武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

052. 古い切手 -Filatélico-

2018-11-14 | 独言(ひとりごと)

 先月のこのコーナーは蚤の市で見つけた古い印刷物から話がはじまった。
 きょうも蚤の市に行きぶらぶら歩き回ったのだが、そこから話は始まる。

 骨董品やガラクタを見て歩くのは楽しい。
 でも我が家は物で溢れ、これ以上ガラクタを買うわけにはいかない。
 見て歩く前から、2人で顔を見合わせ「何も買わないぞ~」と決意する。

 石畳の上にビニールシートが広げられ、ガラクタが並べられている。
 50セントのかたまり、1ユーロのところ、2ユーロの場所、高価な物は台の上に陳列され一つずつ値段が貼ってある。
 貼ってない物は店の人と交渉する。
 「何も買わないぞー」と思いつつ、「何か掘り出し物はないかな~」という目になっている。

 本当にガラクタばかりが並べられている店があって、一見ゴミ捨て場の様相だ。
 でもこういう所に限って掘り出し物がうずくまっている可能性も大なのだ。
 値段は書かれていないがたぶん50セントだろうと思う。
 丹念に見るが「絶対に欲しい」と思う掘り出し物などはなかなかない。
 かなりの数が並べられているが横には未だ品物の入った箱とか袋とかがあって、とても全部は並べ切れないのだろう。
 後ろでガラガラという音がしたかと思うと女将さんが袋からガラクタを乱暴に出しているのだ。
 あれでは焼き物などは欠けてしまう。
 そんな一角に小汚いスーパーのレジ袋に入った古切手を見つけた。

 手に取って見てみると、ずしりと重くかなりの量である。
 封筒から破りちぎった切手の束。
 ポルトガルの切手がほとんどだが、僕たちが住み始めた頃よりも少し古い時代の物の様である。
 僕が実際に郵便を出すために郵便局で買った、その時代の切手はあまりない。
 つまり15~6年以上は前の切手なのかも知れない。
 以前に階下に住んでいたアナモニカと交換で貰った中に入っていた切手も少しある。

 僕は自分に送られてきた郵便の切手をストックブックに並べて楽しんだりする。
 送るのも出来るだけ記念切手を貼って送るようにはしている。
 あらかじめ中央郵便局で記念切手をまとめ買いし、未使用切手を1枚ずつだけストックブックに保存している。
 宛先不明で戻ってきた切手は未使用と交換する。そして未使用は使用する。
 宛先不明で戻ってきた切手は日本を往復して来たのだ。
 未使用よりも世間を見てきた分、グッと存在感が増す。未使用は単に印刷物なのだ。
 だからコレクション用にわざわざ未使用切手を買う事はあまりしない。
 コレクション用に売られている使用済み切手もあまり買わない。
 でも未使用の切手よりも使用済みの切手の方が楽しい。
 切手その物が旅をしてきたのだ。
 世界のどこからか送られてきた郵便物がどんなルートを通過してきたのか、想像するだけで夢は広がる。

 女将さんが近寄ってきたので一応値段を聞いてみた。
 「全部で10ユーロ」という。10ユーロは高い。
 いや高いか安いかは分からないが、そんなに出費する気はしない。
 首を振るとその隣に置かれていた幾つかの封筒に入った古切手も付けるとのことだ。
 その封筒の中身の古切手は更に古い。

 主義に反するが思い切って買った。

 最近は郵便物そのものを出す機会が減った。
 インターネットでメールを出す。手軽で早くて便利だ。
 逆にセトゥーバルの郵便局などは以前に比べても不便になって待たされるし、記念切手など買おうものなら他の客から睨みつけられてしまう雰囲気だ。

 記念切手は実際に使用するのではなく、コレクションの為だけにある。
 美しい冊子に纏められ、解説などが付いていて、そこからちぎって使う気はしない。
 これでは本末転倒で切手コレクションその物の先細りは必至だと思う。

 僕は子供の頃、世界の切手をコレクションしていて、外国への夢が広がった要因の一つになったと感じている。
 美しいモナコの切手、アンゴラの動物切手など世界地図を片手に夢をみていた。
 現代の子供は切手コレクションなどはしないのだろうか。いまや世界は夢ではなく身近にある現実なのだろう。
 それに郵便物そのものが少ないからコレクションの仕様がない。
 ダイレクトメールや電気やガスの使用明細書などは郵便で送られてくるが、切手は貼られていない。確かに時代は変化しているのだ。

 でも使用済み切手を集めてそれを活動資金の一部にしている市民団体もいくつかある。
 封筒に貼られた殆どの切手は捨てられる運命にあるのかも知れない。
 だが廻りめぐって一部はそう言った市民団体の手に渡り活動資金の一部になれば又、有効なのではないだろうか?
 それが発展途上国の子供たちの医薬品になるかも知れないのだ。
 料金別納郵便ではなく、シールでもなく、少し面倒でも切手を貼って投函するというのも、些細なことだが、大袈裟に言えば社会に還元出来るのかも知れないのだ。
 そういう意識を持って企業もダイレクトメールを送ることはできないのだろうか?

 早速、買って帰った古切手の一部を見てみた。
 大量の切手の中に丁寧に紙に包まれて表に文字が書かれている物が幾つかあった。
 「ウルグアイ」とか「南アフリカ」などとポルトガル語で書かれている。
 切手コレクターであった人が選別した証だ。
 余程古い切手の様だ。
 包まれた紙だけがはだけて、バラバラになっている物もある。

 封筒の紙から剥がされた切手を丹念に探してみると、そう言った物がかなり出てきた。
 明らかに僕が生まれる以前の切手だ。
 ヒットラーの肖像のドイツ切手。
 それには1942年12月2日プラハと押された消印が読み取れる。
 プラハがナチスドイツの占領下にあった時代に投函されたものだ。
 菊の御紋のある大日本帝国郵便と書かれた壱拾銭とか弐拾五銭などの切手。
 更には満州帝国の参分切手などが見つかった。

 同時代と思われるブラジル、チュニジア、アメリカ、デンマーク、イタリアなどの切手。これらの切手は世界を旅したのと同時に時代をも旅したのだ。

 大枚10ユーロだが世界と時代を夢遊する。暫くは楽しめそうだ。そして今後も毎回欠かさずに蚤の市を歩くことになりそうだ。

ポルトガルの古い切手。


VIT

(この文は2007年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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079. 松 -Pinhal-

2018-11-14 | 独言(ひとりごと)

明けましておめでとうございます。

 門松などポルトガルに来てからはイラストか写真でしか見ることは出来ませんが、お正月の確か7日くらいまでを「松の内」と言うのでしょう。松と言えば日本では何だかおめでたい。

 冬も緑のままだし、長寿の象徴。なにしろ「松竹梅」の松。すし屋でも「松」で注文すれば豪華。時々、松より梅を上等にしている食堂などがあって戸惑うこともあるが…

 母校の高校の文化祭で毎年有志による能、狂言が催されていた。そのバックに掲げる絵は美術部の仕事だった。必ず松を描かなければならない。講堂の舞台いっぱいになる大きな松の木を泥絵の具で描く。高校生には難しく最後には顧問の先生の手が入った。
 僕には今でも難しいが…

ポイントを当てると初日の出が昇る様にアニメを作ったのだが、ブログではそれが残念ながら機能しない。

 松の木には何でも世界で120種類程もあるらしい。もちろんポルトガルにもある。
 ポルトガルには経済樹としてはコルク樫、オリーヴ、ユーカリなどが植えられているが、もしかしたら松が一番多い様な気がしないでもない。

 クリスマス・ツリーは普通モミの木だろうと思うが、僕たちがポルトガルに来た当初にはクリスマス前になると小型トラックの荷台いっぱいに松の枝を積んで売りに来ていて「へえ~モミでなくても良いのだ。」と思ったものだ。

 我が家の南東には松の林があるし、ここから見えるサン・フィリッペ城の周りにも松がびっしりとある。それは植えられたものではなく、実生で自然に生えたものだ。
 何しろ丈夫ですくすくと見る間に成長する。実生で生えだしたばかりの幼木も見える。

 我が家の北側にあるお屋敷はかつては2~30本の松の大木で囲まれていたが、数年前全て取り払ってしまった。
 お陰でアトリエからパルメラの城がはっきりと見えるようになったので、今、我が家からは二つの城が見える。

 サン・フィリッペ城の周りの松林は僕たちが住み始めた当初はそれ程でもなく、むしろオリーヴの木が目立っていたほどなのに、今ではオリーヴの木に松が覆いかぶさって殆どオリーヴはなくなってしまい、松の木だけが勢いを強めている。
 そろそろ間伐や枝打ちなどの整理をしなければ、もし火でも付けば大変なことになると心配になってしまう。

 我が家の南東の林には100本程の松の木があったが、じょじょに切られて今は大木5本だけが残されている。
 それでも野鳥たちにすればオアシスらしくて、白小鳩の幾家族かが住み着いているし、メルローも飛び交って美声を聞かせてくれる。
 季節には様々な野鳥の中継点にもなっている様だ。何しろ5階建てのビルよりも背が高い。

 毎月、第2日曜日に大規模な露店市が開かれるピニャル・ノヴォには必ず訪れる。
 ピニャルとは松という意味で、ノヴォは新らしい。日本語に訳せば新松市(ニイマツシ)となる。

 確かに町の周辺には松の木がたくさん植えられている。
 露店市周辺に新たに整備された駐車場にも松が植えられ、既に日陰を提供している。
 ピニャル・ノヴォという名前だから松を植えるのも納得だが、セトゥーバルのサド湾沿いの公園にも松が植えられた。「何故だろう?」と疑問に思ってしまう。日本の松の様に枝を整えることはしないで暑苦しく延ばし放題。

 クルマで1時間ばかり走った、サド川の上流にあたる古くからの町アルカサル・ド・サル(塩の宮殿)。そこの名物は塩ではなく、甘~い松の実を使ったお菓子である。松の実を砂糖で固めたものと、蜂蜜で固めたもの。訪れるたびに買うが少々甘すぎる、昔懐かしい様な素朴なお菓子。素朴な馬糞紙で包んでくれる。

 その周辺にも当然のことながら松林が多い。時々松脂(まつやに)を採取している林を見かける。幹にV字型に切り込みを入れその下に器がくくりつけられている。

 兄は子供の頃バイオリンを習わされていた。バイオリンの音はうるさかった印象があるが、もっと印象的なのは固形の松脂を馬の尻尾で作られたという弓にこすり付けていたことだ。兄もバイオリンを弾くことよりも、松脂を擦り付ける作業のほうが気に入っていたのかも知れない。

 我が家の南西にある5本の松の木の枝が先日も切られた。
 枝と枝が擦り合わさって焦げ目が付いていて、危険を感じた階下のマリアさんが役場に陳情したのだろう。
 役場の人間と役場から依頼を受けた業者が2人でやってきた。チェンソーを持った業者が高い木に登り10本ばかりの枝を切った。その切り口から松脂が流れ出していて、雨になると白っぽく浮かび上がる。

 油絵を描くときの溶き油は「ターペンタイン」または「テレピン油」ともいう。松の葉や松脂を蒸しその蒸留されたエキスがテレピン油となる。当然のことながら松の木特有の匂い?がある。嫌いな人も多いのかも知れないが、幸い僕はこの匂いが好きである。シンナーなら大変なことになるが、テレピンは無害なのだろう。
 僕はこのテレピン油に何十年もお世話になってきたことになる。今年2010年の1年。そして松の内の今日も、おめでたい松から摂れたテレピンの匂いに満ち満ちたアトリエで、仕事(絵を描くこと)が出来る幸せを感じている。

2010/01/01 VIT
今年は1月下旬に日本に向います。
高校美術部OB展が(下記)40年目40回展を迎えます。

 

        第40回NACK
2010年1月25日(月)~30日(土)
最終日は午後4時終了
大阪府立現代美術センター・B展示室
〒540-0008 大阪市中央区大手前 3-1-43 ℡06-4790-8520
地下鉄谷町線・中央線「谷町四丁目」駅下車1A出口

     1月28日(木)には武本が全日会場に居ます。


それに出品する為に早目の帰国です。
個展は(下記)3月1日から30日まで宮崎空港ギャラリーです。


武本比登志ポルトガル作品展
2010年3月1日(月)~30日(火)
最終日は午後3時終了
宮崎空港ギャラリー
〒880-0912 宮崎市赤江 宮崎空港ビル3F ℡0985-51-5111(代)

雨が降らない限り、毎週土・日の15時から17時までは会場に居ます。

ポルトガルに戻ってくるのは4月中旬になります。
次回のこのコーナーは5月1日の予定です。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

武本比登志


(この文は2010年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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051. 松林の丘 -Pinhal-

2018-11-14 | 独言(ひとりごと)

 先日、セトゥーバルの蚤の市で額縁に入った一枚の印刷物を見つけた。
 それは古いイラストで、ちょうど今、我が家があるあたりの風景だった。
 昔の貴族の様な服装をした人物が風車小屋の丘からセトゥーバルの町の中心を眺めている絵柄だ。
 かつてここには風車小屋がずらりとあったらしい。今はその絵の様にたくさんの風車小屋はないが、一棟だけは残されていて、幼稚園の一部となっている。

 今、我が家から街の中心は見えない。松林が視界を阻んでいる。この絵の時代には松林はなかったのだろう。現在の様に家々もなく、風車小屋の下にはオリーヴ畑が広がっていた。

 我が家は丘の上にありちょうどその絵の風車小屋の場所に当る。
 この場所に移り住んだ当初から見晴らしは良かった。それがこの頃になってますます見晴らしが良くなってきている。それは松の木が徐々に切られているからだ。

 我が家のすぐ南側には低いところに市の水道タンクがあるので、その他の建物は建たない。だから南側は当初から見晴らしが良かった。港とサド河の河口、トロイア半島、サン・フィリッペ城、それに大西洋が一望できる。

 南西にはかつて1本の松の大木があり、その方向にあるアラビダ山の頂上はあまり良く見えなかった。青い家の先からは黒人の子供たちが来て、その松の大木の枝にしがみ付いてブランコ遊びをしていた。
 ある日、強い風が吹き荒れ、大きな枝が折れてガレージハウスの屋根を壊した。
 役人がチェーンソーを持ってきてその大木を根元から切ってしまった。お蔭で南西の方角には別の城址の丘があることがわかったし、アラビダ山の頂上が良く見える様になった。
 そして、14番のバスが上り下りするのが見える。市営住宅の一角にあるメルカドが毎週土曜の夜、ディスコに早代わりして、人々の出入りする様子も見える様になった。

 南西の大木と南東の林に挟まれた真南の水道タンクの前の空地にはいつのまにか2メートルばかりに成長した、か細い実生の松の木がたくさん生えていた。それがいずれ大きくなれば我が家は見晴らしが悪くなるかも知れないと少し心配ではあった。
 クリスマス時期になると青い家のあたりからノコギリをかかえておばさんが松のてっぺんを切りにやってきた。クリスマス・ツリーにするのだ。
 切ってくれれば上に伸びないので見晴らしが悪くなることもないと僕は思っていたが、隣のマンションのおかみさんが「木を切っちゃ駄目ですよ」と言って追い返していた。
 でもその後、水道局の砂置き場にするため、ブルドーザがやってきてすっかり平らにしてしまった。

 北側には一軒の広いお屋敷がある。老夫婦が2人で住んでおられる。もう既に仕事からは隠退されているらしく、毎日庭の手入れに忙しい。毎週末には大勢の息子、娘たちが戻ってきて賑やかになる。孫たちも一緒だ。
 かつてそのお屋敷は自然に生えたらしい10数本の松の大木に囲まれていた。
 そのお屋敷から真正面にあたる別の丘の中腹に建っていた古くからのお屋敷が、山火事にまかれて燃え落ちるのはセトゥーバルでは大きなニュースになった。
 我が家からも松の枝を透して真っ赤な炎がチラチラと見えた。
 向かいのお屋敷の老夫婦にとっては他人事ではなかったのだろうと思う。
 それからしばらく経ったある時、10人ばかりの職人たちが来て、その松の木を1本残らず切ってしまった。
 残ったのは柳とジャカランダ、ブーゲンビレアなどの庭木だけとなった。お蔭でそれまで我が家から松の枝の間から僅かしか見えなかったパルメラの城が、アトリエの窓の真正面に完全な形で姿を現した。
 北西側遥か向こうの緑の牧場も眺める事もできる様になったし、時たま草を食む羊の群れも見える。春には花が咲いてまっ黄色に替る。そしてお屋敷の白い壁が反射してアトリエはまぶしいくらいに明るくなった。

 南東側には相変わらず松林があって、山鳩が巣をかけているし、野鳥がたくさんやってきては良い声を聴かせてくれる。ベランダからは松林に阻まれて街の中心は見えない。住み始めた当初より松林の松はますます大きくなってきている。

 かつてはそのベランダで炭を熾してイワシなどを焼いていたが、松の木が大きくなってベランダに迫ってきたので、火が移れば大変なことになる。危険を感じて炭火焼はしなくなってしまった。
 1階に住んでいるマリアさん家などは「日当りが悪くなって洗濯物が乾かない」と言って役場に陳情したのかも知れない。
 やがて、大層なクレーン車が来て一番近いところの松の大木を2~3本切った。お蔭で我が家も山火事の心配が薄らいだのと、東側の見晴らしがかなり良くなった。朝、顔を洗う時には、真正面の地平線から昇ってくる真っ赤な朝日が顔を照らす。

 水道タンクのさらに下の崖のところにはかつてのオリーヴ畑の名残りの様に数本のオリーヴの老木があったが、そこにも松の実生苗が育ち、やがてオリーヴの木に覆い被さる程に繁っていた。
 ちょうど2年前の暮、それを一切合財切り払って、それ以来建物の工事が進んでいる。既に建って久しいにも拘わらず一向に入居しない。念の入った工事らしく未だに工事人が出入りしている。どうやら普通の住宅ではなさそうだ。多分、水道局の事務所か何か、公共の建物なのだろう。

 南東の松林のところに、つい2~3日前から職人2人と監督が1人来て、松の木を少しずつ切り始めた。
 まだまだ何本も残ってはいるが、我が家のベランダから松の枝を透してほんの少し街の中心あたりが見えるようになった。
 もしかしたらそこを水道局の駐車場にするのかも知れない。
 どこまで切るのか、我が家からの見晴らしはどうなるのか、暫くは目が離せない。
 僕も仕事が手につかず、気が気ではないが、野鳥たちにとってもおちおちしてはいられないだろう。

VIT

 

(この文は2007年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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