武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

047. 昼下がりの読書 Leitura

2018-11-10 | 独言(ひとりごと)

 僕にとって、海外に住んで好都合なことの一つに読書がある。
 その土地の欧州文学を原書で読むというのなら尚更だろうけれど、僕にはその能力もないし、そんなつもりもない。
 ただ単に日本語の本を楽しむというだけの行為である。
 毎年その年に読む50冊ばかりの文庫本をMUZと僕とで手当たり次第に仕入れて日本から持ってくる。
 多少の読みたい本の違いはあるが、それはそれでまた良い。交代交代で読むことができる。古本であったり、時には新本であったり。

 僕は中学・高校・大学生の頃に読まなければならない、いわゆる名作文学といったものを殆ど読まなかった。
 東京での一人暮らしの頃少し読み始めて、ストックホルムに住んでいる頃にも少しは読んだ。
 ポルトガルに来てからはこの16年でもう少しは読んでいるが、まだまだ、そんな物をむさぼり読みたいと思っている。

 読書は勿論日本でも出来る訳であるが、僕の場合海外での方が頭に入り込みやすい。突然、友達から電話で呼び出される心配もないし、冠婚葬祭もない。テレビを観る時間も少ない。
 それと、文庫本とはいえ重たいのを苦労して持って来る本である。どこかに文字を無駄にすまいという意識が働いているのかもしれない。一字一句を大切に読んでいる様な気がする。繰り返し読む本も少なくはない。

 ヨーロッパ文学の場合は訪れた場所なども多く出てくるので、物語に入り込みやすいこともある。
 仕入れてくるのはヨーロッパ文学ばかりではない。ヨーロッパやアジアをテーマにしたエッセイ、紀行文、現代ものや日本の名作文学、司馬遼太郎などの日本やアジアの歴史小説なども多く含まれている。日本の歴史も面白いと思っている。そしてヨーロッパとも繋がっている。もちろん南蛮(ポルトガル)とも。

 絵を描いていてひと休みの時、昼食が終わって午後のひと時、少しずつ読んだりをする。夏の間はいつまでも陽が長いので遅くまで読むこともできる。明るいベランダに椅子を並べて2人別々の本を楽しむ。至福のひと時である。

 一昨年、ポルトガルから引っ越していった日本人の方に大量の本を頂いた。文庫本と文学全集や名作、詩集も多く含まれていて、今までに読んだ本とはあまりダブルこともなく、読みたい本ばかりである。だから今年は新たに日本から殆ど本は持って来なかったし、今後もしばらくは持って来なくても数年は楽しめる量がある。それを今僕は読み始めたところだ。

 先ずはカミュの全集を読んでいる。《新潮世界文学第48巻カミュⅠ・1968年4月20日発行》文庫本などでは出版されない若い時のエッセイなども含まれていて興味深い。

 高校か大学の頃「異邦人」は読んだとは思うが、全く頭には入っていなくて、途中で止めたのかも知れない。先日それを読み終えたところだが、海外に住んでいる今だからなおさら面白いと思って読んだ。

 舞台はアルジェから数キロ離れた海水浴場。当時アルジェリアはフランスの統治下にあり、フランス人とアラブ人の間でのいさかいは絶えなかったのだろうと想像できる。
主人公ムルソオはアルジェ生れのフランス人である。ムルソオと同じアパートに住む同じフランス人レエモンとその友人夫妻がムルソオとの結婚を約束したマリーも一緒に、ある日海水浴場の別荘に誘ってくれた。そこで事件は起こった。

 レエモンはアラブ女のヒモであった。思い通りにならないアラブ女にレエモンは時たま暴力をふるっていた。女は兄に助けを求めた。アラブ人の兄はフランス人たちが海水浴場に行くのを見ていた。そして、ナイフを忍ばせて海水浴場に現れた。アラブ人はレエモンに頭突きを食わせそうな様子を示した。

 僕は先日のワールドカップサッカーのジダンを思い起こしていた。
 ジダン自身はマルセーユ生まれだが、ジダンの両親はアルジェリア出身である。ジダンがアラブ系かフランス系移民かあるいはその混血かは僕は知らない。何れにしろジダンは恐らくこの「異邦人」を読んでいたに違いない。イタリアの選手から「移民の子・異邦人」と繰り返し罵られての頭突きであった。

 レエモンは殴りつけた。アラブ人の顔は血まみれになった。逆にレエモンはナイフで腕を切られ、唇を裂かれていた。

 医者の治療を受けた後、レエモンは小型のピストルを持ち出していた。
 「ピストルで撃つのは卑怯だ」と言ってムルソオが預かることにした。

 やがて、ムルソオとアラブ人が1対1で出会った時、暑さとかいろんな条件がそうさせたのか?そのピストルを使ってムルソオは1発さらに4発の銃弾を撃ち、アラブ人を殺してしまうのである。

 捕縛され尋問と長い審問、そしてやがて裁判が始まった。
 弁護士は楽観的であったが、陪審員による裁判の結果は死刑である。主人公ムルソオには広場での公開ギロチンが待っているのだ。
 そう言えば僕たちが子供の頃「♪ここは地の果てアルジェリア~♪どうせカスバの夜に咲く♪酒場の女の・・・♪」という唄が流行っていた。

 カミュがこの「異邦人」を書きあげたのは1940年。
 日本は太平洋戦争に突入した年である。
 フランスで出版されたのはそれから2年後1942年、第2次世界大戦の真っ只中で、恐らく日本語訳が出たのは戦後のことであろう。
 その頃ポルトガルやモロッコはレジスタン運動スパイ活動の拠点となっていた。それは映画「カサブランカ」にも描かれている。
 リスボンはナチスから逃れて逃亡の末、流れ着いたユダヤ人が、アメリカへと亡命することが出来た数少ない港だったのだ。《リスボンの夜/E・Mレマルク/松谷健二訳/昭和47年11月30日早川書房発行)》

 きょうも快晴で、僕のベランダの前にはエメラルドブルーの大西洋が広がっている。
 幾分かは秋めいて頬にあたる風が心地よい、とはいえ昼下がりの太陽は強烈で本の上で容赦なくはね返り僕の瞼にじりじりと攻撃を仕掛けてくる。そろそろアトリエに戻る頃合だが、もう少し本の余韻を楽しむのも悪くはない。

 今、深緑色の一隻の貨物船が真上からの強い陽射しを受け白波を蹴りセトゥーバルの湾を出て行こうとする。
 サン・フィリッペ城の岬で一旦その船体を隠したが、遥か沖合いで再び姿を現した、と思ったら貨物船は南に舵を切っていたのだ。
 見る間に小さくなり、また小さく豆粒ほどになり、ふっと姿を消した。

 大航海時代が始まる以前には地球は平らで、そこが世界の果てだと考えられていた。そして多くの航海船は二度と戻ることなく海の藻屑と消えた。

 水平線の太陽が沈む方角、遥か彼方はアメリカだ。
 リスボンの港から西へ西へ緯度を変えずに進んで行くと、アメリカの首都ワシントンとニューヨークの中間アトランティック・シティーの港にたどり着く。

 そして貨物船が姿を消した南には赤褐色のアフリカ大陸が横たわっている。毎年夏の初めにはアフリカからの熱を含んだ黄砂がセトゥーバル中に覆い被さる。
 「この貨物船は、もしかしたらジブラルタル海峡から地中海に入り、アルジェあたりまで行くのかも知れない。」などとアルジェリアに思いを馳せていた。

 そんな事を考えていると、MUZが突然「山之内蓉堂と坂本竜馬がどうのこうの…」と話しかけてきた。
 「なに!ヨウドウ・サカモト?」
 MUZは今、司馬遼太郎の幕末物の小説を読んでいるのだ。僕も数年前に読んだ本だ。

 僕の頭は一瞬固まってしまい、アルジェの裁判所と幕末の土佐が黄色い回転テーブルの上でカラカラと乾いた音をたてて回っている。
VIT

 

(この文は2006年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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