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大雀以下小治田大宮以下爲下卷并録三卷謹以獻上臣安萬 侶誠惶誠恐頓首頓首和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝 guuchanの読み下し。 大雀以下小治田大宮以下を下巻と為す。并せて三巻に録し、謹み以って献上す。 臣安萬侶誠(まことに)に惶(おそれ)れ、誠に恐(おそれ)れ、頓首頓首(とんしゅ、とんしゅ) 和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝臣安萬侶(おおのあそんやすまろ) guuchanの解説 大雀は仁徳天皇のことらしいが、それは後で分かる。小治田大宮以下とあるのは、小治田大宮(をはりだのおおみや)以前であろう。 小治田大宮はそこに住まいされた推古天皇のことで、小治田大宮は奈良県高市郡にあった。 まったく恐る恐る献上。頓首(とんしゅ)は頭を床にこつんとくっつけること。 頓首頓首とあるから二度くっつける。それが礼法だったのであろう。 和銅五年正月廿八日(712年)正五位上勲五等太朝臣安萬侶(おおのあそんやすまろ) guuchan未だは稗田阿礼が安萬侶だという証拠を見ていない。 しかし、稗田阿礼が安萬侶だという説に従えば、 686年天武天皇が亡くなられた歳、安萬侶は稗田阿礼という28歳の若者であった。 稗田阿礼の才能が持統天皇のお耳に達し、天皇は稗田阿礼を使って古事記の編纂をすることを安萬侶に命じられた。 702年持統天皇が亡くなられ、文武天皇が皇位を継承され、この間も編集作業は続けられた。 707年文武天皇も亡くなられた。元明天皇が皇位を継がれた。編集作業は更に続けられたが 711年安萬侶にまとめよと命令が下り、 712年天地開闢から小治田宮までを上、中、下巻の3巻にして献上した。 715年元明天皇は亡くなられた。 古事記は小治田宮(をはりだみや)でまでである。 推古天皇は625年に亡くなられた。 しかし、622年に皇太子であった聖徳太子(厩戸の王子)が先になられたので、後継者を巡って混乱した。 625年聖徳太子の子の山背大兄皇子の後ろ盾の蘇我の蘇我麻理勢を殺害します。そして勢力争いに勝って田村皇子が即位して舒明天皇となった。 641年舒明天皇が亡くなると、蘇我入鹿は次の天皇にもっとも近かった山背大兄皇子を自殺に追いやり、舒明天皇の后を即位させ「孝極天皇」とし、蘇我入鹿自身に権力を集中した。 次の皇位継承を巡って、邪魔になる中大兄皇子は自分が殺害される事は必死と考え、蘇我入鹿を殺害した。 孝玉天皇は退位したが、中大兄皇子はすぐには即位せず伯父に当たる軽の御子を即位させまた。孝徳天皇である。 654年孝徳天皇が亡くなられた。 この在位13年間に大化の改新な多くの改革が行われた。 和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。 655年孝極天皇が斎明天皇として再度即位。 660年白村江の戦いに破れ百済滅亡。 662年天智天皇即位。 672年弘文天皇(大友の皇子、天智天皇の御子)、すぐに皇位を奪われ即位式を行えず。 672年大海の皇子即位し天武天皇となる。 686年亡くなられた。和風(国風)諡号天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと) 天武天皇の后、即位持統天皇(じとうてんのう)。(女帝) 697年亡くなられた。「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)である。 697年文武天皇(もんむてんのう)(19歳) 707年倭根子豊祖父天皇と、『続日本紀』延暦16年(797年)に諡された「天之眞宗豊祖父天皇」(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)がある。 元明天皇(女帝)即位。つみしろとよくになりひめのすめらみこと) 715年亡くなられた。「日本根子天津御代豊國成姫天皇」(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)である。 古事記はもっとも変動の激しい時期に作られた。 しかし、始められた意図は、天皇の紀の本物の作成である。 推古天皇までに留めたとされているから、最新の系図争いではない。 時間的にも25年を要しており(稗田阿礼と安萬侶が同一人物とした場合。)、その間天皇も、何代にも渡って代わられた。 |