武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

050. イル・ド・フランス・旅日記 (下) -Il de France-

2018-11-13 | 旅日記

イル・ド・フランス旅日記(上) 

2006/11/09(木)晴れ/Fontainebleau - Paris - Pontoise – Paris

 フォンテーヌブローに3泊もしていながら、宮殿内部を観ないのもなんなので朝1番、開館を待って観ることにした。オフシーズンのせいか開館と同時に入場したのは4人だけ。その内3人は僕たちを含めて日本人だ。駆け足で観た。やたら係員ばかりだ。

 配置につかないでコーヒーの自動販売機の部屋に寄り集まってコーヒーを飲みながらだべっている。ここでもお役人が遊んでいる。

 

 パリのいつものホテルは今回は予約が遅かったのか、2週間も前に既に満室。

 インターネットで見つけた初めてのホテルに予約を取っておいた。同じルクサンブール地区で、佐伯祐三が定宿にしていた3星ホテル「グラン・ゾンム」の丁度裏手くらいの位置だ。

 荷物だけ預けてポントワーズに行くつもりが、部屋に通してくれた。部屋の窓から教会のドーム屋根が見える。一瞬パンテオンかなと思ったが方角が違う。パリにはドーム屋根の建物が意外と多い。

 荷物を降ろしてポントワーズに向かう。

 以前ならサン・ラザール駅からしか行けなかったが、その後、北駅からも行ける様になったし、今ではRERでも行くことができるから便利になった。でも時間はたっぷり1時間かかった。

 目ざすはピサロ美術館だがあてずっぽうに歩く。途中地元の婦人に道を尋ねたがわからなかった。カフェに入って親爺に尋ねたら教えてくれたが、別の美術館だった。その美術館の受付で「ピサロ美術館」への道を教えてもらう。

 地図を描いてくれた上にわざわざ外まで出て「あの駐車場を横切ってどうのこうの……」と親切だ。ヒステリックで神経質なフランス人もパリから一歩離れると暖かくて親切な国民なのだ。

 駅に着く時に電車の窓から仰ぎ見て丘の上の一番めだつ建物が目ざす「ピサロ美術館」であった。

24.ピサロ美術館

 2階が展示場でピサロの他、ドービニーの古い珍しい絵なども飾られていた。

25.ピサロ美術館展示室

 カタログが30ユーロと高かったし、フランス語とドイツ語対訳のものしかなかったが珍しい作品が多く載っていたので思い切って買う。

 係りの人も高いと思っているのか、ウインクと共にピサロの絵葉書を1枚おまけしてくれた。



26.ポントワーズのセーヌ川風景

 さきほど道を教えてくれた美術館に戻り入場する。

 世界中から集められた1950年代から1970年代の抽象画で、定規で引いた直線やコンパスの円を使った目の錯覚を楽しむ様な、何というジャンルか知らないが、そればかりを集めた展覧会であった。モンドリアンの流れと言えるのだろうか、その時代日本ではオノサトトシノブがそのスタイルをやっていた。

 古い重厚な城館の美術館でモダンさと重厚さがマッチして良い展覧会であった。

 

 帰りもRERに乗り、アンヴァリッドで降り、アレクサンドル3世橋を歩きグラン・パレに入る。

27.アレクサンドル3世橋の欄干とグラン・パレの夜景

 久しぶり、約10年ぶりくらいか、ル・サロンがグラン・パレでの開催になる。永い修復工事であった。


28.ル・サロン2006の僕の作品「ボカージュ広場」100号。

 

2006/11/10(金)晴れ/Paris - Mantes la Jolie

 荷物を半分ホテルに預かってもらって、一晩だけの荷物を持ってマント・ラ・ジョリに向かう。佐伯祐三が描いたノートル・ダムを見るのだ。

 先ずはサン・ラザール駅。ルクサンブールのホテルの前からサン・ラザール駅行きのバスがあるのでそれに乗る。乗換えがないのでパリもバスを使いこなすと便利だ。でも時間はかかる。

 昨年はルーアンに行くのに最初の停車駅がマント・ラ・ジョリであったから30分程であったのに、きょうは各駅停車なので1時間もかかった。

 

 列車の中からノートル・ダムが見えたので降りてからそちらの方角に歩き出す。今回の旅ではいつもにも増して良く歩く。普段の運動不足解消に歩くのは良い事だが、先日から足の裏にマメができて少々痛い。

 駅前にも1軒ホテルがあったが、街の中心のほうが良い。それに営業しているかどうかも怪しい佇まいだ。

 案の定、街の中心にもホテルがあった。値段表をみるとパリの半額だ。あまり安すぎるので他も見てみるほうが良さそうだと思い、ノートル・ダムまで歩く。



29.佐伯祐三が描いたマント・ラ・ジョリのノートル・ダム

 ノートル・ダムは思ったより立派で壮大だ。仰ぎ見るような角度になり、佐伯祐三がどこから描いたのか検討がつかない。80年前にはノートル・ダムの前の建物はなかったのであろうか。今ではあの絵の様には描く事が出来ないように思われる。

30.ノートル・ダムのバラ窓のステンドグラス

 ノートル・ダムの近くにピザ屋の上がホテルになっている看板を見つけたので聞いてみたがホテルはやっていないという。

 もう少し街の中心で下がバーになっていて、上がホテルで外観は割合立派な建物なので聞いてみると、女将は「ハイ、シャワートイレテレビ付き、ハイこれが部屋の鍵、これが外の鍵、ハイ40ユーロ、ハイこれが領収書、階段を上って16号室ハイハイハイ」てな感じで40ユーロを前金でふんだくられる。

 店がちょうど男たちで込み合っていて、バーが忙しいのだ。でもホテル代はパリに比べると半額だ。部屋に上がってみると確かにシャワーもトイレも付いているが、トイレにドアがなく、カーテンで仕切ってあるだけだ。でももう料金も払ってしまったし、今夜は辛抱するしかない。まあ部屋は清潔だし、広いし、センスもそれほど悪くはないし、広場に面して眺めもまあまあ、暖房も効いている。



31.マント・ラ・ジョリで泊ったホテル

 セーヌ川まで歩きノートル・ダムを横から後ろから見る。ノートル・ダムの隣、セーヌ河畔のところに明るいガラス張りのテラスのある一見しゃれたレストランがある。入口のところに黒板にチョークのなぐり書きで本日のメニュが張られている。今までもパリでより、むしろ田舎町で洒落たフランス料理を楽しめることが多かった。ここでは時間もたっぷりあるし、期待して入ったのだが、入ってみると、一見に反してぐっと大衆的なブラッセリであった。

 前菜はゆで卵のツナ和え、メインは豚のノルマンディ・ソース煮こみ、芋も3種類からチョイス。盛り付けはフランス料理というより、むしろポルトガル的で大雑把でダイナミックだ。

32.豚のノルマンディ・ソース煮こみとポンフリ

 デザートは栗の季節だから「モンブラン」。これが変。これでもモンブラン?という感じ。でもヴァン・メゾン(ハウスワイン)も含めて味はなかなかのものだった。

33.セーヌの流れとマント・ラ・ジョリのノートル・ダム。

 ノートル・ダムの内部では大掛りな舞台が設置され、PAの準備で男たちが忙しそうにしていた。丁度今夜9時からブルースのコンサートがあるというのだ。黒人の女性シンガーで<Lea Gilmore>という。
 ノートル・ダムでのブルースコンサートなどめったにお目にかかれないことなので絶対に見てみたかったが、前売り券を買おうとインフォメーションを探したが見あたらず、もちろん、開演時間に直接入場券を買って入ることもできたが、それに少し疲れているし、夜9時からは無理かなと思い諦める。
 最近は早寝早起きで夜がめっぽう駄目になっている。

 隣の美術館を観る。
 1階は発掘品などの展示、2階では <Sabine Weiss> という写真家の展覧会。
 ストラビンスキィやレナード・バーンスタインなど一流の音楽家の写真をたくさん撮っていて、カタログやレコードジャケットにも使われている有名な写真家なのだろう。
 その中にアマリア・ロドリゲスも混ざっていた。
 一流の音楽家とは対照的に無名のストリートミュージシャンを捉えた面白い写真も多く撮っていて、この展覧会はそれらが主体をなしていた。
 3階では <Maximilien Luce> という、ナビ派からフォーヴィズムのスタイルで、20世紀初頭の地元出身画家の展覧会。


2006/11/11(土)雨のち曇り時々晴れ/Mantes la Jorie – Paris

 夜中、ホテルの前の広場で物音がして早くから目が醒める。
 駐車場にクルマが1台もなくなっている、と思っていたら、案の定、朝市が出る。 でも雨模様。市の準備をするのに雨に濡れて大変そう。出かける頃には雨もあがる。

34.マント・ラ・ジョリ駅。

35.MANTES LA JOLIE は工事中?

 帰りの列車はノルマンディから来たのだろう。各駅停車ではなくて30分でサン・ラザール駅に到着。

36.モネも描いたサン・ラザール駅構内

 ホテルに荷物を降ろし、オルセー美術館まで歩く。

 これはメトロかバスに乗るべきであった。どうやら足の裏のマメが潰れてしまっているようだ。
 本来はスニーカーで旅をするつもりだったのだが、直前になって、出発当日からヨーロッパの空港のセキュリティー検査が厳しくなるとのニュースがあったので、スニーカーは止めて革靴にしたのだ。以前にも検査の時にスニーカーの人だけは脱がされていたのを見ていたからだ。スニーカーならマメは出来ていなかった筈だ。

 機内誌の情報ではオルセーの特別展でセザンヌを催っているとあって楽しみにしていたのだが、着いてみるとセザンヌ展の文字などどこにもなく「モーリス・ドニ展」を催っていた。
 これも甲乙つけがたく観たかった貴重な展覧会だ。
 元々、オルセーに所蔵している作品に加えて、エルミタージュやプーシキン、ウェラー・ミューラー美術館、さらにはフランスやアメリカから個人所蔵の作品などたくさん集められている。
 ドニもこうして全体を観るとモティーフにこだわりがあり、色も凝っていてなかなか良い。すっかり見直してしまったし、好きになってしまった。

 今回の旅ではバルビゾン派、印象派、さらには黒田清輝、佐伯祐三などを中心に歩いたが、ドニを観て一昨年のサン・ジェルマン・アン・レーのプリウレ美術館と、それ以前のポンタヴァン派、ナビ派、アールヌーボーの旅にプレイバックして興味が倍増した思いがある。

 もちろん常設展ではピサロ、シスレーさらにはミレー、ドービニー、コロー、ディアズ、テオドール・ルソーなどを観ないわけにはいかない。でもやはりオルセーの展示は来るたびに違う。
 いつも入れ替えがあり、今回ではバルビゾン派の作品が少なかったように思う。
 ミレーの「グレヴィルの教会」がない。
 いつもあるところにアンリ・ルソーもないし、セザンヌの「トランプをする人々」もない。
 だいいちオルセーの代表作品アングルの「泉」もなかった。
 もしかしたらエルミタージュあたりと「モーリス・ドニ」の交換で貸し出されている作品が多いのかもしれない。
 お蔭で僕としては、普段は倉庫に仕舞われている、珍しい作品を観る事ができる。今回はゴーガンとポンタヴァン派の絵が多かった。

37.ゴッホの「オーベールの教会」を携帯で撮影する人。

38.オルセーのモネの部屋は観覧者でいっぱい。そのベンチで寝る少女。

 クールベの「女陰」の絵が展示されていて驚いた。まさに写実派の極致で、観覧者はまともに観ることができないで目を背けている。この絵の存在は以前から画集で観て、知ってはいたが、実物を観るのは初めてだ。個人コレクションの筈であったから、この程、オルセーの所蔵に加わったのかも知れない。クールベはやはり変わった人物だ。
 以前にファーブル美術館で観た「ボンジュール、ムッシュ、クールベ」のタイトルにしろ、このオルセーにある巨大すぎる「オルナンの埋葬」や「画家のアトリエ」を目の当たりにして、クールベを理解するに一筋縄ではいかない様な気がする。

39.オルセーのクールベ「画家のアトリエ」


2006/11/12(日)晴れ/Paris - Lisboa – Setubal

 ポルトガルに戻る日だが、飛行機は夜の8時発なのでまる1日有効に使える。
 ルクサンブール宮殿美術館で「テイッチアーノ展」を催っていたが、それはあきらめて予定通りルーブルに行く事にする。

40.ルクサンブール宮殿美術館の「ティッチアーノ展」入口。

 ホテルをチェック・アウトした後、荷物を預かってもらい、ホテルから歩いて5分、ムフタール通りの朝市を見学。
 セップが49ユーロする。
 そう言えばフォンテーヌブローのマルシェではゴボウが売られていたので驚いたし、買って帰りたかったが、考えてみるとフラマン派の絵でゴボウらしき物が描かれているのを観たことがあるので、ヨーロッパにもあることはあるのだろう。

41.ムフタール通りの朝市。

 ムフタール通り近くのメトロ<Censier-Daubenton>から乗ればルーブルに乗換えなしで行ける。
 ルーブルでも常設展とは別料金で「レンブラントのデッサン展」を催っていたので、そのチケットも一緒に買い、先ずは「レンブラント」から観ることにする。
 日曜日のせいか見学者が多い。
 油彩とは違い、デッサンはむしろ東洋的な墨絵の雰囲気も感じる。
 特に風景画は水墨画の趣だ。
 僕も鉛筆だけではなく、墨でスケッチをしてみたいと思って、数年前、墨と硯を日本から持ってきているのだが、まだ一度も使っていない。

 それに「ウイリアム・ホガース(1667-1764)」の展覧会がドッキングされている。
 少々エロティックな部分があったり、風刺的なモティーフが描かれているのであろう。観覧者たちはフランス語で書かれたその解説を熱心に読んでいた。

 常設展では先日訪れたバルビゾン派とフォンテーヌブロー派それにシャルダンなどのフランス絵画を中心に観る。

42.16世紀後期。

43.フォンテーヌブロー派。

44.ルーブル美術館展示作品。

 ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」はまだルーブルに戻ってきていなかった。ストラスブールから更に別の都市を巡回しているのかも知れない。
 それにジェリコーの「メデュース号の筏」も今回はなかった。どこかに貸し出されているのであろうか?
 とにかくルーブルにしろオルセーにしろ展示品はいつも目まぐるしく入れ替わっている。
 きょうはゆっくり1日かけてルーブルを堪能することが出来た。

 ホテルに荷物を取りに戻り、RERでド・ゴール空港へ。
 今回の旅はパリ周辺だけなのでゆっくりだろう。と思っていたが、結構慌しくやはり強行軍になってしまった。
 当初、懸念されていた、パリ郊外の暴動もなかったし、かなり寒かったとは言え、傘を一度も開く事もなかった。
 お蔭で充実して良い絵をたくさん観ることが出来た収穫の多い旅であった。

 45.今回の旅で買った絵葉書とカタログ、左上は絵葉書類、上中「ピサロ美術館」「レンブラント・デッサン展」「ル・サロン・カタログ」「モーリス・ドニ展」右下「ウイリアム・ホガース展」

VIT

 

(この文は2006年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

武本比登志 エッセイもくじ へ

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

050. イル・ド・フランス・旅日記 (上) -Il de France-

2018-11-13 | 旅日記

 今回は昨年の旅の続きミレー。それとバルビゾン派。パリ周辺、イル・ド・フランスを歩いてみようと計画をたてた。
 計画をたてるとどうもあれもこれもと欲張ってしまう。
 結局、ミレー、テオドール・ルソーそれに印象派のシスレー、ピサロ、モネ。黒田清輝、佐伯祐三などに関わりのある土地を歩いてみることになった。それにフォンテーヌブロー派も加わるのだろう。


2006/11/06(月)あさ霧雨、曇りのち晴れ/Setubal - Lisboa - Paris – Fontainebleau

 今回はムッシュ・Mの自宅まで行かなくてもド・ゴール空港まで出迎えてくれることになったので楽ちんだ。
 でも飛行機が1時間も遅れたので心配したが、ムッシュ・Mは到着口で気の毒に長い時間待っていてくれた。
 しかもちょうど息子さんがリオンから3時にパリに帰って来られるので出迎えるとのことで、少々早いけれどその足で、僕にとっては好都合にパリ・リオン駅までクルマで送って下さった。

 お蔭で飛行機が遅れた割には予定の列車でフォンテーヌブローに着いた。でも何をする暇もない。
 それに寒波がやって来ているのか、ことのほか寒い。
 明日、明後日のレンタカーの予約に行ったが2軒のレンタカー屋も明日は予約でいっぱいとのことで、明後日、1日だけの予約になった。

 暖かいムールとポンフリそれにビールで早い時間に軽く夕食。デザートにチーズ盛り合わせとワインを追加。イル・ド・フランスの南、ボージョレ地方の白。口当たりが良い。

01.ムールのワイン蒸しとフリット

 今朝は4時起床だったので、早くホテルで休みたい。

 ホテルはインターネットで予約をしておいた。やはりパリよりは安い。そして広い。まるでポルトガル人のように太った娘が愛想良く、くるくるとよく働く。
 部屋の目の前は趣きのある郵便局の建物で、そのすぐ後ろからフォンテーヌブロー宮殿庭園の入口があった。
 予約は1晩だけだったが、まあ悪くはないし、レンタカーの予定が狂ったので、幸い空いているとのことだったし、3日ともこのホテルに泊ることにした。

02.フォンテーヌブローで泊ったホテル

2006/11/07(火)朝霧曇り時々晴れ/Fontainebleau - Moret sur Loin – Fontainebleau

 朝食は満席。ホテルの部屋も満室なのかも知れない。部屋が取れて運が良かった。

 朝早くからフォンテーヌブロー宮殿の庭を散策、霧に包まれて美しい。白鳥などの水鳥が寄ってきたがやる餌がない。身体が芯から冷え切る。1日空いたのでフォンテーヌブロー宮殿を見学しようと思ったが、きょう火曜日は休館日。



03.朝霧のフォンテーヌブロー宮殿

 朝市がでていたので、ひととおり見て回った。魚屋にしろ八百屋にしろ、フランスの市はどこも、飾りつけに手をかけていて見ていて楽しい。やはりセンスの良さを感じる。

 レンタカーで行くつもりだったシスレーゆかりの地、モレ・シュル・ロアンだけは列車で行くことにする。時間がゆっくりなのでフォンテーヌブロー・アヴォン駅まで歩いたがこれが後々までたたった。

04.フォンテーヌブロー・アヴォン駅と市内行きバス

 2駅でモレ・シュル・ロアンの最寄り駅 <Moret Veneux les Sablons> 駅に着いて、通りかかった人にモレ・シュル・ロアンの町を尋ねると、歩いて20分程とのことだったので歩いた。もっともバスもタクシーも何もないので歩くしかないが…。

 教えられたとおりに線路沿いに歩いてインター・マルシェのところで右に曲がった。曲ったところにモネ、シスレー、ルノワールの肖像画が描かれたホテル・レストランがあった。

05.シスレーの肖像画があるレストラン

06.モレ・シュル・ロアンの町門

 町の入口、町門の手前にインフォメーション。でもあいにく昼休みで閉まっていた。町門を入ってすぐに町役場や郵便局などがある中心広場。さらに1本道のその先に出口の町門があり、そこにロアン川が流れている。

 水量が多い。石橋の両方に水車小屋、それに洗濯場もある。ロアン川に影を落す様々な色あいの木々、水鳥、カテドラル、町門。静かな町だ。静かだと思っていたら、なるほど昼休みでどこも閉まっている。でも小さな美しい町だ。曇っていたのでシスレーよりもドービニーのイメージの風景だ。これが晴れていれば、いかにもシスレーの絵そのままだろう。

07.モレ・シュル・ロアン

 昼食にレストランに入ったが町の人たちでいっぱいでなかなか順番が来そうにないので別の店、人の良さそうな親爺が暇そうにしていたカバブ屋に入る。

 フランスでカバブ屋に入ったのは久しぶりだ。安くてお腹が一杯になる。それに案外と旨い。たまにはカバブも悪くはない。



08.モレ・シュル・ロアンの中心広場

 帰りインフォメーションが開いていたので、駅までバスがないのか尋ねたがやはりないという。そこでシスレーの絵葉書を買う。オルセー所蔵のシスレーの代表作の一つだがここ<モレ・シュル・ロアン>がモティーフだとのことだ。

 

 夕食はフォンテーヌブローで温かいシュークルートを食べる。なぜか今回の旅では「生牡蠣と中華は食べない」とMUZが宣言している。


2006/11/08(水)晴れ時々曇り/Fontainebleau-Barbizon-Milly la Foret-Grez sur Loin-Fontainebleau

 ホテルで朝食後、9時にレンタカー屋へ。

 バルビゾンにはほんの20分程で到着。

 町の入口のところに「晩鐘」の看板がある。そこであの名作が生まれたのだろう。

 

 1972年、パリに住んでいた時に日本人留学生の仲間たちを誘って、僕のフォルクスワーゲンマイクロバスで1度は来たことがある。

 あの時一緒に来たSさんはその後、画家と結婚されてYさんとなり今はドイツに住んでおられる。

 学生運動で休校状態だったので、その暇にフランス語の勉強に来ていると言っていた、剣道の達人で東大生だった彼は今、どうしているのだろうか?

 人の顔は懐かしく思い出されるが、バルビゾンの町にその当時の面影は全く覚えていない。初めて来たのと同じだ。

 

 早く着きすぎたので、ガンヌの旅籠もテオドール・ルソーのアトリエもまだ閉まっている。インフォメーションもまだだ。

 天気もよく朝日を浴びた蔦の紅葉などを楽しみながら、ぶらぶら歩いているとミレーのアトリエの前にでる。

09.ミレーのアトリエ

 ここだけは9時半開館なので観ることができた。

 壁にはミレーのデッサンや印刷物、バルビゾン派の画家の作品、ルソーの作品も所狭しとかけられている。

 観終わって外に出ると受付の女性とミレーにそっくりなおじさんが話していて驚いた。

 ミレーの孫かひ孫かそれとも<そっくりさんチャンピオン>だろうか?

 カフェに入ってコーヒーを飲む。フランスのコーヒーの値段はポルトガルのちょうど倍だ。欧州通貨がユーロに統一されて価格が一目瞭然だ。

 テオドール・ルソーのアトリエの前で開館時間を待つ。

10.テオドール・ルソーのアトリエ

 時間になってもなかなか開かないなあ、と思っていてドアを押したら既に開いていた。

 やはりテオドール・ルソーの絵とバルビゾン派の画家の絵。それにパレットが4~5枚展示してある。パレットには絵が描かれている。ユトリロ美術館にも同じようなものがあったのを思い出した。パレットにこびり付いた絵具に絵が現れるのだ。彫刻家が石の中に眠っている姿を見つけ出すのに似ている。

 

 ガンヌの旅籠も美術館になっている。

11.蔦の紅葉が美しいガンヌの旅籠

 ドアや家具などに当時の画家たちが絵を描いていて、それが残されている。

12.家具にも絵が描かれている。

13.寝室。

 インフォメーションでミレーとテオドール・ルソーの彫像の場所を聞く。町はずれの森の中とのことだったので、クルマに戻りクルマで行く。森にはすぐに着いたが森の何処にあるのかがわからない。標識もなにもない。それらしき岩のかたまったところにあてずっぽうに行くとそこにあった。あちこちにきのこが生えていた。

14.バルビゾンの森の入口。

15.森の中のテオドール・ルソーとミレーの銅像。

 グレ・シュル・ロアンに行く途中、少し回り道をするだけで、ジャン・コクトーが建てたチャペルのある、ミイ・ラ・フォレという町がある。そのチャペルにジャン・コクトーが眠っているというので寄っていくことにする。

16.ジャン・コクトーのチャペル。

 クルマを停めて歩き出すとすぐに通りがかりのマダムが声をかけてくれてチャペルへの道を教えてくれる。町外れにあり、着くとちょうど昼休みだ。

 

 町に戻り、町も見学し昼食もそこで済ます。午後からの開館時間になって再び行ったが開かない。よく見ると開館時間が表示された下に但し書きがあって、フランス語なので判らないがとにかく臨時休館らしい。

17.開館時間の表示。

 僕たちが諦めて帰りかけた時、アノラック姿でハイキングか山歩きといったいでたちの初老の男女10数人とすれ違った。

 入口で立ち止まってその看板を見、わいわい喋りながら通り過ぎて行った。開いていれば寄っていくつもりだったのだろうか?目的地はここではなさそうだ。このあたりにハイキングコースでもあるのだろう。

 

 黒田清輝が住んだグレ・シュル・ロアンを目ざす。

 どこを走ってもミレーやコロー、テオドール・ルソー、ドービニーの絵の中の風景のようだ。紅葉はそれ程でもなく、むしろ森は褐色と深緑、水辺も群青色で黒々としている。

 

 グレ・シュル・ロアンに着いた。クルマを停めて教会の方に歩く。その隣に村役場があったが閉まっている。午後は何と4時からだ。ポルトガル以上に仕事をしない?お役所がある。

 村役場のところに町の地図があったので「黒田清輝通り」を探したが見あたらない。

 人通りがない。可愛らしい女の子が僕たちに「ボンジュール」と挨拶をしながら走り去った。

 その次の通りの標識に [ Rue KURODA Seiki ] の文字を見つける。

18.黒田清輝通り。

 小さな通りでその中ほどに黒田清輝が住んだお屋敷があって、フランス語と日本語でそう書かれた標識がある。

19.フランス語と日本語で書かれた標識。

 今は誰かフランスの人が住んでおられるのだろう。

20.黒田清輝が住んだ屋敷

 ロアン川まで行ってみる。趣のある石橋、それにローマ時代の廃墟の様な塔が聳えている。川向こうにサッカー場があるらしく、練習をしているのか、甲高い少年たちの声だけが賑やかに聞こえる。橋の上で風景を見ていると、女の子が2人自転車で通りかかり、やはり「ボンジュール」と言って走って行く。

 河川敷に大きな柳の木が数本。その間にベンチがひとつ、若いカップルがキスをしている。浅井忠が「グレ・シュル・ロアンの柳」を描いている。

 スウェーデン人画家・カール・ラーソン(1853-1919)<Rue Carl Larsson>通りの標識も見つけた。その時代北欧からの画家も多く住み制作に励んだ村なのだ。

 この村でカフェにでも入ってゆっくりしたいと思っていたが、どこも開いていなかった。

21.ロアン川に影を落すグレの柳

 グレ・シュル・ロアンからフォンテーヌブローはすぐの距離であった。途中、ガソリンスタンドの1軒もない。レンタカーは明朝の9時までだが、今日夕方までに返すことにした。レンタカー屋の近くまで戻っていながら、ガソリンを入れるためにフォンテーヌブロー・アヴォン駅まで引き返した。

 

 夕映えで赤く染まったフォンテーヌブロー宮殿の庭を散歩。

22.夕映えのフォンテーヌブロー宮殿。

23.マロニエ並木と白鳥の湖。

 

050.イル・ド・フランス・旅日記(下) -Il de France- へつづく。

 

(この文は2006年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

武本比登志 エッセイもくじ へ

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする