まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

行く今日を 追いかけもせず 藪椿

2017年12月04日 | たまにはご法務

 さぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇り、夜のはじめ頃まで雨の降る所があるらしい。気温は6.1度から11.5度、湿度は94%から72%、風は0mから2mの西南西の風が少しばかり。明日の5日は、強い冬型の気圧配置となるため概ね曇り、夕方まで雨や雪の降る所がある見込みなのだとか。

 

 今日は所属寺院、海暁山海暁閣勝覚寺の報恩講の日である。門に入ってびっくりしたのが、この本堂前の松の木である。秋の永代経の時には元気できれいな緑色だったのに、今は松喰い虫で枯死しかけている。

 

 10時過ぎに我が家を出て、勝覚寺に入った。天正十四年(1586)、徳島県、板西城主・赤沢信濃守の子息、正本法師は、丹生村小砂に勝覚寺を建立した。貞亨元年(1684)に、第九世・願故法師は、小砂坊を三本松に移し、堂宇を建立し今日に至っている。現在の明海住職は、第二十五世になり、開基以来四三一年の法灯を継承している。

 

 本堂脇にある「庄松同行」の銅像にもご挨拶。小倉右一郎氏の作という。何歳の頃か・・と質問されるが、元になった写真や似顔絵がある訳ではない。

 

 こういうお話などから作られた庄松さんの銅像なのだろうと想像している。今となっては、誰も庄松さんの顔を覚えている人なんぞいないのだから。

 

 勝覚寺は讃岐国名勝図会には、開基は明暦三年(1657)沙門正哲の草創とあるが、寺伝によると、天正四年三好氏落城のとき、その家臣板西城主赤澤信濃守は中富川の合戦において討ち死にし、天正十年(1582)赤澤信濃守の一子正本法師が菩提を弔うため、大坂天満興正寺で証秀上人につき得度し、丹生の郷小砂村に小砂坊を開基したのが勝覚寺の始めとされている。古い安楽寺末寺帖にも小砂正覚寺とあり、追加の記事にも三本松正覚寺とあり、創建も寺伝による天正年間が正確といえる。安楽寺末寺となったのは、阿波三好氏の関係であろうと思われる。

 

 正午に、この鐘を撞くのが私のお仕事になっている。

 

 私は相変わらず、トイレばかりに走っている。少し動いたらトイレ、少し歩いたらトイレ。そういう病気だから仕方がないが、そのたんびに略袈裟を外し、道服を脱がないといけない。終われば道服を着て略袈裟を掛けて・・・。ああ、ややこしや、ややこしや。

 

 13:30からお勤めになる。導師は赤沢善海さん。澄んだかわいい声が特徴である。まるで一休さんみたいな笑顔である。

 

 夏の残暑見舞いと兼ねて、秋の永代経と12月の報恩講の案内をハガキで出しただけだから、どれだけのお参りがあるかとハラハラしたが、おなじみの門徒さんがお参りにきていただいた。

 

 最近の報恩講は、この川田先生のご法話となっているようだ。明るくてやさしいお話だから、おばさん、おばあさんたちには好評のようだ。

 

  今日の掲示板はこれ。「にんげんはねぇ 人から点数をつけられるためにこの世に生まれてきたのではないんだよ にんげんがさき 点数は後」という相田みつをさんの言葉。確かに点数をつけられるために生まれてきたのではないのだけれど、ふと、見回せば、点数をつけられてばかり。今日の川田先生のお話は、「無量」。無量とは計らないことだとお話を聞いた。人間は計ってばかりだ。比較してばかりだ。でも、そうじゃないんだよと、阿弥陀さんはいうとるんやろうね。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。



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