さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は-1度から+9度、湿度は58%から76%。風速は1mから3mの弱風で西北西の風。比較的暖かかった一日だった。
毎日、我が家と病院との往復ばかりなものだから、少しはメリハリをつけないと・・・ということで、東かがわ市引田の町に行ってみた。天気もいいことだし、とりたててのご用もないし・・・ということで。ま、気分のリフレッシュだ・・・。
ここが、「讃州井筒屋敷」で、江戸時代から昭和中期まで栄えた「井筒屋」さんのお屋敷である。旧引田町(現、東かがわ市引田)の醸造業を語るとき、井筒屋をのぞいて語れない。井筒屋の歴史は古く、元禄の時代から、引田醤油の名を広めていたし、酒は、大正二年(1913年)から合名会社酒造井筒屋を設立。清酒の醸造を開始し、大正九年には焼酎、みりんの製造を開始した。最盛期には、清酒五百石以上、焼酎四十石、みりん五十石、白酒十石などを製造し、引田随一の地主・商家として繁栄した。
昭和八年(1933年)個人組織を合名会社井筒屋に改め、翌九年には、酒造部も合併した。醤油、酒、ともに順調にその業績をのばしたが、企業の大量生産化等のあおりをうけて、醤油は大川醤油工業協同組合で共同製造、酒は他社に委託生産させる状況となった。
平成九年頃からは、旧井筒屋に住む人はなく空家となり、建物の傷みも目だって、存在すら危ぶまれる状況となった。「貴重な財産をなんとかしたい」という住民からの請願により、平成十三年末に、旧引田町は本宅・倉庫部分の家屋敷を取得するにいたった。
市では旧井筒屋を歴史的な古い町並み景観を活かした観光交流の拠点とし、地域経済の活性化及び地域文化の継承を図ることを目的に再生・創造の改修事業を行った。(「引田町史 近・現代」より)
このおひなさん、ものすごく大きな「かまど」が置いてある。その横にはいくつものお膳が並んでいる。こういうおひなさんも珍しい・・・。
この御殿飾りは、このおうちにあったもので、昭和の後期まで飾られていた七段飾りだが、最上部には御殿飾りが乗っている。七段飾りというのは、女の子の「七つの難を防ぐ」とか、「女性の七つの節目」という意味もあるらしい。
その翌年の14年から始まった「引田ひなまつり」も昨年で10回を過ぎて、今年はいよいよ11年目を迎えることになった。今年も例年通りに2月27日から3月3日までの開催となる。
で、11時前には市民病院に到着、けいこばぁと交代。今日は打って変わって眠ってばかり。昼食も食べずに寝息をたてて眠っている。昨日とは違う薬を貼り付けたとか。でも、看護師さんが言うていたが、「世の中、便利になって、こんなものを胸に貼るだけで効果があるなんて、誰が考えたのかしらんね。私ら、注射だけしかやらなかったけど、そら、大変だったのよ~」。
今日も食べる量は少なかったが、脈拍・血圧などは正常。意識もしっかりとはしているが、麻酔薬の影響で乱調は幾分かは認められる。食べないからか尿や便の量は少なく、これで体力が維持できるのか・・・と思うのだが、本人はいたって元気そのもの。
今日は旧正月。中国などでは「春節」というらしいが、そういう風習は我が国ではほとんどみかけない。地方に行けば、まだ、残っているのだろうか。しわく広島の茂浦集落では、「ももて神事」が行われたのかどうか・・・。今年はそんな余裕さえないことだった。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。
間もなく涅槃会、ニルバーナだな。
あのブッダでさえ自ら説いた節理の通りに完涅槃へ行かれたものだ。
昨日BSだったたかCSだったかで、手塚治虫のブッダをやってた。
生老病死を苦と感じるそれは我がままに成らねばこそそれを苦と捉えるらしい。
苦だろうが楽だろうが、それすら過ぎ去って行くものなのだが。
奥さまと一緒に手厚い看護をなさっているご様子、
頭が下がります。お大事に!
2月15日から4月7日まで多度津資料館で「ひなまつり展」が開催されます。
準備も整っているようです。
「生かされているいのち」の重みを感じている。「なんで、お迎えが来ないのか」「どうしたら・・・楽になるのか・・」母の苦痛が身に染みてくる。
誰しも迎えるその時なのだけれど、予想もしないのに突然に襲ってくる死もあれば、じわじわと迫ってくる死もあるし、死のうと思っても死ねない時もあるのだろうし。
自分のいのちは自分の物・・・と思ってはいたが、確かに自分では制御できないこの「いのち」は、私の物でありながら、私の物ではない「いのち」なのだなぁと思う今日このごろ。
私の父は、私が22才の時に亡くなったけれど、父の死を考えたことも悲しんだこともない。そのときにはありがたみさえ感じる年代でもなかったし。
家内が「手をかければかけるほど愛着が湧いてくるの」と言い聞かされて、恩返しだと思って母を介護している。まるで赤ん坊のようになって、私の差し出すスプーンでおかゆを食べる母を見ていると、そうして私も育てられたんだなぁと思うことである。