武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

068. ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(下) -Hommage Georges Rouault-

2018-11-29 | 旅日記

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(上)

2008/10/15(水)晴れ一時小雨/Reims

 美術館が開く前にサンレミ・バジリカ聖堂まで歩いた。
 昨日の藤田のチャペルより少し距離があると思ったがゆっくりと歩いた。お陰で普段の運動不足がたたって、二人とも足の裏に豆を作ってしまった。
 藤田嗣治はこの聖堂から不思議なインスピレーションを受け、カトリックに改宗、ここで洗礼を受けたそうだ。

22.

 サンレミ・バジリカ聖堂に着くころ少し雨が降り始めた。
 藤田が感じた不思議なインスピレーションとは、僕には窺い知る余地もないが、聖堂内に差し込む光が柔らかくステンドグラスにも厳かな渋さがあった。

 

23.

 隣の博物館の開場は午後2時からなので、バスで一旦町の中心まで戻り、先に美術館に入った。
 コローが随分ある。しかもオルセーやルーブルに匹敵する程の良い作品が多い。2階の古い順から観ていると12時に一旦閉館を告げられて追い出されてしまった。「1階を観るのにまた2時から来なさい。」と切符売りのマダムに言われた。

24.

 昼食の間に明日のパリに戻るTGVの切符を買う。
 昼食を済ませて2時過ぎに再び美術館に行ったが1階は少しだけだった。でもブーダン、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ゴーギャン、ドニ、ヴイヤールそれにヴィエラ・ダ・シルバなどひと通り揃っていた。忘れてならないのは藤田嗣治も1点展示されていたことだ。残念ながらルオーはなかった。

 また、サンレミ・バジリカ聖堂隣の博物館に行く。
 ランスの町を行ったり来たりだ。もう歩けないので市バスで行くことにした。市内均一、1ユーロなので使いやすい。

 美術館近くのバス停でサンレミ行きのバスを待っていた。
 しょっちゅう来るはずなのにその時に限ってなかなか来なかった。朝に歩いた時には何台ものサンレミ行きのバスに追い越されたのでしょっちゅうの筈だ。
 ガラスに囲まれたバス停で待っていたがそこに背の高い黒人の男性が来てタバコを吸い始めた。
 僕たちはタバコの煙を避けるためバス停から出た。
 そのすぐ後ろの店の入り口で二人の若い男が立ち話をしていた。
 そこに初老の警官と若い女性警官2人の3人連れの警官が通りかかった。
 立ち話している2人の内の1人に警官が話しかけたと思ったら、すぐにするりと手錠をかけた。あっと言う間の出来事だった。男は手錠がかかったまま振りほどいて逃げようとした。ものすごい勢いだった。初老の警官と女性警官たちは必死で押さえ込んだが、男もかなりの力で抵抗している。女性警官の1人が押さえながら無線で連絡を取っている。ほんの1~2分だったと思う。サイレンを鳴らしパトカーや覆面パトなど5~6台が集結していた。初老の警官に代わって若い強そうな警官が男の両手に後ろ手に手錠をかけ、首根っこを押さえつけパトカーに押し込んだ。そしてサイレンを鳴らし行ってしまった。
 市バスを待っているちょっとした間の出来事だが、こんな迫真の現場を間近で見たのは恐らく初めてのことだ。指名手配の男だったのか。あの男はいったい何をやらかしたのだろうか。

 

25.

 夕食はホテルの隣のブラッセリーでシードルを飲みシュクルートを食べた。どちらもフランスの物に違いないが、他の地方の物だ。ここではシャンペンを飲むべきだったのかもしれない。ランスはシャンペンの中心都市なのだから…。

2008/10/16(木)晴れ/Reims-Paris

 ホテルを出て、駅はすぐ近くだ。駅前に公園がある。花壇の植え込みも美しいが黄葉が素晴らしい。
 今回はトロワを諦めてランスに2泊して良かった。シャンペンは飲みそびれたが、充分に堪能できた。

 TGVはまたランス発でパリ東駅までノンストップだ。
 僕たちの席は4人掛けだが、他に誰も来ない。
 通路を挟んだ隣の席にリュックを担いだ若者が来た。リュックの側面に何と日の丸を縫い付けている。反対側にフランス国旗。それを見て僕たち二人が顔を見合わせた。
 若者は日の丸を指して「これですか。あなたたちは日本人ですか。」とたどたどしい日本語で言った。「私は4ヶ月前から日本語を習い始めました。ランスの日本語教室だけでは事足りなくて、週に2度ソルボンヌの日本語教室に通っていて今から行くところです。」ということだった。
 TGVが走り出すと早速ノートを開いて勉強を始めた。「何か判らないところがあれば聞いて下さい」というと、早速聞いてきた。授業で「隣のトトロ」を観たそうで、それに関しての質問が並んでいた。漢字はまだ難しいらしいが、ひらがなならすらすらと書けるし、読める。たった4ヶ月でたいしたものだ。
 「もっと勉強をして来年には日本に行きたいです」とのこと。
 最近の若者は「MANGA」に興味があって、日本語を習う人が多いと聞いたが、この若者はそうではなくて、日本の古い室町、桃山の歴史に興味があると行っていた。
にこにことして感じよくとても好青年で、たどたどしい日本語であったが、話している内にあっと言う間にパリ東駅に到着してしまった。

 フランスのランスで影と光、ステンドグラスではないが、陰と陽、昨日の手錠をかけられた男とこの好青年、正反対の若者に出会った。

 パリのホテルに入り、ムッシュ・Mに電話をしてみた。
 実はいつもなら作品を預ける時に入選者バッジと何枚かの招待券を受け取るのだが、「今回はまだ来ていない」と言うことだった。
 「搬入の時に貰ってきました。カタログも一緒です。」とのことだったので、ムッシュ・Mの自宅まで貰いに行った。
 いつもはメトロで行くのだが、今回は調べて85番の市バスに乗った。南のリュクサンブールから北のジュール・ジョフリンまで、普段あまり行くことのないところをたっぷりパリ観光ができる。
 カタログなどを受け取り、ついでにジュール・ジョフリンのブラッセリーで昼食。ホテルに戻るのに同じ85番のバスに乗ったが、一方通行だから走る道が違う。カルネ1枚ずつで立派なパリ市内観光だ。

 サロン・ドートンヌに行く前にカルチェ・ラタンのサン・セヴラン教会のステンドグラスを観る。
 今回はサン・シャペルのステンドグラスを観る予定をしていたのだが、バスでその前を通るたびにいつも長い行列で、今回はそこまでして観なくてもと思ったのでやめた。今までもサン・シャペルは何度も観ている。
 足が痛かったがセーヌを渡ってノートルダムへ。
 今回の旅ではルオーに関連して「ステンドグラスをたくさん観る」というテーマを持っているので、ノートルダムもその一つなのだ。いつもなら前を通ってもあまり入らない。ノートルダムに入るのは本当に久しぶりのことだ。
 入ると中では丁度ミサが行われていた。
 やがてパイプオルガンと共に賛美歌の美しい歌声が大勢の観光客の喧騒を抑えて教会内を支配する。
 ちょっとしたコンサートだ。いや、ちょっとではなく大したコンサートだ。

26.ノートルダムのミサ。

 クリュニーに戻りそこからサロン・ドートンヌ会場のあるポルト・オウテイルまではメトロで1本だ。

 クリュニーのメトロの入り口のところに総菜屋形式のすし屋がある。中国人が経営している店だ。パリですしなどもっての外。と決めていたが、ちょうど小用にトイレを探していた。

 パリでは案外とトイレに困る。
 昔、僕たちが初めてパリに行った60年代、70年代には「エスカルゴ」と称したアール・ヌーボー調の小便場が町角にあった。
 その頃には残念ながら、僕は使ったことがなかったが、何とこれも佐伯祐三は絵にしている。それがいつの頃からか不衛生という理由からだろう、なくなってしまった。今はコイン形式のモダンな建物が出来ているが、何だか閉じこめられてしまいそうで使いづらい。同じものがポルトガルの町角にも出現しているが、使ったことはない。

 パリではカフェに入ればたいてい地下にコイン形式のトイレがあり、それを使えるが、トイレだけでは済まない、夜にコーヒーを飲むと眠れなくなる。
 この際と思って小さいすし1パックずつを買って食べることにし、トイレを使った。
 僕たちがワサビを醤油にたっぷり溶かし込んでいるのを、隣の席にいたフランス人のマダムたちが見て真似をしていた。やがて鼻にツンと来たらしく、少し慌てふためいていた。

 サロン・ドートンヌの入り口は入場券を買う人々で長い行列が出来ていた。僕たちは出品者バッジがあるので横の入り口から入れる。
 ひと通り観て、自分の作品も確認して、疲れていたので早々に退散した。

 

27.

2008/10/17(金)晴れ/ Paris

 今回の旅はジョルジュ・ルオーをテーマとしたので地方都市は本来いらない。ルオーはパリで生れてパリで亡くなっている。

 検索で調べてみるとルオーが手がけたステンドグラスのある教会がある。
 でもそれはスイス国境に程近い、標高1,000メートルもありそうな、地図にも出ていない Plateau d'Assy という人里はなれた村。Eglise Notre-Dame-de-Toute-Graceと いう教会。現代建築家の手になる教会だ。ルオーのステンドグラスの他、マティス、ボナール、レジェなども参加している。これは是非行ってみなくてはと思ったが、何しろ遠い。アヌシー(Annecy)あたりまでTGVで行ってそこからレンタカーをしなければならない。2日の空き時間では無理。
 それにこの10月という時期、開いているかどうかもわからない。いずれ次の機会ということにしなければ仕方がない。
 それでルオーには関係がないが、近場のランス、トロワという場所にしたのだ。少しずつでも地方都市の美術館を観てみたいという思いからだ。

 今日は1日パリ。
 パリの地図でベルヴィル地区あたりを丹念に調べていると何とジョルジュ・ルオーという名前の通りがあるのを見つけた。
 そこを目指して朝から再度ベルヴィル地区に入ることにした。
 先日は道を間違えて見る事が出来なかった、エディット・ピアフ博物館を見るのも目的だ。見るといっても前を見るだけで中には入らない。前もって予約が必要なのだ。僕には博物館は観なくてもその場所を確認するだけで満足だ。
 エディット・ピアフはルオーと同じベルヴィル地区の生まれ。ルオーが生れたのは1871年5月21日。ピアフは1915年12月19日。
 ピアフはルオーより44年後に生れたことになる。ルオーが1958年2月13日、87歳まで長生きしている。一方、ピアフは1963年10月11日、48歳の生涯だ。
 ピアフが「ばら色の人生」や「谷間に三つの鐘が鳴る」を唄ったのが1945年、30歳。ルオー74歳の時。「愛の賛歌」は1949年、ピアフ34歳、ルオー78歳。
「パリの空の下」に至っては1954年、ピアフ39歳、ルオーが亡くなる4年前の84歳。
 ルオーは晩年、恐らくピアフの歌声を耳にしている筈だ。

 

28.ピアフの家のプレート

 僕が絵を描き始めるよりも前、佐伯祐三よりも先に初めに好きになったのがルオーだった。
 シャンソンで最も好きな歌手はエディット・ピアフでそれは今も変わることはない。
 その両者がパリの同じベルヴィル地区で生まれ育ったということは、今回初めて知った。出来ることなら、何だか少しこのベルヴィル地区に住んでみたい気分である。

29.ルオー通りの道路標示

 

30.ベルヴィル地区教会のステンドグラス。

 パリ市内でもう一つルオーゆかりの場所は何といっても「ギュスタヴ・モロー美術館」だ。
 ルオーはマティスなどと並んでギュタヴ・モロー教室の生徒でギュスタヴ・モローが亡くなった後、そのギュスタヴ・モロー美術館の初代館長を勤めていた。しかもその美術館に住み込みでだ。
 だから今回はギュスタヴ・モローその人よりもルオーの足跡を感じてみたくてギュスタヴ・モロー美術館に入った。

  

31.32.ギュスタヴ・モロー美術館内部。

 以前に訪れた時よりも作品が増えている様な気がする。ビューローに収まっている絵も丹念に1枚、1枚取り出して観てみた。
 ギュスタヴ・モローはルーブルやオルセーにある代表作よりもむしろ習作的なそんな小品に僕は魅力を感じている。

 

33.ギュスタヴ・モローの作品。

 まさしくルオーが影響を受けたそのものがそこに確かに存在する。
 ルオーは勿論素晴らしいが、それに影響を与えたギュスタヴ・モローの偉大さを
今更ながら改めて感じることが出来、感動さえ覚えた今回の鑑賞であった。

 

34.ギュスタヴ・モロー美術館のトイレ。

 もう1件、行きたい美術館がある。
 長いあいだ改修工事が行われていたパリ市立近代美術館。
 以前はモディリアニやスーティン、ユトリロ、藤田嗣治などの時代、エコール・ド・パリの作品が多く集められていた。
 その間、何度か訪れたがいつまでたっても工事中でスカをくらっていた。数年前には完成している筈である。
 メトロで向ったが、乗り換えるはずがサン・ラザール駅で外に出てしまった。またまた、近代美術館はスカをくらいそうである。
 気を取り直してバスの路線図を開いてみた。少し歩けば1本で行ける。

 入り口は以前とは違うところになっていたが、無事に着いた。
 そして無事開館していた。何と本日が初日とのことで「デュフィ展」が催されていた。
 グラン・パレのピカソ展は入るのに長い行列だと聞いたが、このデュフィ展は初日にも拘らず宣伝が行き届いてないためか割りと空いていた。

 

35.パリ市立美術館入口。

 パリでは今、同時にピカソ展、ヴァン・ダイク展、それにデュフィ、ルオーなど目白押しだ。
 パリ市立美術館の外観は以前と同じだが、素晴らしい美術館に生まれ変わっている。
 デュフィ展を観ている途中で「今日は6時閉館ですので、急いで観て下さい。」と追い出された。21時までとばかり思ってゆっくり観ていたのだ。結局、観たかった常設展を観ることが出来なかった。昨日なら21時までだったのだそうだ。
 聞いてみると「常設展はいつでも無料ですから、明日にも観に来てください」とのことであった。

 

36.パリ市立美術館展示場。

 パリ市立近代美術館のあるイエナ[IENA]からホテルのあるルクサンブールまでは82番のバス1本で行ける。
 エッフェル塔の真下を通り、アンヴァリッド、エコール・ミリタリーそしてモンパルナス・タワー、ルクサンブール公園の外側をくるりと半周しホテル近くまで、これもパリ観光の市バスだ。

2008/10/18(土)晴れ/Paris - Lisboa - Setubal

 朝食のあとホテルのチェックアウトを済ませ、荷物を預かってもらい、再び82番のバスで昨日のパリ市立近代美術館へ。
 空港へ行かなければならない時間を逆算してぎりぎりまで常設展を観る。
 規模は少し小さいけれどオルセーに匹敵する素晴らしい美術館に生まれ変わっている。しかも入場無料だ。
 ユトリロ、スザンヌ・ヴァラドン、藤田嗣治、モディリアニ、スーティン、ヴァン・ドンゲン、マルケ、ヴラマンク、ブラック、ピカソ、レジェ、ヴイヤール、ドニなどやはり僕の好きな時代の作品が揃えられている。それにビュッフェの古い良い作品が5点、フォートリエも良かった。ここにもヴィエイラ・ダ・シルヴァの作品があった。
 そして圧巻はデュフィの高さ10メートル長さ62メートル40センチの超巨大な壁画があることだ。これを観るだけでも無料では勿体ない。おまけにマティスの壁画もある。

37.デュフィの壁画。

昨日の切符を見せて「昨日デュフィ展が全部観られなかったのですが、駄目ですか?」と言ってみた。すんなりOKだったので、残りの4分の1も観る事ができた。

 

38.フォートリエなどの展示スペース。

 パリ市立近代美術館の前の通りに朝市が出ていたので、帰りはバス停まで朝市の中を通って行った。
 ホテルに戻り荷物を受け取りルクサンブールからRERでド・ゴール空港へ。

 イージージェットは席が決まっていない自由席なので、最初は不安だったが慣れれば案外良い。
 リスボン行きのイージージェットに乗る乗客がたくさん押し寄せている待合室にアナウンスが流れた。
 「到着遅れの為、リスボン行きは1時間遅れます。」

VIT

 

(この文は2008年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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068. ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(上) -Hommage Georges Rouault-

2018-11-29 | 旅日記

 今回の旅のテーマには誰を取り上げようかと早くから探っていた。
 佐伯祐三から始まって、ゴッホ。 ゴーギャンとポンタヴァン派。 エミル・ガレとアール・ヌーボーもやった。 ブーダンと印象派。 そしてミレー。 テオドール・ルソーのバルビゾン派。どんどん古くなる傾向にあるのでここらで少しねじを巻き戻して新しいのを…。

 先ずパリの美術館で何か特別展をやっていないかをネットで検索していたら、ジョルジュ・ルオーという願ってもない人物が現れた。没後50年だそうである。しかもポンピドーセンター。
 検索した8月には既に開催されていて、最終日が10月13日。
 サロン・ドートンヌの搬入日が10月14日。グッド・タイミング。13日の最終日に、もし長蛇の列で観ることが出来ない事態を想定して1日早い12日の飛行機の切符をネットで買った。

 でも更に調べていく内にそのルオー展はたったの20点でポンピドーの1室だけの展示とのこと。それならいつもの常設展と何ら変らないのではないだろうか。

 

2008/10/12(日)曇りのち霧雨/Setubal - Lisboa – Paris


 セトゥーバルからのバスは日曜日だから少ない。いつもより一つあとの1時間遅い6時発のローカルバスで出かけたので5時起きだ。4時では夜中と言う感じだが、5時ならもう既に朝なので気分的に随分楽だ。
 昨年と同じ「イージージェット」。安いし慣れればこれが快適だ。前もってネットで搭乗手続きもできる。イージージェットのスタッフはエア・フランスに比べればひょうきんで軽い乗りだが感じが良い。

 今回もド・ゴール空港までムッシュ・Mが出迎えてくれた。
 100号を預け、そしてそのままクルマでホテルまで送ってくれたので楽に随分早く着いた。

 早速、ポンピドーセンターへ。閉館は21時なのでゆっくり時間がある。
 カルチェ・ラタンを通り抜け、セーヌを渡り、ノートルダムとサン・シャペル、花市場の前を通ってぶらぶら歩いて出かけた。

 1部屋だけの展示だと判っていたけれど、窓口では念のため「ルオー展のチケットを下さい」と言ってみた。
 切符売り場の青年は困った様子で「ルオー展は1部屋だけなので、普段の常設展の切符と同じなのですよ。それでも良いですか。」と言ったあと「ルオーの特別展はマドレーヌのピナコテカで催ってますけど…」と言ってピナコテカの住所、開館時間などをメモしてくれた。
 その特別展はここに来て初めて知ったこと。これはツイている。
 それを早速、明日のスケジュールに組み込まないといけない。

 ポンピドーでは1部屋だけの筈が、離れた部屋2部屋に分かれていて、20点どころか、3段掛け4段掛けでグワッシュなどを含め100点は展示されている。
 全てがポンピドーセンターの所蔵品だが、今までに観ていない作品が殆どで、期待をはるかに超えた随分見応えのある展示である。
 これに関するカタログは作られていないのが残念。全ての作品をデジカメに収めた。

 

01.ポンピドーセンター『ルオー展』入口。

 

02.ルオー展

 

03.3段.4段掛けのルオー作品。

 その他の常設展もゆっくりと2廻りほどは観ることが出来た。やはり前回訪れた時とは大幅に作品が入れ替わっている。

 昼食を摂っていなかったのに気が付きポンピドーセンター内の屋上テラスのレストランで軽く食事をしたがこれが大して旨くもなくばか高くて、しかも食べ終わる頃には小雨が降り始めた。
 隣の席で飲み物だけ飲んでいたジャン・ギャバン風の男がにやりとして覗き込み「旨えか~?」などと言う。まるで旨くないことを知っていたようにだ。

 

2008/10/13(月)曇り時々晴れ/Paris


 ピナコテカは10時半からなのでその前に東駅に行き、ランス行きTGVの切符購入と、ルオーの生れた界隈を見てみたかったので、早くに朝食を済ませホテルを出た。ルオーが生れたのはベルヴィル地区のヴィレット街。

 メトロから地上に上がりベルヴィル地区に1歩足を踏み入れて驚いてしまった。至るところに漢字が溢れ、歩いている半数が中国人なのだ。そんな中にアラブのカバブ屋があったりする。
 ルオーが生れた時代も職人たちが暮らす下町だったらしいが、今も猥雑な下町そのものだ。
 ベルヴィルの坂道を上りヴィレット街に入り端から端まで歩いてみたが、ルオーに関するプレートも何も見つけることが出来なかった。

 その地域の教会にも入ってみた。
 もしかするとこのステンドグラスを少年ルオーが観ていたか、或いは職人として手がけたものなのかも知れない。

 

04.ベルヴィル地区

 

05.ベルヴィル地区

 

06.マドレーヌの『ルオー展』入口。

 マドレーヌのピナコテカは狭い会場だったが、作品は100点ほどもあっただろうか。最初期から晩年まで時代順に並べられた油彩が中心で、アメリカや日本など世界中から集められていて、見応えのある展示であった。モティーフごとに説明が記され、その説明をベンチに座ってゆっくりと読むことが出来る。
 1点1点がまるで樫の木やモザイク石材で作られた工芸品のごとく重厚で、深い色調の中にちりばめられた宝石の様な鮮やかな光は全く神々しいとしか例えようがない。
 額縁も様々だったが、何れもルオーモデルそのもので、見応えがあった。この展覧会は予定外だったので随分と得をした気分だ。

 メトロで一旦ホテルに戻り、歩いてIKUOさんの店に行ってみた。
 ノートルダムとポンヌフの中間でセーヌからサン・ジェルマン方向の横道に入り1分も歩かない好条件のところにあった。
 ルーブルにも程近いところなので今までにもすぐ近くのセーヌ沿いはしょっちゅう歩いていたのだが、いつも住所を持っていなかったのでこの横道に入ることはなく気が付かなかったのだ。
 「IKUOさんは今帰ったところ。」といってKEIKOさんという方が対応してくれた。

07.『IKUO-PARIS』

 帰りは少し遠回りしてサンジェルマン・デ・プレ教会に寄ってみた。ルオーが亡くなった時、この教会で国葬が執り行われたとのことだ。教会の前にザッキンの彫刻。庭にはピカソ作アポリネールの頭像がある。

 

08.サン・ジェルマン教会。

 サンジェルマン・デ・プレの向かいにワイン専門店があったので、IKUOさんのところに持っていくワインを調達した。
 出来たらセトゥーバルからワインを持って行ければ良いのだが、最近は空港のセキュリティーの面で難しい。
 今夜はお招ばれだ。IKUOさんがメイエ村からその為にわざわざ出てきてパリの自宅に招待してくれていた。
 ホテルに戻りシャワーを浴び、暗くなりかけてからホテルを出た。ソルボンヌあたりでは観光客や学生たち大勢の人びとが、10月としては暖かすぎる夕暮れ時を楽しんでいた。

 

09.メトロ通路の広告。

 IKUOさんの自宅はカルチェ・ラタンの少し東側、ホテルからも歩いて10分ほどのところだ。
 その手前にバルザックの「ゴリオ爺さん」の舞台、その下宿屋があったサン・ジェネヴィエヴ通りがある。昨年読んだばかりなので是非この通りも見てみたかったのだが残念ながらその面影は今は感じられない。

 IKUOさんの家にはIKUOさん以外にパリ在住の日本人の方々が既に5人集まっておられた。間接的に存じ上げているご夫婦と若い芸術家たち。IKUOさんの気の効いたご配慮だ。
 IKUOさんの家は中庭に面した1階にあり、時折、猫が窓ガラスをノックしていた。
 広い居間は木骨の高い天井で、「ゴリオ爺さん」の下宿屋はこんな雰囲気だったのかな~などと思った。
 心のこもった美味しい手料理と尽きることのない会話。瞬く間に12時近くになってしまっていた。

 

 2008/10/14(火)晴れ時々曇り/Paris-Reims


 ホテルでゆっくりと朝食を済ませムフタール通りの朝市を見ながら、そこからバスに乗り東駅に向った。
 メトロで東駅に行くには乗り換えなければならないがバスなら1本だ。途中パリ見学もできる。
 東駅の売店で、車内で食べようとPAULのサンドイッチを買ったが朝が遅かったのでそのままランスまで持参することになった。
 TGVはランス行きで途中停車もなく45分で着いてしまう。

 ホテルは予約をしていない。目指すホテルは満室。その隣も満室。地方都市でいままでこんなことはなかったが、最近は皆、ネットで予約をするのだろう。その向かいの「北ホテル」に空室があった。
 ホテルの部屋から隣に「アーネスト・へミングウェイ」という赤いネオンが見える、顔写真までが看板になっている。バーの様だ。何かゆかりがあるのだろうか。

10.アーネスト・ヘミングウエイの文字。

 今日は火曜日なのでランス美術館は休館日。
 ツーリスト・インフォメーションで明日のトロワ行きのバスの時刻表をようやく貰う。ようやくと言うのは、そのインフォメーションの女性はそのバスのことを知らないのだ。「列車の駅に行って聞いてみたら」などと言う。ランス、トロワ間に線路がないのは僕でも知っているのだが…。
 インフォメーションのもう一人の女性が「バスがあるわよ」と同僚に教えて、ようやく時刻表を探し出してくれた。

 

11.

 

12.

 

13.ランスのカテドラル。

 カテドラル前のベンチに座って、列車内で食べなかったPAULのサンドイッチを食べる。他の店のものより少し高めだが、どっしりとしたパンにたっぷりの中身。若い人が行列する筈で、美味しく腹持ちも良さそうだ。

 

14.15.カテドラルのステンドグラス。

 食べ終わってカテドラル内へ。ステンドグラスがシャルトルのカテドラルに匹敵するほど素晴らしい。
 そして1番奥にはシャガールのステンドグラスがある。

 これがまた素晴らしい。天気も良いのでシャガールブルーの合間にある赤や緑がことのほか輝いている。まるでルビーとエメラルドをちりばめたごとくだ。

 

16.シャガールのステンドグラス。

 シャガールはパリのオペラ座の天井画やここのステンドグラスなど公共の大きな仕事を数多く残しているのに改めて感銘を受ける。
 一角に風変わりな、まるでヴィエイラ・ダ・シルヴァの作品の様なステンドグラスがある。
 MUZは「絶対ヴィエイラ・ダ・シルヴァの仕事やで!」という。
 僕はまさか偶然だろうと思ったが、あとで買い求めた美術館のカタログに「ヴィエイラ・ダ・シルヴァ」の仕事と記されていて、その下絵が掲載されている。
 シャガールに限らず多くの外国からの芸術家がフランスの公共施設に作品を残している。

 

17. ヴィエイラ・ダ・シルヴァのステンドグラス。

 カテドラルの隣のトー宮殿博物館は開いていたので観ることにした。中世からの発明展が催されていて、小学生などの課外授業とかちあってしまった。ダ・ヴィンチなどの設計図を元に模型が作られて展示されている。子供たちが床に座り込んで説明を聞いている。展示物で常設のタペストリーなどが隠れて観にくかったのが残念であった。

 

18.

 「藤田嗣治のチャペル」は午後2時から開場。
 このランスの町も、藤田のチャペルも1972年に一度訪れている。実に36年ぶりだ。
 きょうあとの予定は藤田のチャペルを観るだけなのでのんびりと歩いて行った。街路樹や壁の蔦の紅葉が美しい。

 

19.

 以前にはなかった建物が隣に出来ていたが、1972年に訪れた時と全く同じ佇まいで懐かしく感じた。

 藤田嗣治は1966年、80歳の時、このノートルダム・ド・ラペ礼拝堂を完成させた。

 

20.

 その壁、そして天井いっぱいに描かれたフレスコ画をじっくり観ていると藤田の息使いまでが聞こえてくる。
 その前年、マティスはコート・ダジュールのヴァンスにロザリオ礼拝堂を完成させている。おそらくマティスにしろ、藤田にしろ持てる力の限りを出し切った、まさに総決算の仕事だ。
 77歳でリュウマチに苦しんでいたマティスが、80歳の藤田が、そのどこに、この様なエネルギーが隠されていたのだろうかと改めて感動を覚えずにはいられなかった。

 

21.藤田のチャペルから帰り、住宅の窓から猫が挨拶。

 今回の旅では中華は食べない。牡蠣もノロウイルスが怖いので食べない。もちろん牛肉も食べない。と言うことにしていたので食事が限られる。
 ホテルの向かいのピザ屋にたくさんのお客が吸い込まれていくので今夜はピザにした。フランス料理に比べると安上がりで手軽、たまにはピザも良い。

 夜、トロワ行きのバスの時刻表を検討してみたが、本数が少ない。朝と夕方に幾つかあるが、昼間は11時15分発の1本だけ。その後は17時40分発でトロワ到着が20時。それでは遅すぎる。11時15分に乗るには美術館の開館が10時だからぎりぎり45分しか観ることが出来ない。
 美術館からバス停まで歩いて確かめてみたが、わざわざ来たランスの美術館を45分の駆け足では勿体ない。
 せめてあと1時間遅いバスがあれば良かったのだが…。
 トロワの美術館も観たかったし、トロワのサン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂の珍しいという黄色いステンドグラスも観てみたかったが、今回はトロワは諦めざるを得ない。北ホテルを1泊延長することにした。

VIT

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(下) -Hommage Georges Rouault-へつづく。

 

(この文は2008年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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