住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

346 「もしも、徐福が日本に来ていたら」 (39)

2007-05-11 13:06:41 | もしも、徐福が日本に来ていたら

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徐福の第2回の渡日
 これは全くの想像である。証拠があるわけではない。既に知られているわずかな記録などに矛盾しないように実際に起こり得た事を想像したものである。
しかし、この想像に基づいて、調査して何らかの発見をする可能性はあると思う。
 徐福の第二回目の渡来を第5話で対馬壱岐経由としていた。

直接天草に来るコースも撰べたが、少し遠回りしたのは、中国との距離があまり近いという印象を集団に与えないための配慮でもあった。
集団をこれから、日本に定住させなければならない。
二度と、母国に帰れないということをどういう風に、皆に納得させていくかは難題であった。

古事記には、別天(べつあま)の神が三柱+二柱の五柱出てくる。
三柱は天の御中主、高御座巣日の神、神産巣日の神である。
 二柱は宇摩志阿斯訶備比古遲神(ウマシアシカビヒコチノカミ)、天之常立神(アマノトコタチノカミ)である。

普通に考えると、徐福は天の御中主だろうということになる。
しかし、それでは集団がもたない。
天の御中主は秦の始皇帝であろう。始皇帝の命によって派遣されてきたのだ。始皇帝の命令は絶対で、何人も逆らえない。
たとえ、集団の中に居なくても、その名を聞くだけで、恐れ畏まったであろう。
だれも、二度と帰らないとは思って居なかったから、その覚えが良いように振舞って居なければならない。

徐福は全ての命令を始皇帝の名で、始皇帝に代わって発令(詔)していたであろう。
いや、徐福がではない。全ての情報を握っている徐福は中心的な存在ではあったが、神々の合議制であったろう。
民主的な国会の始まりであった。
(聖徳太子条憲法十七に曰く夫(そ)れ事をば獨(ひと)り斷(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)と與(とも)によろしく論(あげつら)ふべし)

民主的といっても、議員に民衆がなれたわけではない。
高殿に上がれたのは身分の高い王族や貴族たちであった。
武士や、専門の工人たちは庭に控えていることになる。
倭人は論外であったろう。
では、徐福は高御座巣日神(guuchan読み、タカミクラヒネモスノカミ)か? 徐福が高御座に上がって一日中そこにいては、集団は二進も三進も行くまい。 これは、もと徐国(秦に併合されてしまっているが)の王またはその血筋ではなかったかと思う。 徐の国は人民に優しい仁政を敷いた国であった。
徐福が畏まって高御座巣日神をうやうやしく扱うことによって、徐福の集団に対する重みは更に増すことになる。
それでは、 神産終日神(カミムスビノカミ、guuchan読みはカミウムヒネモスノカミ)が徐福か?
徐福の舅ということにしておこう。徐福の奥さんや子どもは出てこないが、このアイデアは捨てきれない。
徐福は天常立神(アメノトコタチノカミ)の神、寝る間もなく忙しく立ち働いた神なのか、天の国が常しえに立ち行くように基礎を打ち立てた神だからか?
とにかく徐福なしでも誰も何をどうして良いか見当もつかなかったであろう。
 全ての命令は天常立神が考えるのだが、これを竹簡に書いて、書にして、詔として形を整えるが神産巣日神の仕事であった。
神を産むとは、肥前の神(守)、肥後も神(守)など大臣、知事、あるいは仕事関係の責任者に任じ、それに給料を定め、家来をつけることである。
徐福は三年間、集団を身近に置いて、教育し、入植しても困らないように準備した。 倭人と上手に住まねばならない。倭人は現地労働者として必要不可欠の存在なのだ。 これと敵対することは、安全が脅かされるだけでなく、何等の益ももたらさない。
倭人の一番欲しかったものは何だろう。?
一つには、食えさえすれば良かったのかもしれない。
家で、ぶらぶらして、飯だけ食っておられるより、よそで食べさせてもらうだけでも良かったのかもしれない。
徐福集団も、潤沢に毎日皆に食べさせてやるほど潤沢に食料があるわけではない。
現地で調達するしかない。 現地人を使って、能率よく手に入れるのだ。 ひまな倭人たちを募り、貝や、魚など、集団で漁をさせ、能率の向上をはかった。
木の枝や、草、など燃料を集めさせた。
猪などを山狩りして弓矢で掴まえた。
大釜(土器)で炊いた、色々なものが入ったスープは美味しかったに違いない。 当時、まだ、三度三度食べるという習慣はなかったかも知れず、毎回火を通して食事を作るなどは、恐らくしていなかったであろう。
それだけでも、徐福効果があって、豊かになっていたのかもしれない。

 女は女は女同士、男は男同士、文化交流することで、知識は急速に増していった。文化交流の場であり、教育の場であった。
 第二世界大戦の後、米軍が進駐してきたとき、米軍の士官の家にメイドで入ったり、あるいは、宣教師やその家庭の付き合いを通して起こったことが当然起こったであろう。

鍬、鎌、矢じり、小刀、斧など住民にそれらを貸して天の畑つくりや、材木の切り出しを手伝わせた。
鉄器の威力は素晴らしいものであった。
これらの道具は彼等の喉から手が出るほど欲しいものとなった。
好奇心の旺盛な倭人を使いながら、川や海に仕掛けを作って魚を取りやすいようにした。
徐福株式会社もはじめは赤字経営だ。 とにかく三年の間に、黒字体質に持っていきたかった。 従業員にちゃんと給料(食料)を払いつつ、信用を得て、設備投資(田畑の開墾、木材の切り出し)などに、力を廻し、各地に支店を出して広げられるようにしなければならない。