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天草(アマクサ)の誓い われらは秦の始皇帝によって、この地に遣わされた。 始皇帝のために、新しい国を開き、これを捧げねばならぬ。 この地に万里の海を越えて、無事に着けたのは、天命と知れ。 天に感謝し謹んで天命を受けよ。 この国を天(あま)と名づける、理想の国となすべし。 民は誠の心もて慈しむべし。 法を敷き悪事を遠ざけよ。 過大なる労役を課さず。 民と共に労苦し、国と民とを共に富ましめよ。 皇帝の恩愛を知らしめ、心底より尊崇する心を起こさせよ。 民の用いるあらゆる薬草を集めよ。 珍しきものを捧げたるものには褒美を取らせよ。 このようなものが残されていないのは残念だが、天照大神が「五穀をもって民人草を養え」とニニギノ尊に詔りした。あるいは聖徳太子の17条憲法にその精神は生きているのではなかろうか。 メイフラワー盟約に先立つこと1830年、ピルグリムファーザーズにも通じる感動の歴史的シーンがあったはずだ。 徐福らは、秦という偉大な国の好い所も悪い所も知って、前者の轍を踏まぬように心に誓ったに違いない。 徐福集団の主だったものと協議して、このような詔を作成した。 一行は初めて上陸した。 無事に着き堅い大地を踏みしめて喜びを共にした。 天の安川(天草、下山川の下田温泉と想定)、に一行を憩わせた。 100艘に近い船を下山川に入れて帆を降ろした光景は壮観だったに違いない。 慣れない長い船旅と、前途の不安に包まれた一行も、この温泉に浸ることで、 なんと良い国と感じ、前途が一変に明るくなったではあるまいか。 3年間は辛抱して、田畑を開墾し、食料の生産増大を目指した。 天草だけでなく、協力する部族には、近くに天の田畑の地域を定め、労働力を提供させて、農場を経営した。 種を撰び、鉄の農機具を貸し与えた。 稲などの栽培では、採れた穀物を脱穀したり、精米したりしなければならない。 それにも、経験と、道具が要ったのである。 それらの製作も、天の知識や指導を仰がねばならなかった。 また、収穫した米だけでなく、その稲藁から、縄をなったり、蓆を編んだり、という副産物も作ることにも、住民は熱心だった。 この3年の間にも、船は休ませなった。 九州、四国、瀬戸内海沿岸、 山陰、朝鮮半島の沿岸など、入植地、資源の調査など鋭意進めた。 |