住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

300 『もしも、徐福が日本に来ていたら』 (5)

2007-03-31 00:05:31 | もしも、徐福が日本に来ていたら
もしも、徐福が日本に来ていたらの
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ー 対馬到着 ー


 300-1 古代船の速度

 帆船の速度は、風向き、風の強さによって非常に違ってくる。
 真後ろからの風が最も有効なように思えるが、そうではない。
サーフィンを考えてみよう。
波の進行方向と同じ方向に進もうとすれば、波より早く滑ることはできない。
波が盛り上がってくる傾斜を利用して、波の進行方向に直角に近い角度ですべると、凄い速度が出て、波が作るトンネル、いわゆるチューブを通過することが出来るのだ。
それと同じことが帆船の場合も言えるのである。
毎秒6m(12ノット、時速約22km)の風なら理想的である。黄砂が飛来する時、海上は晴天でこれくらいの風は得られたであろう。
これくらいだと、5ノット位で航行できた(16世紀の帆船とほぼ同じと見ました)。
時速9.2kmである。
24時間走ると、216kmである。琅邪(ろうや)から朝鮮半島まで約800km、4日の航行になる。
順風満帆でこれだから、その2倍位かかったかもしれない。途中で何度か雨に見舞われたかもしれない。しかし、黄海の中ではどっち向きに流されても、浮いてさえおればどこかの陸地に行き着ける。
この時期台風はない。真冬のシベリア高気圧ということもなく無事に陸地の見えるところまでやってくることが出来た。
徐福は春分の日の頃に、琅邪を出発した。気候が安定したら出来るだけ早く出発したいからである。航海は順調に進み、4月(太陽暦で記します)の1日頃、陸地が見えた。陸地が見えて約1日、いつでも上陸できるくらいまで接近した。
徐福はそれが朝鮮半島であろうとほぼ確信していた。陸地に沿ってほぼ1日南下を続けると、それが間違いなく朝鮮半島で以前見た光景を目の当たりにした。半島の先端を廻って、7日頃釜山沖に到着した。
しかし、風向きで釜山より対馬の方が近い位置に来てしまっていた。
しかも風向きが悪く、天候は荒れて来そうな気配であった。
対馬に直接行くことに決め、あまり近づき過ぎないように航行しながら、現在の「鵜の瀬の岬」(ただ地図上から、徐福が風を避けて、安全に停泊できそうだと想像したから)を廻った辺りに風を避けて帆を下ろした。
翌8日朝、近くの陸地には大勢の人影が見えた。
その前日、対馬の住民たちは、見たたこともない大きな船の大群が、沖を航行しながら北上するのを見ていたのである。それが鵜の先を廻ったところに帆を降ろしたことも見ていた。島民は不安に駆られていたに違いない。
海が荒れているのでその日は停泊したままであった。

9日、風も納まってきた。何艘かの小舟も出てきて陸と徐福らの船の中間辺りで、珍しそうに船の様子を伺っていた。
徐福は小舟を下ろさせ、新鮮な水や食料が得られるか探らせた。朝鮮語の通訳をつけた。
朝鮮語の分かるものもいるらしい。水はあるが、食料は多くは得られれない。
彼等の言うには、更に北上して島の北端を廻り南下していくと、大きな集落があると言っているようである。
徐福らは水の補給をするためにさらに二日停泊し、また、まだ冷たかったが川の水で髪や体などを洗った。
親切に井戸水を分けてくれた住民に、童男女の服各1着を贈物とした。
主だったものや女たちが、それを珍しそうに手から手に渡しながら見ていた。
停泊している間に彼等は、取れるだけの魚や貝を採って彼等に分けてくれたのである。
しかし、到底大船団の胃袋を賄えるものではなかった。
12日、徐福らは、住民の中から、朝鮮語の分かるものを二人、海路の道案内のために一緒に載せて午前9時頃その地を出帆した。
1時間後には島の北端を廻り、午後4時ごろには現在の厳原に到着した。
徐福らが、停泊している間に陸路から知らせがあったのであろう。
厳原では、大騒ぎであった。
その夜は、徐福等は上陸しなかった。
鵜の瀬から乗船した漁民二人だけが徐福の伝言を持って先に下船した。
徐福の伝言は、1.食料の補給、2.十分な水の補給、3.出来れば滞在して休息することであった。

これをうけて厳原では豪族や主だったものが、鵜の瀬からきた漁民を交えて相談した。
来訪者たちは極めて身分が高く、女や子供も居て、鵜の瀬での様子などから平和的であるように見えた。
そこで、要求は全て満たし、出来るだけ歓迎することにした。

 


299 『もしも徐福が日本に来ていたら』 (4)

2007-03-30 09:30:59 | もしも、徐福が日本に来ていたら
もしも、徐福が日本に来ていたらの
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ー徐福の第2回航海ー

299-1 古代の船
 293話では、大型の内航用の平底舟で出帆したであろうと書いた。
 徐福より1500年も後の元寇でさえ、多くの平底船が使われたらしいので、徐福の時代は当然平底舟だろうと想像した。
 その後調査してみると、始皇帝の時代驚くほど船は発達していることが分かった。
 
 紀元前の東洋の舟は丸木舟や筏という通説があるが、古代を侮っている。
 中国では秦の始皇帝の時代には楼船と言って、2階建て3階建ての船が登場していたのである。
 始皇帝の時代には楚の国を攻めるのに50万石の兵糧を運ぶ輸送船団が組織された。500石(75トン)の船なら1000隻である1000石船なら500隻である。
 また、始皇帝は国を巡回するのに、船を用いた。重要な都市は内陸にあるが、ほとんどが大河の川岸である。水運が発達しているから都市になる。揚子江や黄河の流域に旅するには海を経て河口から遡った。
 当時の楼船は、主に戦争用に作られたと思われるが、三階建てで、一階は庵と呼ばれ、小さい部屋に分かれていた。二階は飛庵と呼ばれ将官や士官が使用した。
 三階は雀室と呼ばれた。麻雀をしていたわけではない。そこは言わば見張り台で、沢山の下士官が両舷の窓から、見張りをしていたので雀が群れているように見えたところから呼ばれるようになったのであろう。
 甲板には沢山の兵隊が行き来したり、多くの物資を運ぶ広さがあり、騎馬でも通れたという。
平底船でもただの平底船ではなかったのである。
299-2 徐福のパイオニア精神
 良家の子女を預かって、しかも始皇帝の使いとして出向くのである。始皇帝の権威を保ち国威を示すために十分な準備がなされたに違いない。
 短期間にする準備とはいえ、始皇帝の命令が下れば、新たに建造しなくても、すでに存在する楼船を30隻揃えるくらい容易だったかもしれない。
 調達された軍隊や部署では不満もあったろうが、代わりに新造船を造って与えられるなら文句はあるまい。自分等の大事な息子や娘を預けることになったものたちにとっては、喜んで最善の準備をしてやる気になったのではあるまいか。
良家の童男女3000人という発想は、こういう効果があることを徐福は読んでいたに違いない。

 徐福は、朝鮮半島を知るものや、高麗人などの水夫や商人などを探して数名乗船させただろう。朝鮮半島の言葉が分かるものがおれば、朝鮮半島に着いたときに通訳として有用だからである。
 朝鮮半島は中国と陸続きである。航路はすでに開けていた。黄海を巡回する海流は概ね反時計回りである。朝鮮半島から中国に向う時は、沿岸を潮流に乗っておれば中国に向うことは出来る。
 小型の船はそういう航路を取ったであろう。
 どの方角に向って航海したかは、太陽を見れば分かるから、航海したことのある人の話を聞けば、朝鮮半島が琅邪から見てほぼ東にあることは誰でも認識できていたに違いない。
 
反対に中国から朝鮮半島に向うには、沿岸航路を取れば潮流に逆らって航海することになるが、港々で交易をしたり食料や物資の補給、休息をしながら航海することが常識で、何もない海の真ん中を、危険を冒して突っ切る航路など、あまり意味がなく開拓など考える人は居なかっただろう。朝鮮半島の先端に大国があったり、貴重な産物が取れれば別であるが。
当時はまだ開けていなかった。
しかし、徐福は二つ理由で黄海を突っ切って朝鮮半島の先端付近に行くことにした。

一つ目の理由は新しい航路を開くということである。

徐福には自信があった。第一回の航海で、毎日日記を書き、旅の旅程も書いていたからおおよその地図は出来ていた。朝鮮半島の先端が琅邪からどの方角で何日ぐらいの航海で行けるか計算できていたのである。
それを確かめたかったのである。

第二の理由は時間と金の節約である。

すでに朝鮮半島の情報は承知しているから、一度通ったところをまた通る必要はなかった。
時間を節約したいわけは、新しい新天地に落ち着いて早く種まきしないと食料に困ることになる。まだまだ行った先で何があるか分からない。とにかく大集団の命も預かっているのである。
財宝はいくら持っていても多すぎるということはない、行った天地で有効に使いたかった。少しでも途中で減らしたくはなかった。場合によっては帰るために役立てねばならないのだから。

早く落ち着く先を見出さねばならない。
もし、朝鮮半島に到着すればそれはそれでよし、そこで食料など必要な物資を補給して先に進める。
もし、直接東の海に出てもその先それほど航海せずとも、蓬莱に行けるという自信はあった。第一回の旅行の記憶はまだまだ生々しかった。

 かくて徐福は未知の天地に向うため、自分自身と多くの若者たちの人生を賭けて、誰も行ったことのない未知の海に向って乗り出して行った。

 それはスペイン女王イサベラ援助を受けて、インドへの新航路を開こうと航海に出たコロンブスにも通じるパイオニアの心境であったろう。
 否、コロンブスが徐福の心境であったというべきか。徐福のほうが1700年も古いのだから。


298 ハマダイコン、フリージャ、タイツリソウ、ゼラニューム、夜桜

2007-03-28 23:50:16 | 風景

298-1 ハマダイコン 
 ハマダイコンって、こんなものですかね?
 蕾もあるのに、どの花もみんな、浜風に吹かれたのか、干し浜大根の花になりつつあるようでしたが?
 


298-2 フリージャ アヤメ科アサギスイセン属
 フリージャが咲きました。
 今週の教会の花も飾りました。



298-3 タイツリソウ  ケシ科コマクサ属
 面白いですが、教会の花には向いてないような気がします。
 先入観を持って見ていいですかねえ?


298-4 ゼラニューム フウロソウ科テンジクアオイ属
 ゼラニューム、そんなに大きく撮ったって本当の花じゃない?
 という人がありました。どちらが本当なのですか?


298-5 夜桜
 夜桜と月を一緒に撮りました。
 ちょっと乙なもんじゃないですか?
 


297 『もしも、徐福が日本に来ていたら』 (3)

2007-03-28 10:01:16 | もしも、徐福が日本に来ていたら
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297-1 帰国報告

「史記」秦始皇本紀(前212年)
徐市等費以巨萬計終不得藥。
方士徐市等入海求神藥數歳不得費多恐譴乃詐曰蓬莱藥可得然常為大鮫魚所苦故不得至願請善射與倶見則以連弩射之。」

徐市(じょいち・徐福のこと)ら巨万を以て費して計れども、終に薬を得ず。
方士(ほうし)徐市ら海に入りて神藥(しんやく)を求(もと)むこと數歳(すうさい)。得ず、費(つい)え多く譴(せ)められんことを恐る。乃(すなわ)ち詐(いつわ)りて曰(いわ)く「蓬莱(ほうらい)の薬(くすり)得(う)べし、然(しか)れども常(つね)に大鮫魚(だいこうぎょ・大きな鮫)の苦しむる所(ところ)と為(な)る。故(ゆえ)に至(いたる)るを得(え)ず。請い願う善く射るものを倶(そなわ)しめよ、見るや則ち連弩を以て之を射ん。
と報告したとある。

 それはこうである。
 BC212年に始皇帝が巡航で再び琅邪(ろうや・現在の山東州、青島付近)に来た時、徐福は帰国報告をした。皇帝が琅邪を訪れたのも、徐福が帰ったと言う報告が入ったため、それを聞くためでもあった。

 徐福は旅の報告をした。
仙薬を得て来ることが出来なかった原因は、海中に大鮫が居て蓬莱に行くことが出来なかったからですと告げた。
しかし、蓬莱から来た人に会い、霊薬を探しに来たことを告げると、その人は蓬莱に戻り、長い間かかって仙人からの返答を持って来た。
言葉も違うので良くは分からぬが、仙人は「まことに汝は始皇帝の使いか?秦の始皇帝ともあろうものが、贈り物も持たせずに来るのか。礼が薄いではないか。
礼などは、さして欲しくはないが、その霊薬を手に入れるのは簡単ではない。
1種類か2種類の植物を煎じれば手に入るというようなものではない。また、もしその霊薬を与えても、一度や二度飲めば不老長寿の寿命を得るものではない。飲み続けねばならない。」
 「まず童男女3000人を連れて参いれ。さすれば、まずこの国の言葉を教え、その後、霊薬を作るに必要な植物とその育て方、必要な動物とその飼育のし方を教え、必要な石の産するところを教えよう。その後に、霊薬の作り方を教えてやろう。このようにして霊薬の作り方を学んで後、作った霊薬を持ち帰ると共に、これを作った若者たちも共に、国に帰れば、国において霊薬を産することが出来るようになるであろう。」
 これらの話は始皇帝の心を大いに動かした。
 何もなくて、海中に大鮫が居ましたなどと報告したとて、そんなことを信ずる始皇帝ではない。しかし、徐福が旅から持ち帰った鯨の頭蓋骨やあばら骨の一部を見せられては驚く他は無かった。
 見たこともない大きさであり、大いに驚き興味を示した。
 これを見ては荒唐無稽に思われる大鮫の話も俄かに真実味を帯びて、また仙人の言葉も一々納得が行くものとなった。
また、長寿の仙薬として、徐福が持ち帰った干した昆布は、水につけると、大きく膨れ上がり、味もなかなかのもので、確かに寿命も延びそうに思えた。
 これならば、いよいよ本物の霊薬が手に入ると、その期待が一層高まった。
 始皇帝は直ちに大臣や太守や将軍たちに徐福を全面的に援助して、その旅団を整えさせるよう命令した。

 

296 『もしも、徐福が日本に来ていたら』 (2)

2007-03-26 19:36:45 | もしも、徐福が日本に来ていたら
もしも、徐福が日本に来ていたらの
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296-1 296-1 第一回の航海

簡単に出帆させてしまったが、もう少し詳しく書いておこう。
第一回目の航海に失敗した徐福がどうして始皇帝の信任を得ることが出来たかを想像して見よう。

第一回目の航海
BC219年に徐福は第一回目の航海に出た。このときは当然大陸の沿岸に沿って、黄海を時計回りに進んだであろう。話には聞いていても、始めていく土地である、途中食料を補給したり、休息をとったりしながら、朝鮮半島の先端を目指した。

 実は、第一回の航海から少年少女3000人を連れて行ったとしている解釈もあるようだが、それは疑問だ。
 まだ誰も行ったこともないところから、不老長寿の霊薬があるとか仙人が童男童女を多数望んで居るなどという情報を得られるはずはないからである。
 
 徐福は琅邪の名士の一人として始皇帝に拝謁した。始皇帝が不老長寿の薬を探しており、そういう情報を知るものはないかと、列席のものたちに問われた時、人々の目は徐福に集まった。琅邪一番の博学の士と目されていた徐福が答えるのが至当だと皆思ったからだ。
 徐福の答えは、霊薬を知っているというのではなかった。東の海の彼方のことは知りませんが、自分の知る限りの土地においては知りませんというものであった。
 始皇帝は「ならば、その東の海の彼方を探してまいれ。」と命令したのである。

 後の世の人には、東の海の彼方にあると答えたという風に伝えらることになった。
 徐福の頭にあった東の海の彼方とは、朝鮮半島のことであった。
  
 徐福は二隻の船で出かけたと考えるのが妥当であろう。
 一隻では遭難しても、そのことを皇帝に報告することも出来ない。
 探索の旅をどのように続けたかが、たとえ徐福が倒れた場合でも報告されなければ、巨費を投じての使命が無に帰する。
 
 そればかりか、横領して逃亡したとということになり、故郷に残った一族に大きな災いが及ぶかもしれなかったからである。

 中国領土内では行く先々で、役人との交流もあったであろう。徐福の立場は皇帝からじきじきに命ぜられて旅行しているのであるから、もっとも丁重に歓迎されたに違いない。
しかし、どの地方においても、始皇帝の命令で、税金や労働力の徴発に、苦しんでいる姿を見たことであろう。民は極貧に喘いでいた。

朝鮮半島に入る手前で、役人などの話から、これから先は言葉が違うということを聞いた。一緒に旅をする中国人の朝鮮語の通訳と、朝鮮半島出身の中国語を話す通訳とを雇い入れた。

鴨緑江付近では始皇帝に敗れた国の王族たちが移住してきて、先住民と一緒に暮らしているのも見た。
ある王族たちは先住民を支配し、奴隷化していた。自分たちの住むための防御性の高い立派な建物を作ろうとしていた。
またある王族たちは、先住民を労わり、自分たちの進んだ文化を教えながら、共に貧乏ながら仲良く暮らしているところも見た。
朝鮮半島に入ると、まばらにではあるが、たくさんの国が存在していた。ところどころの有力な豪族に贈り物をしながら交流し、次の東へのルートに関する情報を集めた。
朝鮮半島の南端付近に来た時、海の中に大きな島の噂を聞いた。
今のチェジュ(済州)島のことであった。
その島まで行って見たが、大陸を知る徐福にとっては、住民も少なく、期待するほどの広さではなかった。
旅を続け、今の釜山まで来た。半島のもっと東の話もきいたが、多数の小さい国があるだけで、実際に行ってみてもそれを確かめただけであった。
釜山から、晴れた日に海上に望める陸があった。現在の対馬のことである。
地元の人たちはそこには鬼が住むといって恐れていた。
そこに行って帰ってきた人は少なかったから、鬼に食べられたのだとか、捕まって奴隷にされているという人たちも居た。
無事に帰ってきた人たちも、その国は言葉が違い、恐ろしかったという思いだけが情報の大部分で、冷静な役に立つ情報は多く得られなかった。

徐福は当然対馬に行ってみようと思った。
しかし、対馬に行った人が少ないのは、そればかりではなかったのである。
その間には大きな鮫がおり、危険だと恐れていることも分かった。
また潮に流されて、島は見えていても島が近づかない。
嵐に会ったらお終いだと言って行きたがる人は居なかった。
仙人がいて近寄せないのだという人たちもいた。

あるとき彼等も鯨を実際に見た。
彼等が乗った船位もある大魚が汐を吹いて何頭も泳いでいるのを見かけたのである。こんな大きな魚が居るのかと、もっと大きいものも居るかもしれない。海というものの恐ろしさを実感したひと時であった。

地元の人から、かって、湾内に迷い込んだ大魚を勇敢な男たちが船で取り囲んで掴まえようとしたが、その大きいこと、彼等の持っている、魚取り用のヤスみたいなものでは刃が立たず、そのうちに舟をひっくり返され、大きな口に飲み込まれそうになったものも居たなどという話を聞いた。
また死んだ大魚の骨があると言う。
浜の近くに引き上げられた骨は、竜神の使いとして祭られていた。
乗組員たちは大魚を見た後はそれより東の海に行くことを恐れた。
すでに長い間、労役についたのだから故郷に帰してくれと言う声も高くなった。

徐福はその先に行くかどうか迷っていた。
生半可なことで帰れば、どんな咎めを受けるか分からない。
ある朝、蓬莱(ほうらい)から人が来たという情報が地元の豪族からもたらされた。
徐福も会って話した。
その男たちは対馬の島民であった。そのの話しでは、対馬の東に小さな島があり、そのさらに先には広い陸地がある。
自分たちはそこには行ったことはない。
そこに住む人たちは言葉が違う。
自分たちはその言葉も分かるが、朝鮮語をその人たちは分からないので、直接ここには来ない。
 それ以上はこの男たちも知らなかった。
 彼等は対馬で普段は漁師をしたり、畑を作ったりして暮らしていることが分かった。対馬の戸数は500戸ほどと思えた。

 彼等は大量の昆布を持って来た。そして、大陸の武器と交換していった。
 その昆布は長寿の薬になるということであった。

 この男たちも行ったことがないという、朝鮮語とも違う言葉の国。
 そこに行けば、果たして帰って来れるか。少なくともまた何年も、長い旅が続くことになる、これより東へ行くなら、家族、すなわち一家眷属を引き連れて行きたい思いが去来した。  
これより先に行けばもう始皇帝の力も及ぶまい。鴨緑江の近くで見たように、自分も一つの国を作りたい。民と仲良く暮らし、理想の国を作りたい。
 彼等は青銅の武器を手に入れて帰っていった、鉄の武器を知らないとしたら、恐れることはない。ここに住むひとと同じような人たちが住んでいるだろう。

 徐福は一旦帰ることにした。そこで、徐福はその鯨の骨を譲り受けた。
 霊薬があるらしいという情報は、徐福が会った蓬莱から来た人に聞いたこととして用意周到にリークした。
 部下たちは故郷が恋しかったので、霊薬を自分たちで探しに行かなくてよくなったことを喜んだ。