武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

053. フェリー -Ferry-

2018-11-15 | 独言(ひとりごと)

 我が家のベランダからフェリーの往き来が見える。
 セトゥーバルとトロイア半島を結ぶフェリーだ。
 24時間、少ない夜中の時間帯でも1時間に1本、多い時は15分おきにダイヤが組まれている。
 クルマが満杯になれば時間前でも次から次に出航する。
 それの往復だからひっきりなしだ。
 対岸までおおよそ3~4キロ、20分の船旅でクルマと大人2人で6,85ユーロ。
 1隻のフェリーにクルマ30台ほどを載せる。
 夏はそれにクルマなしの海水浴客がおおぜい乗り込む。
 単にトロイアの海水浴場に行くだけではなく、国道として機能しているのだ。

 トロイアから国道をまっすぐ南下すると、アルガルヴェ地方の最西南端サグレス岬まで繋がっている。
 1438年、エンリケ航海王子が、大航海時代の先駆けになった航海学校を開いたところだ。
 それを東に行くとラゴス、ポルティマオン、ファロ、タヴィラなど、古くからの都市を通って、やがてグアディアナ河で国境を越え、スペインのアヤモンテに入る。
 アヤモンテの先には、コロンブスがアメリカ大陸に到達(1492年)した時に船出したウエルバの港町がある。
 そしてそこからセビリアまですぐだ。

 トロイア行きのフェリーの甲板から、運が良ければイルカの群れが見える。
 我が家からフェリーの往き来は見えるが、イルカまでは見えない。

 先日、久しぶりにそのフェリーに乗った。
 クルマ10台程が乗り込んだだけでがら空きだ。
 やがてフェリーは出航する。別にドラなどは鳴らさない。
 何の合図もなく、いつ出港したのかも判らないくらい静かな船出だ。
 我が家からフェリーが見えるのだから、当然フェリーからも我が家が見える。
 知っているから判るけれど、町なみの中に溶け込んでいて目を凝らさないと確認できない。

 進むに従って我が家もセトゥーバルの町なみと一緒に遠ざかっていく。
 サンタ・マリア・デラ・グラサ教会やサン・ジュリアン教会の尖塔がある旧市街。さらに後方にはパルメラの城。
 丘にへばりついて町なみが上に伸びているフランシスコ地区とアヌンシアーダ教会。反対側には丘が迫っているベラ・ヴィスタの界隈。
 セトゥーバルがもっとも美しく見えるのは恐らくフェリーからの眺めだろう。そしてポルトガルらしい風景だ。
 さらに進むと、左手にはサン・フィリッペ城。白い風車小屋群。後方にアラビダ山。岬にはオウタォンの城。
 見えなくてもいいのがその手前にあるオウタォンのセメント工場。大きな貨物船がフェリーを遮る様に停泊している。ドックが空くのを待っているのだろう。

1.我が家からフェリーの行き来が見える。


 宮崎に住んでいた時は毎年フェリーに乗って大阪まで行きNACK展に欠かさず出品した。
 自宅から3時間クルマを走らせ日向のフェリー乗り場にようやく到着。
 込み合うフェリーでゆっくりも眠れず、早朝大阪南港に着岸。
 夕方からNACK展の搬入。1週間後の搬出は父に頼み、再びフェリーで宮崎に戻る。作品があるので飛行機は使えない。クルマに作品を載せフェリーで行く。飛行機よりもかえって高くついた。

 作品が小さい時、1度は750ccのバイクでも行った。自宅から大分の佐伯まで走り、四国高知の宿毛までフェリーで渡る。足摺岬、室戸岬とツーリングして徳島から大阪南港まで再びフェリーに乗った。
 そのフェリーにたどり着いた時には力尽き、メインスタンドを起こすことが出来ずにいたら、他のバイク野郎が見かねて助けてくれた。僕もまだ若かったが、今では元気な時でもナナハンのメインスタンドを起こす力はないであろう…。

 宮崎に住んでいた時には、フェリーで甑島へも渡った。まさに絶海の孤島という感じで自然豊かな美しい島である。
 種子島へも行きたくて調べてはみたのだが、フェリー代が案外と高くついたので断念、未だ果たせていない。
 長崎から有明海をフェリーで渡り天草の島巡りをし、古いキリスト教会などを訪ねたこともある。
 そんなこともポルトガル移住を決断した一因になったのかも知れない。
 そういえば櫻島湾フェリーも何度か利用した。
 九州はポルトガル人宣教師やフランシスコ・ザビエルなどと深くかかわりのある土地である。
 バスク人宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航したのは1549年。その12年前(1537年)ここセトゥーバルにも足跡を残していて、港の公園にその像が建っている。

2.セトゥーバル港公園のサン・フランシスコ・ザビエル像。

 僕はかつてストックホルムに住んでいた。
 スカンジナビアから南のヨーロッパに入るには必ずフェリーに乗る。
 スウェーデンのヘルシンボリィからデンマークのヘルシノアへ僅か1時間たらずの船旅だが、幾度となく乗った。
 デンマークのヘルシノアにはハムレットの城がある。
 更に少し走りロッドビィハムンからドイツのリューベックまで再びフェリーに乗る。そうするとハンブルグは目の先だ。お決まりのコースだった。

 スウェーデンの最南端イスタッドからポーランドのシチェチンへのフェリーにも乗った。
 確か1晩の船旅だったがいつも空いていた。
 僕たちが2度ポーランドを訪れたのはベルリンの壁、崩壊以前で、ワレサ議長率いる「連帯」が発祥した地がそのシチェチンであったと聞いたことがある。その後「連帯」の運動はグダ二スクなどへと広がっていった。
 その頃は、まるで19世紀の古き良きヨーロッパが残っている様に感じたポーランドであった。ブラック・マーケットでの両替は公定の5倍にもなった。遠い昔の記憶の様でもあり、つい先日のことの様にも感じる。

 ノルウェーを北上してノードカップを目ざしたこともある。
 オスロのムンク美術館で今観てきたばかりの不思議な風景。とろける様な太陽を見たのはこの時だ。そんな白夜の中を夢心地で走る。突然国道が途切れて湖が現れる。待っていると前からフェリーが姿を現す。美しすぎる風景の中をフェリーは進む。フィヨルドだ。そんなことを幾度か繰り返し、最北端ノードカップにたどり着くのだ。

 ジブラルタル海峡のアルへシラスからセウタまでフェリーに乗り、モロッコに入ったこともある。
 セウタはエンリケ航海王子が1415年、武力で制圧した土地だが、アフリカ大陸上にあるにも拘わらず、未だにスペインの領土として残されているのは何だか不思議な感じだ。

 気が付かなかったのだが、モロッコに入った時ちょうどグリーンカード(クルマの保険)が切れてしまったところで、それを指摘され1週間だけの割高な保険に加入させられた。
 それとは別に道路にチェーンを張りターバンを巻いたおじさんから通行税も取られたりもした。
 旨い完熟バナナが1本1円程で買えた。何でも5分の1に値切って買物をするのだ。
 市場で老婆が売っているニンジンを値切ろうとしてしまったこともあった。これは観光用ではないから値切ってはいけなかったのだ。だがそのニンジンには割り箸を齧るくらいに硬いスジがあったのもご愛敬だろう。
 実はもっとゆっくり旅を楽しみたかったのだが、保険の関係で1週間だけで断念したのだ。

 そんなこんな旅は体力的に恐らくもう出来ない。
 せめて目の前のトロイアのフェリーにたまには乗って、トロイア半島の付け根、コンポルタ村のコウノトリを見に行くのも悪くない。

VIT

3.フェリー発着場。

(この文は2007年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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028. 明けましておめでとうございます

2018-11-15 | 独言(ひとりごと)

 ポルトガルに住み始めた一年目、1991年の元旦は個展の関係で日本でした。

 帰省客で混みあう年末、年始の宮崎空港ギャラリーに一年目のポルトガルの絵を並べて観ていただきました。

 その時を除いても今回ポルトガルで14回目のお正月を迎えたことになります。15年前には想像もできなかった歳月です。

 

 最初に海外に住んだのはストックホルムです。もう30数年前、1971年のことでした。1ドルが360円固定相場制で、外貨持ち出し制限もあった時代です。

 『ヨーロッパ経由でインドまで行ってしばらく住んでみる』と言うのが当初の計画でした。でもどういうわけかストックホルムに4年半も費やしたのです。

 その後結局インドには行かず、ニューヨークに一年暮らし、中南米を10ヶ月かけて旅をしたのは《おまけ》の様なものです。

 そのおまけは僕にとっては宝物になりました。

 

 その30年前当時からすれば考えもつかない時代の変化です。

 当時は日本の情報などは皆無と言っても良くときたまに回ってくる日本の新聞紙をむさぼり読んだものです。

 フランスにいる時には日本大使館に出かけ新聞を閲覧させてもらったりもしていました。

 ちょうど『浅間山荘事件』が紙面を埋め尽くしていた頃です。

 ストックホルムでは在住日本人のために『NHK紅白歌合戦』が回ってきます。会場を借り切って『紅白』を上映するのです。毎年楽しみに観に行きましたが4月頃です。

 

 ポルトガルに住み始めてからの日本の情報源はもっぱら短波ラジオでした。毎朝、アフリカ・ガボンを中継してNHKの電波が届くのです。行ったこともないガボンを身近に感じたものです。

 

 数年前から日本のテレビが衛星で写る様になって情報源は格段に進歩しました。なにしろ日本と同時にニュース番組を観ることが出来るのですから。時差の関係でお昼の1時に『ニュース10』で、夜10時から『おはよう日本7時台のスタート』です。

 

 そして今はインターネットもあります。

 いつでも好きな時にパソコンを開いて刻々と変わるニュースを読むことも出来るのです。

 

 2年前には自分でもホームページを立ち上げることになりました。昨年の1月には出身高校美術部OBのサイトも立ち上げました。それもまもなく1年になります。

 当初考えていたのとは少し方向が違ってきている様にも思えます。

 このところの『掲示板』では美術の歴史に関心は移っていて、それはいろんな発見があって勉強にもなりますし面白いものです。当初考えも及ばなかった嬉しい誤算で、サイトを立ち上げてほんとうに良かったと感じている今日この頃です。

 

 当初、思っていたのとは違う方向に行くのはサイトばかりではありません。

 ポルトガルに住んでいること自体もそうです。

 これほど長く住むなどとは当初考えもしなかったし、何の情報もなく偶然住みはじめたここセトゥーバルが大きすぎもせず、小さすぎもせず、身の丈にあった変身を遂げてゆくのが飽きさせないのかも知れません。

 まさに住めば都です。

 

 考えていたのとは違う方向に行ってしまうと言うのでは《絵》などはその典型です。

 スケッチをしながら『どんな油彩にしよう』と頭に描きながら鉛筆を動かします。でもいざキャンバスに向うと自分とは違うもう一人の自分があらぬ方向に導いてゆくのです。そして格闘が始まります。

 格闘が心地よい時もありますが、へとへとに疲れて何も出来ない時もあります。絵を描くことは格闘技です。

 実際、北向きの冷蔵庫の中の様なアトリエでも絵を描き始めると身体が温かくなり一枚ずつ服を脱いでゆくのですから不思議です。

 1人で描いているつもりが、実はもう1人くらい相手がいるのです。そうして気が付いてみると自然に絵ができていたりするわけです。

 

 今までの半生を振り返っても決して電車道を歩いてはいないことは確かです。

 でもその場面、その場面で最善を尽くしてきた様にも思います。

 最善と思っているだけかも知れませんが…今年も一年どんな年になるのか?想像や夢を膨らませながらも、志と誠意をもってその場その場で最善を尽くしてゆくことができたらと思っています。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

VITこと武本比登志

 

(この文は2005年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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