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353 荒雄の悲劇と三井楽町 万葉集巻16に荒雄の悲劇が載っている。 宗像郡の百姓津麻呂に対馬に兵糧を送る船の舵取りをせよとの命令が届いた。 津麻呂は糟屋郡の志賀島の白水郎(あま)荒雄のところに来て、相談した。 「支障があるのだが断れないだろうか?」 荒雄は、「自分も船乗りだ。殉死することがあっても、どうして断れようか?」 津麻呂「対馬への兵糧送りの舵取りを命ぜられたが、老衰してむりだ。それ故、代わって呉れないかとお願いに来た。」 荒雄は承知して肥前の国の松浦県美祢良久(みねらく)の崎より船を出し、 対馬をさして海を渡った。そのとき忽ちに、暴風は雨を交へ、つひに順風なく海中に沈んだ。 その悲劇にちなんだ歌が10首ほど並んでいる。 その妻が詠んだとか、あるいはその心中を察して、大宰府の司に来ていた山上憶良が詠んだとも言われている。 詳しくは この美禰良久が五島列島の三井楽とされているのが、てんでおかしいという意見に出会った。 guuchanも、ずいぶんと遠回りになるので、美禰良久に相当するところが唐津の辺りにあるのではないかと探したことがある。 しかし、この話は神亀(じんき)年中724~729年。のことで、憶良は726年に筑前の守で赴任してきている。 間違ったり、誤解されるような記事を書くはずはない。 そう思ってもう一度読むとだんだん分かってきたように思う。 「延喜式」主税上・雑式によると、筑紫六国は、対馬の島民と防人のために、毎年二千石の米を交替で運送することになっていた。 「三代実録」貞観十八(八七六)年三月九日の条によると、船員百六十五人が当てられている。さらに、五、六回に三、四回は漂着したとある。 大変危険な航路だったのだ。 唐津港→(50km)→壱岐→(50km)→対馬 今でこそ、目と鼻の先と思うかもしれないが、当時は手漕ぎか帆船だ。 穏やかな海でも一日がかりである。島を目の前にしても行き着けないこともあったろう。 特に冬になると、船を出せる日が何日あったろう。 あるいは秋でも、台風などに見舞われると漂流することなろう。 | |
壱岐経由で対馬に渡ろうとしたとき、対馬海流に流され、西風に吹かれれば、対馬をかすめて日本海に流されてしまう。どんなに近くを通っても、後は遠のくばかりだ。 冬季には西風が吹く可能性は大きい。 当時の対馬航路は、それを見越して、沿岸を出来るだけ西に西に航海し、三井楽からなら、東に流されながらでも、その風を利用して対馬につけたのではないだろうか。 帆船時代のそれが常識だったのだ。 三井楽は遣唐使船の出発港でもあったことを思えば、そういった設備、最後の支度と整備、そして風待ち、風読みをするのに最適であったろう。 しかし、距離が遠すぎるように思う。航海時間が長くなると、それだけ天候の変化に遭遇する危険も増す。小値賀(おじか)説が出る所以だろう。 三井楽で荷を点検し、島沿いに小値賀に来て、ここが最後の出航地となった可能性もあります。 万葉集3869 大船に 小船(おぶね)引き副(そ)へ 潜(かづ)くとも 志賀の荒雄に 潜(かづ)きあはめやも (大船に小船を引き連れて海に漕ぎだし、海に潜(もぐ)って捜そうとも、志賀の荒雄に海中で逢うことができようか、いやできはしない。) ここには、もはや現世の人の及ばない海の彼方の国に旅立っていった夫への、諦めがある。 |