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徐福東シナ海を探る 徐福は中国に帰るのに、朝鮮半島経由でなく直接帰りたかった。 会稽は、この天草からほとんど真西にあると確信していた。 春の安定した気候の時、東風、あるいは南風が吹くのだ。6、7年航海に密接に関わった生活をしてきて、徐福は気候や海流にもそれなりに通じるようになって居た。 いや、もともと、しっかりした基礎学問を持っているだけに、ものごとを記録し、住民の話も関心を持って聞くので、貴重なデータとして徐福の頭の中には蓄えられて、航海の知識も誰にも負けないものとなっていた。 (地図はクリックすると拡大します。拡大した後、もう一度右下隅に現れるボタンで更に拡大してください。) | |
何よりも徐福はこの世界が、海がどういう広がりを持っているのかを知るという目的があるから、それを軸に全てのデータが整理されるのだ。 直接中国大陸に帰ることで、徐福の画いている中国、朝鮮、日本の位置関係が確かめられる。 中国会稽まではおよそ、16,000里(800km)。昼夜順調に走るなら4日位で行けるのだが、、。 その航路の開拓の準備として、九州の南も探ってみた。大隈半島から種子島、屋久島が見える。 屋久島まで行くと、トカラ列島の島影ははっきりしないが、はるか遠くの海上に常に雲が存在して、島があることを思わせる。 住民の話から未だ南に島が存在することは明らかだ。次々に列島を南に進んだ。遂に奄美大島を発見した。 さらに、南に進んだ。琉球だ。言葉は相当訛りがあって通じにくかったが倭言葉に似ているというより、倭言葉にちがいなかった。 さらに、その先、2000里ほどのところに、また島があることが、住民の話と雲の姿で確認できた。 今の宮古島であった。 そして台湾。 そこはもう倭言葉ではなく、中国風の発音だった。しかし、言葉は通じなかった。 住民の話から、その西4000里(200km)で中国大陸であることを確信した。 もう行ってみる必要はない。作成してきた海図でも会稽の真南ぐらいになっていることは分かっていた。 このまま、秦に帰るわけには行かない。不老長寿の薬も持たずに帰るとすれば、何か理由が要る。 沖縄で、珊瑚や珍しい大きな貝殻などを物々交換で手に入れて天草に帰ってきた。 |