武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

067. マンマ・ミーア -アバABBAに関する思い出- -Mamma Mia-

2018-11-28 | 独言(ひとりごと)

 今、ポルトガルのテレビでは映画「マンマ・ミーア」のCMが盛んに流されている。
 メリル・ストリープが主演するミュージカルだ。
 あのABBAの曲を全編にフューチャーしたジュークボックス・ミュージカル。その劇場ミュージカルの映画化。日本でも劇団「四季」で上演されているらしい。

 ABBAと言えばいつも思い出すストックホルムでの出来事。
 僕たちは1971年から75年くらいまでストックホルムに住んでいた。正確には、1971年は8月から3ヶ月だけ住んだ。
 新潟港から日本を出て、ナホトカ、モスクワ経由で先ずストックホルムに着き、3ヶ月を働いたのだ。

 3ヶ月がすぎストックホルムを出発する直前にクルマを買った。
 住まい近くの道端で「売ります」の張り紙のあるクルマを見つけ、すぐに電話、他には何も考えずに即決だった。VWのマイクロバスで、その車内に大急ぎでベッドと食器棚を作りつけた。

 出発は11月初旬、北欧の冬は早く、既に雪が舞い始めていた。予行演習にと1晩目はストックホルム美術館の駐車場で泊ることにした。翌朝、起きると車内の牛乳はシャーベット状に凍っていた。今から考えるとよく凍死しなかったものだと思うが、若かったのだ。慌てて布団を1枚買い足した。

 ヨーロッパを3ヶ月で通り抜けて目指すはインド。
 そもそもがインドで暫く暮してみたいと日本を出たのだから…。

 ストックホルムからパリまでほぼ最短のルートを取ったにも拘らず、パリにたどり着くのに2ヶ月以上がかかった。

 その直線上にある美術館を見逃すことなく、くまなく観る旅でもあった。
 ある時は美術館の駐車場に寝泊りし、同じ美術館を2日続けての鑑賞になったこともあった。
 またある時はデンマークのお城のまん前の駐車場がそのねぐらになった。ぐっすり眠りに着いた真夜中に鼓笛隊の音で目が覚めた。20人ばかりのおもちゃの様な兵隊が真っ白い雪道を音楽と共に行進している。時計を見ると夜中の12時、衛兵交代の儀式だったのだ。もちろん見学者は我々2人だけ。夢の続きかも知れないと、頬をつねってみた。そんな旅で2ヶ月、面白くもあったが、真冬の北欧、車上生活は厳しくもあった。

 そして到着したのが花のパリ。とはいかなかった。
 そこには花はなく、どんよりと鉛色の空が垂れ込め、煤の混じりあった雪景色のパリ。
 車上生活はもう飽き飽き、暖房の効いた温かい部屋で少し落ち着きたいと考えた。
 アパートを探そうとしたが、パリでは当時、住宅事情は悪く、半年はおろか1~2ヶ月だけ借りようなどとんでもない。
 風呂も台所もなく、1部屋に電熱コンロを持ち込んで何年も生活をしている人もいたくらいだ。

 結局、ブローニュの森とヴァンサンヌの森のオートキャンプ場でひと冬、車中で暮すこととなった。そのオートキャンプ場からメトロに乗ってアリアンス・フランセーズに通った。

 春を待って再び旅に出た。
 スペインからモロッコまで寄り道し、フランスからは東へ進むはずが、北へ、北へ。ストックホルムに舞い戻ってしまっていたのだ。それからストックホルムでの本格的な生活が始まった。

 アルバイトをし、語学学校に通い、ストックホルム大学にも通い、大学が休みになると旅に出た。ヨーロッパ中をそのVWマイクロバスで5万キロ以上を走破した。クルマが大きいこともあって、どこの町に着いても、街なかでは殆ど走らせずに、その町の公共交通機関を利用した。ストックホルムでももちろん停めっぱなし、殆どVWマイクロバスには乗らなかった。

 たまたまある日、知り合いから家具の不用品があると言うので貰いにマイクロバスで出かけた。うかつにも車検が切れているのに気が付かなかった。途中、パトカーに止められ、駐車場まで誘導された。
 「今日は地下鉄で帰りなさい。そして車検場の予約が取れたらここにクルマを取りに来なさい。」というやさしいお巡りさんだった。最初は警察の駐車場かなと思ったのだが、よく見ると普通の大型スーパーの無料駐車場だった。家具は積んだままで、その日は地下鉄で帰った。

 そして車検を受けたが全く受からなかった。というより不合格項目の多さに呆然とした。
 北は最果てノード・カップから南はイタリア、ギリシャ、東は東欧共産圏やトルコ、そして西のスペイン、モロッコと、冬も夏も多くの国々を見てきたキャンプ生活でクルマの床はぼろぼろに朽ち果てていた。修理工場に出せば相当の費用がかかりそうだし、どうしたものかと悩んでいた。

 そんな時、友人から「アグネッタのおじいさんが趣味でクルマの修理をしていて、たぶん実費だけくらいでやってくれる筈だよ」と言う話が出た。
 早速、アグネッタの家にクルマを持っていった。おじいさんは目を輝かせて「これはやりがいがあるぞ」と言って引き受けてくれた。

 「やれやれこれで一安心」と思って、クルマを置いて帰ろうとすると、アグネッタが「今からテレビでユーロビジョンコンテストがあるのよ。今年はスウェーデンが有力なのよ。是非一緒に観ていって。」と引き止められた。
 僕は日本では音楽プロダクションにADとして居たくらいだし、自分でも少しギターを弾いて歌もうたう。音楽は嫌いではないし、どんなものか興味はあった。
 その時(1974年)にスウェーデン代表で出場したのがABBAであった。
 そしてアグネッタが予想したとおりABBAはみごと優勝をした。歌は「ウォータールー Waterloo」。

 アグネッタはABBAのメンバーの一人と同じ名前だったこともあり、人一倍ファン意識が強かったのかもしれない。

 僕はそれまでJAZZ以外では、ビートルズやボブ・ディラン、それにクロスビー、スティル、ナッシュ、アンド、ヤングなどをよく聴いていて、そんなフォーク調とは対照的にピンク・フロイド、レッド・ツェッペリンそれにブラッド・スウェッツ・アンド・ティアーズなどハードなロックが台頭してきている2極化の時代だった。
 それらに比べるとABBAは少し前時代的な軽いポップスという雰囲気で、新しさは感じられなかったけれど、力強い溌剌とした唄いっぷりは明快で健康的で好感の持てるサウンドに違いなかった。

 そのユーロビジョンコンテストを境にしてABBAは「リング・リング」「ハニー・ハニー」「マンマ・ミーア」「SOS」「ダンシング・クイーン」「マニー・マニー・マニー」「チキティータ」など、次から次にヒット曲を生みだし、ABBAの名前は世界中に広まった。ニューヨークのレコード店の店先にABBAのポスターが張られていたし、どこででもその歌声を耳にすることが出来た。

 ABBAが1974年のユーロビジョンコンテストで優勝したロンドンで、1999年4月6日、25周年を記念して、ミュージカル「マンマ・ミーア」が初演された。
 それから更に9年、今回はその映画化である。
 メルリ・ストリープの「マンマ・ミーア」は今、セトゥーバルの映画館で上映されている。終わらないうちに1度、観てみるのも悪くないという気もしている。

 あれから34年もの歳月が流れたことになる。
 そしてあの頃、どちらかと言えば前時代的に聞こえたABBAの音楽を今聴いてみて、逆に全く古さを感じないのは摩訶不思議と言わざるをえない。

 スウェーデンのその時、アグネッタのおじいさんに修理してもらったクルマは見事1発で車検に合格したのだった。
 車検から戻ってお礼に行くと、アグネッタのおじいさんから「このクルマ、キャンピング用に改造させてくれないか」と言われた。
 でも僕たちにはお金もなかったし、その後、そのクルマにそれほど永く乗るとも思わなかったので、お断わりしたのだが、今考えると残念な事をしたと思う。改造をお願いしておけば良かった。
 そうすればストックホルム生活がもう1~2年延びていたかもしれないし、インドまで行けていたかもしれない。
 なにしろ、旧ソ連がアフガニスタンに侵攻(1979年)する5年も前のはなしだ。

 ユーロビジョンコンテストは、東欧諸国など参加国も増えますます盛んに、今も続いていて、2008年、今年はロシアが優勝、ポルトガルは13位。
 スウェーデンはABBA以来、4回の優勝をして上位常連国になっているが今年2008年は18位。

 ユーロビジョンコンテストが始まったのが1956年、ポルトガルの初参加は1964年、優勝は残念ながら未だない。
 1996年にルシア・モニッツ [Lucia Moniz] の6位が最高。
 1991年にドゥルセ・ポンテス [Dulce Pontes] の「ルジターニャ・パイシャオン」が8位になっている。

 ちなみに、ABBAがユーロビジョンコンテストで優勝した1974年。ポルトガルでは、その年の4月25日、カーネーション革命として独裁政権に終止符が打たれた。
VIT

(この文は2008年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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