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まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

讃岐路の 春締めくくる 野菜市

2016年06月01日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷の影響で西部を中心に雲が広がっている。気温は19.4度から25.4度、湿度は82%から56%、風は1mから2mの北北西の風が少しばかり。明日の2日は、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 我が家の睡蓮が見事に咲いた。朝の間に水路周りの草刈りをやっておく。

 

 草丈はそう長くはないのだけれど、家の周囲だから刈り払っておくほうが気持がいい。当然、我が家のものではないので、まったくのボランティアである。

 

 10時になったので、さぬき市志度にある「さぬき市立図書館」へやってきた。来週は上洛の予定なので、借りていた本を早めに返却しておいた。

 

 毎日の常連さんが集まっての井戸端会議。まったく、のんびりとしたところである。

 

 先日、京都にバスで向かっていたら、伊勢志摩サミットの警護のために派遣されていた自衛隊の一団が高速道路を走っていたが、中に見慣れぬ車両がいくつもあったので、最近の最新装備とはどんなものだろうとかと借りてきたのだが、あんまり参考にはならなかった。

 

 また一冊、丸亀市へお婿入り。

 

 お昼から、こんなところへ行ってみた。さぬき市長尾・清水というところで歩行者専用ということで市道を閉鎖している。

 

 その先には、こうした出店が90張りほどが並んでいる。昼間だからさほどでもないが、夜になると身動きできないほどの人出になるという。

 

 そのメインの場所がここで、宝円寺さんという。正式には「如意山宝円寺」といい、真宗大谷派の寺院である。寺記では永享二年(1430)僧了円建立となっているが、『御領分寺々由東』や『全讃史』『玉藻集』などでは永禄年中(1558-69)浄円建立、『讃岐国名勝図絵』では長享二年(1488)了円建立と、創建年代がまちまちであるが、本尊が他の真宗寺院に比べて古いことから考えると、寺記にいう永享二年説も否定できない。住職の伝承ではもと天台宗であったのを真宗に改めたともいう。

 

 明治三年本堂改修の年、将基にあった二十四輩堂を当寺に移し、それまで将基で行われていた「二十四輩の市」も当寺で行われるようになった。これが、先に見た「宝円寺の春市」の起源であるらしい。この石仏が「二十四輩」さんである。

 

 境内には野菜や野菜の苗、植木、あじさいなどの苗などを販売している。県内の最後を締めくくる春市として、毎年6月1日に開催されており、明治時代中期に将基にあった二十四輩堂を宝円寺に移した際、この市が行われるようになった。

 

 最初は田植え前の農具市だったのが、今では野菜や果物などの苗物、かき氷、たこ焼きなどを売る90店ほどの露店が並び、21時過ぎまで賑わう。別名「夜市」とも言われる宝円寺の春市は、境内や門前の道路両側には、食べ物、植木、お菓子、おもちゃなど約90張りの露店が立ち並んでいる。

 

 最近は少子高齢化によって、おまつりや春市も淋しくなってきつつあるけれど、ここの春市は100年以上も続く春市として有名である。

 

 今日の掲示板はこれ。「再び通らぬ一度きりの尊い道をいま歩いている」という榎本栄一先生の言葉から。今日の宝円寺さんの門前にあった言葉である。「一年は短いが、一日は長い」とはだれかの言葉であるが、その長い一日でも、一分一秒ずつ年をとっているのである。どこかの女優さんが「一年が一千万円で買えるなら、私、買いますよ」と言ったそうだが、お金を出して買えるものでもないし、女優だから、それができるという訳でもない。毎日毎日、明日がある、明後日が あると思って、ついうかうかと過ごしているのが私たちである。しかし、いずれにせよ、お互いに「再びは通らぬ一度きりの尊き道をいま歩いている」というわ けである。ややもすれば、いやなことは避けて通り、毎日、おもしろおかしく、押し流されているとも言えるのだが、尊いいのちをいただいている自分自身の本当の姿に気づいて、自分をみつめ直すことが求められているのではないかと思われる今日このごろである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


振り向けば 色とりどりの 花菖蒲

2016年05月31日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れている。気温は18.0度から28.8度、湿度は96%から62%。風は1mから3mの西南西の風が少しばかり。明日の6月1日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 今日は天気がいいもので、火曜日恒例の図書館通いの日になった。来週一週間は「資料整理」とかで休館になる。そこで、借りていた本を返却するためにやってきたもの。

 

 それと、「真宗公論」という学会誌をここに寄贈するためである。半信半疑で寄贈を申し出ると、「そこにある注意書きをよく読んでおいてください」というので、五箇条ほどの注意書きを読んでみた。「不適切な場合は処分します」という条項があったので、納得して三冊を寄贈してきた。無碍に断らないところがやさしいなぁと思った。

 

 ここには、私の著作が12シリーズあるが、いずれも処分されたことはない。1シリーズは三冊である。閲覧用、貸し出し用、書庫用の三冊ずつを寄贈している。

 

 ついでだからと、6月中旬に行われる「讃岐一国逆打ちまいり」のコースの下見をしてみた。今までは山の中だったが、今回のウォーキングは市内の市街地を歩くことになる。私の取材場所の位置取りのためである。どこに車を停めて、どのアングルから一行を迎え撃って撮影するか・・・のポイント決めである。

 

 前回は屋島寺から歩いてここまで来て、ここから列車に乗って帰ったらしい。JR高徳線の木太町駅で、6月にはここから歩き始めるらしいが、ここには駐車場がないし、付近に広場もない。ここで皆さんをお迎えするのはきびしい場所。

 

 そこから南下してきたところにある「木太小学校」だが、このあたりにも空き地がない。このあたりは道幅も狭くて取材ポイントが難しそう・・・。足を痛めた人や急病などの場合の救護班も私が兼ねる。

 

 少し西に進んだところにある「野田池」や「伏石中央公園」「伏石神社」あたりは場所的に余裕があるが、その後はまたも細い道をくねくねと歩くことになる。どこで待ち受ければいいものか。

 

 こういう大きなランドマークがある所はいいのだが、歩き遍路を車で追いかけるというのは、市内の住宅地では難しそう。

 

 讃岐一の宮の「田村神社」が見えれば、ゴールはすぐそこ。

 

 昔は仲良くしていた「別当寺」だった「一宮寺」が83番札所。その後、変則で80番の国分寺まで歩いてJR国分駅からさぬき市へ帰ることになる。歩行距離は約19.3Km程度になるらしい。7月にはJR鬼無駅から根香寺から遍路道経由で白峯寺を経て国分寺を打って、国分駅から帰宅の予定。

 

 今日のお昼もガリガリ君。いきなり暑くなったので冷たいものがおいしくなった。

 

 お昼からは亀鶴(きかく)公園の花菖蒲園をのぞいてみた。6月5日に「しょうぶまつり」が行われるらしい。時期的に介護施設の車が何台も並んでいた。右上の東屋にいる人たちがそうらしい。

 

 早くも看板屋さんが、「しょうぶまつり」の会場ゲートを設営に来ている。

 

 こういうゲートになる筈である。

 

 今週、来週は、大勢の人たちでにぎわいを見せることになるだろう。

 

 今日の掲示板はこれ。「自分は正しい 自分は賢いというところに立っている これが人間の迷いのもとです」というもの。赤松先生のお寺にあった言葉から。私たちは「迷い」と聞くと、右に行ったら良いのか、左に行ったら良いのかと迷っている様をイメージしがち。しかし、仏教 における「迷い」とは、「こうに違 いない」「こうあるべきだ」という「思いこみ」のことを指すのである。思いこんでいる時に、その思いこみに気付くことはないし、気付かないからこそ「思い こむ」というのであろう。その思い込みをやめることはできない私たちだが、そのことに気づくことが大切だというているのである。迷いを断ち切ったりはでき ないが、その迷いに気づくことが大切だというのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


廃校の 静けさの中 野にあざみ

2016年05月22日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れている。気温は16.3度から26.2度、湿度は91%から72%、風は1mから2mの北東の風が少しばかり。明日の23日は引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 いい天気になったが、今日は何の予定も入っていないが、奥方が居るものだから出かけられない。もしも出かけようとすると「どこに行くの?」「連れて行ってよ~」と言い出すのも面倒なもの。

 

 だから、昨日の続きで、田淵家の納め札に書かれた「四文字熟語」の「願文」を調べていた。この場合は字が間違っているのだが、「国家泰平・国家安全」の意味だろうと推測する。それを、別のマシンに整理していく。

 

 そうこうしていると、三番目の弟の「たっくん」がふらりとやってきた。やがて、「山の家とかに行ってみるかい・・」というので一緒に行くことにした。わが家にいてもつまらない。

 

 で、山の旧宅の草刈りの跡を見てもらったり、公園(?)予定地の草刈り跡も見てもらった。

 

 その後、88番札所の大窪寺に行ったが、10時半過ぎでは、まだ、おうどんタイムにはならない。今日は日曜日ということもあって大勢のお遍路さんがお参りに来ていたが、「閏年の逆打ち」らしき人には出会わなかった。

 

 そこで、ここに寄ってみた。旧多和小学校跡である。ここは「土曜日曜休日」しかやっていない博物館である。元日銀高松支店長の村山昇作さん(66)ら天文愛好家が「一般社団法人天体望遠鏡博物館」を2010年に立ち上げた。現在は全国に約30人のメンバーがいる。市町村合併の影響で閉鎖した天文台や家庭から望遠鏡を託された人たちで、古いものの修理も手がけていた。村山さんは「古い望遠鏡を残して科学少年少女を育てたい」と博物館の場所を探していた。12年に廃校になったさぬき市の多和小学校の校舎が使えることになった。(朝日新聞デジタルニュースから)

 

 山村にある校舎は街の明かりからも離れ、天体観測に適している。市が耐震工事費用を負担し、地元の人たちが床の塗装を手伝った。2階の教室に小型望遠鏡を並べ、屋内プールを改修し、大型望遠鏡の展示室にした。ここが、元屋内プールだった場所。プールの上に床を敷いて、望遠鏡を展示してある。

 

 前回はイベント途中だったために、大型望遠鏡しか見学しなかったが、今日は11時からの1時間コースの見学となった。ここはスライド・ルーフの可動式天井が開いて天体観測ができる部屋。

 

 ここでは特殊フィルターを装着した望遠鏡を使っての太陽の観測。太陽の黒点とかコロナなんぞが観測できた。普通の望遠鏡では絶対に真似しないこと。失明すること間違いなしとのことだった。

 

 二階の元教室に入るとびっくり仰天。ものすごい数の望遠鏡が・・・。それぞれ、お役目が済んだ望遠鏡が各地から送られてきているのだとか。ここの望遠鏡の総数は200台以上だとか。

 

 ここで、望遠鏡と天体望遠鏡の違いについてのお話を伺った。それと、「リユース」についてお話も。「3R」という言葉は早くから聞いていたが、ここで、「リ・ユース」のお話を聞くことになろうとは。ちなみに、3Rは、Reduce(リデュース)、Reuse(リユース)、Recycle(リサイクル)の3つの英語の頭文字を表している。ここは、校舎を「リユース」して博物館に、リタイヤした望遠鏡を「リユース」して天体望遠鏡に使い直し(再使用)ているのである。

 

 これは「百武彗星」を発見した百武先生が使っていた大型双眼鏡。これで彗星を見つけたのだという。こういうものがドカーン、ドカーンと置いてある。

 

 ちょうどお昼になったので、校庭に作られた「農家食堂」で「しっぽくそば」を食べることにした。ここには、このメニューしかないのだそうだ。

 

 これが、その「しっぽくそば」。これからは暑くなるのだから、冷たいものも用意しておいて欲しいもの。しかしのかかし、この大根の大きさはどうだ。大根だけでおなかがふくれるほど。

 

 おそばというもの食べた記憶がないのだが、これがおそばというものなのか・・・と思った。おそばはツルツルと飲み込むものだと思ったが、これはお箸でつまむと切れてしまう。不思議な食べ物だった。おそらくザルそばにすると、お箸ではつまめないので、お出汁には入らないだろうと思う。

 

 お昼からも、納め札に書かれた「四文字熟語」を整理していた。今日は101番から500番までの400枚を読み取ったことになる。やはり、圧倒的に「天下泰平・国家安全」がダントツだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「迷いとは 心が二つになること 悟りとは 心が一つになること」というもの。誰の言葉だかはわからない。心が、今の自分と、何か聞こえてきたものを追いかけて、2つになってしまったら、これが「迷い」となる。ものを追いかけるから迷いとなる。右に行くか左に行くか、これがいいか、あれがいいかと心が揺らぐと迷いとなる。これに気づかないと、本質を見失ってしまい、デザインの美しさにとらわれたり、値段を追い回したりして迷うのである。そこで、いったんは、外に向かってはたらく心を断ち切って、自分の内に向ける工夫が大事になる。そうすれば、今、こうして見ているもの、聞いているもの、命あるものの尊さに気がついて、自然と眼に花が映ったとき、花はわが命と一つであるとわかるはず。心が一つになるのが悟りであると気づくのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


振り仰ぐ 曇天に咲く 朴の花

2016年05月11日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は寒気の影響で雲が広がり、雨が降っている所があったが、夜には高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。気温は19度から20.2度、湿度は92%から70%、風は1mから3mの西の風が少しばかり。明日の12日は高気圧に覆われて晴れるらしい。

 

 朝方は曇ってはいたが雨は降っていなかったのでお出かけをすることにした。昨夜からテレビやラジオで「勝海舟」「勝海舟」と賑やかなので、そんなに珍しいものならば見て置かねばならんだろう・・・などと。

 

 香川県西部の仲多度郡多度津町というところで、恒例の「わが家のお宝展」をやっていて、勝海舟の手紙が公開されているらしいのである。

 

 右の方の☆マークがわが家、そこから西に進むこと60Kmほどの所にあるのが多度津町。片道で1時間半。

 

 ここが多度津町立資料館である。この敷地などは江戸時代の旧多度津藩士浅見家から寄贈されたもの。8時半にわが家を出て、ココに着いたのが10時。予定通りだった。

 

 こういう看板が掛かっている。

 

 これが、その、「勝先生の手紙」と言われるもの。何がなんだか、ちんぷんかんぷん。

 

 廣井某が敵(かたき)討ちに出るというので、勝が「敵討ち免許状」を書いて渡したが、見事、敵討ちの本懐を遂げたのだが、その40年か昔の思い出を書いた手紙だということらしい。

 

 

 私には、こういうもののほうが理解しやすいし、

 

 こういうドイツ製のカメラのほうがわかりやすい。

 

 これはアメリカ製の蓄音機。

 

 これは剣術の印可状。さまざまな「わが家のお宝」が並んでいた。15分間の見学でユーターン。

 

 今日は暑くはなかったが、喉が渇いたので「ガリガリ君」を食べながら戻って来た。お昼にちょうどいい時間、11時50分になった。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生この先 何が起こるか分かりません。だからこそ1日1日を大切に、感謝の心で生きたいです」という西端春枝さんの言葉から。西端春枝(にしばた-/1922年-/女性)は、ニチイの創業者の一人として知られる元実業家、大谷派浄信寺副住職。 戦後、夫婦で行商などを行い、大阪で衣料品店「セルフハトヤ」を開店。その後、衣料品店「赤のれん」、卸問屋「エルピス」、「ヤマト小林商店」の4社が合併し株式会社ニチイ(後のマイカル)を設立。社長には夫の西端行雄が就任し、自身は人事部長や研修部長などを務めた。大谷派浄信寺副住職として講話活動なども行っているほか、大谷学園理事、商業界全国女性同友会名誉会長、商業界近畿女性同友会会長、日韓女性親善協会関西支部会長、雑巾を縫う会会長、自立人間をめざす会大阪名誉会長などを歴任。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp+致知)

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


春ゼミを 聞いて平和の 味を知る

2016年05月08日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、黄砂を観測している所があったらしい。気温は12.9度から24.4度、湿度は92%から51%、風は1mから3mの東南東の風が少しばかり。明日の9日は気圧の谷や湿った空気の影響で、雨が降る見込みらしい。

 

 今日は、「おへんろつかさの会」主催の「逆打ち讃岐一国まいり」の第二回目、志度寺から85番札所の八栗寺、84番札所の屋島寺を歩く日である。工程は約19キロ。でも、ここはともに山の上にお寺があるので、アップダウンが激しいルート。さぬき市役所に午前8時に集合して出発。参加者は25名。

 

 歩き遍路道を志度のさぬき市役所から歩いていく。

 

 道の駅「むれ」でトイレ休憩をして、牟礼町の旧道を歩いて、八栗寺の裏参道を登る。ここは長い登り坂である。この狭い裏参道を、よく知ったお遍路さんはマイカーで登ってくる。狭いから対向するのがむつかしいところ。駐車場も狭い。私は一気に、ここまで登ってきて待機する。

 

 皆さんは新緑の若葉の下を気持良さそうに歩きている。

 

 ここが、「やくりさん」として親しまれている「八栗寺」である。ここから参加する人と、ここでお帰りになる人がいて、それぞれの体力に合わせて歩く。

 

 八栗寺からは表参道をゆっくりと降りる。ここで走ったら足を壊してしまう。そして、屋島に登る旧遍路道を登るのが、これまた試練。

 

 急な山肌を石段状になっている坂道を登ってくる。

 

 私は、その間に、洲崎寺という源平の古戦場にあるお寺に寄って、「四国遍路の父」と呼ばれている「大法師・真念」さんのお墓を見学する。その後、スーパーでお昼の弁当と飲み物を買って、近くの公園で昼食をすませておく。そして、屋島ドライブウェーを登って山上駐車場に車を置く。

 

 待つこと30分。ようやくに、あえぎながら皆さんが登ってきた。そして、お食事。今日は時計を持って出なかったので時間はわからないが、10時に八栗寺を出たのだから、11時半くらいにはなっていたのかも。

 

 ものはついでだから・・・ということで、「屋嶋の城(き)」を見ることにした。今日は詳しいことには触れない。白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れた日本は、唐と新羅の連合軍の侵攻に備えて各地に城を築いたという。ここは、その一部らしい。

 

 その後、84番札所の屋島寺に着いた。

 

 今日のコースは、赤い斜線と斜線の区間である。でも、みなさん、健脚だなぁと感心した。

 

 今日の掲示板はこれ。「眠れない夜をなげく者は多いが 目覚めた朝に感謝する者は少ない」という、町内の善楽寺さんところの掲示板のことばから。毎日、多くのいのちが理由もなく、傷つけられ、奪われ、失われていくことを、新聞やテレビを通して、私たちは知っている。しかし、その苦しみ・悲しみに、 どれだけ自らに肉迫するほどのリアリティーを感じ、こころを震わせているだろうか。薄情なようだが、少なくとも、私はそんなこころは持ち合わせてはいない。私にあるのは「無関心」であって、それはどこまでいっても自らの「痛み」とはならない。そこに立ちはだかり、自他を隔てる、三人称・二人称・一人称という見えない壁を 感じずにはいられない。朝がまたやって来た。この朝を迎えた人間には、今日という一日を、精一杯生き抜く責任があるように思う。そうでなければ、この星のどこかで、朝を迎えることができなった人に対して申し訳ないではないか。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


雨の中 若葉見ながら 来る遍路

2016年04月27日 | ふるさと散歩

 丸亀地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、雨が降っている。気温は16.4度から18.9度、湿度は94%から90%、風は2mから3mの北北西の風が少しばかり。明日の28日は、低気圧や寒気の影響で雨が降りやすい見込みらしい。

 

 今日はしわく広島での「おせったい」の日。つまり、旧暦3月21日、ミニ八十八カ所のお大師まいりの日なのである。

 

 ここが一番札所の霊山寺。むろん、どこから初めてもいい。この島にはミニ四国が作られているが、最近は過疎化で人数が減ったために、1集落で三カ所程度、7集落あるので、20カ所程度でおせったいが行われる。形ばかりにお賽銭を入れ、形ばかりに頭を下げて、パンやお菓子を頂いて回る。

 

 本四国通りのご本尊さんとお大師さんの石仏が置いてある。ここは、6番さんと7番さんを一カ所に集めてある。こういう石仏を巡っていく民間行事である。おせったいをすることによって、自分の願いや思いをお遍路さんに託して、自分の身代わりとなってお四国を回っていただくことから始まったもの。だから、おせったいがメインであって、おせったいする方も、「おせったいですから」と言って品物を差し出し、受け取る側も「おせったい」を「くれるもの」と思い込んでいる。

 

 ここは雨が降っていたので、車の中でおせったいをしていた。ちなみに、ここでは「ゆでたまご」一個。

 

 ここではスナック菓子一袋。雨防止のためにブルーシートを張ってあった。おとなりは無人で夏柑を置いてあった。

 

 この頃・・8時半ごろは雨も上がって薄曇りになっていた。ここでも、昨年とは品物もお世話役も半分になっていた。ここは本来、山の上のお堂でお接待していたが、坂道が急なために、こちらで出開帳してのおせったいになっていた。

 

 今年は平日でもあり、しかも雨天ということで、お参りの方は100人以上200人以下という話だった。

 

 お接待する方も暇そう・・・。ここは正式のお寺の本堂でのお接待である。

 

 ここは天台宗寺院で、住職さんが護摩供養をされているところだった。

 

 昨日の失敗で、利尿剤の入った薬と、一円玉の詰まったお賽銭袋を忘れて来てしまった。だから、形だけの合掌をしただけで申し訳ないほどのお接待をいただいてしまった。

 

テーブルの上に並べてみた。やはり、手軽なお菓子やパンが多かった。少し前までは主流だった「小豆ご飯=赤飯」や、「バラ寿司」などは手間がかかるのでめっきりと姿を消した。即席ラーメンは7個ほどあった。

 

 土日だったら二千人分、平日なら七百人分・・・と聞いていたが、最近はずっと、それ以下になっている感じがした。特に今年は、おせったいの場所が減ったのと、お参りの方が少ないなぁと感じたことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「明日の人生はきっと何かあるものです。きょうの苦しみはきょうで終わり。明日の苦しさは明日の話」という吉田潤喜さんの言葉から。吉田潤喜 (全米にてヨシダソースで有名な日本人/ヨシダグループ会長兼CEO)さんの言葉である。苦しみを翌日に持ち越さない習慣をつけられると良いものだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


夫婦連れ 遠回りする 芝桜

2016年04月14日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は湿った空気や気圧の谷の影響で雲が広がっていたが、昼過ぎから高気圧に覆われて晴れてきた。気温は8.8度から24.8度で、一部では夏日になったかも知れない。湿度は94%から72%、風は1mから4mの西南西の風が少しばかり。すっかりと夏の気候になった。明日の15日は引き続き、高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

  

 まだまだ、鍋の中にタケノコがあるのに、「時期の物だからどんどんと掘って来てよ~」と仰るので、旧宅の竹藪に行って来た。

 

 もう、サルもイノシシも飽きたのかも知れない。こんなにどっさりと掘って来た。

 

 縦に半分に切って、ごそっと皮を剥く。こうすれば手早く処理できる。ものの本によれば、皮ごと湯がく方法があるらしいが、そのほうがおいしんだろうか。皮を湯がくのはムダのような気がするのだが。

 

 わが家はこんな風にして皮をむいたものを湯がくことにしている。

 

 で、鍋二つ分になった。もっと大きな鍋があると思うが、ここの台所はわからない。

 

 昨日は東かがわ市の「芝桜富士」を見て来たが、今日は高松市西植田町にある、「カフェ・ジャルダン」にやってきた。日記を見ると、毎年、4月14日に、ここに来ているらしい。

 

 今年の入場料は300円だった。ここもぞろぞろと大勢の方が見物に来るので、300円でも、相当な金額になるなぁと思った。ま、ひとさまのお財布まで心配することないのだが。

 

 普段の時には入場料などいらずに、カフェに入れるのだが、芝桜まつりの時には入場券売り場が特設される。お花の管理料という名目である。

 

 これは昨年の写真である。

 

 この芝桜だけを見に来る人が圧倒的で、カフェに入ったり、シフォンケーキを買う人は少ない。

 

 今年の「芝桜アート」は「ネコ」のよう・・・。昨年はカエルだったし・・・

 

 その前の2014年は「ペガサス」だった。毎年、ここのご主人が考えて植え付けをするらしい。

 

 これは、歌手の「鳥羽一郎」さんが植え付けた「兄弟船」である。

 

 関西や東京から高松空港に向かって来る飛行機からも、この芝桜が見えて、機内アナウンスもされるという。

 

 およそ、4500坪の広い敷地に、20万本を越える芝桜を植えてあるというのだから見応えがある。

 

 今日の掲示板はこれ。「他人の悪口はウソでも面白い 自分の悪口はホントでも腹が立つ」というもの。そういうことって、周りにはいくらもある。だからと言って、腹ばかりも立ててもいられない。極力、そういうことを聞かなくするしかないが、これまた、聞こえなくなると余計に不安になったりする。とかく我ら凡夫は悲しいさがの生き物であることか・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


芝桜 思い思いの時がある

2016年04月13日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は湿った空気や気圧の谷の影響で雲が広がり、夕方からは雨が降ってきた。気温は8.8度から19.8度、湿度は94%から64%、風は0mから1mの東北東の風が少しばかり。もう、夏のような陽気になった。明日の14日は、湿った空気や気圧の谷の影響で雲が広がり、未明までは雨が降るけれど、高気圧に覆われて昼前から晴れるらしい。

 

 「もう少し、ワラビが欲しいから採っておいてね」と仰るものだから、わが家の庭先でワラビを探してみた。けっこう、生えているもんだ。わが家の裏庭にはツクシもたんと生えている。春先にはフキノトウも生えていた。ずいぶんと田舎にやってきたんだなぁと思った。

 

 このくらいあればいいだろう。私はワラビはもういい。

 

 講演会のリハーサルをやって、時間が80分になったので、20分を減らさないといけないので、昨夜、10枚ほどの画面を削除した。ばっさりと削除するのはもったいないので、「非表示スイライド」という設定をした。

 

 それで、時間を計り直したら、やっぱり、80分になる。話す内容が決まっているから、スライド画面を幾ら少なくしても時間は同じ・・・ということになる。「どうしたもんじゃろうかいのぉ」。

 

 何回もはリハーサルはできないので、またしても集落内一周の散歩に出た。こういうサルの食べ散らかした跡があちらこちらに・・・。これを掘って、上の部分を切り捨てたら充分に食べられるのだが・・・

 

 まだまだ、タケノコはしっかりと残っている。タケノコばかりも食べられない。

 

 お昼からは病院に行って来た。今月の27日が予約診察日なのだが、この週はしわく広島に帰らないといけない。そこで診察日の変更をお願いした。すんなりと、前の週の21日に変更してくれた。これで心置きなく島に帰って草刈りなんぞができることになった。

 

 そのついでに、ここに寄ってきた。東かがわ市帰来という地区にある「芝桜富士」である。

 

 元は栗林だった林を開墾して、富士山状に芝桜を植えた私設の公園である。左端の山小屋が古い木製の電柱や廃材を利用して建てたもの。「森本君は電柱で家を建てよるよ~」というのは聞いていたが、22年をかけて、こんなものを建てていたらしい。

 

 「私は大工ではありません」というのが彼らしい。元はNTTの事務系の社員だった人。コツコツと自分で趣味で作ったもの。念のために付け加えておくけれど、自宅はちゃんとした工務店の建てた正規の家で、これは趣味の家という山小屋である。

 

 これが空き瓶を利用した明かり取りの窓。

 

 これが2トン車のフロント硝子を使った窓である。こうしたものが随所にある。

 

 やっぱり見所はこの「五合目」である。

 

 こんな風に、今が見頃だろうか。

 

 ここから上はうっすらと咲いている感じだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「知らないことがあっても落ち込まない。知らないから調べてみる。できないからやってみる。行ったことがないから言ってみる。そういう選択もある」というもの。秋山裕美さんの「そっと心にささやく元気が出る50の言葉」から。そして、「名言コツコツ」さんからの言葉である。「知らないから調べてみる」「できないからやってみる」「行ったことがないから行って見る」・・・・。良い言葉だなぁと思う。そうでなくては面白くないじゃないか。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


振り散って 桜吹雪の へんろみち

2016年04月10日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で、昼過ぎにかけて雲が広がり、その後は高気圧に覆われて概ね晴れてきた。気温は11度から20度、湿度は96%から67%、風は1mの南西の風が少しばかり。明日の11日は高気圧に覆われて概ね晴れるけれど、朝にかけては寒気の影響で雲が広がる見込みらしい。

 

 今日は幾つもの予定があったのだけれど、早くから決められていたもので、「おへんろつかさの会」の行事に参加した。今年は「うるう年」ということで、お遍路さんは「逆打ち」をするというのである。つまり、閏年の時には、88番から逆に、87番、86番と巡拝するのだ。

 

 で、皆さんは86番札所の志度寺のある志度から、コミュニティバスで大窪寺にやってきた。私は「緊急輸送係」ということで、マイカーで合流した。ま、長距離を歩くので、足を痛めたり、転んだりした時に、会員さんを病院ほかへ運ぶ係である。

 

 で、今回の参加者は36名。「逆打ち讃岐一国参り」ということだが、健康ウォークみたいなものだ。今回のリーダーが、この中央の多田先生。歩き遍路を何回もやっているらしい。

 

 9時半に到着して、45分には大窪寺を出発して「遍路道」を勉強しながら歩いて行く。旧遍路道にも踏み込んで遍路墓などについても勉強した。

 

 こういうお遍路さんのお墓があちらこちらにある。ここには備後の国のお遍路さんが埋葬されている。

 

 旧多和小学校跡でトイレ休憩。みなさんが歩いて来るまでに、私は「天体望遠鏡博物館」に入った。入場料は300円だった。

 

 各地の天文台や家庭で使われなくなった望遠鏡を集めた全国初の天体望遠鏡博物館で、3月12日に開館式があった。廃校になった校舎を利用した博物館には200以上の望遠鏡が並んでいる。元日銀高松支店長の村山昇作さん(66)ら天文愛好家が「一般社団法人天体望遠鏡博物館」を2010年に立ち上げ、現在は全国に約30人のメンバーがいるという。

 

 古い物から新しい物までさまざまで、各地の学校や高校などにあったものが多いかなぁと感じた。

 

 この「木辺氏」というのがすごい。真宗木辺派錦織寺第21世ご門主さまである。その方が、レンズを磨くのが上手なのだそうだ。

 

 ま、何を説明されてもチンプンカンプンである。望遠鏡というと、一万円くらいなものしか知らないのに、数千万円の望遠鏡だと言われてもピンとは来ないのだ。

 

 みんなと合流したので、今度はその先の「細川家住宅」まで進んで、みんなを待ち受ける。そういうことを繰り返しながら、けが人や体調を崩した人がいないかを確認しながらついていく。

 

 いつもの「おへんろ交流サロン」で昼食。12時半過ぎに到着、13時20分に出発。

 

 ポイントごとにお勉強しながら歩く。ここは「高地蔵」と「流れ勧請」で有名な場所。

 

 その間にも何カ所かを見学した後、87番札所に到着。今日はお遍路さんが多くて、大型バスが入れ替わり立ち替わりだった。ここが15時。これから86番志度寺まで行くのだが、2時間はかかるというので、私はここで失礼させていただいた。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生に夢があるのではない 夢が人生をつくるのだ」というもの。誰の言葉かは定かではないが、一説には「謝世輝[しゃ・せいき]」(台湾出身の成功哲学研究者、物理学者、科学史家・世界史家、東海大学教授、1929~)だと言われているが確かではない。人生に夢があるのかないのかは知らないが、夢が人生を作るというのは納得できる。私は「通信」という夢を追いかけて40年を過ぎてきた。今は「まほろば工房」という夢を追いかけて走り続けている。夢が人生をつくるということを信じて生きていきたい。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


花吹雪 風に任せて 今日を終え

2016年04月06日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、夕方からは気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がるらしい。気温は8.6度から19度、湿度は96%から64%、風は0mから4mの東北東の風が少しばかり。明日の7日は、前線や湿った空気の影響で雨が降りやすく、昼前から夜のはじめ頃にかけては、雷を伴う所がある見込らしい。

 

 明日が雨で、今日が最後のお花見日和だとニュースでは言っていたが、はてさて、今日はどこへ行こうかと考えながら走っていた。今日の目的は、昨日、借りて来た長尾町史の中の「小西家」の調査をする筈だったのだが。

 

 日光の関係で、いい絵が撮れなかったので、作戦変更して「静御前」を偲ぶ旅になった。まずは、87番札所にある、「静御前剃髪塚」からである。静御前は義経の死後、悲しい思い出を断ち切るため、母の磯野禅師の故郷、大内郷小磯に戻ってきた。そこでしばらく滞在したが、義経と殺された我が子の菩提を弔うために、長尾寺で剃髪して「宥心尼」となった。

 

 ここで、義経の思い出を断ち切るために宝物である「初音の鼓(つづみ)」を流したとされる「鼓淵」である。昔はここに川があったのだろう。今は細い水路があるばかり。

 

 ま、こういう名品であったようだが、「静」は、全ての思い出と決別する気で鼓を投げ捨てたのだろう。もはや、尼の身に鼓など不要であったのかも知れない。

 

 その後、母の磯野禅師は疲れと寒さのために倒れ、そのままここで亡くなった。

 

 道路に面した大きな石碑の裏手に、小さな石塔があるが、これが、磯野のお墓である。ご近所の方がお水とお花を供え続けているらしい。そこから少し西に進むと木田郡三木町に入る。川沿いに南に進んでしばらく行くと、山の手に大きな池が見えて来る。さらに進むと「鍛冶池」という池がある。

 

 その池の西側の土手にこのような建物が見えて来る。ここが「靜薬師」という庵跡で、ここに「宥心尼」が住んで、義経とその子供の供養のために念仏三昧をしていたという。

 

 中央にある小さな黒い厨子が、義経からもらった薬師如来である。

 

 特別公開。こういう薬師如来座像である。研修の時の物。普通には見ることはできない。

 

 庵の入り口にある案内看板である。

 

  その後、京から侍女の琴路(ことじ)もやってきて世話をしたらしいが、靜は病のために24才の若さで亡くなったという。侍女の琴路も七日後に、この池に入って亡くなったという。

 

 これが、静御前のお墓だと言われているもの。

 

 これが、侍女琴路のお墓だとされるもの。

 

 これは平家によって殺された義経の子のお墓とされるもの。新しいお墓だが、新しく作り直されたと考えておこう・・・。この庵は、屋島の合戦で義経の身代わりとなって亡くなった佐藤継信の子孫によって大切にお守りされていると聞いた。

 

 今日のお昼はここ。もう、最後のお花見。すっかりと葉桜になってきた県営大川ダムのダム公園での一人花見。今日の朝ドラではないが、おにぎり弁当。私も、あと何回のお花見ができ、何年、桜の花が見られるのだろう。

 

 今日の掲示板はこれ。「逝く空に 桜の花があれば佳し」という三波春夫の辞世の句である。平成12年12月上旬に東京都内の病院に入院。翌平成13年2月初旬のこと、都内でも大雪になり、三波は病床で「ふるさとを見せてやろうと窓の雪」との句を詠んだ。それを聞いた当時マネージャーだった娘・美夕紀が「辞世の句かしら」と問いかけると、三波は「そうかもな」と少し元気なく答え、続けて「逝く空に 桜の花が あれば佳し」とも詠んだ。美夕紀は「桜の花が咲くと一緒に永眠するのか」と思ったという。そして奇しくも同年、桜の時期の4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去。77歳没。病名告知以降、手術はせずに投薬治療を選択。最期まで苦しむ事はなかったという。死去の3日程前から眠っている状態だった が、息を引き取る2時間前に目を開き、妻に語りかけた「本当にたくさんの歌を一緒に作ったね。ママ、ありがとう。幸せだった…」が最期の言葉だった。(Wikipediaより)

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


毎日が 生きる命の 野辺の花

2016年03月25日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は、高気圧に覆われて晴れていた。気温は3度から13度と冷たい朝になった。湿度は72%から55%、風は1mから2mの西の風が少しばかり。明日の26日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 こんな日はお散歩だな・・・と、またも歩くことにした。ただ、ブラブラと歩いて居たり、はっきりとウォーキングをしている・・・とは思われたくないので、重いけれどデジタル一眼を担いで歩く。歩いて居ると、「鳥を探しているのか?」とか、「蝶々を探しているのか」と聞かれるけれど、単なる散歩の道具だけなので、あいまいに「春を探しています」と返事をしておく。

 

 と云うことで、今日は少し足を伸ばしての散歩になった。同じ町内なんだけれど、北に向かって進んで町境の山に登ってきた。

 

 手前の赤茶色の屋根が、旧幼稚園、向こうの鉄筋コンクリート建ての建物が旧の小学校、その右に見える建物が旧の保育園。全て閉校、閉園になってしまった。

 

 さらに県道津田川島線を北上して「友近」という集落にある「八剣(やつるぎ)神社」に寄った。この「随身門」が有名な建物で、小さな村の小さなお社にし ては立派な門。この門の棟梁はこの地の大工だが、そこにある彫刻は、塩飽大工として有名な塩飽本島生ノ浜(いくのはま)の橘貫五郎と千代蔵、そして同廣島 の嘉三郎が刻んだもの。完成は明治元年(1868)である。

 

 この彫刻がそれらしい。こんな所にも塩飽大工の仕事が残っている。

 

 これが、その案内板。塩飽本島の橘貫五郎というのは超有名な塩飽の大工の棟梁で、備中国分寺五重塔と善通寺五重塔を建てた。ま、親子何代か貫五郎を世襲したらしいのだが。

 

 火山(ひやま)の南麓、北地(きたじ)集落にある。真言宗善通寺派。花生山蓮花院と号し、本尊阿弥陀如来。寺記では行基開創、空海建立。宝蔵院古歴記(松浦文書)によると天長6年(829年)建立、元来宝蔵院(現長尾町の極楽寺)末寺であったが、延喜10 年(910年)印清が富田院主を号して同院を離れ、翌11年再び末寺に復したという。戦国期には安富氏に強引に与田寺(現大内町)の末寺にされたことが あった。天正4年(1576年)増玉が正御影供を修し、安富筑後守は家臣六車宗湛をして銅鉢を寄進させたという(御領分中寺々由来)。

 

 西教寺より下方左側には、西教寺六面石憧(せきどう)が有る。『県指定有形文化財:昭和51年6月29日指定・二基』で、石憧は笠(屋根)や憧身(屋根か ら下の部位)が六面或いは八面をした石造物で、供養や経塚の標識として造立されている。西教寺六面石憧は、南北朝時代の代表作で、凝灰岩が用いられてい る。石憧は東西に2基並んでいて、『讃岐名勝図絵』には、この付近に西教寺山門が有った事が記述されている。東塔=憧身は高さ約1.4m幅約42cm一面 の幅は約28cmで正六角形で、一面に「永和2年3月24日(1376年)と刻まれている。

 

 これが、その石憧。さすがに、このあたりまで来ると休みながらの散歩になる。

 

 だらだら坂をだらだらと登って行くと、こんな看板がある。「遊歩道」とは書いてあるが、なかなかに厳しい山道。

 

 やっぱり、登り坂になると、息がきつい・・・。こういう登山道をえっちらおっちらと登って行く。今日は暑いくらいになってきて汗が流れ始める。だから、木陰で一休み・二休みしながら登って行く。

 

  西教寺から800m位登った火山(ひやま)の中腹に「穴薬師」(梅が谷)がある。少し前までは、お寺で鍵を借りていたのだが、最近は誰でもお参りできるように扉が開いている。

 

 堂内には高さ約90cm薄肉彫りの磨崖仏厄除薬師如来像が岩崖内の壁面に刻まれて いる。薬師如来像の右側には、高さ約1mの十二神将一体が厚肉彫りで刻まれ、その他に浮き彫り線刻等の手法による小像や丸彫りの像が安置されている。

 

 ゲンノウ(玄能)と石ノミだけで石を彫るのはたいへんなことだ。

 

 堂外の岩壁には、頭部の長さ約70Cm、胸部までを肉厚彫りにした半身の巨大な薬師如来像磨崖仏がある。『西教寺の磨崖仏 「彫刻」大川町指定文化財(現さぬき市)(昭和43年5月1日指定)』伝(?)空海作。伝説によると・・・弘法大師がこの像を掘り終える前に、鶏が鳴いてしまったので、途中で中止して大窪寺へ向かったという・・・。その鶏が鳴かなければ、この西教寺が88番札所になっていたかも知れない・・・というおはなし。更に、この像の上方約50mの所に、線刻の近い薄肉彫りによる高さ90Cmとその両脇に高さ約50Cmの不動明王の像がある。

 

 この岩は少し硬すぎてあきらめてしまったのかも。

 

 帰り道の民家には、黄色いミモザの花が満開だった。

 

 今日の掲示板はこれ。「生きることに満足せずして 何に満足するのか」というもの。これこそ、町内にある善楽寺さんの掲示板から。人間の根本的なことは「生きる」ということ。それには「食べる」ということが必要になり、「生き抜く」という力が求められ、そこから更に「学習」だの「経済」だの「文化」だの」「宗教」だのが求められる。この地上にあるすべての生き物は、「生きる」と言うことに「満足しなくては」次のステップが踏み出せない。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


咲く桜 部屋の掃除を 思案する

2016年03月24日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷や寒気の影響で雲が広がっていたが、概ね晴れてはいた。気温は9度から14度、湿度は77%から46%、風は1mから3mの北の風がピューピューと賑やかだった。明日の25日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 この前に借りた本は何度も何度も読んだ本だったもので、新しい情報でも探そうか・・ということで、またしてもここにやってきた。高松市林町にある「香川県立図書館」である。着いたのが8時55分だったので、どんぴしゃで開館に間に合った。

 

 今回、借りたのはこういう五冊。「櫃石島の歴史と民俗」、聞いたことのあるタイトルだなぁと思ったら、お友達の濱本敏広さんの作ったものではないか。「豊島のお大師さん、豊島の西国三十三ヶ所めぐり」、「さぬき市の遍路墓」、「四国遍路文化論」、「千社札かわら版」。

 

 これが、島四国の中身を調べるのに良いし、櫃石島の本にも、島四国や三十三観音霊場の石仏資料が掲載されている。豊島の島四国の本は貸出禁止になっていた。一部しか寄贈しなかったんだな。

 

 空気は冷たかったし、風もあったが、天候が良いものだから、高松市仏生山町にある、「法然寺」さんを訪問した。ここが、讃岐の浄土宗の総本山みたいなところだから、境内に「法然上人25遺跡(ゆいせき)巡拝所」があるかなぁと探してみたが、見当たらなかった。

 

 涅槃堂にも参拝してきたが、「讃岐の寝釈迦」だけあって立派なものだ。

 

 さまざまな動物たちも集まってきて嘆き悲しんでいる様子が面白いが、笑ってはいけないところ。静かに合掌、お念仏。

 

 最頂部にある「般若台」まで上がってきたが、最近は完全に施錠をされているようで、中をうかがうことはできなかった。ここは、歴代藩主や夫人・子供や重臣の墓所である。最後の最後の時、藩主はここで切腹をする場だったが、幸いにも、誰一人として、ここで切腹をした藩主はいない。

 

 ものはついで・・・ということで、境内にある、「本格手打ちさぬきうどん・竜雲」に入ってみた。高松藩・松平家代々の菩提寺(法然寺)を有する門前町として栄えた仏生山は、昔から麺作りも盛んだった地域。その歴史を継承した味わいに定評のある「竜雲」が、2009年にリニューアル。レストランに訪れたような、ワクワクするうどん店に生まれ変わっている。

 

 で、このお店イチオシの「ネギと温泉たまごのつけうどん」を注文した。こういううどんは、ここにしかない味。おうどんを食べ終わると、この付け出しをご飯にかけて食べる。これで530円。

 

 午後からは、またしてもダム一周のウォーキングになった。わが家からダムに向かって南下し、ダムを反時計回りに歩いて、帰りは県道二号線を北上して、鮎帰り橋から旧道に入ってわが家に戻る2時間コース。

 

 関門は、この、109段の階段。堤高は36m。私たちが通学した道路は、このダムに突き当たっておしまい。そこから、この階段を昇るか、管理用階段を上がるか、遊歩道を上がるかして、ダムの堰堤上に登る。

 

 ダムの桜は数輪が咲いている状態。香川の開花情報は、栗林公園内にある標準木によるらしい。でも、間もなくだろうなぁと思う。

 

 ダムの湖畔に咲き出した、ムラサキツツジ(だと思う)が鮮やか。遠くでは白くぼんやりとしたヤマザクラが咲き出した。センバツが終わる頃には、山が真っ白く見えるようになる。

 

 ワラビを、これの三倍ほど採ったのだが、写真に写すのを忘れてアクヌキ処理をしてしまった。ワラビが見えないと思って居たが、おばちゃんたちが朝早くに採って回っているらしい。折り取った茎から水分があふれているのを何本も見かけたものである。

 

 今日の掲示板はこれ。「咲くときに 散るも覚悟の桜かな」というもの。いつもお世話になる善楽寺さんにあったものだと記憶しているのだけれど。いよいよこれからが桜の時期になるのだろうが、桜に限らず、花は咲いて散るのがお仕事。「咲いた花なら散るのは覚悟・・・」という歌もあったが、生 まれたものは死んでいくように、咲いた桜もまた、散って行くのがさだめというもの。私たちに「命の尊さ」、「今を大切に」と教えてくれているような言葉で ある。

 昭和20年3月21日
陽光うららかな日 美しく立派に散るぞ
そう言って 一番機に向かう友の胸に
俺は まだつぼみだった桜の一枝を 飾って贈った
明日は俺の番だ
死ぬ時が別々になってしまったが
靖国神社で逢える
その時は きっと 桜の花も満開だろう

 というセリフを思い出させるような、今日の掲示板であった。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


春の日は 静かに緩く 音もなく

2016年03月23日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷の影響で薄雲が広がっていた。気温は五度から18度、湿度は94%から52%、風は1mから2mの東北東の風が少しばかり。明日の24日は冬型の気圧配置となり、雲が広がりやすい見込みらしい。

 

 薄曇り・・・と言っても春の陽気。明日からは冷え込むのか・・ということで、灯油をファン・ヒーターに給油をして、また、一缶、買ってこなければ・・・と思ったところ。

 

 今日は水曜日でお休み・・・と言っても、毎日がお休みなんだけれど、前山へ出勤するのはお休みということ。目が覚めたら6時半だった。まさに「春眠暁を覚えず・・」というところ。

 

 さて、昨日のこと、この、おへんろつかさの会の「前田チーフ・ガイド」から、「総会の講演の間にでも、法然上人25旧蹟まいり」や「親鸞聖人二十四輩巡拝」も、少しでもいいから説明してくれんやろか・・」という申し出があった。永年、いろんな所のガイドをしているが、「お遍路以外に、そんなものがあるのは知らなかったんや・・。みんなも知らんやろ。」ということらしい。

 

 総会資料を作っていて、島四国・お大師まいり・おせったい・・・と言われる信仰習俗は過疎と高齢化で姿を消しつつある。塩飽28島に志々島・粟島の二島を加えて30島としても、現在、行われているのは、瀬居(島)、塩飽本島・広島・粟島くらいなもの。その歴史や内容はお話しできても、島四国を楽しむために訪問するとなると、容易なことではない。豊島や伊吹島でもやっているとは聞いたけれど、少しばかりさぬき市からでは遠すぎる。

 

 それに、もう一つの「両墓制」も、近年の福祉の向上などで、香川県や岡山県の施設や病院に入り、そこで亡くなり、お葬式や初七日を済ませて、遺骨だけが島に戻ったり、戻らず「地方(じかた)」の親類や遺族に引き取られてしまい、島の埋め墓は利用されなくなっていく。そして、「詣り墓」の立派な石碑が建つようになった。塩飽の島々の「両墓制」も、佐柳・高見・志々島・本島新在家のように一部くらいしか見られなくなった。

 

 だから、そうした習俗を記録し、伝えていくことは重要なことなのだが、多くを語れなくなってきている事実が目の前にある。だから、その後半にでも、この二つの巡拝形式をお話する時間的余裕はあるかも知れない。

 

 この、法然上人25霊場巡拝や親鸞聖人二十四輩巡拝の「写し霊場」も、過疎と高齢化と土地の利用変更などによって減少し、集約化し、おまいりの人も見かけなくなった。

 

 こういうことも合わせてお話してもよいのかと・・・。

 

 江戸時代のお遍路は「死出の旅」ということで、「捨て往来」という通行手形を持っていた。これがないと、関所を通ることができなかったし、宿屋に泊まることもできなかった。でも、それと全く同じ通行手形を、真宗の二十四輩巡拝の人たちも持っていたのである。ま、その頃の旅は命がけの旅であったということになる。

 

 そんなことで、朝の間はパソコンの前でにらめっこをしていた訳だ。

 

 で、恒例の集落内一周の1時間コースのウォーキングで出た。そろそろ、ワラビの出る頃かなぁと探したけれど、わずかに1本だけだった。1本ではどうしようもないので映像だけに記録しておしまい。

 

 県営大川ダムの桜は、まだ、こんな状態だった。明日は冷え込むとかいうていたので、今週末のお花見は微妙。ま、わが家のお花見なんていうものは、桜の花がなくてもどうということはないのだからして。「花よりビール」だ。そうそう、昨日、生ビール19㍑とサーバーのレンタルを注文してきた。

 

 今日の散歩コースは、この逆順コース。わが家から大川ダムに寄ってから旧松尾小学校経由、みろく公園を回って戻って来た。1時間コースだった。今日はさすがに汗がにじんだ。

 

 わが家のチューリップもようやくに花を開かせ始めた。でも、多くは蕾がまだまだ小さい。

 

 今日の掲示板はこれ。「一言多かったか 一言足りなかったか 一言で人生が変わることもある」という荒了寛さんの言葉から。自分の一言で誰かが変わったという実感はないし、人に言われた一言によって自分の考え方が変わって、そのおかげで人生が変わったかもしれないということも ない。でも、一言多かったことで失敗したことは数知れないくらいにあるし、一言足りなかったことで理解されずに悔しい思いをしたこともいくらでもあった。  こういう一言は、内容も大切なのだが、相手の心にグッとくるタイミングで投げかけるからこそ響くものなんだろうと思う。タイミングが悪いだけで「一言多い」または「一言足りない」というい結果になってきたのだなぁとは思ったりする。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。 


雪柳 彼岸の墓の 髪飾り

2016年03月21日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。朝方は霜が降りていて、気温は3.7度から14.4度、湿度は78%から46%、風は1mから3mの北西の風が冷たかった。明日の22日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。わが家ではおこたを片付けた。

 

 いい天気になって春らしくなってきたが、空気が冷たいので肺炎になってもあかんな・・・ということで、お勉強をすることにした。今日はさすがに前山勤務は休ませていただいた。

 

 前山での「俵札展示」は休ませていただいたが、今度は講演会の準備が待っている。総会が30分程度、休憩を挟んで10時から11時30分が講演会、会場模様替えをして懇親会が12時から・・・。

 

 チラチラと外を見るといい天気。こんな日に、こんなことをやってる場合じゃないぞ・・・ということで、またしても、ウォーキングに出た。昨日の足首の痛みは消えていて、快調に歩き出した。

 

 これも桜なんだろうが、花びらが小さくて白っぽい。桜の種類もまた多いらしい。聞いても聞いても覚えられないもの多くある。だし、自分で好きな名前をつけてもいいとか聞いた。

 

 わが家から北上して旧松尾小学校から今度は西に進み、旧大川第一中学校から南下して、南川自然の家まで歩き、そこから、わが家へと戻ってくるコース。2時間ちょっとのコースだったから7~8キロくらいになるのだろうか。

 

 ここが、旧大川第一中学校跡で、現在は「さぬき南小学校」となっている。敷地内に「さぬき南幼稚園」も併設されている。

 

 私が通っていた頃はこういう木造平屋建て・一部二階建てだったから、まるでもう、別な学校になってしまっていて、懐かしさも思い出もない。運動場の下側は葡萄畑だかの畑が広がっていたが、今はもう住宅地になってしまっている。

 

 だから、運動場があった場所に校舎が建っていて、旧の校舎が運動場になった感じ。

 

 そこから4キロほど南に進むと、「さぬき市南川自然の家」がある。旧の富田小学校南川分校であった。中学校の冬場のマラソンはこの二宮金次郎像が折り返し地点になっていた。

 

 これも桜だということだったが、桃色がきついし、にぎやかそうな花ではないか。

 

 県営大川ダムの桜はこんな状態。今週土曜日のお花見時には咲いてくれるだろうか。

 

 お隣さんのユキヤナギ。やっぱり、2時間も歩いたら、右足首が痛くなって、足をひきずるようになってきた。でも、誰にも助けを求めることも出来ず、歩き続けてきた。

 

 わが家の「サンシュユ」の花は満開状態。今日は山を削る重機の音もお休みしていて静寂そのもの。若者たちのバイクの音も聞こえないし、ダンプカーの走り回る音もしない。

 

 お昼からもパワーポイントを使っての資料作り。今日もまた、あっという間の一日が暮れる。

 

 今日の掲示板はこれ。「できない理由をいくら挙げてもしようがない。逆にどうしたら前へ進めるかを考え、一つひとつ手を打っていく。そういうふうに思考回路を転換することで、道はひらけていく」という荻田伍さんの言葉から。荻田 伍(おぎた ひとし、1942年1月1日生 )は、福岡県出身の日本の実業家。アサヒグループホールディングス相談役。失敗したこと、うまくいかなかった理由や言い訳を幾ら並べても済んだことは仕方がない。今度は、どうしたらうまく行くだろうかと前向きに考えて一つ一つを積み上げていくしかない。そうでなければ、あんな大きなピラミッドなんぞ積み上げられる訳がない。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


一日が あっと言う間だ 花つばき

2016年03月19日 | ふるさと散歩

 さぬき市地方は気圧の谷の影響で雲が広がり、雨や雷雨となっている所があったが、夜のはじめ頃からは高気圧に覆われて晴れるらしい。気温は12度から19度と夏みたいな気温で、しかも湿度が99%から64%と蒸し暑い一日になった。風は1mから3mの北北西の風が少しばかり。明日の20日は、高気圧に覆われて晴れるけれど、明け方から朝にかけて、寒気の影響で雲が広がる見込みなのだとか。

 

 朝方はまたも香川県立図書館にやってきた。この植え込みの草やこけも緑色を増してきた。やがてにはアキニレの若葉も吹き出して来る。

 

 先日に借りた6冊の本を返却して、また、別の本を五冊借りて来た。

 

 何度も借りたことのある本ばかりの五冊だった。今日から三連休。三連休と言っても毎日が日曜日なのだから影響は全くない。

 

 その後、さぬき市長尾で行われた「おへんろつかさの会」の役員会に顔出ししてきた。前山ダム周辺の桜もつぼみを膨らませてきている。開花も近いなぁと感じたことだった。この前山のさくらまつりは4月の3日。こういうイベント時には、納め札コーナーでの説明員が必要になるらしい。当番制になるだろうか。

 

 私は黙って聞いているばかり。私はHP更新のための取材みたいなものだ。そうそう、4月の「総会」での私の「記念講演」が、正式に承認された。

 

 で、お昼は、道の駅ながおの横にあるレストラン「ほしごえの里」に入った。二回目かな、ふだんは高価なレストランには入れない。

 

 で、生姜焼き定食を注文した。1,000円だった。850円のうどんはすごく高いと思うが、こうした定食の1,000円はさほどでもない。不思議なことだなぁと思った。

 

 食後は前山ダム一周のウォーキング。本当は食べてすぐの運動はよくないらしい。

 

 時間的には40分ほどだったので、3キロちょっとの距離になるだろうか。それでもじっとりと汗ばんでいた。今日は「暑いなぁ」と感じるほどだった。

 

 ダム一周コースは、ほぼ水平な道路になっているので、たいした運動にはならないが、ま、少しずつの身体慣らしみたいなもの。

 

 その後、向かったのが「小西家墓所」。さぬき市長尾・名(みょう)という地区にある「小西家」というのは昔からの名家らしい。明治に衆議院議員になった小西和(かなう)も小西一族。実業方面では、南満州製糖株式会社・亜細亜煙草株式会社・中国葉煙草株式会社・東亜拓殖興業株式会社の取締役を歴任した人物でもある。その和(かなう)さんのお墓も探したが分からなかった。

 

 とにかく山の頂上一帯が小西家の墓所で広い。そして数え切れないほどの墓石が並んでいる。

 

 まさに大名家のような墓所であった。

 

 山登りをして汗だくになったので、市内にある「春日温泉」で汗を流してきた。

 

 駐車場には溢れるほどの車が止まっているのに、浴槽にも更衣室にも人影がない。あとで聞いたのだが、愛媛から女子サッカー部の合宿があって、小学生の女の子がたくさん来ているのだとか。それには家族もついてくるし、コーチ連中もマイカーでやってきているとのこと。

 

 今日の掲示板はこれ。「人はみんな 明日のことはわからないから生きていられるのです」というもの。いつもの「荒了寛」さんの言葉から。明日のことはだ れもわからない。明日、交通事故に遭うとわかったら生きてなんぞいられない。明日、振り込め詐欺に遭うとわかるとどうしようかと考えて眠れない。明日、病気になるとわかったら、おちおちテレビなんぞ見ていられない。明日がわからないからこそ、今日に感謝して「ありがたいなぁ」と生きてゆけるというもの。明日のことは明日で云い。今日は感謝のこころで終わりたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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