僕が最初に高田渡に会ったのは、西岡たかしさんの鶴橋の自宅だったのかも知れない。
その時はすぐに自宅を出発して、一緒に環状線に乗ったのだろうと思う。
僕には環状線の中で、西岡さんと3人で電車に揺られていたイメージが強い。
一緒に北区兎我野町の事務所に行ったのかも知れないが、そのことは僕は覚えていない。
僕が事務所に入っていた時か、まだ入っていなかった時かも定かではない。
僕はまだ19歳の時で、高田渡はまだ17歳にしかならなかった時だ。
もう既に「自衛隊に入ろう」は出来ていた様にも思う。
僕はその前後して西岡たかしさんに誘われてアートディレクターとして事務所に入った。
だからまだ19歳の大阪芸大に在学中だった。
フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が大ヒットして、事務所は活気づいていた。
そしてフォークブームに火が付いたのだ。
事務所では全国からフォークソングの会員を募って、会員配付のレコードと機関誌「フォークリポート」を発刊しようとしていた。
その第一号が出かかった時、その発案者の1人が西岡たかしさんとの意見の相違からか、東京でもっといい仕事が舞い込んだためか、突然東京に出てやめてしまった。
その両方だろうと思うが…。
それで僕に白羽の矢が立ったのだ。
最初は「大学に通う片手間に雑誌のレイアウトを手伝ってくれるだけで良い。」
デザイナーもやっていた西岡さんが「教えるからその通りやればできるから」との話だった。
フォークソングは全国組織の労音にすんなり受け入れられて、事務所所属の歌い手たちは忙しく、ミュージシャンもどんどん増えていった。
その当時の歌い手は「高石友也」「シューベルツ」「岡林信康」「五つの赤い風船」「ジャックス」「中川五郎」「遠藤賢司」「六文餞」そして「高田渡」などがいた。
まだ居たと思うが、プロとアマチュアの境もなかったから、どこまでの名前を挙げて良いかもわからない。
中川五郎などはまだ高校生だったし、グループの場合解散したり、別に組み合わさったりと流動的だった。
西岡たかしは「五つの赤い風船」のリーダーだった。
そんな中でも高田渡は忙しい方の歌い手だったと思う。
最盛期には年間のコンサートは200回近くもあったのかも知れない。
ソロ歌手とグループなどで組み合わされて全国の労音を回るのである。
「高田渡」と「五つの赤い風船」といった組み合わせなどもあったと記憶している。
忙しくなったのと同時に労音が解体同然になっていた。
西岡さんはコンサートが忙しく雑誌の編集どころではない。
労音の制作スタッフだった村元武さん(現『ビレッジ・プレス社』代表『ぷがじゃ』『雲遊天下』『ぐるり』など話題の雑誌創刊者)が、雑誌の編集長として入社してきて僕はほっとした。
そしていろいろと教えてくれた。
労音主催でなくとも、事務所主催というコンサートもあった。
僕はアートディレクターだから雑誌のレイアウト以外にも、そんなコンサートポスターやチラシをせっせとデザインするのである。
高田渡は時々事務所にも顔を見せていた。
当時彼は写真が趣味であった。
僕はデザイン用の写真と一緒に彼のフィルムを現像に出しておいてやったことも何度かある。
彼は朴訥としていても案外とお喋りで仕事中の僕によく喋りかけていた。
歌やコンサートの話はあまり聞いた記憶はないが、たいてい写真か絵の話だった様な気がする。
僕はレコードジャケットのレイアウトなどもしていた。
カヴァーの絵は当時売れっ子のイラストレーターなどに依頼するのだが、文字のレイアウトなどは僕が担当する場合が多かった。
高田渡の LP<汽車が田舎を通るその時>は高田渡のお兄さんが絵を描いた。
そのレイアウトは高田渡から直接頼まれたのだと思う。
彼がずっと後になってからそう言っていたからそうなのだろう。
とにかく僕は流れ作業で次から次にそんなことをやっていた。
彼は東京を引き払って京都に住み始めた。
一度何人かで彼の部屋を訪れたことがある。
中川砂人か岩井宏、又は加川良が一緒だったのかも知れない。
その全員だった様な気もするし、もっと居た様にも思う。
彼は歌にあるように昆布茶を出してくれた。
京都の喫茶店「イノダ」に彼が連れて行ってくれたこともある。
「ここの歌を作ったのだよ。」と嬉しそうに話していた。
僕は、高田渡とアルコールを飲んだ記憶はない。
もっとも二人ともまだ20歳前だったから当然だが…。
僕は日曜日に定休日の飲食店を借り受けて、その日曜日のみをフォーククラブに開放する手伝いをしていたことがある。
<うわばみちゃん>という名前で金延幸子さんともう1人男性(名前を忘れた)が主宰者だった。
中川砂人と瀬尾一三がやっていた<グループ愚>と浅井彰の<やまたのおろち>というデュオグループが主となって、その時、手の空いているミュージシャンが遊びにくるのである。
<グループ愚>のリード・ヴォーカルは金延幸子さんであった。
遠藤賢司や高田渡は時々顔を見せていた。
客はいつも殆ど居なくて他のミュージシャンもまだ誰も来ていなかった時、高田渡は僕とMUZを前にして「新しい歌を作ったのだけど、聞いてくれる」などといってよく歌ってくれたのを思い出す。
<広島フォーク村>の村長さんという人も一度訪ねてくれた。
広島フォーク村では当時、英語のフォークソングを歌っているという話だった。
<うわばみちゃん>では皆が日本語で自分の言葉で歌っているのに衝撃を受けたと言っていた。
その後、しばらくして広島フォーク村が LP を自費出版したのは知られることだが、その中には吉田拓郎などが日本語で自分の歌で参加していた。
僕はその頃は既にスウェーデンに居た。
加川良が事務所に制作スタッフとして入社した。
岩井宏もバンジョーでは食えないからという事で制作スタッフとして事務所にいた。
加川良は自分の歌を作り始めていた。
そして<中津川フォークジャンボリー>でフラットマンドリン・高田渡、バンジョー・岩井宏を従えて衝撃的にデビューを果たした。
事務所は大きくなりすぎてガタガタしはじめていた。
僕はそんなフォークブームのさなか事務所を辞めてヨーロッパへと旅立った。
僕はスウェーデンの自宅などで高田渡の歌を好んで歌っていた。
高田渡はアメリカの歌を自分自身の言葉に置き換えて作詞したり、大正~昭和中期の<添田唖蝉坊>の歌詞を高田渡節に乗せ歌ったりしていた。
なかでも『鉱夫の祈り』は僕の最も好きな歌であった。
朝もやの中に一つ こだまする汽笛の音
応えはいつも一つ いつもこだまは一つだけ
子供らは泣きじゃくる 腹を空かし泣きじゃくる
私にできるのはただ 泣き疲れ寝るのを待つだけ
お願いだ聞いておくれ 街に住むお偉い方
この子らが泣かないように 抗夫の祈りを聞いておくれ
スウェーデンに住み始めて1年くらい経ったある日突然、高田渡が訪ねてきた。
その頃、日本では日本語のブルースが少し流行っていた様だ。
もちろん、マイナーには違いないが、その先頭が高田渡であった。
高田渡は朝日新聞の連載記事を書いているとのことで、その取材で来たのだと言っていた様に思う。
僕はストックホルムの下宿に在留日本人を何人か集めて「高田渡コンサート」を開いた。
僕は覚えていなくて、高田渡が後に話していたことだが、僕はその時<押し寿司>を作って皆に振舞ったらしい。
その頃僕は手作りの箱でよく<押し寿司>を作っていたのは事実だから、そうなのだろう。
それは今でも変わらない。
高田渡を伴ってストックホルムのライヴハウスにも行ったことがある。
飛び入りで高田渡に歌ってもらった。
歌詞も歌の合間の話も日本語で観客で理解出来る者は僕1人の筈であったが、絶大な拍手が起こった。
隣に座っていたスウェーデン女性は「彼のブルースは素晴らしいわ」と言っていたのを覚えている。
言葉は解らなくても音楽は通じ合うのだ。
僕はスウェーデンに4年半過ごした後、ニューヨークで一年暮らし、南米を一年かけて旅をした。
その後、日本に帰ってMUZの故郷宮崎に住んだ。
僕は飲食店を経営することになった。
しばらくして店を改造した。
ジャズを流し、民芸陶器を仕入れて販売し、壁では展覧会をした。
月に一度「ジャズマニア集中講座」と称して、近所に住むマニアの河野和明氏に講師をお願いしてレコードライヴを催したり、「やまあいVOICE」というミニコミ紙を作ったりして楽しんでいた。
敷地は1500坪もあり、店舗も50坪と広いところであった。
コンサートツアーの途中、加川良が訪ねて来てくれた。
年に何度かは九州にも来ているということであった。
しばらくして河野和明氏と組んで「加川良-村上律」のライヴを催した。
ライヴをするにも充分な広さの店だったが、立ち席が出るほど満席になった。
その前くらいから宮崎でライヴ企画などをしていた、河野好博氏も目をつけていたらしい。
加川良のライヴをして満席になったものだから、これからも継続的にライヴが出来ると思ったのだろう。
「次は高田渡ライヴをしないか?」と企画を持ちかけてきた。
僕の中ではその頃、ポルトガルに移住する計画が具体化し始めていた。
僕は条件も何も聞かないで、二つ返事で「やろう」と言ったものだから、河野好博氏はむしろ驚いていた。
僕は宮崎を去る記念に「高田渡ライヴ」を催ってみたいと思ったのだ。
その後、いろいろと聞いた話では、「高田渡は舞台で酔っ払ってしまってコンサートにならないよ」とか「寝てしまうこともある」「客に食ってかかったり」とか、あまりいい話は入って来ない。
「でも催る価値はあるよ」とか賛否両論入り混じって耳に入ってくる。
とにかく僕が知っている頃の高田渡とはかなり違っている様だ。
以前はまだ20歳前だったから飲むことはなかった。
でも久しぶりに会うのは楽しみである。スウェーデンで会って以来であるから、既に20年近くの時が流れていた。
河野好博氏は本業のブティックを数軒経営するかたわら、趣味でライヴの企画をやっていた。
大掛かりな野外コンサートや海外の一流ミュージシャンを招請したりもしていた。
一方、無名のミュ-ジシャンを掘り起こすのにも心を砕いていた。
有名、無名のミュージシャンを九州に招いて、そのコンサートツアーをプロデュ-スするのである。
自分でも主催するが、一軒ではギャラとか交通費などの経費が賄えないから、何軒かのライヴハウスや市民団体などに話を持ってゆくのだ。
そしてライヴ当日はその会場を連れ巡ることもする。
企画の河野好博氏は前もって僕のことを高田渡に話していたらしいが、どこの誰だか判らなかったらしい。
当日、ライヴの客がすっかり揃ってから高田渡が河野好博氏に連れられて店に入ってきた。
既に少し飲んでいたようだ。
加川良の時は前もって入念に P・A のサウンドチェックなどをしたが、高田渡はそれはまったくなしで、ぶっつけ本番である。
舞台の方に行きかけて僕がいるカウンターの方に目をやって「エーッ」と言いながら近づいてきた。
まさか僕が宮崎のこんなところで店をやっているとは想像もできなかったのだろう。
もう既に開演時間だったから、久しぶりに会った挨拶もそこそこに演奏が始まった。
演奏の合間に僕との思い出話を客席に向かってぽつりぽつりと話していた。
僕にはストックホルムでのライヴが蘇っていた。
河野好博氏の後談によると、僕の店でのライヴがその九州ツアーでは一番良かった。とのことであった。
昔を知る僕の前ではあまり飲むことが出来なかったのか?あるいは酔う事が出来なかったのかも知れない。
とにかくそれ程は酔ってはいなかった様に思う。
次の日は店も定休日で高田渡も次のライヴまで時間は充分にあったから、一日ゆっくりと過ごした。その時に居た番犬・ミケーニャも嬉しそうにしていたのが印象的だった。
高田渡は犬が余程好きな様だった。
夕方になって次のライヴの場所、小林市まで1時間ばかりをクルマで送っていった。
小林市の木造の古い公会堂がその日の舞台だった。
宿泊先の温泉旅館に案内して、その日の主催者の市民団体の人に引き継いだ。
主催者の人は高田渡が酒が好きだと聞かされていたのだろう。
特別強いという珍しい酒を御土産に用意して待っていてくれた。
その強い酒をコップになみなみと注いで、皆が静止する間もなく一気に飲み干してしまった。
その時以来高田渡には会っていない。
その夜のコンサートはさんざんなものだった。と後に河野好博氏は言っていた。
河野好博氏は「高田渡は飲むのをいいかげんにしないと永くはないよ」と心配していた。
誰もがそう思っていた様だ。
それから数年後、河野好博氏の方が早くに亡くなってしまった。
僕よりも高田渡よりも若いまだ40代であったと思う。
そんな若さだとは思えない包容力のある大人物であった。
「普段病気がちの人は芯は案外頑丈に出来ていて、高田渡も意外と長生きするかもね。」などと僕たちは囁いていた。
数年前、二人とも絵本作家でイラストレーターの市居ミカさんと宮本一さんが新婚旅行でセトゥーバルを訪ねてくれた。
一緒に露天市などに行ったのだが、露店のCD屋で「ファドを一枚買いたいのだがお勧めは」と宮本さんに聞かれた。
僕はすかさず「アルフレッド・マルセネイロ」を勧めた。
「どんな感じですか?」と訪ねられたので、「高田渡の様な感じかな~」と答えたのだ。
何と宮本一さんは偶然にもポルトガルの旅行中に聴くために、高田渡のCDを一枚だけ持って来ていたのだ。
勿論、僕が高田渡とは古い友人で面識があるとも知らない。
そのCDは「獏-高田渡・詩人-山之口獏を歌う」というものだった。
宮本一さんはそのCDをセトゥーバルの我が家に残して行ってくれた。
山之口獏の詩に高田渡が曲を付けたのに高田渡と仲間たちが歌っているものだ。
その頃、「雲遊天下-No.15」(ビレッジ・プレス社・1998年2月1日発行)に高田渡は「そうそう酔ってもいられない」というタイトルで文章を書いている。
以下その最後の部分を転載したいと思う。
……このところぼくはお酒を抜いたりして、ずっとやっていてちょっと元気になってきたんじゃないですか。
そういえば最近、「何か、まだやってなかったことがいっぱいあったなあ」って気がする。
こういうことがいろいろあって、そうそう酔ってもいられないなあって。
少しは飲むけど、あんまり飲まないですよね、もう。
最近は頭が冴えてきているし、やらないといけないことはいっぱいあるし、どれから手を着けようかと思うね。今のうちにね。
線香花火の最後だからね。
燃え落ちる前に何かしておかないといけないよ。……
高田渡は僕たちが住み始める以前にはポルトガルにも来たことがあって、ファドにも興味を持っていたらしい。
ポルトガルギターの湯浅隆が高田渡と楽屋で出会ったことがあると言っていた。
高田渡は湯浅隆に「ポルトガルギターを聞かせてくれ」とせがんだとの話である。
またそのうちひょっこりセトゥーバルに現われるかもしれないな。などと思っていた矢先「高田渡死去」のニュースが飛び込んできた。
この春、日本に帰国準備で慌しくしていた帰国の2日前であった。
2005年4月16日没、56歳の生涯であった。
VIT
(この文は2005年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)