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600kmを水行10日、陸行1月。 これは魏志倭人伝の記者が記した、韓国の郡(現代の郡山)から邪馬壹(guucnanはヤマトと読む)国までの旅程である。 このペースで日本を一周してみよう。
冬季の航海は危険であるから、航海しないとしても、2年あれば一周できるだろう。これは日本が島か大陸の一部かを知る上でも、実施しなければならない航海である。2回に分けても、2年あれば実施できたと思われる。 1855年に福沢諭吉は下関から明石まで460kmの船旅をしている15日かかっている。 1日30kmだ。これが当時の帆船の一般的な船旅だろう。 しかし、距離的にはもっと走っている。瀬戸内海を四国と中国側とを縫うように走って、船客が上陸して、その地の名所を見物してくる余裕は見てあるのである。 徐福の船はモット上等だ。中国では当時4000石の船が有ったらしいが、そこまで大きくなくても半分の2000石はあったとしよう。 何しろ、秦の始皇帝の命令を受けての旅である。 7年間の日本調査旅行において、少なくとも1回は本州を海から一周したと思う。 大きな川、湾、入江、住む人々について調査したであろう。 人びとの衣、食、住、医療、交通、造船用木材、鉱石、玉、金、鉄、銅。地形、地図。 鉱物資源は、詳しい探査が出来るわけがない。 人々の生活、海岸の砂や石、川底の砂や石、崖の露頭などから見る程度である。 高い山は、測量にとって重要な目印だ。 第2次世界大戦のときアメリカのB29爆撃機が富士山をめざして飛んできたように、海から見える高い山は格好の目標物だ。 富士山がどの方向に見えるかで、自分の位置を知ることが出来る。 地図作成上も重要なもランドマークである。 初めて旅をして、目立ちやすいランドマークを記録して、それらの方角を距離を測定した記録は、航海図である。それを見れば初めての人でも、およその見当はつく。徐福は日本列島をほとんど完全に把握したと思う。 目的を持って一周したのは恐らく徐福が始めてであったろう。 ある意味では、そこに住んでいる人たちよりも良く日本を知っていたのである。 7年の間には朝鮮半島沿岸の調査も含まれていたであろう。 百済側、すなわち、朝鮮半島の西側海岸は、日本に来る前に通って調査してきている。伽耶国(釜山付近)までは一応調査済みだ。 それより、東側、新羅側も調査したにちがいない。 それは後に日本が朝鮮半島の百済や新羅を臣従させていた時代があることから推定できる。 さらに7年の間には、日本海も一周して、沿岸を把握したと思う。北海道は大陸の一部という認識を持っていたかもしれないが、 およその日本列島全体(隠岐の島も把握している)と、日本海、環日本海沿岸を把握して安心したであろう。 その間には、倭人のを使い、日本語を習得していっただろう。 次は居を定めるとしたらどこが良いかが問題になる。 列島全体の大きさから見れば、その中心である。 大阪あたりが良いと思われる。 朝鮮半島、の日本海側(新羅)などの開け具合では、日本海側の出雲辺りも有力な候補地だったろう。 だが、それは将来のことで、今は中国に近いところが良い。 必然的に、九州の西海岸になる。 その中で、家族が安心して過ごせる場所を探した。 それが天草である。 適当な広さがある。広すぎて防衛に困るということはない。 気候温暖、山もあり、水は豊富、その上温泉もある。 周囲は海だ。天然の濠である。 船は沢山あるから、進退自由である。 有明海を中心に、その周囲と交易することで色々なものを手に入れることが出来る。 この島は理想郷だ、天国だ。理想の天地だ。 天(アマ)国は、一般名詞の天国や、天地がアマ(倭風の読み)と発音されるようになって、固有名詞化して行ったと思う。 天草を開拓し、日本大きなの可能性を見出した時、中国に帰ってもう一度一大移民団を編成して渡海することを決心した。 |