廃工場の今にも崩れ落ちんばかりに歪んだ、高~い煙突の中ほどまで必死の思いでよじ登った。
よじ登ってスケッチをしている。
煙突から周辺を見下ろして下界のスケッチをしているのではなく、その煙突そのものを仰ぎ見て描いているのだ。
まったく不可能な話だが、降りようとして目が醒めた。
今朝方見た夢のはなしだ。
起きるのにはまだ少し早い時刻だったのでもうひと眠りしたが、こういった夢を見ると疲れる。
「マラソンをしている夢をよく見る。」という話を聞いたこともあるが、これもよほど疲れるのだろう。
いっそ疲れるのなら、それがダイエットにつながれば良いのだが、そうもゆかない。
「眠っている間にダイエット!」
何だかいかがわしい痩せ薬のキャッチコピーのようだ。
子供の頃はよく同じ夢を見た。
空を泳いでいるのだ。
それも平泳ぎで…。
このような夢は精神科の先生に鑑定をしてもらう必要があったのかも知れない、が何とかコトもなく大人になって今がある。
その頃、お蔭で僕は平泳ぎが得意になった。
空は無理だが、海ならそうとう泳ぐことができる。
夢の成果かもしれない。
病気の時もいつも同じ夢を見た。
脈拍の音が歯車となり、鉄の塊の機械に押し潰され、手足が腫れ硬直している。
そして遠くで蝉が鳴くようなかすかな音が聞こえるのだ。
その夢もいつの間にか見なくなった。
大人になったせいか、病気をしなくなったせいか。
とにかくありがたいことに最近、病気らしい病気はほとんどしなくなった。
何でも良く食べるから、身体が丈夫になったのだろうとは思う。
大人になっても相変わらず夢はよく見るが、残念ながら朝になればすっかり忘れているのも多い。
ご馳走を前にして食べる夢をみる。
いや、食べようとすれば目が醒める。
いっそ食べ終えてから目が醒めてくれればよかったのにと悔む。
ご馳走という程でもなく、案外と身近な、例えばラーメンのようなことが多い。夢も安上がりに出来ているのだ。
呑むことに関してはあまり執着がないからか、呑む夢は見たことがない。
このところ日本では飲酒運転による事件が多発し、後を絶たないというニュースでもちきりだ。
それはポルトガルでも言える。
罰則が強化され、罰金の額は相当なものらしいが一向になくならない。
ポルトガルテレビのコント。
ある日、家族づれの乗用車が警察のアルコール検問にひっかかった。
そしてドライバー(運転していたのは夫)からアルコールが検出された。
ドライバー 「この機械はおかしいんじゃない。アルコールが検出されるなんて!」
警官 「いや、機械は正しい。」
ドライバー 「じゃ、女房の検査もしてみてよ。」
警官 「奥さんもアルコールが検出されたよ。奥さんも呑んだのだろう。」
ドライバー 「いや、そんな筈はない!じゃあ、子供の検査もしてみてよ!」
小学低学年くらいの男の子がクルマから走り出てきて、アルコール検査を受ける。
警官 「おかしいなあ!子供からも検出された。この機械は狂っとる。失礼しました。行って下さい。」
走り出してから。
ドライバー 「しめしめ、子供にも呑ませておいてよかったな。ハハハ」
ポルトガルではどこの店でもノンアルコールビールを置いているので、僕は運転している時はたいていそれを飲む。
日本の飲食店でノンアルコールビールを置いている店になぜかお目にかからない。
昔、知人で呑むとハンドルを握りたくなるという男がいた。しかも免許を持っていなかった。
さすがに皆で止めたが、腕力があり暴力的で他人の話を聞かなかった。
100メートルだけ走らせ、皆でなだめすかして止めさせたことがある。
35年も前のはなし、その時は広い田舎道で他にクルマは走っていなかったのが幸いだった。
今なら皆も同罪、無期懲役ものだ。
刑事裁判だけではない。
先日、民事裁判で3億円倍賞責任の判決がでた。
当然だろうと思う。
他人を死なせるか、一生後遺症で苦しませておいて、加害者本人は刑務所の中とはいえ、屋根の下で食べる心配もなく税金でのうのうと暮らせるなどと許されるものではない。
市役所の職員が重大事故を起して以来、その裁判所の職員や交通警察官までもが飲酒運転で検挙されている。
夢の中で運転する。夢なら免許はいらない。楽しいドライブだ。
逆に運転している時に夢を見るのは、危険だ。
それを「居眠り運転」という。
ハンドルを握るととたんに眠くなる、という人もいるらしい。
「睡眠時無呼吸症候群」の疑いがあるので検査が必要だ。
「飲酒運転」も「居眠り運転」も危険極まりない。
自動車会社では「瞼の動きを察知して警告を鳴らす」とか、「アルコールが検知されればエンジンがかからない」といったクルマを開発しているそうだ。
夢には眠っていて見る夢と、将来の夢の2種類があるが、どちらも「夢」で単語に違いがない。
言葉が出来た頃の人類は、眠って見る夢も余程楽しい良質な夢しか見なかったのだろう。
英語では [Dream] で、夜に見るのも将来の夢もドリームである。
ポルトガル語ではどちらも [Sonho] ソーニョという。
ポルトガル人同士が話しているのを聞いているとその「ソーニョ」という単語がよく出てくる。
よほど夢を大切にしているのか、夢見がちな民族なのかも知れない。
最近の子供に「将来の夢は何ですか?」と尋ねると、以前に比べるとかなり現実的な答が返ってくると聞いた。
「両親がこれだから、自分の将来も知れたもの、現実離れした『夢のまた夢』の話をしても、仕方がない。」
「平凡で中くらい」と思っている子供もいるのだそうだ。
賢いというのか…、寂しいというのか…
それでも親は子供の将来に夢を託す。
それが重荷になりある日突然子供がキレル。
僕が少年の頃の夢は「海外で絵を描いて暮らすこと」であったから、一応、今のところ夢は叶えられていると言えるのかもしれない。
「今後の夢は」と自分に問いかけてみると、まあ、自分で納得のいく絵が出来ることと、経済的心配のいらない僅かばかりの蓄えがあれば言う事がないのだが…。
当りくじの出た「宝くじ」売場に並んで夢を買う。
宝くじが当った夢を見るのも良いが、そのお金を有効に使うところまで夢は醒めないでほしい。
さて、今夜はどんな夢を見るのか?
もう、体力もそこそこなのだから、煙突によじ登るのだけは謹んでご辞退申し上げたい。
VIT
(この文は2006年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)
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