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364 ニニギノ尊(2) 是に詔らさく、「此地は韓國(からくに)向かい、笠紗(かささ)の御前(みさき)に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國なり。 故、此地は甚(いと)吉(よ)き地」と、詔りて、底津石根(そこついわね)に宮柱布(ふ)斗(と)斯(し)理(り)、高天原に氷椽(ひぎ)多(た)迦(か)斯(し)理(り)坐(ま)しき。 「韓國(からくに)向かい」は二通りに解釈できる。 一つは朝鮮半島に向かい合っていると言う意味だ。朝鮮半島が見えるわけではないが、北に朝鮮半島があることは分かっている。 南は「笠紗(かささ)の御前(みさき)に眞來通(まきどお)りて」 笠紗(かささ)の御前(みさき)とは薩摩半島の先端に笠沙というところがあり、それ、または薩摩半島全体を指していると思われます。そこまで、見通せてということだろう。 北、南、の次は東西、「朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國なり。」、東西に障害物なく国見が出来たことでしょう。 「韓國(からくに)向かい」のもう一つは、霧島連山の韓國岳のことです。 久住山から100km強有りますが、九州で1番高い山と2番目に高い山ですから、途中に阿蘇山があっても、天候さえよければ見えるでしょう。 その先の笠沙の御崎は、そこにあることを知っているので、見えるはずだと思えば、霞か雲はそれかもしれないと思えるでしょう。 東西は上に同じです。 いずれにしても、ここに立てば筑紫の国全体が一望に見渡せると言うことです。 自分の治める国の広がりを知り、実感することは極めて大切なことです。 天草に居て頭の仲で考えるとでは大違いでしょう。 故、此地は甚(いと)吉(よ)き地」と、詔りて、底津石根(そこついわね)に宮柱布(ふ)斗(と)斯(し)理(り)、高天原に氷椽(ひぎ)多(た)迦(か)斯(し)理(り)て坐(いま)しき。 底津石根(そこついわね)に、岩盤に、 宮柱布(ふ)斗(と)斯(し)理(り)、宮柱を太くし、 高天原に氷椽(ひぎ)多(た)迦(か)斯(し)理(り)て坐(いま)しき。高天原同様に床を高くして住まわれた。 氷木(ヒキ)、氷椽(ヒギ)は何だろう? 水面に氷が張ったように、床一面に磨いた板を平に敷き詰めるので氷木と呼んだのではないかと、guuchanの想像だ。 鉄の道具が漸く現れた時代、磨いた床板は、最先端技術であっただろう。 「ふとしり」、「たかしり」は「太しり」、「高しり」だろうが、「しり」という日本語の使い方が分からない。 これと全く同じ表現が、大国主之命が、自分の住む宮を、高天原同様にしてくれというところで出てくる。 天つの御子の天津日繼(あまつひつぎ)知らす登(と)陀(だ)流(る)天の御巣(みす)の如くして、底津石根(そこついわね)に宮柱(みやばしら)布(ふ)斗(と)斯(し)理(り)、高天原に氷木(ひぎ)多(た)迦(か)斯(し)理(り)て治め賜わば、、、 |
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363 ニニギノ尊 天孫降臨までにはまだまだ沢山のことがあるのだが、先が長いので早く降臨させることとした。 ニニギノ命は、高千穗(たかちほ)の久(く)士(じ)布(ふ)流(る)多(た)氣(け)に天下る。 高千穂の峰という解釈が一般的なようだが、guuchanはクジフルタケに注目した。 その音から、九重山である。高千穂は、九州の中央の高い山々を指している。 クジフルという意味は、感動的と言うことだ。 天草から、九重山に上ってきて天下ると言うのはおかしいではないかというだろう。 そうではない。天草は長年天族の根拠であった。そこを出て、天の支配地全域を直接統治しようと言うのだ。 それまでは、国々を多くの別に別けて半ば任せていた。 その手始めが、九州の一番高い山に登って、国見をするのだ。 天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多(た)那(な)【此の二字は音を以ちてす】雲を押し分けて、伊(い)都(つ)能(の)知(ち)和(わ)岐(き)知(ち)和(わ)岐(き)弖(て)【伊より下の十字は音を以ちてす】、天の浮橋(うきはし)に宇(う)岐(き)士(じ)摩(ま)理(り)蘇(そ)理(り)多(た)多(た)斯(し)弖(て)【宇より下の十一字は音を以ちてす】、竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穗(たかちほ)の久(く)士(じ)布(ふ)流(る)多(た)氣(け)【久より下の六字は音を以ちてす】に天降り坐しき。 伊(い)都(つ)能(の)知(ち)和(わ)岐(き)知(ち)和(わ)岐(き)弖(て)を一般的にどう解釈しているか知らないが、伊都国の伊都かもしれない。筑後川の河口は伊都国である可能性はある。伊都国は天が設けていた、北方を治める大きな役所を置いていたところである。 何処の地別地別けてかもしれない。 天の浮橋(うきはし)に宇(う)岐(き)士(じ)摩(ま)理(り)蘇(そ)理(り)多(た)多(た)斯(し)弖(て)【宇より下の十一字は音を以ちてす】、竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穗(たかちほ)の久(く)士(じ)布(ふ)流(る)多(た)氣(け)【久より下の六字は音を以ちてす】に天降り坐しき。 浪花節でも聞くようだ。 天の浮き橋は、中国式の堅牢なジャンク船だ。胸を張ってカッコよく船上に立っている姿が、目に浮かぶようだ。 天の浮き橋でやって来たのだから、天草から筑後川を遡って出切るだけ上流に来ただろう。 そして途中、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上(かみ)は高天原を光(てら)し、下(しも)は葦原中國を光(てら)す、是れ有り。 猿田毘古(さるたびこ)という名の神がいた。 おかしな名のようだが、後に大伴狭手彦という重臣が現れる。九州北部の遠賀川沿いに上流まで勢力を持っていた有力な天の一族だったろう。 大伴連は神武東征に従っていき、大きな力となっている。 天之八衢(あめのやちまた)とは、筑後川の上流、遠賀川の上流、山国川の上流で各地への交通の要衝と言うことになる。 古くからの天領、日田市辺りではなかろうか。 |
362-1 天神様 小学3年生の時か? 肝試しで、真っ暗い中、この階段を登って行ったと思う。 今登ってみると、急で危ないように思う。 | |
362-2 猿田彦命 こんな石が階段の途中にあったのは覚えていなかった。 60年ぶりだ。 石には寛政十年と刻んであったから、西暦1800年だ。 天神様はそれ以前のものだろうか? | |
362-3 絵馬 荒れ果てた境内。お堂の格子の間から薄暗い中を写した。 | |
362-4 城山登り口 地元では城山(しろやま)としか言わない。 天神様の近くにすぐ裏手の山に登る登り口がある。 | |
362-5 山鹿兵藤次秀遠の城址 城は山鹿兵藤次秀遠の居城。秀遠は平家方に組し、壇ノ浦で平家と共に滅んだ。 城は俵藤太秀郷の弟藤原藤次によって937~948年に築かれた。 |
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362-6 城山から北を望む 少し、左手が遠賀川の河口だが、それはこの写真では見えない。遠くに響灘が見えている。 |
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362-7 芦屋町 遠賀川の対岸は芦屋町だ。 右手が遠賀川の河口だ。 |
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362-8 遠賀川上流を望む この辺りは、川幅が広く多数の船が停泊するにも良かったと思う。 |
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362-9 もみじの種 従姉の家では庭のモミジの枝をばっさばっさと切り落とした。 庭のモミジが茂って家が暗いから刈り込んでくれと頼まれた。 可愛いもみじの種がついていた。 |
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361 須佐之男命 三貴子の末、須佐之男命は、 次詔建速須佐之男命汝命者所知海原矣事依也 「汝が命は海原(あまはら)を知らせ」と、詔りて事依しき。 伊耶那岐命から「須佐之男命は海を治めよ」と言われたが、素直に応じない。 海を治めよとはどういうことか? それに、朝鮮半島の南側、百済、任那、新羅、済州島などの経営だったかもしれない。 それは造船、そして航海技術、なくしてはどうにもならない。 徐福以来その強力な海軍と言おうか海運と言おうか、それを維持することは不可欠なのだ。 天の往来の回数が少なくなれば、現地に入っている天族の影響力が小さくなる。 須佐之男命は狗奴国の王だ。居ない間に、根拠地を奪われる心配もある。 海上は危険だ。いつ命を落とすことになるか分からない。 天照大神の後を継いで、天一族の王になるのは自分だと思っていたかもしれない。 しかし、いつまでも詔の通り海原に出ようともしない須佐之男命に、なぜ行かないのかと伊耶那岐命は質した。 須佐之男命は、母の国根之堅州國に行きたいという。 根之堅州國とは島根県の根と関係がありそうだ。 guuchan今からちょっとお出かけします。 烏奴國に行って参ります。 とguuchanは思う。 |
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360 三貴子 三貴子を生んだ時、禊のためにイザナギはどこに居たか? 故吾者爲御身之禊而 到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而 禊祓也 竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐(あはき)原とはどこか。 九州の日向となれば宮崎県あたり、橘の小戸の阿波岐という所が存在するかだ。 日向が九州の日の当たる側、すなわち山陽という意味だとすると九州の東側をいうことになり、大分、別府辺りに小戸の阿波岐に相当すると思われるところがあるとすると、有力な候補地かもしれない。 ちなみに伊耶那美命が葬られているのは出雲だ。 それぞれの出身地は、日向と出雲ということになるのかもしれない。 さて三貴子だ。天照大神、月讀命、須佐之男命のことを伊耶那岐命自身が三貴子と言っている。 天照大神と須佐之男の尊はよく知られている。しかし、月讀命については「汝命者所知夜之食國矣」 汝の命は夜之食國をしろしめすところなりととあるだけだ。 夜食は案外大事だったかも知れないなどと、書いているものもあるが食は食べることと関係があったのだろうか? 食は日食、月食と関係が有ったのかもしれない。 guuchanには月讀命は天体観測、暦の制定などの仕事と関係していると思う。 その名の通り、月を読まねばならぬ。純粋に陰暦で行っていると、1年に約10日季節がずれてくる。 修正しなければ農作業は出来ない。 また、来年の約束を、するのに日が決まらない。 月讀命は、金属加工技術の発達していた出雲にいった可能性は十分ある。 出雲には多数の銅鐸が出ている。これは一年の日を決めえる重要な道具らしいという研究がなされている。 神在祭の起源 現代人が空の星や月を見ても、何も読めないからと言って、古代人も読めなっただろうと思うのは浅慮に過ぎる。 わたしたちは、時計を持ちTVラジオがあるから、今日は何月何日というのは知ろうと思えば簡単だ。 いや、驚くべきことに、毎朝、今日の運勢をTVでやっている。 「○○座生まれの人は今日はうんぬん、、、。」 古代人が見たら、現代人の幼稚さ加減をきっと馬鹿にするだろう。 天人たちは、日本の各地に散らばって居たが、一年に一度集まろうということになっった。 来年の約束の日をどう決めただろう?そしてそれをどうして知っただろう? 神無月だから10月になるが、旧暦の神無月と言うと、今の11月くらいになる。 季節から言うと今の10月の方が旅行にいいのではないか。季節が遅くなって、冬の季節風でも吹くようになると北の方の人が心配だ。 秋分の日から1朔望月(さくぼうげつ、月の満欠けの周期)位がいいところだ。 國と國との約束、あるいは取引の約束なども、期限は大事である。 それが言った言わない、日限が違うなどとなれば、戦争にもなりかねないこともある。 一日の時間も、何月何日も、全て天体の動きから得ていたのだ。 天体観測は極めて重要であり、高度の知識を要した。 だから月讀命が必要だったのだ。 とguuchanは思う。 因みに、暦(コヨミ)は日読(かよみ)から来ていると言う説もある。 guuchanもそう思う。 月読みより詳しくなったから日読みにしたが「ひよみ」ではなんだか新鮮味が無い。日常語では紛らわしい、そこで「かよみ」と商品名をつけて売り出した。 月讀は古代の天文台以上の研究センターであったと思われる。 |