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まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

イチョウ散り 今日もあたふた 日が暮れる

2014年11月24日 | たまには旅など・・。

 今日の京都府は、高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷や湿った空気の影響で、夕方から次第に雲が広がり、一部では、夜遅くに雨の降るところがあるらしい。明日の京都府は、前線を伴った低気圧が西日本を通過するため、雨が降るという。

 

 さて、今年最後の大きなお役目ということで、京都に向かうことになった。朝の9時過ぎに高速大内のバスストップでJRバスに乗って京都駅に向かう。天気は快晴だった。

 

 バスはほぼ満員状態。40人近くが乗り込んでいる感じ。

 

 バスに乗る前に二回、途中、淡路島で一回トイレ休憩をしたのだけれど、京都に着く寸前でトイレに行きたくて仕方がなくなった。ところがお隣にはきれいな背の高い娘さんが居眠りをしている。起こすのも悪いし、我慢にも限界があるし・・・。つい、うっかりと朝、利尿剤を飲んでしまったのだ・・・。

 

 バスの中には、こうしたトイレがあって、ホッとしたのだけれど。

 

 京都駅に着くと、またまたトイレに行きたくなったのだが、京都駅にはものすごい人が・・・。トイレの前には長蛇の列が・・・。これはアカンでぇ・・と歩き出したが、どうのも我慢がならぬ。で、お東さん近くの公衆トイレに駆け込み、次には七条堀川の公衆トイレに駆け込み・・・・。

 

 で、本願寺さん前の龍谷ミュージアムをのぞいてみた。

 

  二楽荘は、西本願寺二十二世法主・大谷光瑞さまが六甲山に建設した別邸である。明治42年に建設されたが、数年後には閉鎖され、昭和7年に焼失した。「二楽」とは「山を楽しみ、水を楽しむ」「山水を楽しみ、育英を楽しむ」の意味だという。

  

 大谷探検隊は、二十世紀初頭に浄土真宗本願寺派第22世法主・大谷光瑞さまが、中央アジアに派遣した学術探検隊。シルクロード研究上の貴重な業績を挙げた。1902-1914(明治35年~大正3年)の間に、前後3次にわたって行われたが、戦時中という状況も重なり活動の詳細は不明なところも多いという。

 

 本願寺さんにもおまいりしてトイレを使わせていただいた。まるで、今日は犬みたい。

 

 御影堂前のイチョウが紅葉して、大勢の人がスマホをかざして写真撮影をしていた。すると、この髪の長いおねえさんににらまれた。あんたじゃないって、イチョウだってば。

 

 この阿弥陀堂門でじっと観察していたら、出入りともに、ここで頭を下げた人は十分間に一人もいなかった。観光客が多いとはいえ、それはあまりも失礼でしょうが・・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「きれいな心になって合掌するのではない 思い煩うままに手が合わされる」というもの。本当は・・本当の宗教は・・・「きれいな心になろう」と言うのかも知れない。でも、私たちは・・きれいな心なんぞにはどうしたってなりきれない。どんなにしたって合掌すらできない・・・。そんな私たちが救われるとしたら・・・、この思い煩うままの乱れたこころ、汚れたこころ、迷い続けるこころのままに・・・手が合わされるのを待つしかないではないか・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


寺の庭 つくつく法師が 勤行中

2014年09月28日 | たまには旅など・・。

 四国地方は、高気圧に覆われて晴れていまた。愛媛県も高気圧に覆われて晴れて暑いほどの一日になった。気温は18度から27度、湿度は84%から58%、風は1mから3mの西風が少し。

 

 今日も月末の最終日曜日は「おへんろつかさの会」の「櫻谷さんといくバスツアー」という研修の旅。旅というほどの大げさなものではないが日帰りバス旅行。今回は愛媛県の松山周辺の旅である。

 

 「おへんろつかさの会」というのは、さぬき市において、四国遍路の知識を伝え、さぬき市を観光的歴史的側面から全国に発信する活動をしている団体で、主には、上がり3ケ寺の案内や春と秋に遍路道を歩くまち歩きイベントを開催している。

 

 今回は四国霊場48番札所の「浄土寺」から53番の「円明寺」までの5ヶ寺である。空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。

 

 鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469〜87)に領主、河野道宣公によって再建された。本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。

 

 松山市の汚水管のマンホールの蓋である。特産の日本三大絣の伊予絣と市花ヤブツバキをデザインしてある。

  

 50番の繁多寺は一遍上人ゆかりのお寺。伊予の名門、河野通広の次男として生まれ、10歳のとき出家、のち全国を行脚し「遊行上人」「捨聖」と呼ばれた。

 

 51番石手寺は日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。住職さんの趣味なんだろうが渾然とした境内である。衛門三郎伝説の地であって、にぎやかなお寺である。

 

 縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。

 

 この日の昼食はここ。旬彩ダイニング 菜の花というお店でバイキング方式。

 

 いつも小食なので控えめにしたが、皆さんは三食分も四食分も食べなさる・・・。

 

 私はこんなもの。野菜中心。ご飯は珍しくお寿司。

 

 昼食後は52番札所の太山寺。この本堂は国宝である。

 

 と言われても、「ふーん」と思うばかり。また、ここには最古と言われる「納め札」があることでも有名。

 

 昔は紙は貴重なものであったので、こういう木札に願い事や施主の名前を書いてお堂や建物に竹釘で打ち付けたという。この事から「札所」と呼ばれるようになり、お遍路することを「打つ」というようになったという。

 

 若い娘さんが一生懸命におまいりしている姿が印象的だった。

 

 53番札所の圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。

 

 ここにはキリシタン石塔が大師堂左の塀ぎわにあり、高さ40cmほどの灯籠である。キリシタン禁制の時代、この地方には信者が多くいて、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していたらしい。

 

 この円明寺にあった掲示板はこれ。「遊ぶときは大人だが仕事はまるで子供だね」という荒了寛さんの言葉から。遊んでる時も子どものような気がする。すぐにむきになったり、勝ち負けにこだわりすぎたり。仕事はどんなだろうか。自己満足で終わるのではなく、しっかりと相手に伝わる仕事ができているだろうか。子どもが物事を覚えるように楽しんで、大人の結果が出せる仕事していきたいものである。遊びは子供のままでもいいような気がする。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


日めくりが 舞い踊っている 秋の風

2014年08月31日 | たまには旅など・・。

 一気に夜明けが遅くなったように思う。曇っているせいもあるのだろうが、朝の6時になっても薄暗い。そんな日曜日の朝、5時起きで、犬の散歩を済ませて、6時出発。さぬき市役所前に6時半集合である。今日は「おへんろつかさの会・定例バス研修」の日である。

 

 この頃になると少しは明るくなってきた。今回は愛媛県西部久万町からの旅である。峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場・大宝寺に向かう。四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高490mの高原にあり、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。

 

 縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めたという。

 

 このバス研修は、「おへんろつかさの会」の霊場開創1200年記念事業として、会の専属権大先達の櫻谷(さくらや)さんとともに四国霊場を巡ってお勉強をするもの。さぬき市にある「上がり三ヶ寺」の案内ガイドをする上で、総合的な知識を身につけるために四国八十八カ所を回るもの。

 

 次に向かったのが四十五番札所の岩屋寺。ここはバスを降りてから20分ほど山道を歩く。それも石段が多い。先の大宝寺も山道をだらだらと歩いたが、ここはその三倍も四倍も歩く。入院退院直後の身体にはこたえた。特に朝が早いため空腹状態。さすがに「熱中症」になるのかなぁと思うほどの頭痛と筋肉痛。脂汗まみれで這うようにして本堂へ・・。そこの手洗い水をごくごくごくごく飲み干して・・・ようやく回復。

 

 標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されている。弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされたという。

 

 岩肌にくっつくようにして建てられたお堂ほかに圧倒された。会長さんは、このはしごを登って上のあなぐらまでおまいりに行った。

 

 待望のお昼ご飯。時間は12時半を過ぎている。こうしてみるとごちそうに見えるが、単品だけをみると普通のそこいらのものを並べただけ。上の魚の飴煮がおいしかったのが印象に残っている。珍しくご飯のおかわりをした。ここは国民宿舎古岩屋荘。

 

 次に向かったのが四十六番札所の浄瑠璃寺。浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場である。参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。縁起を辿ってみると、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んでいるのだという。

 

 浄瑠璃寺から北へ約1キロと近い八坂寺との間は、田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697〜707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。

 

 ここでは特に住職さんから修験道を通して、自分の生き方を見つめる・・みたいなお話を伺った。

 

 寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれている。「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、松山市の天然記念物とされている。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。

 

 こうした先達さんの指導の下で楽しく充実したバス研修になった。

 

 今日の掲示板はこれ。岩屋寺近くで見つけたもの。ここでは、こういうTシャツを売っている。「まだまだこれからじゃ 岩屋の坂と人生は」というもの。ここにいう岩屋の坂というのは、愛媛県四国霊場第四十五番の岩屋寺への坂道を示している。駐車場から坂道を えっちらおっちらと20~30 分歩いてようやくお寺にたどり着くのである。八十八ヵ寺のうち、クルマでも大変だと思われるところが、 10 ヵ寺程度はある。健康でなければ歩いて、上り下りできないのである。遍路は、歩き遍路の人は言うに及ばず、クルマやバスで行く場合でも困難なところがある。健康維持のために遍路している人もいると聞く。時間とお金と周囲の協力が必要だが、楽しみの方が大きいから、続けられるのだと思う。 「健康」」観光」「信仰」・・・。何でもいいが、丹念に歩み続けて行きたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


来てみれば ムクゲの色と 伊予の空

2014年07月27日 | たまには旅など・・。

 足摺地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、午後は大気の状態が不安定となるため、雲が広がってきて、一時は雨も降ったが、たいした雨にはならなかった。高温が予想されるため、熱中症などに注意するようにと、気象庁が呼びかけている。気温は26度から37度、湿度は88%から60%。風は3mから4mの南南西の風が少しばかり。明日の28日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 ノートPCは持って来たのだが、肝心の通信アダプターを忘れたためにブログの更新ができなかった。足摺岬の朝は5時半くらいだろうか、それなのに、3時過ぎから起き出す老人がいて、なんだか寝不足気味。朝の朝食は6時半。それなのに、4時半にはもう、起き出して散歩するもの、シャワーを浴びる者などさまざま。おちおち寝てもいられない。

 

 予定を1時間前倒しにして7時に宿を出発。高知県最後の札所、39番延光寺さん参拝。日曜日のせいかおへんろさんが多い。39番延光寺から40番観自在寺まではおよそ31Km、バスで1時間弱。

 

 この寺のシンボルの赤亀が運んで来た鐘。現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6cm、口径23cmの小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されているそうな。

 

 愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場は40番札所の観自在寺で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。寺があるこの町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端で、海洋レジャーの基地、真珠の生産地としても知られる足摺宇和海国立公園の景観を存分に楽しむことができる。

 

 とにかく暑い・・・。七月の炎天下を歩いて研修するのだから大変だ。意識がもうろうとする。ここはバスの駐車場から細い路地をくねくねと歩いてお寺まで進む。弘法大師が大同2年に平城天皇(在位806〜09)の勅命を受けてこの地を訪れ、1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。この手ぬぐいを1500円で授与しているが飛ぶように「売れていた」。

 

 宿舎を1時間早く出たために、食事時間も早まったが、しばらく待たされて、このお弁当になった。作りたてだろう、温かくておいしかった。量も少ないせいか、ぺろりと完食した。ここは愛媛県南宇和郡愛南町御荘というところ。近くの海で「紫電改」が引き上げられて近くに展示されている。

 

 40番観自在寺からは海岸線近くをひた走り、41番龍光寺に向かうが、前方にバスが数台。そこで、一つ先の42番仏木寺に入った。この間の距離は4Km、バスで数分の差だ。ここの鐘楼は珍しい茅葺き屋根。ここの梵鐘の音色が良いとかで鐘撞きをするにも順番待ち。熱心なおへんろさんたちだ。

 

 大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。よく見ると、これは唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。これを本尊として安置し、「一山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納されたと伝えられる。

 

 そこから引き返して、41番龍光寺に入った。ここは珍しく(と言っても、土佐はお寺と神社が並ぶ札所が多い)、「神仏習合」ということで、お寺の中に神社がある・・・と、いうよりも、神社の中にお寺ができたというもの。宇和島は伊達家十万石の城下町、その市街地から北東に10kmほどのところが三間平野。地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれているのが龍光寺で、往時の神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。その象徴ともいえるのが、山門は鳥居であること。この山門をくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並んでおり、仏と神が同居している。

 

 ここもおへんろさんがいっぱい。この暑い中、ごくろうさまなことだ。そんな中に、こんな普通のおじさんやおばさんが混じっているのがおかしいのか。創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、明治新政府の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となった。新たに本堂が建立されて、ここに稲荷の本地仏であった十一面観世音菩薩像が本尊として安置され、その隣に弘法大師勧請の稲荷明神像も一緒に祀られて鎮座している。

 

 今回の最後のお寺になる明石(めいせき)寺。このあたりのお寺の本堂や大師堂には、このような「唐破風(からはふ)」の建物が多い。これは伊達藩が特に許可し、寄進したものだという。ここはオレンジ色の本瓦葺きであるが、近年新しくされている。

 

 弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ねている。荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。

 

 41番龍光寺と42番仏木寺は約4Km、車で5分の距離、そこから43番明石寺までが約15Km、バスで30分の距離。宇和島からは工事中の部分なども含めて高速や自動車道を乗り継いで松山自動車に乗り込んで・・・豊浜SAで休憩してさぬき市へ・・・。我が家に着いたのは6時半過ぎ。予定より早くに帰ることができた。

 

 今日の掲示板はこれ。観自在寺あたりで見掛けた掲示板。「みずから光らないものは 他から光を受けて光る」というもの。 詩人の坂村真民さんの「光る 光る すべては光る 光らないものは ひとつとしてない みずから 光らないものは 他から 光を受けて 光る」という詩からの言葉である。「すべてのものは光る」「光らないものは他から光を受けて光る」という言葉に感銘を受けた。あるものは光って、あるものは光らないとなると不公平だが、「すべてが光る」「他から光を受けて光る」というのである。 阿弥陀仏の救いの光は、何ものにもさまたげられず、また、分けへだてなく、あらゆる生きとし生けるものを照らしている。苦しみ悩むすべてのものに「必ず救うぞ。浄土に生まれさせ仏にならしめるぞ」と誓われた阿弥陀様のお心は私にも注がれている。 私は自ら光る力は持ち合わせていないのだが、月が太陽から光を受けて輝いているように、私のいのちも周りの方々のいのちも阿弥陀仏からの光を受けて、いま、共に輝いているのであると思っていたい。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


むくげ咲く 足摺の寺 杖の音

2014年07月26日 | たまには旅など・・。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。高温が予想されるため、熱中症など健康管理に注意するようにと、気象庁が呼びかけている。気温は26度から36度、湿度は84%から60%。風は2mから1mの北北東の風が少しばかり。明日の27日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 さて、毎月恒例の「さぬき市おへんろつかさの会」の恒例バス研修の「櫻谷さんと巡る四国霊場」で、高知から宇和島に向かう旅の日。「土佐藩・宇和島藩は、なぜ、お遍路対策を強固に推し進めたのか」という研修。

 

 この方が「権大先達」の櫻谷和香さん。実は、私が某通信会社にいた頃、お世話になった「保険屋のおばちゃん」。今はこんなこともやってるんだ。近く「公認大先達」になられるのだとか。この方が、今回の旅のナビゲーター。

 

 さぬき市長尾の「亀鶴公園」駐車場から出発して松西ICから松自動車道-高知自動車道を経て土佐ICで降りて、途中マイクロバスに乗り換えて35番札所清瀧寺に向かう。この細くてくねくねした山道は絶叫マシーンみたいな道。私個人では、ここには行けないなぁと思った。

 

 次に向かったのが「36番青龍寺」。あの明徳義塾のある半島にあるお寺。あの横綱「朝青龍」がこの石段で猛特訓をしたというお寺。ゴルファーの「横峯さくら」もここで練習したのだとか。とにかくきつい石段だった。

 

 あの長曽我部氏が寄進して整備されたお寺らしい風格のあるお寺だった。35番清瀧寺から36番青龍寺までは約17Km、バスで30分だが、36番から37番岩本寺までは48Km、バスで1時間半。

 

 で、山からおりてきたところの海岸沿いにある「三陽荘」というレストランでお食事。マイクロバスの乗り場がこのレストランになっているという仕組み。朝が早かったために朝食抜きの私にはうれしい食事。すっかりと完食した。というても、そんなに量は入ってはいない。

 

 次に向かったのが37番札所の岩本寺。ここの本堂の天井、格天井(ごうてんじょう)の絵が有名。マリリンモンローとかネコとか尾長鶏とか馬とか・・・。

 

 天井ばかりも見つめてはいられない。

 

 どこのお寺も、「四国霊場開創1200年」ということで、きれいなお荘厳(しょうごん)が施されている。

 

 ここでは特別開帳ということで「矢負地蔵」を特別公開していた。当然、撮影禁止だが、それはきれいな輝くばかりのお地蔵さんだった。木造の地蔵さんに彩色を施したもの。この公開場所が売店の奥だというのもミソだなぁと思った。

 

 37番岩本寺からおよそ104Km、バスで2時間の距離にあるのが、38番金剛福寺。あの足摺岬の先端部にある。四万十市に入り、四万十川を越えて、土佐清水市に入り、細い山道の「スカイライン」を走り詰めて、ようやくに足摺に着く。山の頂上にあるお寺にはこんな池がある。今の住職さんが(実際は業者さんが)作ったものらしい。とにかく石ばかりの豪勢なお寺だ。

 

 ここでもご本尊を特別開帳しており、内陣に入り、住職さん、副住職さんの導師でおつとめ、勤行のあと、本尊や脇士のすぐ前まで入らせてもらって直々に説明を受けた。これはすごく得した気分になったもの。

 

 こういう場合、私は線香もおろうそくもあげないし、納め札も当然、納めないし、納経帳にご朱印もいただかない。自分の略袈裟に単輪念珠で合掌礼拝のみ。ま、私にすれば、「歴史散歩」的な感覚だが、大切にされている文化遺産と「聖地」であるという感覚は忘れてはいけないと思う。後ろ向きの銅像は「中浜(ジョン)万次郎」。

 

 ついでだからと、展望台に上って「足摺岬灯台」を眺めてきた。

  

 ここが、今夜の宿舎の「民宿西田」。先達さんご推奨の宿らしかったが、お世辞にも良い宿だとは思えなかった。

 

 汗をシャワーで流した(お湯は熱くて入れない「温泉だから水で薄めては効果が落ちると言う理由」ので・・)あと、しばらく休憩した後、お待ちかねの夕食。ご馳走に見えるが、食べたのはお刺身だけ。あと・・・、

 

 かつおのタタキ。ぜいたくを言ってはいけないが、高知ならば、もっとおいしいタタキがあるはずだが、「へんろ宿」だと言われれば仕方がない。

 

 ま、お食事会だと言っても、お勉強は寝るまで続いた・・・。

 

ということで、長くなったので、今日は掲示板はお休み。

 


旅終えて 野菜ずくめに 虫の声

2014年07月17日 | たまには旅など・・。

 京都市地方は朝から晴れて暑い一日が始まった。気温は26度から34度、湿度は86%から94%。風は2mから4mの南南西の風。夕方からはぐんと蒸し暑くなってきた。

 

 6時起床。起きると早々に寝具を片付けて荷物をまとめる。時間的には短いのだが、早くも今日は三日目になる。

 

 7時10分から両御堂のお掃除。主に畳のから拭き。こちらは御影堂。

 

 掃除が終われば着替えて8時からの「ご晨朝:じんじょう」こちらは阿弥陀堂。阿弥陀堂での「讃仏偈」が終われば御影堂での「お正信偈」と「観無量寿経」、「ご勧章拝読」。

 amida

 9時からが朝食。ここでは食事前に必ず順番で「かんわ」がある。不思議なことに、誰も、この「かんわ」をどう字を書くのか知らない。それなのに「今から”かんわ”を行います」などと云う。どんな字なのかわからないのに、あたりまえのように「かんわ」を行っている。

 

 本願寺さんやお東さんの布教使さんなどは「感話」という字を使っているが、ここでは「感話」という字は使わない。そもそも「感話」などという日本語はない。それでは簡単な話の「簡話」かというとそうでもない。そう、「閑話休題」の「閑話」なのである。とりとめのない話とか無駄話とかの意味があるらしい。

 

 九州南部は梅雨明けしたいらしいが、京都あたりの梅雨明けはまだまだのような気がする。

 

 今日の講義は「本山史」。大原先生の集められたデーターベースを元に、江戸時代と明治以降の真宗寺院の数的変動とか檀家数の変異についての解析と考察。浄土真宗の多い地区、ほとんどない地区の理由や政策の理由など・・・。

 

 特に明治以降の北海道や鹿児島・香川での浄土真宗寺院の数が一気に増えているのが興味深い。それに対向するように、関東地方は日蓮上人の開教折伏の成果で真宗寺院は空白地帯に近い。 

 

 15時過ぎに閉会式が終われば解散。荷物をまとめてようやくに長いロードが終わる。

      

  京都駅前のお店で休憩。久々の生ビールをお茶代わりに立て続けに三杯を一気のみ。高速バスの発車時間は16時50分。約1時間の休憩タイム。                                                                                                                                                                                                                                                                                

 

 定刻の16時50分発の高松エクスプレス京都号は京都駅烏丸口を出発して、高速大内には19時50分に到着。奥方のお迎えで20時過ぎにはわが家に帰宅。11日間:248時間の長期ロードは終わりを告げた。

   

 わが家の食卓は野菜ずくめ。奥方と二人で350mlの缶ビール12本がすっかりと空き缶になっていた。外では早くも「くつわむし」が鳴き出している。 

  

 今日の掲示板はこれ。「何が起こるかわからないのが世の中 何をしでかすかわからないのが自分」というもの。 妙好人の源左さんの、こんな話を聞いたことがある。ある人が、「村の者がお爺さんを妙好人伝に載せるというがのう」と言うと、源左さんは、「いやいや待ってつかんせい、死ぬるまでは何をするか分からんでのう」と応えた。 「何が起こるか分からないのが世の中。何をしでかすか分からないのが自分」。「さるべき業縁の催せば、いかなる振舞いもすべし」(『歎異抄』) 何かが起こったときに、どうするかは、実は、そのときまで分からないもの。そのときに頂いている、気づきの深まり具合に応じて、自ずとすることが決まるもの。人生にシミュレーションなどない。人生は、つねに本番である。

    

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             


梅雨さなか お山に一人の 夜が来る

2014年07月14日 | たまには旅など・・。

 京都市地方は梅雨前線の影響で雲が広がり、雨の降っているところがあった。気温は25度から29度、湿度は96%から88%。風は1mから2mの南南西の風が少し。明日の京都市は、南からの湿った空気の影響で雲が広がりやすいらしい。

 

 今日はJR塩屋駅からJR三宮駅まで普通電車でやってきて、そこからJR京都駅までは新快速に乗ってお昼前に京都に着いた。そんなに早くに着かなくてもいいのに早くに着いてしまった。かと云って、寄り道する場所も理由もないし。

 

 もっと、京都て遠いところだと思って居たし、須磨から京都って、時間がかかるものだと思っていたのに、急がなくてもいいときには早くに着いてしまうものらしい。

 

 今日は単なる「移動日」。お昼から奥方の実家を出る予定だったのに、お義姉さんが、「出かける用事ができたから・・」ということで、9時半には追い出されてしまった。仕方なく、のんびりとやってきたつもりが11時半前。

 

 2時間も電車に乗っていたのでのどがからから・・・ということで、京都駅前の地下街に入って、とりあえず生ビール。そして、今日は「サラダ冷麺」というものを注文した。冷麺は815円とかと書いてあった。ま、汗まみれのからだにはおいしいと感じられた。

 

 その後は、いつものように「東本願寺」さんの散策。一週間ぶりだからそんなに変化はない。

 

 今日は少し踏み込んで御影堂を撮影したら、ガードマンさんらしき制服のおじさんに制止された。でも、すでにシャッターは下りた後だった。正面の黒いものが親鸞聖人のお木像。

   

  いつも持ち歩いている手提げ袋の中のお念珠が、携帯電話やお財布に引っかかって切れてしまったので、明日からの勤行用にと思って、お買い物広場でお念珠を買った。桐の箱に入っているみたいなので買ったのだけれど、中身はプラスチックのお念珠だった。しまったしまった、島倉千代子。

 

 京都の空は梅雨空で曇っていてかんかん照りではないし、そんなに蒸し暑くもなくて、やや涼しい・・・という空気なのに、少し歩くと汗が噴き出してくるし、肩から背中から汗まみれになっている。

 

  15時過ぎに本山「興正寺」に到着。休み休みしながらのお山入り。ところが、どこにも張り紙がない。私が止まる場所はどこ?

 

 いつもの部屋に入ってみると、いつものようにおふとんが準備されていて12人分。たぶん、ここだろうなぁとお布団を用意してカバーをかけて寝る支度・・・。でも、ここでいいんじゃろうか・・・。

 

 ここは、17時を過ぎると阿弥陀堂も御影堂も扉が閉じられてしまうし、三門も阿弥陀堂門も閉じられてしまって、宗務所も閉じられて職員も帰ってしまう。で、ここには私一人がぽつんと居る・・・。本当に、私はここにいてもいいんじゃろうか・・・。

 

 今夜の夕食はこれ。あんまり食欲もないし、まだ、課題の法話の原稿も仕上がっていないし・・・。なんか、今回は長期間のだらだら旅行みたいで盛り上がりに欠けている。明日になって、みんなが揃えば、それなりにモチベーションも上がるのだろうか。

 

 今日の掲示板はこれ。「一切は縁において生まれ、縁においてあり、縁において去っていく」という宮城(みやぎ しずか)先生のことばから。宮城さんは昭和六(1931)生まれ。大谷大学卒業後には、大谷専修学院講師や教学研究所所長などを歴任しながら、真宗大谷派本福寺の住職でもあった。先生は、平成十七(2005)、東本願寺で開かれた「親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」の真宗本廟お待ち受け大会で「汝、起ちて更に衣服を整うべし」と題した記念講演をされた。その直後から三年の闘病生活に入られ、平成二十(2008)年、78歳で往生された。

 

 お釈迦さまの教えを要略した「因縁法頌(いんねんほうじゅ)」と呼ばれるものに、「諸のものは因縁によって生じ、因縁によって滅す」という言葉がある。私たちは、不思議な因縁によって生まれ、因縁の中で歳を重ね、どこか病みながら、臨終の一念を迎えるのである。この「生・老・病・死」こそが私のいのちの姿なのであるが、このことを自覚できているのだろうか・・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


夏の日は 海と船とに あこがれる

2014年07月12日 | たまには旅など・・。

 神戸市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は24度から32度、湿度は96%から49%。風は1mから4mの南西の風が少し。明日の近畿地方は、気圧の谷や南からの湿った空気の影響で、大気の状態が不安定となるため、昼頃からは南部を中心に雨や雷雨となる見込みらしい。

  

 今日も良い天気らしいので三宮まで出た。今日は土曜日のせいか、電車も空いていて人出も多くなくてゆったりとできた。JRの三宮からはタブレット端末のナビゲーションで、「神戸市立博物館」に向かった。そんなところに行くには初めてだったのだが、案内標識そのほかで迷うことなくたどり着いた。

 

 住所は神戸市中央区京町というから、少し海側に下がったところ。さすがに昨日の今日だから足のふくらはぎが痛いなぁと感じたが、歩くのに支障はなかった。

 

 で、今回の企画展は「ギヤマン展」。16世紀から17世紀ころのガラス製のグラスや洋皿などがたくさん展示されていた。当時の日本人からすれば魔法の食器に見えたに違いない。

 

 だから、立派で頑丈な木の箱に保管されている。少しでも破損しないようにとの配慮がしのばれた。

 

 こういう色つき、金色つきのギヤマンは驚きの目で見られたことだろう。

 

 その後は常設展「南蛮美術展」や神戸港開港資料展なんぞを見た。昔、教科書で見たような「南蛮屏風」や「フランシスコ・ザビエル」の絵図には足を止めてしまった。

 

 その後、そこからさらに海側に進んだ、メリケンパークまで歩いて行った。前から一度は尋ねてみたいと思っていた「神戸海洋博物館」という文字が案内板にあったからだ。

 

 タブレット端末を頼りにてくてくと歩いて行くと、ようやくに、この奇妙な建物が見えてきた。

 

 ここにはたくさんの船舶の模型が大きなものから小さなものまで並んでいる。ま、船舶の場合、実物は大きすぎて展示できないのだけれど。

 

 咸臨丸や観光丸の姿もあった。

 

 建物の半分は「カワサキワールド」というコーナーになっている。ここには「川崎重工業」が作り上げた新幹線から潜水艦・ヘリコプター・自衛隊のジェット戦闘機などの模型も展示されている。

 

 これがヘリコプターの実物らしい。川崎バートルKV-107Ⅱ型ヘリコプター。で、若者や子供に任期があるのが、なんと云ってもオートバイ。

 

 時間は12時少し前。しっかりと歩いたからおなかがすいたのと喉がからからになった。ところが、このあたりには食べる場所がない。そこでお隣にある「ポートタワー」に登ってみた。

 

 こういうところで贅沢を言うても仕方がないので、そこにあった「ビーフカレー」(800)と瓶のラガービール(600)をお願いした。

 

 その後は中華街を散策したり、元町商店街を散策して戻って来た。今日もしっかりと歩いて汗を流した一日になった。

 

 今日の掲示板はこれ。「運によって生き方が変わるのでjはない 生き方によって運が変わるのです」というもの。ご存じ、荒了寛さんのことばから。

 こころが変われば 態度が変わる
 態度が変われば 行動が変わる
 行動が変われば 習慣が変わる
 習慣が変われば 人格が変わる
 人格が変われば 運命が変わる
 運命が変われば 人生が変わる。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


思い出を たよりに歩く 梅雨の街

2014年07月11日 | たまには旅など・・。

 神戸市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、雨の降っているところもあった模様。気温は25度から32度。湿度は90%から67%。風は3mから4mの西南西の風が涼しかった。明日の神戸市は高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みで、高温が予想されるとのこと。

  

 今日は台風一過とまではいかないが、概ね、良い天気になったもので、久びさに神戸の街に出てみた。何十年ぶりかの三宮の街には多少戸惑い気味。で、馴染みのある場所を歩いてみた。生田神社の狛犬さんも久しぶり。この本殿の裏にあったこれは「鎮墓獣」だろうか。

 

 備前焼の宮獅子にもよく似ているのだけれど。耳がピンと立っているのが印象深い。それにユニコーンがとがって高いのも特徴。

 

 久々に、東急ハンズにも寄ってみたのだが、おとなしくなっていてつまらない。しばらく、そのあたりを歩いてみたが馴染みのないお店が増えて興味が薄れてしまった。あそこもここも・・と考えていたが、高架下を歩いて元町駅まで出て、そこから明石に向かった。青春時代の甘い思い出はどこにもなかった。神戸は18歳から22歳までを過ごした街。

 

 本当は義姉さんに三宮やら元町やらを案内してもらう筈だったのだが、用事ができたというので、私一人で出かけたら、何がなにやら、どこがどこやらさっぱりとわからない。で、やってきたのはJR明石駅。

 

 JR明石駅の構内の「たまご焼き=お好み焼き」のお店で「うどん焼き」に生ビールの昼食になった。だから、お客さんは、たこやきのようなお好み焼きを注文するばかり。私のような客は少ないらしい。

 

 で、若い頃にお邪魔した、明石市立博物館に寄ってトイレ休憩。ついでに常設展示室も見せていただいた。ここでも「65歳以上の証明書」を見せると半額になった。ま、200円が100円になるのだけれど。

 

 これは「アカシゾウ」で、ステゴドンという絶滅種に属するもので、日本にしかいなかったものらしい。アケボノゾウが正式名称なのだとか。この常設展示室では、明石の歴史などが時系列で展示されている。

 

 FBFのお寺を訪ねてみた。十数年ぶりだったが、なんとなく、ここにたどりついた。ニフティーサーブとかFBUDとか・・・数十年ぶりになるのかも・・・。

 

 どうやら新築工事をやっているらしい。それにしてもずいぶんと大きな工事をやっているみたい。昔は小さなお寺であったような気がしていたのだけれど。手前の観音さんはそのまんまだった。

 

これが明石市の汚水マンホール。「東経135度の子午線が通る街、明石天文科学館」がモチーフになっている。

 

 明石を歩いたあとは、JR舞子駅まで移動して、舞子公園に向かった。明石大橋ができてからは、このあたりもすっかりと変わってしまっていた。舞子公園にできている「橋の博物館」で明石大橋の勉強をしたあと、この「橋のプロムナード」を歩いてみた。この一帯では、「65歳」の証明書を見せればお安くしてくれる。

 

 その後は「孫文記念館」と、「旧武藤山治邸」を見学する。

 

 どちらも明治・大正時代の豪華な建築方式によっていて、家具や調度品も立派だった。

 

 再び、JR舞子駅に戻って、そこからJR垂水駅に移動して、タオルやら衣料品の調達。とにかく汗だらけになってしまったので下着などの増量が必要になって・・・。その前に、駅の中にあった中華料理店で「ビールセット」720円で水分補給をしながら休憩。云うと云わないと、今日はずいぶんと歩いて、すっかりと汗を流したような気がする。

 

 今日の掲示板はこれ。「志を高く 目標を立てて人生にとりくんでいれば 日々の仕事にも遊びにも意味が出てくる」という、いつもの荒了寛さんのことばから。自分の心掛け次第なんだろうけれど、何からでも、どこからでも、そこから何らか気づくことができれば自分の行動に無駄なんてないのだと思う。とにかく、何からでもアンテナを高く張って、少しでも多くの情報を集めておけ・・と、先輩の布教使さんは教えてくれた。志を高くして、それを胸にため込んで、仕事にも遊びも一生懸命頑張るぞ~と、今日は思った。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


梅雨さなか 今日の一歩が 重すぎる

2014年07月08日 | たまには旅など・・。

 京都地方は梅雨前線や南からの暖かく湿った空気の影響で雲が広がり、雨の降っているところがあったり晴れたりもした。気温は24度から32度、湿度は98%から61%。風は2mから4mの南南西の風だった。明日の京都市は、暖かく湿った空気が流れ込むため、雲が広がりやすく、夕方からは南部を中心に雨の降るところがある見込みらしい。

 

 おなかが張るようなので、昨夜はアルコールなしで寝たら、これがなかなかに寝つけない。ようやくに眠ったと思えば部屋の仲間が戻ってきて、賑やかに話すので午前1時過ぎまで寝たり起きたり・・・。眼が開いたら5時だった。5時半開門の本願寺さんの「おあさじ」に行った。

 

 こういうタスキをかけた「念仏奉仕団」のご婦人たちが続々と続々と・・・。このタスキの色でお寺さんが違うらしい。そら、迷子捜しみたいなもんだ。

 

 6時前になると「おあさじ」がはじまる。阿弥陀堂では「讃仏偈」のお勤め。それが終わると御影堂で「お正信偈」のお勤め。私もそうそうはゆっくりとはしていられない。だが、おなかの調子がよくないので、朝食はパス。野菜ジュースだけを流し込んだ。

 

 さて、今日は奈良県御所市(ごせし)へのバス・ツワーに参加することになっている。大型バスに30人ほどだからゆったりとしたもの。さすがに、寝不足なのかうたたねばかりをやっていた。

 

 途中、橿原市にある「ダイヤロイヤルホテルズ」というホテルで昼食。

 

 中華風なランチ。おなかがすいていたもので、勢いよく食べたら、今度はおなかがぱんぱんになってしまった。こんな昼食なんぞ食べたことがないからなぁ。とにかく、お米のご飯は苦手だが、こういう旅には決まりがあって、「一粒一滴みなご恩 不足言ってはもったいない 感謝でおいしくいただきましょう」という挨拶をしなければならない。だから、残してもいけないのだ。

 

 食後は、ホテル内で行われていた新車発表会なんぞをのぞいていた。最近の車はすごいなぁ・・・・。この車はみんなの注目の的だった。

 

 今日の目的地がここ。御所市柏原にある「水平社博物館」。私の博物館巡りも、とうとう奈良県まで来てしまった。最近は女性蔑視のヤジが話題になっているが、いつになってもそういうものがなくならない。こうした、運動の先人たちの爪の垢でも飲ませたいものだ。

 

 ここには「」の歴史や、全国のの記録などが展示されている「人権運動のふるさと」である。定規というものは人が作るから、どんなに作っても「差」が出てしまう。でも、どんな人が作っても「水平」は「水平」で「差」がないのだそうだ。

 

 このお寺は、その「宣言」を起草した「西光万吉」の生家である「西光寺」さん。ここにもおまいりさせていただいた。

 

 みんなでそろって「讃仏偈」のお勤め。江戸時代からのお寺だそうで、外観は新しいが、中は古くて重厚なしつらえになっていた。

 

 これが、その「西光万吉」のお墓。有名な「宣言」の末尾にある文字が刻まれている。「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ。」

 

 今日の掲示板はこれ。「丁寧に生きればきっとどこかにつながる。心を込めた仕事をすればきっと結果が出る」という、エッセイストの佐々木志保美さんの言葉から。今日のを作り上げた、柏原の若者たちのように熱意をんもって丁寧に生きれば、きっとどこかにつながってくるし、心を込めた仕事をすれば、きっと結果が出てくるのだと確信したことだった。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


梅雨明けは まだまだ遠いと 京の空

2014年07月07日 | たまには旅など・・。

 京都府地方は梅雨前線や南からの暖かく湿った空気の影響で、雨が降っていたが、雲空の一日になった。気温は22度から27度、湿度は96%から88%と高かったが、体感的には涼しい一日になった。ただ、身体を動かすと、どっと汗が噴き出してきた。風は1mから5mの南南西の風が涼しかった。明日の京都府は、日本海に停滞する梅雨前線や南からの暖かく湿った空気の影響で雲が広がり、雨や雷雨となる見込みらしい。

 

 朝の所用をすませて、9時前に奥方に送ってもらって、高速の「大内(おおち)BS」に着いた。朝から激しい雨が降ったり、雷鳴が轟いていたりで高速バスは動くのだろうかと心配したが、雨は小降りになって落ち着いてきた。

 

 午前10時には鳴門海峡を通過し、11時過ぎには明石海峡を通過する。

 

 この頃には雨も小降りになってきた。

 

 JR京都駅烏丸口には12時20分に到着。駅前で簡単な昼食を食べて・・・・。

 

 東本願寺さんへ参詣。阿弥陀堂と御影堂門を修築中。御影堂におまいりさせていただいた。中は「撮影禁止」になっている。

 

 だから・・・手前の方から静かに・・・撮影。おまいりは真ん中まで進んで、親鸞聖人さまにお念仏申し上げてきた。

 

 しかしのかかし、このお賽銭箱は時代を感じさせる品物だなぁと思う。お買い物センターにも寄ったけれど、紋所が違うし、お経が違うもので・・・ながめて通っておしまい。

 

 そこから、てくてく、のろのろ・・と歩いて・・・下京区花屋町にある法衣屋さんに寄って、夏物のお襦袢を買った。そこで、高松自動車道でバスとトラックの事故があったと聞いて驚いた。私の乗ってきたバスの運転手さんも、しきりに欠伸ばかりを繰り返し、時計をはずしたり腕に通したりと落ち着かないので心配したことだった。

 

 で、次にやってきたのは本願寺さん。この頃になると、長い傘が邪魔になってくる。あたりを見回しても、誰も傘など持っていない。この梅雨空なのに・・・。

 

 すると、突然、ブックセンターから続々と割烹着姿の「念仏奉仕団」の一行が続々と続々と・・・・。手には真新しいタオルを握っているから、畳のから拭きでもするのだろうか。私も明日の朝は御影堂の畳掃除だな。

 

 国宝の「唐門」も曇っていては精彩ががない。若いアメリカ人夫婦も残念そうに見上げているばかりだった。

 

  そして、目的地の「興正寺」さん。挨拶をしておいてから宿舎に入る。今夜こそは休肝日にして、今夜は絶食だな・・・と決めていたのだけれど、夕方になってくるとおなかがぐるぐると騒ぎ出してきた。コンビニでものぞいてくるとしようか。

 

 今日の掲示板はこれ。「雑用などない。用を雑にするから雑用が生まれる」というもの。ノートルダム清心学園で理事長を務める渡辺和子さんが、ここまでの人生のなかで綴られた言葉は、多くの人びとの “心の支え”となってきた。85歳の今も女子学生たちと親しく会話し、慕われている渡辺さん。今なお輝きを失わない珠玉の言葉、多忙な毎日を送る私たちがつい忘れがちな“大切なこと”を、まとめた本の中にあったことばだ。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


半夏生 土佐のめぐりの しずしずと

2014年06月29日 | たまには旅など・・。

 高知県地方は高気圧に覆われてたが、気圧の谷の影響で薄雲が広がっていることもあった。日中はかんかん照りで暑くて汗が流れるほどだったが、木陰に入ると涼しくて気持ちのいい1日だった。

 

 さぬき市観光協会の「おへんろつかさの会」の研修バス旅行ということで、高知県に向かった。さぬき市役所を六時半集合で、松西インターで高速に上がって、高知自動車道で南国インターで降りてのフィールド・ワーク。もう、高知では稲の穂が出ている。

 

 今回は特に「五台山竹林寺」の宝物館と庭園鑑賞が印象的だった。 館内には、竹林寺に古くから伝わる藤原時代から鎌倉時代にかけての仏像17体(すべて国重要文化財指定)を安置、展示している。その数は県下の国重文指定仏像のおよそ三分の一に相当するといわれるこの大日如来座像は鎌倉時代のもの。十一面観音立像は貞観時代のものとされている。

 

 竹林寺の本尊は獅子に乗った文殊菩薩という珍しいもの。これは本堂で霊場開創1200年の特別公開になっている。

 

 これは竹林寺の庭にあった「ハンゲショウ」。もう、この花の時期になったのか・・と驚いた。ハンゲショウは「半夏生」と書いて、天球上の黄軽100度のテンを太陽が通過する日とされ、毎年7月2日ごろにあたる。この日に降る雨を「半夏雨といい、大雨になることが多い。この草は「カタシログサ(片白草)」といい、この頃に花が咲く。葉っぱの半分が白くなることから「半化粧」とも呼ばれる。

 

 これも竹林寺で見掛けた犬だが・・・・。犬もお参りにきているのか・・・。

 

 今日のお昼はここになった。高知市仁井田にあるドライブニン・レストランの「かつお船」。お昼を過ぎて13時近かったけれど大勢のお客さん。観光バスも十数台・・・。一階の土産物売り場は人でいっぱい。

 

 お食事はこんなもの。かつおのタタキがでっかくて分厚い。あとは・・・。これにご飯とお味噌汁。

 

 午後のメインは「雪蹊寺」。これは、その手前にある長曽我部元親の銅像。若宮神社の境内にある。雪蹊寺の縁起の1つ目は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。

 

 長曽我部信親は長宗我部元親の長男。豊臣秀吉の九州征伐に従い、豊後で家臣700人と討ち死にした。

 

 宝物館には、運慶作の本尊、薬師如来、日光月光両菩薩、湛慶作の毘沙門天、脇士の吉祥天女、海覚作の十二神将十体などが収められている。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山し、慶運寺と改められ、運慶、湛慶、及び一門の作による主要文化財が16体も残されている。その後、一時廃寺となっていたのを、天正の未に月峰和上が住職になり、長宗我部元親の援助を得て、臨済宗として再興されたもの。

 

 これが、湛慶の作になる毘沙門天像と脇士の吉祥天女。湛慶作は四体とされ、京都の三十三間堂にある一体と、ここの三体だけだとされている。

 

 なぜ、このような場所に、これらがあるのかは不明。

 

 今日の掲示板は、途中で見つけたこれ。「なんでもいいじゃないですか その道で一ばんになれば」という荒了寛さんの言葉。誰しも一番になりたいと願ってはいるのだろうけれど、一番がいれば二番がいて三番がいてビリがいる。なかなかに一番にはなれないもの。グズの一番、泣き虫の一番、弱虫の一番・・・。何かの一番になれればいいのだろうけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


あじさいに 旅の終わりを 話しかけ

2014年06月10日 | たまには旅など・・。

 成田市の朝は曇っていたが、やがてには晴れてきた。気温は18度から25度、湿度は76%から82%。風は2mから3mの南南東の風が少し。

 

 旅はおおまかでアバウトなところがいいのかも知れないが、いつものくせで6時前に目が覚めるがすることがない。テレビはカードを買わないといけないが、わずか1時間か30分ほどしか見ないのにもったいないと言うし、散歩をすると言っても山の中のホテルだし・・・。

 

 7時半から5人は揃って1階の食堂に降りてバイキング方式の朝食。洋食系の人が多いなぁと思った。

 

 ゆっくりと食べましょうね・・・と言われても、そうそうは食べられない。30分もすればおなかがいっぱいになる。三日目ともなると、面白い話も出て来ないし。30分ほどで失礼して旅のまとめの支度。JR成田駅に向かう送迎バスは10時10分だというので、これまた・・・手持ちぶさたな時間。ここは朝のお風呂がないのだそうだ。

 

 11時前、JR成田駅からは、お店のならぶ参道を歩いて、「成田山新勝寺」に向かう。ま、成田といえば「成田山」なのだろう。この頃になると空は晴れてきて暑くなってきた。ま、雨に降られるよりかはマシだなぁ・・という声があちらこちらで。ここは外国人の観光客も多かった。

 

 で、ここがお土産物屋さんの「米屋総本店」。羊羹がおいしいのだとか。ここでは無料のお茶が飲み放題で、休憩しながら試食品を食べながら休憩している人が多い。けいこばぁはお土産用の羊羹をたくさん買っていた。

 

 成田山新勝寺は真言宗智山派の大本山だとか。だからと言う訳でもないが、あんまり、お寺や建物などには興味がない。ま、でかいなぁ・・と思う程度。この仁王門の大提灯は大きくてものすごく重いらしい。この提灯は「魚がし講」が寄進したもので、「魚がし」と書いてある。800Kgもあるそうだ。

 

 これは狛犬というもの。普通は「神社」の参道に座っているものだが、ここにはあちらこちらに狛犬が奉納されている。このカラフルな狛犬は一級品。火消しの組が寄進したものらしい。

 

 これは「獅子山」という形式。溶岩を組み合わせて岩山を作り、そのあちらこちらに獅子を配置してある。山のてっぺんに親獅子がいて、そこから突き落とされた子獅子がよじ登っている様子が再現されている。こういう狛犬が、これでもか、これでもか・・と並んでいる。讃岐のこんぴらさんよりも数は多い。

 

 このドハデな建物は三重の塔。まぁ・・・というような感想。

 

 正面にそびえているのが「大本堂」。ちょうど、「御護摩」のおつとめ中だった。お坊さんが大きな御幣でお祓いをしているのが印象的だった。ここはなんでもアリなんだなぁと思った。

 

 おつとめの終わった法中がお戻りになるところ。

 

 お昼は参道の古いお蕎麦屋さんに入って、さっぱりとざるそば。ここには冷房がなくて、古めかしいウチワを貸してくれたのがおかしかった。このお店はおじいさんとおばあさんの二人だけでやっているものだから、実にのんびりとしたお店だった。

 

 昼食が終わると、JR成田駅から成田空港・第二ターミナル駅に向かって、そこで皆さんとお別れ。時間は14時半。出発時間は18時10分。4時間ほどの待ち時間。することもないし、行きたい所もない。ただ、待ち続けることしかない。

 

 フライト3時間前になると、この端末機で自分で発券する。予約番号や手荷物の数、預ける荷物の有無などをタッチしていけば「搭乗券」が出て来る。その後、保安検査を受けて、ただ、時間を待つばかり。

 

 フライト30分前になると搭乗手続きと言っても、搭乗券のバーコードを読み取るだけ。送迎用のバスに乗って、臨時駐機場に並ぶ一群の航空機の中の一機の前でバスを降りて搭乗する。

 

 これからが大変。フライト予定は18時10分だが、この時間帯は離陸ラッシュらしく、プッシュバックが始まったのが18時20分。そこからエプロンを右に左に走って走って・・・。各社の飛行機が大名行列みたいにエプロンをのろのろと・・。離陸したのは18時50分。松に着陸したのが20時。ようやくに戻ってきた。

 

 今日の掲示板はこれ。「実行するところに成功があり これを忘れるところに失敗がある!」というもの。安田不動産の創始者安田善次郎は生前、処世に関する様々な本を書いている。その中で彼は、自分がお金持ちになれた理由をいろいろと述べている。善次郎は最晩年「この二十年間守り通した処世の信条は?」という雑誌社の質問に対して、「勤倹、克己、一にもってこれを貫く」、また別のところでは「人生は克己の二字にある。これを実行するところに成功があり、これを忘れるところに失敗がある」と答えている。現代人はとかく、自分のいまあるがままの姿をめてもらいたいといった風潮が見受けられるが、立派な人間になったり、成功したりするためには、自分に打ち克つという意志の力を持たなければいけないということを、善次郎は教えているのだろう。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


梅雨もまた 旅のみやげと してみたい

2014年06月09日 | たまには旅など・・。

 千葉県流山市は朝から曇ったまんま。ときおり、小雨がぱらついたりした。気温は18度から25度、湿度は78%から88%。風は3mの東北東の風が少し。

 

 8時から朝食のパンを頂いてから、9時過ぎに近くの公園を散歩することになっていた。流山市の道路一本隔てれば、柏市ということで、県営の「柏の葉公園」を散歩することにした。

 

 公園の中ほどにあるバラ公園を散策したり、日本庭園を回ってみたりとのんびりムード。ここも実に広い公園で、柏レイソルのサッカー場があったり、野球場があったりと・・・。付近にはガンセンターだの東大の柏キャンパスもあったりするところ。

 

 ついでに、色衣や五条袈裟などの衣類などを自宅へ返送しておく。LCCは、お荷物1個でいくらだというのが面倒だから・・・。

 

 お昼は焼きそばに缶ビールを何本かいただいて、13時過ぎに流山を出て、バスでJR柏駅に向かう。施主さんのご夫婦と、お姉さん、それに私たち夫婦の五人連れの珍道中。目標は成田空港近くの「成田ビュー・ホテル」。

 

 JR柏駅から成田線で成田駅まで。そこからさらに乗り換えて空港第2ターミナル駅へ。ここまでで3時間ほどを費やしている。

 

 この頃も、雨が降ったり、止んだりだが、私たちは電車の中だから心配はいらない。このあたりは四国香川と変わりないような風景。

 

 電車の中もこんなもの。私たちの借り切りみたいなもの。成田空港駅で降りて、今度はバスターミナルで待つこと20分。ホテルの送迎バスがやってきて、それに乗ると、ホテルまで無料で連れて行ってくれる。

 

 お施主さんのおなじみのホテルらしい。外国のCAとかクルーとかがロビーにあふれていた。外国からのキャプテンやコーパイ(副操縦士)たちがにぎやかに談笑している。さすが、成田のホテルだなぁと思った。

 

 こういう、温泉、「美湯温泉」がウリらしい・・・。

 

 露天風呂というか「岩風呂」もあって入ったが、それなりだなぁ・・と思った。

 

 で、今日のメイン・イベントの夕食会。飲んで食べて、楽しいひとときを過ごしたことだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「幸せそうな顔をしていれば 幸せになります」という荒良寛さんの言葉から。普段にはパソコンに向かって、むつかしい顔をして一日を過ごしているのだけれど、今回の思わぬ旅で、飲んで食べて、大声で話して、笑って・・・・。ずいぶんと顔の表情が変わった気がする。明日はまた、どんな旅になるのだろうか・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


旅に出て 梅雨のしずくに かすむ明日

2014年06月07日 | たまには旅など・・。

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、雨の降っている所があった。今朝も朝の5時前に起こされて旅の支度を確認して、朝の7時過ぎに家を出た。迷犬ごんがいないから朝の散歩も必要ないし・・・。

 

 高松空港に着いたのは8時過ぎ。チェックインも難なく通過し、8時半の搭乗時間までおみやげを買ったり、トイレに行ったりとしておくが、今日は「利尿剤」がよく効いているのか何度もトイレに駆け込んでいた。

 

 メールで送られてきた予約票を提示すると、すぐに搭乗券が発行された。LCCということもあってか、周囲には若者が多い。

 

 八時半前に成田からの飛行機がやってきて、乗客が降りてきて、機内の清掃などがあって、8時40分に搭乗開始。この時には一番で乗り込んだのだが、成田で下りるのは最期になった。当然にそうなるのか。座席は25のAとB。後ろの方である。機内はほぼ満席状態。

 

 下界は雨模様らしいが上空は青空。雲の下には何も見えない。10時前から着陸態勢に入ったが、着陸したのは10時20分過ぎ。この頃、猛烈にトイレに行きたくなるのだが、着陸態勢に入っているからと・・・・。着陸してからもエプロンを右に左と走り続けて、今度はバスに乗り換えてしばらく走る・・・。

 

 成田空港は激しい雨が降り付けている。ここではタラップを踏んで下りるのだが、傘を開く間もないので、濡れながらバスに駆け込む。空港ビルに到着したら、けいこばぁと二人はトイレを捜して走る走る・・・。

 

 ようやく安心した二人は、昼食を食べるお店探し・・・。けいこばぁの好みで、おそば屋さんに入った。

 

 私はネギトロ丼とおそばのセット。お店の中には「讃岐うどん」のお店もあったが、ここまで来て「讃岐うどん」でもあるまいということで即座に却下。それだから・・・と言う訳でもないが、「おそば」にしたのだが、これは全く口にあわずに、ほとんどを残してしまった。どうにもべちゃべちゃで口には入らなかった。

 

 やっぱ・・・口にあうのはこれだな・・・。ごちそうさまでした。

 

 このお店からはLCCが離発着する様子が見られたのだが、激しい雨ではどうにも景色にはならない。昼食が終わってもまだ12時前・・。することもなく、行きたい所もないので、ターミナルビルをぐるぐると歩いてから電車乗り場に向かう。

 

 成田空港駅から京成電鉄スカイアクセスに乗って新鎌ヶ谷駅まで。田舎のおばさんのけいこばぁは誰にでも話しかけて、乗り場を聞いたり、尋ねたりして、どんどんと進んでいく。若い娘さんはスマホでてきぱきと調べて答えてくれるから、私のタブレットなんぞ出る暇がない。

 

 新鎌ヶ谷駅で下車して、今度は東武野田線に乗り換えて柏駅まで乗る。そこで別の線に乗り換えて・・・すんなりと、目的地の「江戸川台駅」に13時過ぎに着いてしまった。夕方までに着けばいいのに、4時間も早くに着いてしまった。

 

 ここでお施主さんがお出迎えに来てくれて合流。少しも迷うことなく、時間のロスもなく、お小遣いも使うことなく・・・・目的地に到着。あとはゆっくりと缶ビールをいただいて一休みして、夜の食事会になった。

 

 今日の掲示板はこれ。「ほんとに忙しい人は 忙しいなんて云わないものだよ」という荒了寛さんの言葉から。。「本当にお金持ちはお金持ちだなんて言わないものだよ」、「本当に賢い人は 賢いなんて云わないものだよ」、「ほんとうに幸せな人は幸せだなんて云わないものだよ」・・・と、いくらも似たようなバージョンは作れそう・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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