2006年7月 富良野にて | |
明けましておめでとうございます。 2007年元旦 「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」(創世記9章16、17節) 人間が作り出した地上の虹。しかし、この花も全て神の恵み。ただ、感謝あるのみ。 みなさま、今年もよろしくお願いいたします。 |
223-1 教会の花 今年最後の日曜日。 今日の花は、「アッ」と思った。 見たことのない花のアレンジだ。 クリスマスに使ったヒイラギのクランツにバラの花が加わってリユースだ。 クランツに二つの塔が直立している。 葉牡丹とベルフラワーだ。 斬新なデザインだ。 ベルフラワーはちょっと水揚げが悪かった。 日本的な考えでは、元気のない花は「縁起が悪い」とすぐに敬遠されるところだ。 しかし、人間はいつもぴんぴんしているとは限らない。 「いつも喜んでいなさい。」「どんなことにも感謝しなさい。」といわれても、いつもそうできるだろうか? 自分のことを、この萎れかかった花に重ね合わせながら説教を聞いた人も居たかもしれない。 悲しみや悩みを抱えたときにこそ、「いつも喜んでいなさい。」「どんなことにも感謝しなさい。」ということが大きな意味を持つ。 萎れかかった姿においても神の栄光を現しているこの花を見ながら、すべてのことを神に感謝しつつ今年最後の礼拝を守った。 今年、公園風田舎町を訪れてくださった方々に感謝します。 皆様と楽しいときを過ごすことが出来たすばらしい一年でした。 来年もよろしくお願いいたします。 良いお年をお迎えください。 |
222-1 コルムネア イワタバコ科コルムネア属 金魚のような花が咲くと聞いてから、もう大分なるが、ずっとこの状態で変化なし。 花も咲かないのにアップしても仕様がないとは思うものの、他にあまりアップできるものがない。 来年の何月頃に開くのか、後学のために記録しておこう。 | |
ヴィオラ & アリッサム 青と白のヴィオラ、それに、白い細かい花がボール状についているアリッサム、今かろうじて見るに堪える寄せ植えである。 ヴィオラの青が光りの加減で妖しく美しいと思うときがある。 |
仕合せ 幸せ | 221-1 幸せ、仕合せ 「さくら新聞」の校正のときに、「仕合せ」は「幸せ」が本当ではないかと言う意見が出た。 そういう議論をするのは嫌いではない。これからも些細なことでも意見をぶつけ合って、切磋琢磨したいものだ。 この場合、「どちらでも良いのだ。」と言っても、すっきり納得した風ではない。仕合せを見たことがないのであろうか? |
幸という字に、しあわせという意味はあっても、しあわせという読みがあった筈がない。 読みは仕合せから来ている筈だ。「仕合せ」は「為し合わせる」から来ているという。グッドタイミングに為し合わせたから、ラッキーだったのだ。 「仕合せ~」というのはこのタイミング、あるいは幸運にめぐり合わせたと言う意味からきている。 その意味からいうと「仕合せ」は為し合わせると言う意味から「し合せ」の方が本当だろう。 為すという意味の「する」の連用形の「し」は漢字の仕が当てられることが多い。仕事、仕組み、仕送り、仕込む、仕方など。しかし、元の意味からすると、仕えるのではなく、為すのであるから「し」が本当である。 「し合せ」より「仕合せ」、「仕合せ」より「幸せ」の方が使う人が多くなると、前者がいつの間にか間違い扱いされ、特に試験などで間違いとされるようになると、差別視されたように排除される。 「仕合せ」はそのまま残したが、「剪定のし方」と言う使い方をしていたのは、指摘されて「剪定の仕方」に直した。guuchanは直す必要性はないと思ったが、一般的には「仕方」の方が多いのだ。 「仕合せ」と「幸せ」はどちらが「しあわせ」に感じるか? それは、その人の経験の差による。色々な文学の中で、「仕合せ」や「幸せ」と書いた表現に出会って、そのときの主人公の幸福感の印象の強い方が、より「しあわせ」と感じるのではないだろうか? あるいは、ラブレターの中で、相手が「仕合せ」を使っていたか「幸せ」を使っていたかによっても決定的な差が出るかもしれない。 | |
越す 超す | 221-2 越す、超す 「200本を越す」と書いていたら「200本を超す」ではないかと言う意見があった。 どちらでも良いはずだが、そう言った人は「越す」は間違いで「超す」でなければならないのだ。 辞書では「越す」・「超す」を一緒に扱って説明しているものも多い。超越というくらいだから、超も越も同じ意味なのだ。 |
恐らく、中国ではどこかの国では「超」を、どこかの国では「越」を「こえる」意味で使っていたのだろう。 文化交流が起こると、同じ意味を持った文字が二つ存在することになる。 どちらが正しくて、どちらが間違いだと言うことはない。 東京弁だけを正しいと考え、方言を笑うのは文化の多様性を否定して、多様な文化の存在を許さない偏った考え方なのだ。 昔の人は、そういう場合、同じ意味の言葉や文字を重ねて使っていると思うことが多い。公平なのだ。それで平和が保たれる。 たとえば「居ます」ということば「居る」と「在(ま)す」が重なっているように思うのだが。「まします」が「いまします」となる。 | |
一所懸命一生懸命 | 221-3 一所懸命、一生懸命 これは「さくら新聞」とは関係ないが、あなたはどちらを使うだろうか? たいていの人は無意識に話し言葉で「イッショウケンメイ」と発音しているので、書くときも「一生懸命」と書くのではないだろうか? 辞書を見ると両方あるはずだ。 |
「一生に命を懸ける」ということであまり疑問に思わないかもしれない。しかし、一生に命が掛かっているのはあたりまえのことであるから、それ以上懸命のし様があるまい。 もともとの意味は、一所に命を懸ける。一つの城、一つの町などを命がけで守備する意味から、一所懸命が出たと考えられる。 しかし、今では本当のはずの一所懸命が間違い扱いされかねない。 その傾向は古典を読まなくなったので、ますます拍車が掛かりそうだ。 一所懸命と関係ないが、 また、近年は言葉狩りというものがある。これは差別用語だから使用してはならないと言う。だれがそれを決めているのか?いつも不思議に思う。 言葉狩りが、古典を読む力を失わせている。 言葉狩りを行えば差別がなくなると言うことはない。 別の差別用語が生まれるだけである。 差別意識や、罵り合いは、海面に波が絶えないようになくなる事はない。 かって差別用語でののしられた人間の痛みや苦しみを、どうやって表現したらよいのか? その苦しみを、ののしられた言葉を使わずに、どう理解することが出来るのか? いつも思っている疑問である。 |
220-1 クリスマス・キャロル 12月25日、夕方から近くの病院付属の老人福祉施設にキャロリングの出前に出かけた。 例年だと4箇所+α廻るのに、今年は直前になってノロウイルス対策で一箇所とすることになった。 ノロウイルスなど、早く処置方法が確立されればいいですがね。 病原菌の方も次々に新しい勢力が現れて来ますね。 施設からの帰りに、我が家の前でも一通り歌ってもらいました。 昔の家なら隙間だらけで、外で歌っていても家の中まで聞こえたのに、昨今は、サッシで外部の音が聞こえにくい上、 TVでもつけていると、きこえなかったかもしれませんね。 御近所で、窓を開けるようなところは一軒もありませんでした。 もっとも昔でもそうでしたけど。 | |
220-2 電飾流行 数年前から、普通のご家庭で電飾をされるところが多くなりました。 いろんな電飾がありますねえ。 電気代が数万円に及ぶと言う話をよく聞きます。 友田川の川縁にこんな電飾がありました。これは一軒ですね。凄いですね。 サンタクロースの誕生日を祝っているみたいですね。 |