬ方向に導いてゆくのです。そして格闘が始まります。

 格闘が心地よい時もありますが、へとへとに疲れて何も出来ない時もあります。絵を描くことは格闘技です。

 実際、北向きの冷蔵庫の中の様なアトリエでも絵を描き始めると身体が温かくなり一枚ずつ服を脱いでゆくのですから不思議です。

 1人で描いているつもりが、実はもう1人くらい相手がいるのです。そうして気が付いてみると自然に絵ができていたりするわけです。

 

 今までの半生を振り返っても決して電車道を歩いてはいないことは確かです。

 でもその場面、その場面で最善を尽くしてきた様にも思います。

 最善と思っているだけかも知れませんが…今年も一年どんな年になるのか?想像や夢を膨らませながらも、志と誠意をもってその場その場で最善を尽くしてゆくことができたらと思っています。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

VITこと武本比登志

 

(この文は2005年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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052. 古い切手 -Filatélico-

2018-11-14 | 独言(ひとりごと)

 先月のこのコーナーは蚤の市で見つけた古い印刷物から話がはじまった。
 きょうも蚤の市に行きぶらぶら歩き回ったのだが、そこから話は始まる。

 骨董品やガラクタを見て歩くのは楽しい。
 でも我が家は物で溢れ、これ以上ガラクタを買うわけにはいかない。
 見て歩く前から、2人で顔を見合わせ「何も買わないぞ~」と決意する。

 石畳の上にビニールシートが広げられ、ガラクタが並べられている。
 50セントのかたまり、1ユーロのところ、2ユーロの場所、高価な物は台の上に陳列され一つずつ値段が貼ってある。
 貼ってない物は店の人と交渉する。
 「何も買わないぞー」と思いつつ、「何か掘り出し物はないかな~」という目になっている。

 本当にガラクタばかりが並べられている店があって、一見ゴミ捨て場の様相だ。
 でもこういう所に限って掘り出し物がうずくまっている可能性も大なのだ。
 値段は書かれていないがたぶん50セントだろうと思う。
 丹念に見るが「絶対に欲しい」と思う掘り出し物などはなかなかない。
 かなりの数が並べられているが横には未だ品物の入った箱とか袋とかがあって、とても全部は並べ切れないのだろう。
 後ろでガラガラという音がしたかと思うと女将さんが袋からガラクタを乱暴に出しているのだ。
 あれでは焼き物などは欠けてしまう。
 そんな一角に小汚いスーパーのレジ袋に入った古切手を見つけた。

 手に取って見てみると、ずしりと重くかなりの量である。
 封筒から破りちぎった切手の束。
 ポルトガルの切手がほとんどだが、僕たちが住み始めた頃よりも少し古い時代の物の様である。
 僕が実際に郵便を出すために郵便局で買った、その時代の切手はあまりない。
 つまり15~6年以上は前の切手なのかも知れない。
 以前に階下に住んでいたアナモニカと交換で貰った中に入っていた切手も少しある。

 僕は自分に送られてきた郵便の切手をストックブックに並べて楽しんだりする。
 送るのも出来るだけ記念切手を貼って送るようにはしている。
 あらかじめ中央郵便局で記念切手をまとめ買いし、未使用切手を1枚ずつだけストックブックに保存している。
 宛先不明で戻ってきた切手は未使用と交換する。そして未使用は使用する。
 宛先不明で戻ってきた切手は日本を往復して来たのだ。
 未使用よりも世間を見てきた分、グッと存在感が増す。未使用は単に印刷物なのだ。
 だからコレクション用にわざわざ未使用切手を買う事はあまりしない。
 コレクション用に売られている使用済み切手もあまり買わない。
 でも未使用の切手よりも使用済みの切手の方が楽しい。
 切手その物が旅をしてきたのだ。
 世界のどこからか送られてきた郵便物がどんなルートを通過してきたのか、想像するだけで夢は広がる。

 女将さんが近寄ってきたので一応値段を聞いてみた。
 「全部で10ユーロ」という。10ユーロは高い。
 いや高いか安いかは分からないが、そんなに出費する気はしない。
 首を振るとその隣に置かれていた幾つかの封筒に入った古切手も付けるとのことだ。
 その封筒の中身の古切手は更に古い。

 主義に反するが思い切って買った。

 最近は郵便物そのものを出す機会が減った。
 インターネットでメールを出す。手軽で早くて便利だ。
 逆にセトゥーバルの郵便局などは以前に比べても不便になって待たされるし、記念切手など買おうものなら他の客から睨みつけられてしまう雰囲気だ。

 記念切手は実際に使用するのではなく、コレクションの為だけにある。
 美しい冊子に纏められ、解説などが付いていて、そこからちぎって使う気はしない。
 これでは本末転倒で切手コレクションその物の先細りは必至だと思う。

 僕は子供の頃、世界の切手をコレクションしていて、外国への夢が広がった要因の一つになったと感じている。
 美しいモナコの切手、アンゴラの動物切手など世界地図を片手に夢をみていた。
 現代の子供は切手コレクションなどはしないのだろうか。いまや世界は夢ではなく身近にある現実なのだろう。
 それに郵便物そのものが少ないからコレクションの仕様がない。
 ダイレクトメールや電気やガスの使用明細書などは郵便で送られてくるが、切手は貼られていない。確かに時代は変化しているのだ。

 でも使用済み切手を集めてそれを活動資金の一部にしている市民団体もいくつかある。
 封筒に貼られた殆どの切手は捨てられる運命にあるのかも知れない。
 だが廻りめぐって一部はそう言った市民団体の手に渡り活動資金の一部になれば又、有効なのではないだろうか?
 それが発展途上国の子供たちの医薬品になるかも知れないのだ。
 料金別納郵便ではなく、シールでもなく、少し面倒でも切手を貼って投函するというのも、些細なことだが、大袈裟に言えば社会に還元出来るのかも知れないのだ。
 そういう意識を持って企業もダイレクトメールを送ることはできないのだろうか?

 早速、買って帰った古切手の一部を見てみた。
 大量の切手の中に丁寧に紙に包まれて表に文字が書かれている物が幾つかあった。
 「ウルグアイ」とか「南アフリカ」などとポルトガル語で書かれている。
 切手コレクターであった人が選別した証だ。
 余程古い切手の様だ。
 包まれた紙だけがはだけて、バラバラになっている物もある。

 封筒の紙から剥がされた切手を丹念に探してみると、そう言った物がかなり出てきた。
 明らかに僕が生まれる以前の切手だ。
 ヒットラーの肖像のドイツ切手。
 それには1942年12月2日プラハと押された消印が読み取れる。
 プラハがナチスドイツの占領下にあった時代に投函されたものだ。
 菊の御紋のある大日本帝国郵便と書かれた壱拾銭とか弐拾五銭などの切手。
 更には満州帝国の参分切手などが見つかった。

 同時代と思われるブラジル、チュニジア、アメリカ、デンマーク、イタリアなどの切手。これらの切手は世界を旅したのと同時に時代をも旅したのだ。

 大枚10ユーロだが世界と時代を夢遊する。暫くは楽しめそうだ。そして今後も毎回欠かさずに蚤の市を歩くことになりそうだ。

ポルトガルの古い切手。


VIT

(この文は2007年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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079. 松 -Pinhal-

2018-11-14 | 独言(ひとりごと)

明けましておめでとうございます。

 門松などポルトガルに来てからはイラストか写真でしか見ることは出来ませんが、お正月の確か7日くらいまでを「松の内」と言うのでしょう。松と言えば日本では何だかおめでたい。

 冬も緑のままだし、長寿の象徴。なにしろ「松竹梅」の松。すし屋でも「松」で注文すれば豪華。時々、松より梅を上等にしている食堂などがあって戸惑うこともあるが…

 母校の高校の文化祭で毎年有志による能、狂言が催されていた。そのバックに掲げる絵は美術部の仕事だった。必ず松を描かなければならない。講堂の舞台いっぱいになる大きな松の木を泥絵の具で描く。高校生には難しく最後には顧問の先生の手が入った。
 僕には今でも難しいが…

ポイントを当てると初日の出が昇る様にアニメを作ったのだが、ブログではそれが残念ながら機能しない。

 松の木には何でも世界で120種類程もあるらしい。もちろんポルトガルにもある。
 ポルトガルには経済樹としてはコルク樫、オリーヴ、ユーカリなどが植えられているが、もしかしたら松が一番多い様な気がしないでもない。

 クリスマス・ツリーは普通モミの木だろうと思うが、僕たちがポルトガルに来た当初にはクリスマス前になると小型トラックの荷台いっぱいに松の枝を積んで売りに来ていて「へえ~モミでなくても良いのだ。」と思ったものだ。

 我が家の南東には松の林があるし、ここから見えるサン・フィリッペ城の周りにも松がびっしりとある。それは植えられたものではなく、実生で自然に生えたものだ。
 何しろ丈夫ですくすくと見る間に成長する。実生で生えだしたばかりの幼木も見える。

 我が家の北側にあるお屋敷はかつては2~30本の松の大木で囲まれていたが、数年前全て取り払ってしまった。
 お陰でアトリエからパルメラの城がはっきりと見えるようになったので、今、我が家からは二つの城が見える。

 サン・フィリッペ城の周りの松林は僕たちが住み始めた当初はそれ程でもなく、むしろオリーヴの木が目立っていたほどなのに、今ではオリーヴの木に松が覆いかぶさって殆どオリーヴはなくなってしまい、松の木だけが勢いを強めている。
 そろそろ間伐や枝打ちなどの整理をしなければ、もし火でも付けば大変なことになると心配になってしまう。

 我が家の南東の林には100本程の松の木があったが、じょじょに切られて今は大木5本だけが残されている。
 それでも野鳥たちにすればオアシスらしくて、白小鳩の幾家族かが住み着いているし、メルローも飛び交って美声を聞かせてくれる。
 季節には様々な野鳥の中継点にもなっている様だ。何しろ5階建てのビルよりも背が高い。

 毎月、第2日曜日に大規模な露店市が開かれるピニャル・ノヴォには必ず訪れる。
 ピニャルとは松という意味で、ノヴォは新らしい。日本語に訳せば新松市(ニイマツシ)となる。

 確かに町の周辺には松の木がたくさん植えられている。
 露店市周辺に新たに整備された駐車場にも松が植えられ、既に日陰を提供している。
 ピニャル・ノヴォという名前だから松を植えるのも納得だが、セトゥーバルのサド湾沿いの公園にも松が植えられた。「何故だろう?」と疑問に思ってしまう。日本の松の様に枝を整えることはしないで暑苦しく延ばし放題。

 クルマで1時間ばかり走った、サド川の上流にあたる古くからの町アルカサル・ド・サル(塩の宮殿)。そこの名物は塩ではなく、甘~い松の実を使ったお菓子である。松の実を砂糖で固めたものと、蜂蜜で固めたもの。訪れるたびに買うが少々甘すぎる、昔懐かしい様な素朴なお菓子。素朴な馬糞紙で包んでくれる。

 その周辺にも当然のことながら松林が多い。時々松脂(まつやに)を採取している林を見かける。幹にV字型に切り込みを入れその下に器がくくりつけられている。

 兄は子供の頃バイオリンを習わされていた。バイオリンの音はうるさかった印象があるが、もっと印象的なのは固形の松脂を馬の尻尾で作られたという弓にこすり付けていたことだ。兄もバイオリンを弾くことよりも、松脂を擦り付ける作業のほうが気に入っていたのかも知れない。

 我が家の南西にある5本の松の木の枝が先日も切られた。
 枝と枝が擦り合わさって焦げ目が付いていて、危険を感じた階下のマリアさんが役場に陳情したのだろう。
 役場の人間と役場から依頼を受けた業者が2人でやってきた。チェンソーを持った業者が高い木に登り10本ばかりの枝を切った。その切り口から松脂が流れ出していて、雨になると白っぽく浮かび上がる。

 油絵を描くときの溶き油は「ターペンタイン」または「テレピン油」ともいう。松の葉や松脂を蒸しその蒸留されたエキスがテレピン油となる。当然のことながら松の木特有の匂い?がある。嫌いな人も多いのかも知れないが、幸い僕はこの匂いが好きである。シンナーなら大変なことになるが、テレピンは無害なのだろう。
 僕はこのテレピン油に何十年もお世話になってきたことになる。今年2010年の1年。そして松の内の今日も、おめでたい松から摂れたテレピンの匂いに満ち満ちたアトリエで、仕事(絵を描くこと)が出来る幸せを感じている。

2010/01/01 VIT
今年は1月下旬に日本に向います。
高校美術部OB展が(下記)40年目40回展を迎えます。

 

        第40回NACK
2010年1月25日(月)~30日(土)
最終日は午後4時終了
大阪府立現代美術センター・B展示室
〒540-0008 大阪市中央区大手前 3-1-43 ℡06-4790-8520
地下鉄谷町線・中央線「谷町四丁目」駅下車1A出口

     1月28日(木)には武本が全日会場に居ます。


それに出品する為に早目の帰国です。
個展は(下記)3月1日から30日まで宮崎空港ギャラリーです。


武本比登志ポルトガル作品展
2010年3月1日(月)~30日(火)
最終日は午後3時終了
宮崎空港ギャラリー
〒880-0912 宮崎市赤江 宮崎空港ビル3F ℡0985-51-5111(代)

雨が降らない限り、毎週土・日の15時から17時までは会場に居ます。

ポルトガルに戻ってくるのは4月中旬になります。
次回のこのコーナーは5月1日の予定です。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

武本比登志


(この文は2010年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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051. 松林の丘 -Pinhal-

2018-11-14 | 独言(ひとりごと)

 先日、セトゥーバルの蚤の市で額縁に入った一枚の印刷物を見つけた。
 それは古いイラストで、ちょうど今、我が家があるあたりの風景だった。
 昔の貴族の様な服装をした人物が風車小屋の丘からセトゥーバルの町の中心を眺めている絵柄だ。
 かつてここには風車小屋がずらりとあったらしい。今はその絵の様にたくさんの風車小屋はないが、一棟だけは残されていて、幼稚園の一部となっている。

 今、我が家から街の中心は見えない。松林が視界を阻んでいる。この絵の時代には松林はなかったのだろう。現在の様に家々もなく、風車小屋の下にはオリーヴ畑が広がっていた。

 我が家は丘の上にありちょうどその絵の風車小屋の場所に当る。
 この場所に移り住んだ当初から見晴らしは良かった。それがこの頃になってますます見晴らしが良くなってきている。それは松の木が徐々に切られているからだ。

 我が家のすぐ南側には低いところに市の水道タンクがあるので、その他の建物は建たない。だから南側は当初から見晴らしが良かった。港とサド河の河口、トロイア半島、サン・フィリッペ城、それに大西洋が一望できる。

 南西にはかつて1本の松の大木があり、その方向にあるアラビダ山の頂上はあまり良く見えなかった。青い家の先からは黒人の子供たちが来て、その松の大木の枝にしがみ付いてブランコ遊びをしていた。
 ある日、強い風が吹き荒れ、大きな枝が折れてガレージハウスの屋根を壊した。
 役人がチェーンソーを持ってきてその大木を根元から切ってしまった。お蔭で南西の方角には別の城址の丘があることがわかったし、アラビダ山の頂上が良く見える様になった。
 そして、14番のバスが上り下りするのが見える。市営住宅の一角にあるメルカドが毎週土曜の夜、ディスコに早代わりして、人々の出入りする様子も見える様になった。

 南西の大木と南東の林に挟まれた真南の水道タンクの前の空地にはいつのまにか2メートルばかりに成長した、か細い実生の松の木がたくさん生えていた。それがいずれ大きくなれば我が家は見晴らしが悪くなるかも知れないと少し心配ではあった。
 クリスマス時期になると青い家のあたりからノコギリをかかえておばさんが松のてっぺんを切りにやってきた。クリスマス・ツリーにするのだ。
 切ってくれれば上に伸びないので見晴らしが悪くなることもないと僕は思っていたが、隣のマンションのおかみさんが「木を切っちゃ駄目ですよ」と言って追い返していた。
 でもその後、水道局の砂置き場にするため、ブルドーザがやってきてすっかり平らにしてしまった。

 北側には一軒の広いお屋敷がある。老夫婦が2人で住んでおられる。もう既に仕事からは隠退されているらしく、毎日庭の手入れに忙しい。毎週末には大勢の息子、娘たちが戻ってきて賑やかになる。孫たちも一緒だ。
 かつてそのお屋敷は自然に生えたらしい10数本の松の大木に囲まれていた。
 そのお屋敷から真正面にあたる別の丘の中腹に建っていた古くからのお屋敷が、山火事にまかれて燃え落ちるのはセトゥーバルでは大きなニュースになった。
 我が家からも松の枝を透して真っ赤な炎がチラチラと見えた。
 向かいのお屋敷の老夫婦にとっては他人事ではなかったのだろうと思う。
 それからしばらく経ったある時、10人ばかりの職人たちが来て、その松の木を1本残らず切ってしまった。
 残ったのは柳とジャカランダ、ブーゲンビレアなどの庭木だけとなった。お蔭でそれまで我が家から松の枝の間から僅かしか見えなかったパルメラの城が、アトリエの窓の真正面に完全な形で姿を現した。
 北西側遥か向こうの緑の牧場も眺める事もできる様になったし、時たま草を食む羊の群れも見える。春には花が咲いてまっ黄色に替る。そしてお屋敷の白い壁が反射してアトリエはまぶしいくらいに明るくなった。

 南東側には相変わらず松林があって、山鳩が巣をかけているし、野鳥がたくさんやってきては良い声を聴かせてくれる。ベランダからは松林に阻まれて街の中心は見えない。住み始めた当初より松林の松はますます大きくなってきている。

 かつてはそのベランダで炭を熾してイワシなどを焼いていたが、松の木が大きくなってベランダに迫ってきたので、火が移れば大変なことになる。危険を感じて炭火焼はしなくなってしまった。
 1階に住んでいるマリアさん家などは「日当りが悪くなって洗濯物が乾かない」と言って役場に陳情したのかも知れない。
 やがて、大層なクレーン車が来て一番近いところの松の大木を2~3本切った。お蔭で我が家も山火事の心配が薄らいだのと、東側の見晴らしがかなり良くなった。朝、顔を洗う時には、真正面の地平線から昇ってくる真っ赤な朝日が顔を照らす。

 水道タンクのさらに下の崖のところにはかつてのオリーヴ畑の名残りの様に数本のオリーヴの老木があったが、そこにも松の実生苗が育ち、やがてオリーヴの木に覆い被さる程に繁っていた。
 ちょうど2年前の暮、それを一切合財切り払って、それ以来建物の工事が進んでいる。既に建って久しいにも拘わらず一向に入居しない。念の入った工事らしく未だに工事人が出入りしている。どうやら普通の住宅ではなさそうだ。多分、水道局の事務所か何か、公共の建物なのだろう。

 南東の松林のところに、つい2~3日前から職人2人と監督が1人来て、松の木を少しずつ切り始めた。
 まだまだ何本も残ってはいるが、我が家のベランダから松の枝を透してほんの少し街の中心あたりが見えるようになった。
 もしかしたらそこを水道局の駐車場にするのかも知れない。
 どこまで切るのか、我が家からの見晴らしはどうなるのか、暫くは目が離せない。
 僕も仕事が手につかず、気が気ではないが、野鳥たちにとってもおちおちしてはいられないだろう。

VIT

 

(この文は2007年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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050. イル・ド・フランス・旅日記 (下) -Il de France-

2018-11-13 | 旅日記

イル・ド・フランス旅日記(上) 

2006/11/09(木)晴れ/Fontainebleau - Paris - Pontoise – Paris

 フォンテーヌブローに3泊もしていながら、宮殿内部を観ないのもなんなので朝1番、開館を待って観ることにした。オフシーズンのせいか開館と同時に入場したのは4人だけ。その内3人は僕たちを含めて日本人だ。駆け足で観た。やたら係員ばかりだ。

 配置につかないでコーヒーの自動販売機の部屋に寄り集まってコーヒーを飲みながらだべっている。ここでもお役人が遊んでいる。

 

 パリのいつものホテルは今回は予約が遅かったのか、2週間も前に既に満室。

 インターネットで見つけた初めてのホテルに予約を取っておいた。同じルクサンブール地区で、佐伯祐三が定宿にしていた3星ホテル「グラン・ゾンム」の丁度裏手くらいの位置だ。

 荷物だけ預けてポントワーズに行くつもりが、部屋に通してくれた。部屋の窓から教会のドーム屋根が見える。一瞬パンテオンかなと思ったが方角が違う。パリにはドーム屋根の建物が意外と多い。

 荷物を降ろしてポントワーズに向かう。

 以前ならサン・ラザール駅からしか行けなかったが、その後、北駅からも行ける様になったし、今ではRERでも行くことができるから便利になった。でも時間はたっぷり1時間かかった。

 目ざすはピサロ美術館だがあてずっぽうに歩く。途中地元の婦人に道を尋ねたがわからなかった。カフェに入って親爺に尋ねたら教えてくれたが、別の美術館だった。その美術館の受付で「ピサロ美術館」への道を教えてもらう。

 地図を描いてくれた上にわざわざ外まで出て「あの駐車場を横切ってどうのこうの……」と親切だ。ヒステリックで神経質なフランス人もパリから一歩離れると暖かくて親切な国民なのだ。

 駅に着く時に電車の窓から仰ぎ見て丘の上の一番めだつ建物が目ざす「ピサロ美術館」であった。

24.ピサロ美術館

 2階が展示場でピサロの他、ドービニーの古い珍しい絵なども飾られていた。

25.ピサロ美術館展示室

 カタログが30ユーロと高かったし、フランス語とドイツ語対訳のものしかなかったが珍しい作品が多く載っていたので思い切って買う。

 係りの人も高いと思っているのか、ウインクと共にピサロの絵葉書を1枚おまけしてくれた。



26.ポントワーズのセーヌ川風景

 さきほど道を教えてくれた美術館に戻り入場する。

 世界中から集められた1950年代から1970年代の抽象画で、定規で引いた直線やコンパスの円を使った目の錯覚を楽しむ様な、何というジャンルか知らないが、そればかりを集めた展覧会であった。モンドリアンの流れと言えるのだろうか、その時代日本ではオノサトトシノブがそのスタイルをやっていた。

 古い重厚な城館の美術館でモダンさと重厚さがマッチして良い展覧会であった。

 

 帰りもRERに乗り、アンヴァリッドで降り、アレクサンドル3世橋を歩きグラン・パレに入る。

27.アレクサンドル3世橋の欄干とグラン・パレの夜景

 久しぶり、約10年ぶりくらいか、ル・サロンがグラン・パレでの開催になる。永い修復工事であった。


28.ル・サロン2006の僕の作品「ボカージュ広場」100号。

 

2006/11/10(金)晴れ/Paris - Mantes la Jolie

 荷物を半分ホテルに預かってもらって、一晩だけの荷物を持ってマント・ラ・ジョリに向かう。佐伯祐三が描いたノートル・ダムを見るのだ。

 先ずはサン・ラザール駅。ルクサンブールのホテルの前からサン・ラザール駅行きのバスがあるのでそれに乗る。乗換えがないのでパリもバスを使いこなすと便利だ。でも時間はかかる。

 昨年はルーアンに行くのに最初の停車駅がマント・ラ・ジョリであったから30分程であったのに、きょうは各駅停車なので1時間もかかった。

 

 列車の中からノートル・ダムが見えたので降りてからそちらの方角に歩き出す。今回の旅ではいつもにも増して良く歩く。普段の運動不足解消に歩くのは良い事だが、先日から足の裏にマメができて少々痛い。

 駅前にも1軒ホテルがあったが、街の中心のほうが良い。それに営業しているかどうかも怪しい佇まいだ。

 案の定、街の中心にもホテルがあった。値段表をみるとパリの半額だ。あまり安すぎるので他も見てみるほうが良さそうだと思い、ノートル・ダムまで歩く。



29.佐伯祐三が描いたマント・ラ・ジョリのノートル・ダム

 ノートル・ダムは思ったより立派で壮大だ。仰ぎ見るような角度になり、佐伯祐三がどこから描いたのか検討がつかない。80年前にはノートル・ダムの前の建物はなかったのであろうか。今ではあの絵の様には描く事が出来ないように思われる。

30.ノートル・ダムのバラ窓のステンドグラス

 ノートル・ダムの近くにピザ屋の上がホテルになっている看板を見つけたので聞いてみたがホテルはやっていないという。

 もう少し街の中心で下がバーになっていて、上がホテルで外観は割合立派な建物なので聞いてみると、女将は「ハイ、シャワートイレテレビ付き、ハイこれが部屋の鍵、これが外の鍵、ハイ40ユーロ、ハイこれが領収書、階段を上って16号室ハイハイハイ」てな感じで40ユーロを前金でふんだくられる。

 店がちょうど男たちで込み合っていて、バーが忙しいのだ。でもホテル代はパリに比べると半額だ。部屋に上がってみると確かにシャワーもトイレも付いているが、トイレにドアがなく、カーテンで仕切ってあるだけだ。でももう料金も払ってしまったし、今夜は辛抱するしかない。まあ部屋は清潔だし、広いし、センスもそれほど悪くはないし、広場に面して眺めもまあまあ、暖房も効いている。



31.マント・ラ・ジョリで泊ったホテル

 セーヌ川まで歩きノートル・ダムを横から後ろから見る。ノートル・ダムの隣、セーヌ河畔のところに明るいガラス張りのテラスのある一見しゃれたレストランがある。入口のところに黒板にチョークのなぐり書きで本日のメニュが張られている。今までもパリでより、むしろ田舎町で洒落たフランス料理を楽しめることが多かった。ここでは時間もたっぷりあるし、期待して入ったのだが、入ってみると、一見に反してぐっと大衆的なブラッセリであった。

 前菜はゆで卵のツナ和え、メインは豚のノルマンディ・ソース煮こみ、芋も3種類からチョイス。盛り付けはフランス料理というより、むしろポルトガル的で大雑把でダイナミックだ。

32.豚のノルマンディ・ソース煮こみとポンフリ

 デザートは栗の季節だから「モンブラン」。これが変。これでもモンブラン?という感じ。でもヴァン・メゾン(ハウスワイン)も含めて味はなかなかのものだった。

33.セーヌの流れとマント・ラ・ジョリのノートル・ダム。

 ノートル・ダムの内部では大掛りな舞台が設置され、PAの準備で男たちが忙しそうにしていた。丁度今夜9時からブルースのコンサートがあるというのだ。黒人の女性シンガーで<Lea Gilmore>という。
 ノートル・ダムでのブルースコンサートなどめったにお目にかかれないことなので絶対に見てみたかったが、前売り券を買おうとインフォメーションを探したが見あたらず、もちろん、開演時間に直接入場券を買って入ることもできたが、それに少し疲れているし、夜9時からは無理かなと思い諦める。
 最近は早寝早起きで夜がめっぽう駄目になっている。

 隣の美術館を観る。
 1階は発掘品などの展示、2階では <Sabine Weiss> という写真家の展覧会。
 ストラビンスキィやレナード・バーンスタインなど一流の音楽家の写真をたくさん撮っていて、カタログやレコードジャケットにも使われている有名な写真家なのだろう。
 その中にアマリア・ロドリゲスも混ざっていた。
 一流の音楽家とは対照的に無名のストリートミュージシャンを捉えた面白い写真も多く撮っていて、この展覧会はそれらが主体をなしていた。
 3階では <Maximilien Luce> という、ナビ派からフォーヴィズムのスタイルで、20世紀初頭の地元出身画家の展覧会。


2006/11/11(土)雨のち曇り時々晴れ/Mantes la Jorie – Paris

 夜中、ホテルの前の広場で物音がして早くから目が醒める。
 駐車場にクルマが1台もなくなっている、と思っていたら、案の定、朝市が出る。 でも雨模様。市の準備をするのに雨に濡れて大変そう。出かける頃には雨もあがる。

34.マント・ラ・ジョリ駅。

35.MANTES LA JOLIE は工事中?

 帰りの列車はノルマンディから来たのだろう。各駅停車ではなくて30分でサン・ラザール駅に到着。

36.モネも描いたサン・ラザール駅構内

 ホテルに荷物を降ろし、オルセー美術館まで歩く。

 これはメトロかバスに乗るべきであった。どうやら足の裏のマメが潰れてしまっているようだ。
 本来はスニーカーで旅をするつもりだったのだが、直前になって、出発当日からヨーロッパの空港のセキュリティー検査が厳しくなるとのニュースがあったので、スニーカーは止めて革靴にしたのだ。以前にも検査の時にスニーカーの人だけは脱がされていたのを見ていたからだ。スニーカーならマメは出来ていなかった筈だ。

 機内誌の情報ではオルセーの特別展でセザンヌを催っているとあって楽しみにしていたのだが、着いてみるとセザンヌ展の文字などどこにもなく「モーリス・ドニ展」を催っていた。
 これも甲乙つけがたく観たかった貴重な展覧会だ。
 元々、オルセーに所蔵している作品に加えて、エルミタージュやプーシキン、ウェラー・ミューラー美術館、さらにはフランスやアメリカから個人所蔵の作品などたくさん集められている。
 ドニもこうして全体を観るとモティーフにこだわりがあり、色も凝っていてなかなか良い。すっかり見直してしまったし、好きになってしまった。

 今回の旅ではバルビゾン派、印象派、さらには黒田清輝、佐伯祐三などを中心に歩いたが、ドニを観て一昨年のサン・ジェルマン・アン・レーのプリウレ美術館と、それ以前のポンタヴァン派、ナビ派、アールヌーボーの旅にプレイバックして興味が倍増した思いがある。

 もちろん常設展ではピサロ、シスレーさらにはミレー、ドービニー、コロー、ディアズ、テオドール・ルソーなどを観ないわけにはいかない。でもやはりオルセーの展示は来るたびに違う。
 いつも入れ替えがあり、今回ではバルビゾン派の作品が少なかったように思う。
 ミレーの「グレヴィルの教会」がない。
 いつもあるところにアンリ・ルソーもないし、セザンヌの「トランプをする人々」もない。
 だいいちオルセーの代表作品アングルの「泉」もなかった。
 もしかしたらエルミタージュあたりと「モーリス・ドニ」の交換で貸し出されている作品が多いのかもしれない。
 お蔭で僕としては、普段は倉庫に仕舞われている、珍しい作品を観る事ができる。今回はゴーガンとポンタヴァン派の絵が多かった。

37.ゴッホの「オーベールの教会」を携帯で撮影する人。

38.オルセーのモネの部屋は観覧者でいっぱい。そのベンチで寝る少女。

 クールベの「女陰」の絵が展示されていて驚いた。まさに写実派の極致で、観覧者はまともに観ることができないで目を背けている。この絵の存在は以前から画集で観て、知ってはいたが、実物を観るのは初めてだ。個人コレクションの筈であったから、この程、オルセーの所蔵に加わったのかも知れない。クールベはやはり変わった人物だ。
 以前にファーブル美術館で観た「ボンジュール、ムッシュ、クールベ」のタイトルにしろ、このオルセーにある巨大すぎる「オルナンの埋葬」や「画家のアトリエ」を目の当たりにして、クールベを理解するに一筋縄ではいかない様な気がする。

39.オルセーのクールベ「画家のアトリエ」


2006/11/12(日)晴れ/Paris - Lisboa – Setubal

 ポルトガルに戻る日だが、飛行機は夜の8時発なのでまる1日有効に使える。
 ルクサンブール宮殿美術館で「テイッチアーノ展」を催っていたが、それはあきらめて予定通りルーブルに行く事にする。

40.ルクサンブール宮殿美術館の「ティッチアーノ展」入口。

 ホテルをチェック・アウトした後、荷物を預かってもらい、ホテルから歩いて5分、ムフタール通りの朝市を見学。
 セップが49ユーロする。
 そう言えばフォンテーヌブローのマルシェではゴボウが売られていたので驚いたし、買って帰りたかったが、考えてみるとフラマン派の絵でゴボウらしき物が描かれているのを観たことがあるので、ヨーロッパにもあることはあるのだろう。

41.ムフタール通りの朝市。

 ムフタール通り近くのメトロ<Censier-Daubenton>から乗ればルーブルに乗換えなしで行ける。
 ルーブルでも常設展とは別料金で「レンブラントのデッサン展」を催っていたので、そのチケットも一緒に買い、先ずは「レンブラント」から観ることにする。
 日曜日のせいか見学者が多い。
 油彩とは違い、デッサンはむしろ東洋的な墨絵の雰囲気も感じる。
 特に風景画は水墨画の趣だ。
 僕も鉛筆だけではなく、墨でスケッチをしてみたいと思って、数年前、墨と硯を日本から持ってきているのだが、まだ一度も使っていない。

 それに「ウイリアム・ホガース(1667-1764)」の展覧会がドッキングされている。
 少々エロティックな部分があったり、風刺的なモティーフが描かれているのであろう。観覧者たちはフランス語で書かれたその解説を熱心に読んでいた。

 常設展では先日訪れたバルビゾン派とフォンテーヌブロー派それにシャルダンなどのフランス絵画を中心に観る。

42.16世紀後期。

43.フォンテーヌブロー派。

44.ルーブル美術館展示作品。

 ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」はまだルーブルに戻ってきていなかった。ストラスブールから更に別の都市を巡回しているのかも知れない。
 それにジェリコーの「メデュース号の筏」も今回はなかった。どこかに貸し出されているのであろうか?
 とにかくルーブルにしろオルセーにしろ展示品はいつも目まぐるしく入れ替わっている。
 きょうはゆっくり1日かけてルーブルを堪能することが出来た。

 ホテルに荷物を取りに戻り、RERでド・ゴール空港へ。
 今回の旅はパリ周辺だけなのでゆっくりだろう。と思っていたが、結構慌しくやはり強行軍になってしまった。
 当初、懸念されていた、パリ郊外の暴動もなかったし、かなり寒かったとは言え、傘を一度も開く事もなかった。
 お蔭で充実して良い絵をたくさん観ることが出来た収穫の多い旅であった。

 45.今回の旅で買った絵葉書とカタログ、左上は絵葉書類、上中「ピサロ美術館」「レンブラント・デッサン展」「ル・サロン・カタログ」「モーリス・ドニ展」右下「ウイリアム・ホガース展」

VIT

 

(この文は2006年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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050. イル・ド・フランス・旅日記 (上) -Il de France-

2018-11-13 | 旅日記

 今回は昨年の旅の続きミレー。それとバルビゾン派。パリ周辺、イル・ド・フランスを歩いてみようと計画をたてた。
 計画をたてるとどうもあれもこれもと欲張ってしまう。
 結局、ミレー、テオドール・ルソーそれに印象派のシスレー、ピサロ、モネ。黒田清輝、佐伯祐三などに関わりのある土地を歩いてみることになった。それにフォンテーヌブロー派も加わるのだろう。


2006/11/06(月)あさ霧雨、曇りのち晴れ/Setubal - Lisboa - Paris – Fontainebleau

 今回はムッシュ・Mの自宅まで行かなくてもド・ゴール空港まで出迎えてくれることになったので楽ちんだ。
 でも飛行機が1時間も遅れたので心配したが、ムッシュ・Mは到着口で気の毒に長い時間待っていてくれた。
 しかもちょうど息子さんがリオンから3時にパリに帰って来られるので出迎えるとのことで、少々早いけれどその足で、僕にとっては好都合にパリ・リオン駅までクルマで送って下さった。

 お蔭で飛行機が遅れた割には予定の列車でフォンテーヌブローに着いた。でも何をする暇もない。
 それに寒波がやって来ているのか、ことのほか寒い。
 明日、明後日のレンタカーの予約に行ったが2軒のレンタカー屋も明日は予約でいっぱいとのことで、明後日、1日だけの予約になった。

 暖かいムールとポンフリそれにビールで早い時間に軽く夕食。デザートにチーズ盛り合わせとワインを追加。イル・ド・フランスの南、ボージョレ地方の白。口当たりが良い。

01.ムールのワイン蒸しとフリット

 今朝は4時起床だったので、早くホテルで休みたい。

 ホテルはインターネットで予約をしておいた。やはりパリよりは安い。そして広い。まるでポルトガル人のように太った娘が愛想良く、くるくるとよく働く。
 部屋の目の前は趣きのある郵便局の建物で、そのすぐ後ろからフォンテーヌブロー宮殿庭園の入口があった。
 予約は1晩だけだったが、まあ悪くはないし、レンタカーの予定が狂ったので、幸い空いているとのことだったし、3日ともこのホテルに泊ることにした。

02.フォンテーヌブローで泊ったホテル

2006/11/07(火)朝霧曇り時々晴れ/Fontainebleau - Moret sur Loin – Fontainebleau

 朝食は満席。ホテルの部屋も満室なのかも知れない。部屋が取れて運が良かった。

 朝早くからフォンテーヌブロー宮殿の庭を散策、霧に包まれて美しい。白鳥などの水鳥が寄ってきたがやる餌がない。身体が芯から冷え切る。1日空いたのでフォンテーヌブロー宮殿を見学しようと思ったが、きょう火曜日は休館日。



03.朝霧のフォンテーヌブロー宮殿

 朝市がでていたので、ひととおり見て回った。魚屋にしろ八百屋にしろ、フランスの市はどこも、飾りつけに手をかけていて見ていて楽しい。やはりセンスの良さを感じる。

 レンタカーで行くつもりだったシスレーゆかりの地、モレ・シュル・ロアンだけは列車で行くことにする。時間がゆっくりなのでフォンテーヌブロー・アヴォン駅まで歩いたがこれが後々までたたった。

04.フォンテーヌブロー・アヴォン駅と市内行きバス

 2駅でモレ・シュル・ロアンの最寄り駅 <Moret Veneux les Sablons> 駅に着いて、通りかかった人にモレ・シュル・ロアンの町を尋ねると、歩いて20分程とのことだったので歩いた。もっともバスもタクシーも何もないので歩くしかないが…。

 教えられたとおりに線路沿いに歩いてインター・マルシェのところで右に曲がった。曲ったところにモネ、シスレー、ルノワールの肖像画が描かれたホテル・レストランがあった。

05.シスレーの肖像画があるレストラン

06.モレ・シュル・ロアンの町門

 町の入口、町門の手前にインフォメーション。でもあいにく昼休みで閉まっていた。町門を入ってすぐに町役場や郵便局などがある中心広場。さらに1本道のその先に出口の町門があり、そこにロアン川が流れている。

 水量が多い。石橋の両方に水車小屋、それに洗濯場もある。ロアン川に影を落す様々な色あいの木々、水鳥、カテドラル、町門。静かな町だ。静かだと思っていたら、なるほど昼休みでどこも閉まっている。でも小さな美しい町だ。曇っていたのでシスレーよりもドービニーのイメージの風景だ。これが晴れていれば、いかにもシスレーの絵そのままだろう。

07.モレ・シュル・ロアン

 昼食にレストランに入ったが町の人たちでいっぱいでなかなか順番が来そうにないので別の店、人の良さそうな親爺が暇そうにしていたカバブ屋に入る。

 フランスでカバブ屋に入ったのは久しぶりだ。安くてお腹が一杯になる。それに案外と旨い。たまにはカバブも悪くはない。



08.モレ・シュル・ロアンの中心広場

 帰りインフォメーションが開いていたので、駅までバスがないのか尋ねたがやはりないという。そこでシスレーの絵葉書を買う。オルセー所蔵のシスレーの代表作の一つだがここ<モレ・シュル・ロアン>がモティーフだとのことだ。

 

 夕食はフォンテーヌブローで温かいシュークルートを食べる。なぜか今回の旅では「生牡蠣と中華は食べない」とMUZが宣言している。


2006/11/08(水)晴れ時々曇り/Fontainebleau-Barbizon-Milly la Foret-Grez sur Loin-Fontainebleau

 ホテルで朝食後、9時にレンタカー屋へ。

 バルビゾンにはほんの20分程で到着。

 町の入口のところに「晩鐘」の看板がある。そこであの名作が生まれたのだろう。

 

 1972年、パリに住んでいた時に日本人留学生の仲間たちを誘って、僕のフォルクスワーゲンマイクロバスで1度は来たことがある。

 あの時一緒に来たSさんはその後、画家と結婚されてYさんとなり今はドイツに住んでおられる。

 学生運動で休校状態だったので、その暇にフランス語の勉強に来ていると言っていた、剣道の達人で東大生だった彼は今、どうしているのだろうか?

 人の顔は懐かしく思い出されるが、バルビゾンの町にその当時の面影は全く覚えていない。初めて来たのと同じだ。

 

 早く着きすぎたので、ガンヌの旅籠もテオドール・ルソーのアトリエもまだ閉まっている。インフォメーションもまだだ。

 天気もよく朝日を浴びた蔦の紅葉などを楽しみながら、ぶらぶら歩いているとミレーのアトリエの前にでる。

09.ミレーのアトリエ

 ここだけは9時半開館なので観ることができた。

 壁にはミレーのデッサンや印刷物、バルビゾン派の画家の作品、ルソーの作品も所狭しとかけられている。

 観終わって外に出ると受付の女性とミレーにそっくりなおじさんが話していて驚いた。

 ミレーの孫かひ孫かそれとも<そっくりさんチャンピオン>だろうか?

 カフェに入ってコーヒーを飲む。フランスのコーヒーの値段はポルトガルのちょうど倍だ。欧州通貨がユーロに統一されて価格が一目瞭然だ。

 テオドール・ルソーのアトリエの前で開館時間を待つ。

10.テオドール・ルソーのアトリエ

 時間になってもなかなか開かないなあ、と思っていてドアを押したら既に開いていた。

 やはりテオドール・ルソーの絵とバルビゾン派の画家の絵。それにパレットが4~5枚展示してある。パレットには絵が描かれている。ユトリロ美術館にも同じようなものがあったのを思い出した。パレットにこびり付いた絵具に絵が現れるのだ。彫刻家が石の中に眠っている姿を見つけ出すのに似ている。

 

 ガンヌの旅籠も美術館になっている。

11.蔦の紅葉が美しいガンヌの旅籠

 ドアや家具などに当時の画家たちが絵を描いていて、それが残されている。

12.家具にも絵が描かれている。

13.寝室。

 インフォメーションでミレーとテオドール・ルソーの彫像の場所を聞く。町はずれの森の中とのことだったので、クルマに戻りクルマで行く。森にはすぐに着いたが森の何処にあるのかがわからない。標識もなにもない。それらしき岩のかたまったところにあてずっぽうに行くとそこにあった。あちこちにきのこが生えていた。

14.バルビゾンの森の入口。

15.森の中のテオドール・ルソーとミレーの銅像。

 グレ・シュル・ロアンに行く途中、少し回り道をするだけで、ジャン・コクトーが建てたチャペルのある、ミイ・ラ・フォレという町がある。そのチャペルにジャン・コクトーが眠っているというので寄っていくことにする。

16.ジャン・コクトーのチャペル。

 クルマを停めて歩き出すとすぐに通りがかりのマダムが声をかけてくれてチャペルへの道を教えてくれる。町外れにあり、着くとちょうど昼休みだ。

 

 町に戻り、町も見学し昼食もそこで済ます。午後からの開館時間になって再び行ったが開かない。よく見ると開館時間が表示された下に但し書きがあって、フランス語なので判らないがとにかく臨時休館らしい。

17.開館時間の表示。

 僕たちが諦めて帰りかけた時、アノラック姿でハイキングか山歩きといったいでたちの初老の男女10数人とすれ違った。

 入口で立ち止まってその看板を見、わいわい喋りながら通り過ぎて行った。開いていれば寄っていくつもりだったのだろうか?目的地はここではなさそうだ。このあたりにハイキングコースでもあるのだろう。

 

 黒田清輝が住んだグレ・シュル・ロアンを目ざす。

 どこを走ってもミレーやコロー、テオドール・ルソー、ドービニーの絵の中の風景のようだ。紅葉はそれ程でもなく、むしろ森は褐色と深緑、水辺も群青色で黒々としている。

 

 グレ・シュル・ロアンに着いた。クルマを停めて教会の方に歩く。その隣に村役場があったが閉まっている。午後は何と4時からだ。ポルトガル以上に仕事をしない?お役所がある。

 村役場のところに町の地図があったので「黒田清輝通り」を探したが見あたらない。

 人通りがない。可愛らしい女の子が僕たちに「ボンジュール」と挨拶をしながら走り去った。

 その次の通りの標識に [ Rue KURODA Seiki ] の文字を見つける。

18.黒田清輝通り。

 小さな通りでその中ほどに黒田清輝が住んだお屋敷があって、フランス語と日本語でそう書かれた標識がある。

19.フランス語と日本語で書かれた標識。

 今は誰かフランスの人が住んでおられるのだろう。

20.黒田清輝が住んだ屋敷

 ロアン川まで行ってみる。趣のある石橋、それにローマ時代の廃墟の様な塔が聳えている。川向こうにサッカー場があるらしく、練習をしているのか、甲高い少年たちの声だけが賑やかに聞こえる。橋の上で風景を見ていると、女の子が2人自転車で通りかかり、やはり「ボンジュール」と言って走って行く。

 河川敷に大きな柳の木が数本。その間にベンチがひとつ、若いカップルがキスをしている。浅井忠が「グレ・シュル・ロアンの柳」を描いている。

 スウェーデン人画家・カール・ラーソン(1853-1919)<Rue Carl Larsson>通りの標識も見つけた。その時代北欧からの画家も多く住み制作に励んだ村なのだ。

 この村でカフェにでも入ってゆっくりしたいと思っていたが、どこも開いていなかった。

21.ロアン川に影を落すグレの柳

 グレ・シュル・ロアンからフォンテーヌブローはすぐの距離であった。途中、ガソリンスタンドの1軒もない。レンタカーは明朝の9時までだが、今日夕方までに返すことにした。レンタカー屋の近くまで戻っていながら、ガソリンを入れるためにフォンテーヌブロー・アヴォン駅まで引き返した。

 

 夕映えで赤く染まったフォンテーヌブロー宮殿の庭を散歩。

22.夕映えのフォンテーヌブロー宮殿。

23.マロニエ並木と白鳥の湖。

 

050.イル・ド・フランス・旅日記(下) -Il de France- へつづく。

 

(この文は2006年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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049. アトランティック・シティ Atlantic City

2018-11-12 | 独言(ひとりごと)

 2006年9月でポルトガルに住み始めて16年が過ぎた。
 10年ひと昔などというが、それを遥かに越える年月に我ながら驚いている。
 ポルトガルに移り住んだのは、ついこの前という実感しかないからだ。
 でもその頃の自分の写真などを見ると確かに若い。
 確実に歳月を重ねているのには違いない。

 ポルトガルに住み始めた街は、最初からずっと今と同じセトゥーバルである。
 ずっと住んでいるからか、あまり感じなかったのだが、振り返ってみるとセトゥーバルの街もかなり変貌を遂げてきている。
 なるほど16年も経っているのだ。

 闘牛場と病院に囲まれたあたりは、だだっ広い赤土の荒れ地であった。
 当時、僕たちは旧市街地のど真ん中の古い建物に住んでいて、日当りも悪かったので、太陽を求めていつも散歩に出掛けていたのだが、その荒れ地も散歩コースの一つだった。
 小高い丘からは、セトゥーバルの街とアラビダ山やアルデイア・グランデの山も見晴らすことが出来て気持の良い場所であった。

 その荒れ地でゴワゴワしてとげとげの葉や茎を持つ黄色い花を摘んだ。
 花瓶に生けるとまるでアメーバの様に、もの凄い勢いで光を求めて茎を伸ばした。
 乾ききった土でも休眠状態で枯れることはなく、一旦水を得るといっきに成長を始めるのだろう。
 決して日本にはない植物だと驚いたもので、それ以来その黄色い花は摘んではこなかった。

 それからしばらく経った頃、その荒れ地には10階もあるビルが軒並みに建ち並び、市役所の支所や自動車組合の事務所、不動産屋、それにショッピングモールとその中にはピザ屋、パソコンショップ、インターネットカフェなどが店を開き、多くの人々が住み、駐車スペースを探すにも困難になるほど賑う街となってしまった。
 今、黄色い花が咲いていた当時の面影は全くない。
 ただ一つ当時から存在していた大きな笠松の木は今もその場所に残されていて人々に木蔭を提供している。

 更にもう少し町外れで、鉄道線路と高速道路の向こう側には広大なコルク樫の丘が広がっていた。
 ある年の市の広報によると、そのあたりをゴミ捨て場にするとのことであった。
 市民からは見えないところであるが、コルク樫を伐採し、掘り下げ、ビニールシートで敷きつめ、そこにゴミを捨て、その上をまた土で覆う。というものらしく、そんな新聞広報があった。

 広報があってしばらくした頃、カモメの大移動が始まった。
 トロイアの海水浴場や漁港付近から毎日決まった時刻に大挙して、そのゴミ捨て場あたりを目指してのカモメの大飛行が始まったのだ。
 それを我が家のベランダから眺めるのが日課であった。

 そしてやがてカモメの大移動もいつの間にかなくなっていた。

1.トロイアビーチのかもめ。

 つい先日、新興団地の先に高速道路の下をくぐリ抜ける立体交差の新しい道路ができているのに気が付いた。
 そんな道がいつ出来たのかも知らないが、その向こう側には大型のショッピングモールが出現していてキツネにつままれた様な驚きであった。
 若者向けで新しい感覚のファッションやスポーツグッズ、文房具店、1ユーロショップの様な店。
 それにパソコンショップとクルマのディーラーなどが広々とした土地に出来上がり、英語で「アトランティック・シティ」(大西洋街)という洒落た名前までも付けられている。
 ちなみにポルトガル語では [Cidade Atlântico] (シダーデ・アトランティコ)と言う筈だが、そうは呼ばない。
 今は林立する建物群でそこから大西洋を望むことは出来ないが、かつてはヒツジの群れが草を食む大西洋を望むコルク樫の丘であった。

 そして、まさにそこがカモメが大移動を繰り返したゴミ捨て場でもあったのだ。

 18世紀まではセトゥーバルの街はすっぽりと壁に囲まれていて、人々はその中でのみ暮らしていた。
 その壁の一部や町門などがところどころ今も残っていて、当時の生活が偲ばれる。

 そんな街のど真ん中に「マクドナルド」が出店した時も驚いた。
 ポルトガルには元々美味しいパンのサンドイッチなどがあるので、アメリカのハンバーガーショップだけは出来ないだろうと思っていたからだ。
 僕はかつて、日本でコカコーラが爆発的に流行り始めていた頃、(1968年だった)フランスでフランス人の男に「コカコーラは好きか?」とくだらない質問をしたことがある。
 男は「いや、俺は飲まない。フランスにはワインがある。」と言ったのを憶えている。

 セトゥーバルは古くローマ時代に塩田とイワシの塩漬け工場として興り、大航海時代にも重要な拠点となっていた。
 その後もオランダとの交易などで栄え、今も18世紀頃からの建物や広場、水汲み場、それに水道橋の一部などもそのまま残されているが、その後、少しずつ壁の外側にも建物は広がって行き、さらに最近の、EU 経済共同体を契機に爆発的に、まさしくアメーバの様に、水を得た黄色い花の様に四方八方に街は広がっている。

 このところ、何回かは新しくてピカピカのアトランティック・シティで買物をする機会もあったが、(実はそこのパソコンショップで<USBハブ>を買った)何だかダイオキシンが空中を漂っている様な気もちがして、そそくさと買物を済ませて帰る。

 元、ゴミ捨て場にしては「大西洋街」とは大きな名前を付けたものだと思っていたが、東京のかつてのゴミ捨て場はたしか「夢の島」と言った。

 このセトゥーバルの港から船を漕ぎ出し、太陽が沈む遥か水平線の彼方、西に西に緯度を変えずに真っ直ぐに大西洋(アトランティック・オーシャン)を進んで行くと、やがてアメリカ東海岸の「アトランティック・シティ」の港にたどり着く筈だ。だがしかし残念ながら地球の気流は逆に流れている。
 アメリカのアトランティック・シティから船を漕ぎ出すほうが容易にセトゥーバルにたどり着く。
 文化も気流と同じ流れで動いているのだろうか?

 ポルトガルは決してアメリカナイズされることなく、いつまでもヨーロッパらしさ、そしてポルトガルらしさは失わないでほしいと願うのは僕だけだろうか?
VIT

 

(この文は2006年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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048. 夢の時間 Sonho

2018-11-11 | 独言(ひとりごと)

 廃工場の今にも崩れ落ちんばかりに歪んだ、高~い煙突の中ほどまで必死の思いでよじ登った。
 よじ登ってスケッチをしている。
 煙突から周辺を見下ろして下界のスケッチをしているのではなく、その煙突そのものを仰ぎ見て描いているのだ。
 まったく不可能な話だが、降りようとして目が醒めた。

 今朝方見た夢のはなしだ。
 起きるのにはまだ少し早い時刻だったのでもうひと眠りしたが、こういった夢を見ると疲れる。

 「マラソンをしている夢をよく見る。」という話を聞いたこともあるが、これもよほど疲れるのだろう。
 いっそ疲れるのなら、それがダイエットにつながれば良いのだが、そうもゆかない。
 「眠っている間にダイエット!」
 何だかいかがわしい痩せ薬のキャッチコピーのようだ。

 子供の頃はよく同じ夢を見た。
 空を泳いでいるのだ。
 それも平泳ぎで…。

 このような夢は精神科の先生に鑑定をしてもらう必要があったのかも知れない、が何とかコトもなく大人になって今がある。
 その頃、お蔭で僕は平泳ぎが得意になった。
 空は無理だが、海ならそうとう泳ぐことができる。
 夢の成果かもしれない。

 病気の時もいつも同じ夢を見た。
 脈拍の音が歯車となり、鉄の塊の機械に押し潰され、手足が腫れ硬直している。
 そして遠くで蝉が鳴くようなかすかな音が聞こえるのだ。

 その夢もいつの間にか見なくなった。
 大人になったせいか、病気をしなくなったせいか。
 とにかくありがたいことに最近、病気らしい病気はほとんどしなくなった。
 何でも良く食べるから、身体が丈夫になったのだろうとは思う。

 大人になっても相変わらず夢はよく見るが、残念ながら朝になればすっかり忘れているのも多い。

 ご馳走を前にして食べる夢をみる。
 いや、食べようとすれば目が醒める。
 いっそ食べ終えてから目が醒めてくれればよかったのにと悔む。
 ご馳走という程でもなく、案外と身近な、例えばラーメンのようなことが多い。夢も安上がりに出来ているのだ。
 呑むことに関してはあまり執着がないからか、呑む夢は見たことがない。

 このところ日本では飲酒運転による事件が多発し、後を絶たないというニュースでもちきりだ。
 それはポルトガルでも言える。
 罰則が強化され、罰金の額は相当なものらしいが一向になくならない。

ポルトガルテレビのコント。

ある日、家族づれの乗用車が警察のアルコール検問にひっかかった。
そしてドライバー(運転していたのは夫)からアルコールが検出された。


ドライバー 「この機械はおかしいんじゃない。アルコールが検出されるなんて!」
警官    「いや、機械は正しい。」
ドライバー 「じゃ、女房の検査もしてみてよ。」
警官    「奥さんもアルコールが検出されたよ。奥さんも呑んだのだろう。」
ドライバー 「いや、そんな筈はない!じゃあ、子供の検査もしてみてよ!」

小学低学年くらいの男の子がクルマから走り出てきて、アルコール検査を受ける。

警官    「おかしいなあ!子供からも検出された。この機械は狂っとる。失礼しました。行って下さい。」

走り出してから。

ドライバー 「しめしめ、子供にも呑ませておいてよかったな。ハハハ」


 ポルトガルではどこの店でもノンアルコールビールを置いているので、僕は運転している時はたいていそれを飲む。
 日本の飲食店でノンアルコールビールを置いている店になぜかお目にかからない。

 昔、知人で呑むとハンドルを握りたくなるという男がいた。しかも免許を持っていなかった。
 さすがに皆で止めたが、腕力があり暴力的で他人の話を聞かなかった。
 100メートルだけ走らせ、皆でなだめすかして止めさせたことがある。
 35年も前のはなし、その時は広い田舎道で他にクルマは走っていなかったのが幸いだった。
 今なら皆も同罪、無期懲役ものだ。

 刑事裁判だけではない。
 先日、民事裁判で3億円倍賞責任の判決がでた。
 当然だろうと思う。
 他人を死なせるか、一生後遺症で苦しませておいて、加害者本人は刑務所の中とはいえ、屋根の下で食べる心配もなく税金でのうのうと暮らせるなどと許されるものではない。

 市役所の職員が重大事故を起して以来、その裁判所の職員や交通警察官までもが飲酒運転で検挙されている。

 夢の中で運転する。夢なら免許はいらない。楽しいドライブだ。
 逆に運転している時に夢を見るのは、危険だ。
 それを「居眠り運転」という。
 ハンドルを握るととたんに眠くなる、という人もいるらしい。
 「睡眠時無呼吸症候群」の疑いがあるので検査が必要だ。
 「飲酒運転」も「居眠り運転」も危険極まりない。

 自動車会社では「瞼の動きを察知して警告を鳴らす」とか、「アルコールが検知されればエンジンがかからない」といったクルマを開発しているそうだ。

 夢には眠っていて見る夢と、将来の夢の2種類があるが、どちらも「夢」で単語に違いがない。
 言葉が出来た頃の人類は、眠って見る夢も余程楽しい良質な夢しか見なかったのだろう。
 英語では [Dream] で、夜に見るのも将来の夢もドリームである。
 ポルトガル語ではどちらも [Sonho] ソーニョという。
 ポルトガル人同士が話しているのを聞いているとその「ソーニョ」という単語がよく出てくる。
 よほど夢を大切にしているのか、夢見がちな民族なのかも知れない。

 最近の子供に「将来の夢は何ですか?」と尋ねると、以前に比べるとかなり現実的な答が返ってくると聞いた。
 「両親がこれだから、自分の将来も知れたもの、現実離れした『夢のまた夢』の話をしても、仕方がない。」
 「平凡で中くらい」と思っている子供もいるのだそうだ。
 賢いというのか…、寂しいというのか…
 それでも親は子供の将来に夢を託す。
 それが重荷になりある日突然子供がキレル。

 僕が少年の頃の夢は「海外で絵を描いて暮らすこと」であったから、一応、今のところ夢は叶えられていると言えるのかもしれない。

 「今後の夢は」と自分に問いかけてみると、まあ、自分で納得のいく絵が出来ることと、経済的心配のいらない僅かばかりの蓄えがあれば言う事がないのだが…。

 当りくじの出た「宝くじ」売場に並んで夢を買う。
 宝くじが当った夢を見るのも良いが、そのお金を有効に使うところまで夢は醒めないでほしい。

 さて、今夜はどんな夢を見るのか?
 もう、体力もそこそこなのだから、煙突によじ登るのだけは謹んでご辞退申し上げたい。
VIT

 

 

(この文は2006年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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047. 昼下がりの読書 Leitura

2018-11-10 | 独言(ひとりごと)

 僕にとって、海外に住んで好都合なことの一つに読書がある。
 その土地の欧州文学を原書で読むというのなら尚更だろうけれど、僕にはその能力もないし、そんなつもりもない。
 ただ単に日本語の本を楽しむというだけの行為である。
 毎年その年に読む50冊ばかりの文庫本をMUZと僕とで手当たり次第に仕入れて日本から持ってくる。
 多少の読みたい本の違いはあるが、それはそれでまた良い。交代交代で読むことができる。古本であったり、時には新本であったり。

 僕は中学・高校・大学生の頃に読まなければならない、いわゆる名作文学といったものを殆ど読まなかった。
 東京での一人暮らしの頃少し読み始めて、ストックホルムに住んでいる頃にも少しは読んだ。
 ポルトガルに来てからはこの16年でもう少しは読んでいるが、まだまだ、そんな物をむさぼり読みたいと思っている。

 読書は勿論日本でも出来る訳であるが、僕の場合海外での方が頭に入り込みやすい。突然、友達から電話で呼び出される心配もないし、冠婚葬祭もない。テレビを観る時間も少ない。
 それと、文庫本とはいえ重たいのを苦労して持って来る本である。どこかに文字を無駄にすまいという意識が働いているのかもしれない。一字一句を大切に読んでいる様な気がする。繰り返し読む本も少なくはない。

 ヨーロッパ文学の場合は訪れた場所なども多く出てくるので、物語に入り込みやすいこともある。
 仕入れてくるのはヨーロッパ文学ばかりではない。ヨーロッパやアジアをテーマにしたエッセイ、紀行文、現代ものや日本の名作文学、司馬遼太郎などの日本やアジアの歴史小説なども多く含まれている。日本の歴史も面白いと思っている。そしてヨーロッパとも繋がっている。もちろん南蛮(ポルトガル)とも。

 絵を描いていてひと休みの時、昼食が終わって午後のひと時、少しずつ読んだりをする。夏の間はいつまでも陽が長いので遅くまで読むこともできる。明るいベランダに椅子を並べて2人別々の本を楽しむ。至福のひと時である。

 一昨年、ポルトガルから引っ越していった日本人の方に大量の本を頂いた。文庫本と文学全集や名作、詩集も多く含まれていて、今までに読んだ本とはあまりダブルこともなく、読みたい本ばかりである。だから今年は新たに日本から殆ど本は持って来なかったし、今後もしばらくは持って来なくても数年は楽しめる量がある。それを今僕は読み始めたところだ。

 先ずはカミュの全集を読んでいる。《新潮世界文学第48巻カミュⅠ・1968年4月20日発行》文庫本などでは出版されない若い時のエッセイなども含まれていて興味深い。

 高校か大学の頃「異邦人」は読んだとは思うが、全く頭には入っていなくて、途中で止めたのかも知れない。先日それを読み終えたところだが、海外に住んでいる今だからなおさら面白いと思って読んだ。

 舞台はアルジェから数キロ離れた海水浴場。当時アルジェリアはフランスの統治下にあり、フランス人とアラブ人の間でのいさかいは絶えなかったのだろうと想像できる。
主人公ムルソオはアルジェ生れのフランス人である。ムルソオと同じアパートに住む同じフランス人レエモンとその友人夫妻がムルソオとの結婚を約束したマリーも一緒に、ある日海水浴場の別荘に誘ってくれた。そこで事件は起こった。

 レエモンはアラブ女のヒモであった。思い通りにならないアラブ女にレエモンは時たま暴力をふるっていた。女は兄に助けを求めた。アラブ人の兄はフランス人たちが海水浴場に行くのを見ていた。そして、ナイフを忍ばせて海水浴場に現れた。アラブ人はレエモンに頭突きを食わせそうな様子を示した。

 僕は先日のワールドカップサッカーのジダンを思い起こしていた。
 ジダン自身はマルセーユ生まれだが、ジダンの両親はアルジェリア出身である。ジダンがアラブ系かフランス系移民かあるいはその混血かは僕は知らない。何れにしろジダンは恐らくこの「異邦人」を読んでいたに違いない。イタリアの選手から「移民の子・異邦人」と繰り返し罵られての頭突きであった。

 レエモンは殴りつけた。アラブ人の顔は血まみれになった。逆にレエモンはナイフで腕を切られ、唇を裂かれていた。

 医者の治療を受けた後、レエモンは小型のピストルを持ち出していた。
 「ピストルで撃つのは卑怯だ」と言ってムルソオが預かることにした。

 やがて、ムルソオとアラブ人が1対1で出会った時、暑さとかいろんな条件がそうさせたのか?そのピストルを使ってムルソオは1発さらに4発の銃弾を撃ち、アラブ人を殺してしまうのである。

 捕縛され尋問と長い審問、そしてやがて裁判が始まった。
 弁護士は楽観的であったが、陪審員による裁判の結果は死刑である。主人公ムルソオには広場での公開ギロチンが待っているのだ。
 そう言えば僕たちが子供の頃「♪ここは地の果てアルジェリア~♪どうせカスバの夜に咲く♪酒場の女の・・・♪」という唄が流行っていた。

 カミュがこの「異邦人」を書きあげたのは1940年。
 日本は太平洋戦争に突入した年である。
 フランスで出版されたのはそれから2年後1942年、第2次世界大戦の真っ只中で、恐らく日本語訳が出たのは戦後のことであろう。
 その頃ポルトガルやモロッコはレジスタン運動スパイ活動の拠点となっていた。それは映画「カサブランカ」にも描かれている。
 リスボンはナチスから逃れて逃亡の末、流れ着いたユダヤ人が、アメリカへと亡命することが出来た数少ない港だったのだ。《リスボンの夜/E・Mレマルク/松谷健二訳/昭和47年11月30日早川書房発行)》

 きょうも快晴で、僕のベランダの前にはエメラルドブルーの大西洋が広がっている。
 幾分かは秋めいて頬にあたる風が心地よい、とはいえ昼下がりの太陽は強烈で本の上で容赦なくはね返り僕の瞼にじりじりと攻撃を仕掛けてくる。そろそろアトリエに戻る頃合だが、もう少し本の余韻を楽しむのも悪くはない。

 今、深緑色の一隻の貨物船が真上からの強い陽射しを受け白波を蹴りセトゥーバルの湾を出て行こうとする。
 サン・フィリッペ城の岬で一旦その船体を隠したが、遥か沖合いで再び姿を現した、と思ったら貨物船は南に舵を切っていたのだ。
 見る間に小さくなり、また小さく豆粒ほどになり、ふっと姿を消した。

 大航海時代が始まる以前には地球は平らで、そこが世界の果てだと考えられていた。そして多くの航海船は二度と戻ることなく海の藻屑と消えた。

 水平線の太陽が沈む方角、遥か彼方はアメリカだ。
 リスボンの港から西へ西へ緯度を変えずに進んで行くと、アメリカの首都ワシントンとニューヨークの中間アトランティック・シティーの港にたどり着く。

 そして貨物船が姿を消した南には赤褐色のアフリカ大陸が横たわっている。毎年夏の初めにはアフリカからの熱を含んだ黄砂がセトゥーバル中に覆い被さる。
 「この貨物船は、もしかしたらジブラルタル海峡から地中海に入り、アルジェあたりまで行くのかも知れない。」などとアルジェリアに思いを馳せていた。

 そんな事を考えていると、MUZが突然「山之内蓉堂と坂本竜馬がどうのこうの…」と話しかけてきた。
 「なに!ヨウドウ・サカモト?」
 MUZは今、司馬遼太郎の幕末物の小説を読んでいるのだ。僕も数年前に読んだ本だ。

 僕の頭は一瞬固まってしまい、アルジェの裁判所と幕末の土佐が黄色い回転テーブルの上でカラカラと乾いた音をたてて回っている。
VIT

 

(この文は2006年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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046. カレーのレシピ Receita da Caril

2018-11-09 | 独言(ひとりごと)

 我が家ではカレーを欠かしたことがない。
 カレーは夏には夏ばて防止、冬は風邪予防になる。食欲のない時でも食べ始めると結構喉を通るし、身体が温まり、血液の循環が良くなり、手足の先までもがシャキッとして、これほど元気になる食べ物はない、とひたすら信じきっている。

 毎日昼食は必ずカレーにして、1度に1週間から10日分ほどを仕込む。
 ポルトガルのこの場所に住み始めてしばらくたった頃からそれをずっと続けている。お蔭で風邪も寝込むほど引くことはないし、夏もエアコンなしでなんとか過ごしている。病気らしい病気もしたことがない。

 実は以前も同じようなことをやっていた。それは古く1969年から1971年の頃だ。
 僕たちははじめ海外に住むのに「インドで暮らす」のを計画していた。

 ガンジーの無抵抗平和主義。なんとも知れない未知の大地。
 サリーを身にまとい、ターバンをかぶり、往来を行く牛を神と崇め、インダス文明の湧きあがった土地に、東西の文明が交じり合い、仏教やヒンズーの遺産と共に何億もの人々が暮らす。
 赤褐色、モスグリーン、ターメリックイエローなど僕の好きな色彩に満ち、夜も昼も音が溢れ、香辛料の匂いが鼻をくすぐる。
 ジョージ・ハリソンに共鳴し、聞くレコードはラヴィ・シャンカール。

 70年の大阪万博ではインド館にしか行かなかった。そこで初めて本場のカレーを食ったのだった。
 ひと足先に友人がマドラスの近くで染織の勉強をしていたことも、僕に大きなインパクトを与えた…

 ヨーロッパを3ヶ月程で見て回り、中東を通ってインドに入り、そこで先ずは1年程暮らしてみるつもりであった。インドで暮らすのだから、朝昼晩カレーばかりを食べて身体を慣らしておく必要があると考えたのだ。
 それで出発前の布忍(ぬのせ)に借りた新婚の住いではカレーしか作らなかったわけである。まあ、幸い2人ともカレーは好物であったから、さほど問題にもならなかったし、不都合も起こらなかった。

 そしていよいよ、新潟港から船に乗り、ナホトカ、ハバロフスク、モスクワを経由ストックホルムに入った。ヨーロッパを3ヶ月で通過してインドに行くつもりがそんなに人生甘くはない。ヨーロッパとアメリカに6年を費やすことになるわけで、結局インドには行かずじまいである。
 これは良く言えば進路変更とも言うが、あるいは一種の挫折と言うべきか?

 その間は色々な事情もありカレーは欠かさず…とはならなかった。
 1年間はマクロビオティックで全く肉類や刺激物を食べる事はなかった。これも進路変更といえばそうなのかも知れない。その他は、まあ普通の一般家庭並みの食べ方だったろうと思う。

 そして日本に1次帰国した時に、ひょんなことから宮崎で飲食店を経営することにあいなった。また大きく進路変更に迫られたわけである。
 しばらくしてその飲食店のメニューをカレーのみにしてしまった。その代りカレーのバリエーションをたくさん作った。
 カレーとコーヒーとジャズの店である。時たまラヴィ・シャンカールも流した。どこかに夢がくすぶっていたのかも知れない。
 そのカレーが案外と評判(?)になり思いがけず長く続けることになった。

 その宮崎では今、2年ごとに個展を開催させてもらっている。会期中にはその頃の友人たちが訪ねてくれる。そして複数の人たちから、「あの時のカレーが旨かった」とか「忘れられない」とか「レシピを教えて」とか、お愛想にもお世辞に嬉しいことを言ってくれる。そのお世辞に悪乗りしてレシピを作ってみようかと思う。
 その頃は大量に仕込んでいたし、その頃も今も自分たちの感覚で作っていてレシピなるものもない。

 今は自分たちの食べる分だけの少ない仕込みだし、作るたびに毎回微妙に違う。そんなのも楽しんでいる。
 幸いポルトガルでは珍しい香辛料がたやすく手に入る。
 かつては香辛料を求めて世界に漕ぎ出した国である。マレイシアのマラッカやインドのゴアとも繋がっている。思いっきりスパイスを効かせてみたい。
VIT

 

01.MUZVIT カレーレシピ Receita da Caril

材料(約 14 食分) Ingredientes

02. 肉 500g(牛、豚、鶏、羊と何でもOK。宮崎では都城産若牛のばら肉を使っていましたが、現在は狂牛病事件以来、牛は控えていますので、ここでは豚の三枚肉を使う)
玉ねぎ大3個、セロリ2本、マッシュルーム10個、人参2本、ニンニク10片、生姜75g、
スパイス(ターメリック、鷹の爪6本、ローリエ10枚、黒コショー、コリアンダー、パプリカ、クミン、クローブ、バジル、タイムなど何でもぶちこむ)
オリーヴ油、マーガリン、小麦粉、塩、コショー、コンソメ、醤油少々、ポートワイン少々、カラメル微量。

 

03. トマト、キュウリ、ニンジン、ショウガ、リンゴなどの皮それにパセリの芯、セロリの硬い部分などは普段から捨てないで、良く洗って汚れや農薬をきれいに洗い流し冷凍保存しておく。この野菜くずが多い場合は上記野菜は加減する。(リンゴやニンジンの皮が多い場合は上記ニンジンは入れなくても良い。多い場合甘味が出すぎるので注意)

作り方 Modo de preparação

 

04. 肉は一口大、玉ねぎは縦にスライス更に3切り、セロリは斜めスライス、ニンニクも縦にスライス、生姜はみじん切り、人参はケンツキですりおろす。マッシュルームはスライス、じゃがいもは入れても良いが夏場は足が早くなるのでここでは入れない。入れる場合は4等分。

 

05. 中華鍋に油を引きニンニクを炒める。香りたったら引き上げ圧力鍋(8㍑)に移す。その油のまま塩、コショーした肉を焼き色が付くまで充分炒める。炒めた肉は圧力鍋に入れる。強火にし中華鍋に水を入れ洗う。洗った湯も圧力鍋に入れる。
再び油を引き玉ねぎをキツネ色になるまで炒める。マッシュルームやじゃがいもも同様に。

冷凍保存しておいた野菜の皮などに水を加えミキサーにかける。(この場合かなり充分にミキサーしなければ出来上がりで舌にざらつく場合があるので注意)その他冷蔵庫の整理を兼ねて眠っているものは何でも使う。

 

06. 圧力鍋に鷹の爪を細かくちぎって、ローリエはそのまま入れる。ここで圧力鍋の8分目までなるように。(足りなければ水を加える)

 

07. 強火で約20分、更に弱火、沸騰状態のままで半日火にかける。最低2時間は必要。

 

08. その間にルーを用意しておく。
熱したフライパンにマーガリンをたっぷり溶かし(唐揚げなどに使った油を混ぜてもOK)、小麦粉をいれキツネ色になるまで中火で炒める。それにターメリックを加えさらに焦げ色がつくまで炒める。(冷蔵庫に保存しておくと次回に使えるので多めに作る)

半日火にかけた後、鍋の圧力を抜き、蓋を開ける。水分が減っている分、水を加える。ローリエを取り出す。スパイスを入れる。塩、コショーで味を調える。コンソメを加減をみて少し入れるのも良い。

 

09. 一旦火を止め、作ったルーのとろみを見ながら、少しずつかき混ぜながら圧力鍋に入れる。仕上げは少しゆるめに。一晩寝かせると少し硬くなる。

 

10. 強火にし、醤油、ポートワイン、更にブラウンソース用カラメルがあれば入れる。照りが出るまで木べラでかき混ぜでき上がり。
ズンドウに移して冷めたら冷蔵庫に。
空いた牛乳紙パックに入れ、ぴっちりと蓋を閉め、冷凍保存しておいても便利に使える。

MUZVIT のカレーバリエーション

ガーリックカレー、エッグカレー、ベジタブルカレー、シーフードカレー、米ナスカレー、ジンジャーカレー、トマトカレー、ナッツカレー、ヨーグルトカレー、セサミカレー、カレードリア、カレーオムライス等々カレーとの相性は無限にあります。勿論カツカレーは定番。

11.米ナスカレー
米ナスは一口大に回し切りし、フライパンにマーガリンを溶かし強火で3方焼き色を付け中火で芯まで火が通るまで炒め、それにカレーを加える。

12.カレードリア
ライスとカレーをボールで混ぜあわせ、グラタン皿に移す。さらにカレーをかけ、刻んだサルサを振りかけ、上にモッツアレラ・チーズをかぶせオーブン・トースターで焼く。

13.トマトカレー
完熟トマトの皮をむき、一口大にざく切り、フライパンにマーガリンを溶かし強火で焼き目を付け、ついで中火で芯まで良く焼き上げる。別鍋で暖めておいたカレーを加える。

14.エッグカレー
フライパンにマーガリンを溶かし強火ですばやく卵をスクランブルしそれにカレーを加える。ゆで卵を刻み込むエッグカレーも旨い。とにかく卵とカレーは相性が良い。

15.カレーオムライス
ボールでカレーとライスを混ぜ合せておく、温めたフライパンにマーガリンを溶かし、2個の溶き卵を流し込む、フライパンの先の方に移動させ、へりのところ卵の中央に混ぜ合わせたカレーライスを乗せる。卵の元の方を少し折り曲げ、フライパンの持ち方を変え、皿にかぶせる様に乗せる。

16.ベジタブルカレー
玉ねぎ、ピーマン、ニンジン、セロリ、インゲン豆など野菜は全て一口大にザク切りし、フライパンにマーガリンを溶かし強火でさっと炒め、それにカレーを加える。その他ナスやトマトなど季節の野菜を好みに応じて。

ガーリックカレー
ガーリック2片の皮をむき、縦にスライス、フライパンにマーガリンを溶かし、中火で香り立つまで炒め、カレーを加える。

ジンジャーカレー
ショウガの皮をむき、縦に千切り、フライパンにマーガリンを溶かし中火で火が通るまで炒め、それにカレーを加える。時期には新ショウガも旨い。

ナッツカレー
塩味のないナッツ類(アーモンド、クルミ、カシューナッツ、ピーナッツ、松の実など)をフライパンで空焼きし、カレーを加える。それにレーズンを加えても旨い。

シーフードカレー
海老は殻をむき背わたを取り除く。イカは一口大、貝柱、白身魚も一口大にし唐揚げをしておく、フライパンにマーガリンを溶かし強火ですばやく焼き色を付け、それにカレーを加える。

(C)調理協力・MUZ


以上、カレーのレシピを作ってみましたが、肝心の水の量、スパイスの量、小麦粉の量、マーガリンやオリーヴ油の量など明確には書けませんでした。
これは毎回感覚で作っていますし、例えばチリ・ペッパー(鷹の爪)などでも、物によって(産地、収穫年)かなり辛さも違います。
又、玉ねぎの個体差(新、旧)によっても違いますし、肉の脂身のつき具合によっても違ってきます。
それによって油の量、塩の量、硬さなど味を確かめながら分量を調節しなければなりません。
上記エッセイにも書きましたが、それでも大量に仕込む場合はある程度安定はするのですが、家庭で作る量ではどうしても、一定にはなりません。
でもそんな毎回違う味を楽しんでいます。

 

(この文は2006年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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045. ポルトガル国旗のある風景 Bandeira Português

2018-11-08 | 独言(ひとりごと)

 今、我が家の南向きのベランダに立って、野鳥観察の人がする様に、双眼鏡を片手にポルトガルの国旗を数えてみると、その数は50を下らない。

 ポルトガルのサッカー熱はもともとそうとうなものがあったが、今年のワールドカップの盛り上がりにはいっそう熱がこもっている様に思う。
 そして、今のところ順調に勝ち進んでいる。
 1次リーグでは苦戦つづきとは言え、負けなしの勝ち点<9>で決勝リーグに進出。
 6月25日のオランダ戦でも<1対0>の勝利でベスト8に。

 ワールドカップが始まる少し前から、大型スーパーのチラシには、その1次リーグの全試合スケジュールが表示されていたし、何かを買うと、国旗だの、応援マフラーだの、山高帽だの、キャップだの、キーフォルダーストラップだの、国旗カラーの顔に塗る絵具だの、クラクションだのがおまけに付いていた商品がずらりと並んでいた。

 それとは別にそんな応援グッズばかりを集めたコーナーが中央付近に特設されていて子どもから女性、老人までで大いに賑っていた。
 特筆すべきは、ポルトガルに混ざってブラジルとアンゴラの国旗やマフラーも売られていることだ。

 我が家でもポルトガルの国旗を一つ買い求めて、東側の風呂の窓に取り付けた。
 ここならセトゥーバルの街のどこからでも見ることができるのだ。
 それと、初夏の暑い朝日を遮るカーテン代わりとしても、重宝している。
 鏡に映る顔が少々緑っぽかったり、赤っぽかったりはするのが難点だが…。

 大型スーパーばかりではない。
 国道沿いにはまるでスイカ売りが商売替えでもした様に応援グッズ店が店を出しているし、もちろん露天市でも大々的に店は広げられている。
 ポルトガルの国旗は赤、緑、黄色でひときわ派手だから、やたら街中がハデハデになっている。
 まあ、渋い地味な国旗というものはあまり聞かないが…

 国旗の他には国旗柄のTシャツ、バンダナ、キャップなども売られていて、街行く人たちもよく着ている。
 もちろん、ポルトガル選抜チームと同じトレーナーシャツを着ている人も多い。

 露天市では、ポルトガルの試合がある日は売り手も早くからそわそわし、試合の始まる何時間も前から、片付けはじめる。
 売り手のジプシーの子供たちは、買物客にはお構いなしで、サッカーに興じている。
 サッカーといっても、サッカーボールを使うのではなく、商品に使う、ビニール袋とガムテープを実に巧く使ってボールを作る。
 それは決してサッカーボールを買うお金がない、と言う訳ではなく、サッカーボールでは転がりすぎで、この作ったボールなら転がり具合が露天市の人ごみに丁度良いのだ。

 ポルトガル人が試合の動向に一喜一憂するのは当然で、オランダ戦で他の選手の靴のスパイクがクリスチャン・ロナウドの太腿を直撃、怪我をして途中退場したことに対して、「かわいそう」と泣きだす女性ファンが続出したとか…。

 勝利を祝ってリスボンの中心地、ポンバル広場に大勢の人が集まり、そのモニュメントの銅像に若者たちがよじ登り、そこからまっ逆さまに転落という事故まで起こる始末。
 転落した本人よりも下に居た人たちが巻き添え、骨折、重傷という話だ。

 さて僕も人並みにワールドカップサッカーをテレビ観戦している一人だが、ゲームについての下手なコメントをしても仕方がないので、今回はセトゥーバル周辺の「国旗のある風景」の写真でも見ていただけたらと思いデジカメ散歩をしました。

01.サッカー関連応援グッズを売る露店。

02.メルカドの魚売場でも国旗がいっぱい。

03.ブラジル国旗のTシャツ女性がポルトガル国旗の下を。

04.丸煙突と国旗のシルエット。

05.国旗とオレンジ並木、赤い軽トラックがコーディネイト?

06.国旗の張られたセトゥーバルの家。

07.アヌンシアーダ教会。

08.ポルトガル国旗バンダナが似合う犬。

09.天井からはポルトガルやブラジルのランニングシャツが。

10.応援グッズを売る露店。

11.太陽の門への道

12.炭火焼の煙ただようレストラン通り。

13.国旗のはためく通り。クルマにも国旗が。

14.トレーナーを着た男たちが通りで試合の話に夢中。


さて、7月1日のベスト4を賭けてのポルトガル対イングランド戦は如何に?
VIT

 

(この文は2006年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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044. 機上映画館 Sky Movie

2018-11-07 | 独言(ひとりごと)

 最近は日本との往き帰りの飛行機の中での映画を楽しんでいる。個人用のモニターがある。
 いつでも好きな時に始める事が出来るし、トイレに行きたくなれば一時停止しておくことも可能だ。プログラムがあって、月替りで14~5本の映画が用意されている。

 

01.02.[映画の他にテレビのニュースやビデオ番組、ゲーム、音楽や寄席といったプログラムがぎっしり詰った全日空のスカイ・チャンネル3月号と5月号]

 その内の5本くらいはアニメなど子供向けだが、その他は面白そうな映画がぎっしりと詰っている。
 日本の航空会社、全日空なので日本語の字幕スーパーがある。或いは日本語に吹き替えてある場合もある。微妙な言い回しや複雑なストーリーでも良く理解出来て面白い。
 パリから成田まで12時間足らずを寝る間を惜しんで映画を楽しんでいる。食事中でもヘッドフォンを手放さない。
 今回の帰国でも往きに5本、帰りに5本半を観てしまった。

 じつはこの10年あまり映画館に足を運んだことがなかった。少なくともポルトガルに来てからは皆無だ。

 昔、ニューヨークにいた頃は毎週1度は1ドル映画館を楽しんでいた。
 1ドル映画館はマンハッタンに当時4軒程あり、「ヴィレッジ・ヴォイス」の広告を見てはそのいずれかに通っていた。封切りから少し遅れた映画を2本立てで演るのだ。入れ替えなしだし案外と空いていて、いい映画もやった。それ程、場末という感じでもなく、夏は冷房、冬は暖房だしピッツアのスライスを持ち込んで、ティファニーで朝食ではないけれど、安上がりの昼食は1ドル映画館だった。1ドル映画館の一つ「プレイボーイシアター」はティファニーのある五番街からも目と鼻の先にあった。

 ストックホルムに住んでいた時は「シネマクラブ」に入会していた。幾ばくかの月会費を払う。週に一度は古い名画を観るためにシネマクラブ館に通うことを楽しみにしていた。その時にイタリアやフランスの名画と黒澤や小津安二郎の殆どを観た。

 日本でも大学生の時は「労映」というのに入っていた。労音の映画版である。毎月5~6本のプログラムが送られてくる。その中から内容と日時を考慮して確か3本までを選んで観ることができた。だからその頃は毎月3本の古い名画を観ていた勘定になる。

 映画といえば、まだテレビもない時代。僕が生まれ育った街にも幾つかの映画館があった。大映、東映、東宝、松竹、日活などといった映画会社があって、それぞれが配給する映画館を持っていたのだと思う。その他に洋画専門館もあった。
 友人の家にはその近所の映画館から定期的に招待券が届いていた。中学生の頃だったと思うが、その友人のご相伴に預かって、石原裕次郎などを観に行った記憶がある。友人の家にはたくさんの映画館の看板が貼り付けてあった。看板の場所代として招待券が届くのだ。
 僕の育った家も通りに面した角家で目立つ所にあったので、映画館から「看板を付けさせて貰えないか?」と言ってきたことがあるが、父は頑として受け付けなかったのを覚えている。

 ポルトガルに来てからはもっぱらお茶の間映画だ。
 ポルトガルテレビは4っつのチャンネルが競って映画をやる。土日の午後は各局めじろおしに良い映画をやるのでけっこう観ている。平日もやっているが、深夜遅いのでそれはあまり観ない。
 でもテレビはやはりテレビでしかなく、観た直後には感激はするものの長くは続かない。右から左であまり頭に残らないのだ。
 その点、映画館で観た名画は何十年経ってもその時の感激は残っているのだから大したものだ。名画だけとは限らない。友人のご相伴で観た裕次郎のワンシーンは今もはっきりと脳裏に焼き付いている。

 ポルトガルテレビは吹き替えはなしだから、ハリウッドやイギリス映画なら英語で、ポルトガル語の字幕スーパーが入る。どうしても込み入った内容の映画は残念ながらもう一つ細部が理解できない。細部どころかストーリーさえも解らない。

 フランス映画ならフランス語そのままにポルトガル語スーパーだし、イタリア映画はイタリア語でポルトガル語字幕だ。必死でポルトガル語字幕の文字を追っているのだが、やはり良く解らない。
 時たまスウェーデン映画などもやる。スウェーデン語の響きを懐かしんでいたりする。

 ハリウッド映画にしては少しタッチが違うな、と思っていたら、オーストラリアやカナダ映画であったりする。東欧やアジア、アフリカの映画も時たまする。

 もちろんポルトガルの古い映画もやる。これは古いイタリア映画に似ていなくもないが、一味違ってまた面白い。ビデオがあればコレクションしたいところだが、ビデオを持っていない。残念ながらDVDモニターもない。
 日本では決してやらない様な映画に出会えることもあるから、貴重といえば貴重なのかも知れない。でもいずれにしろテレビはテレビだ。

 たまにいい映画を観て、これは是非日本語の字幕付きでもう一度じっくりと観てみたいと思う時がある。でも日本に帰国した時は忙しいし、第一その映画などどこでもやっていない。ビデオ店に行けばあるのかもしれないけれどもビデオを借りることまではしない。

 最近はインターネットで映画をダウンロードできるらしいが、我が家のパソコンでそんなことをやってしまったら、それこそフリーズどころか爆発もしかねない。

 ポルトガルテレビでは、たまーに日本映画もやる。もちろん日本語だから完全に理解できる筈だ。それが不思議な事にポルトガル語の字幕文字を追っていたりして苦笑いする。

 さて飛行機での話だ。
 今回の帰国の往復で観た映画を列挙してみようと思う。プログラムの中からどれから順に観ていくかは悩むところだ。

 最後の「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」は最後まで観ることができなくて、惜しいところ途中で客室乗務員からヘッドフォンを取り上げられてしまった。
 ジョニー・キャッシュとジューン・カーターの伝記的物語だが、ただの音楽伝記に留まらず、人間関係や時代背景などなかなか見応えのある映画に仕上がっている。
 まあまあ面白い映画で、もう少し早く観るべきであったと後悔している。

パリ-成田

『ハリーポッターと炎のゴブレット』(Harry Potter and the goblet of fire)139分。2005年/アメリカ/監督:マイク・ニューウェル/出演:ダニエル・ラドクリフ ルパート・グリント エマ・ワトソン ロビー・コルトレーン レイフ・ファインズ マイケル・ガンボン

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(Back to the future)115分。1985年/アメリカ/監督:ロバート・ゼメキス/出演:マイケル・J・フォックス クリストファー・ロイド リー・トンプソン

『ドゥーマ』(Duma)101分。2005年/アメリカ/監督:キャロル・バラード/出演:アレキサンダー・ミハルトス イーモン・ウォーカー、キャンベル・スコット ホープ・デイビス

『男はつらいよ 幸福の青い鳥』(Tora-san's bluebird fantasy)102分。1986年/松竹/監督:山田洋次/出演:渥美清 倍賞千恵子 志穂美悦子 長渕剛 有森也美 三崎千恵子 前田吟 吉岡秀隆

『ドリーマー』(Dreamer:Inspired) by a true story 98分。2005年/アメリカ/監督:ジョン・ゲイティンス出演:カート・ラッセル ダコタ・ファニング クリス・クリストファーソン エリザベス・シュー

成田-パリ

『プロデューサーズ』(The producers)134分。2005年/アメリカ/監督:スーザン・ストローマン出演:ネイサン・レイン マシュー・ブロデリック ユマ・サーマン ウィル・フェレル

『ナイロビの蜂』(The constant gardener)121分。2005年/イギリス/監督:フェルナンド・メイレレス/出演:レイフ・ファインズ レイチェル・ワイズ ユベール・クンデ ダニー・ヒューストン

『アンフィニッシュド・ライフ』(An unfinished life)108分。2005年/アメリカ/監督:ラッセ・ハルストレム/出演:ジェニファー・ロペス ロバート・レッドフォード、モーガン・フリーマン

『男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎』(Tora-san goes religious?)105分。1983年/松竹/監督:山田洋次/出演:渥美清 倍賞千恵子 竹下景子 中井貴一 杉田かおる 三崎千恵子 前田吟 笠智衆

『迷い婚 すべての迷える女性たちへ』(Rumor has it)97分。2005年/アメリカ/監督:ロブ・ライナー/出演:ジェニファー・アニストン マーク・ラファロ シャーリー・マクレーン ケビン・コスナー

『ウォーク・ザ・ライン 君につづく道』(Walk the line)135分。2005年/アメリカ/監督:ジェームズ・マンゴールド/出演:ホアキン・フェニックス リース・ウィザースプーン、ジェニファー・グッドウィン


 テレビとはまた違うが飛行機の中での映画も飛行機の中での映画だ。映画館の感動は得られない。今後何十年先にそのワンシーンが脳裏に焼き付いているとは思えない。
 今ならまだ時間もそれ程経っていないから、ひとつひとつの映画について、少しの感想なら書けるかもしれないが、長くなるのでここでは止めてデータだけに留めておこうと思う。
 元々退屈しのぎに観る映画だが、観てしまってから観なくても良かったと思う映画もある。第一にいっときに観過ぎだ。いっきに5本は幾らなんでも多すぎる。
VIT
 ここまで書いたところで、本日「トロイア国際映画祭」のプログラムが僕宛に送られてきました。

03.[トロイア国際映画祭のプログラム表紙]
 これのプログラムが送られてきたのは初めてのことです。
 実は今までもトロイア国際映画祭が毎年セトゥーバルで催されていることは知っていました。でも終わってしまってから「何々が大賞を取った」などといったニュースを聞いても、始まる前はいつどこでなにをやっているのか?全く情報がありませんでした。以前には日本の映画も大賞をとったこともあったそうです。

 プログラムを見てみると6月2日から11日までの10日間です。その中には短編も含まれていますが、何と222本もの映画を上映するようです。

 今年は残念ながら日本映画のエントリーはない様ですが、ポルトガルは勿論、スペイン、フランス、ベルギー、オランダ、スイス、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、アイスランド、ロシア、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ボスニア、クロアチア、スロヴェニア、リトアニア、アメリカ、ドイツ、イタリア、ギリシャ、イスラエル、イランそれにブラジルやインド、タジキスタン、ヴェトナム、モンゴル、オーストラリア、イギリス、アイルランド、アルバニア、レバノン、チュニジア、グアテマラ、アルゼンチン、プエルト・リコなどと幅広い出品で、なかでも北欧とインドからの出品が多い様です。

 カンヌ映画祭ほど有名ではありませんが、トロイアも随分と古く、22年も前から続いている国際映画祭なのです。
 せっかくわが町である映画祭ですから、プログラムを吟味して一度くらいは観に行っても良いかなと思っています。VIT

 

(この文は2006年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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