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529-1 弓月の君(5) 新羅の王子未斯欣が逃れた年がAD325年とした前回の推理が間違いではないかと、色々検証したが、ほぼ間違いないという思われる。 日本書紀の神功皇后の巻は朝鮮半島のことが、色々と特に詳しく記述されている。 それらは、実にリアルに書かれているので、もっと詳しく調べたいと、一日中、百済本紀、新羅本紀、魏志倭人伝、後漢書、晋書、宋書、南斉書、梁書、日本書紀を繰り返し読んだ。 此れの年代を比較していくと中国の史書と百済本紀がつないでくれそうだという気がしている。 弓月王を述べる前にもう少し半島情勢を調べたい。 この謎を解くにはしばらく時間がかかりそうだ. そして、明日からは12月。 やらねばならないことが沢山ある。 やるべきことから、先にやってたら、ブログかけな~い。 トホホ、、、。 |
528-1 トベラ トベラ科トベラ属 木の名の由来が、扉(とびら)から来ているようです。 悪臭がするので、節分の時に戸口において、鬼を防ぐとか。 家内は子供のときに、いやな匂いがしたので嫌いだというのですが、guuchanは春に花の匂いを嗅いでも悪臭とは思いません。 むしろ、花のいい匂いだと思っています。 実が匂っているでしょうか? 鼻は近づけて見ませんでした。 匂いのこ忘れていました。 | |
528-2,3 トベラ 三つに分かれて開いたケースから赤い種が見えて美味しそうでした。 小鳥は食べるのかな? | |
528-4 ホトケノザ 歩きながら宅地用地の空地に、ホトケノザが目に付いた。 ブログ友がホトケノザをアップしたのを見たばかりだ。 背は低いがかえって若々しい感じがして綺麗だ。 | |
528-5 ホトケノザ シソ科オドリコソウ属 図鑑には4月から5月ごろ咲くとありましたが、秋にも咲くのですかね。 拡大してみると、テントウムシが映っていました。 | |
528-6 ハヤトウリ 4ケ100円でした。5ケ100円のときより、大きそうでした。 1ケ、750gというのも在りました。 少しおえていて、皮が緑がかっておりトゲがありました。 | |
528-7 4つ割り 4つ割りにして皮を剥いていると、残ったウリの切り口から果汁が玉の汗のように噴出していました。 | |
528-8 玉の汗の果汁 この果汁は乾くとゼリーのようになるようです。 手袋をしないで、皮を剥くと、あとで、果汁に触れていた手の平の皮膚が突っ張ったようなります。 そういえば、ヘチマとかキュウリとかが、昔、女性の顔のパックに用いられたこともあったような気がします。 ヘチマ水も皮膚を引っ張って皺を伸ばす効果があったのかもしれません。 | |
528-9 ヒジキ 出来上がった醤油漬けを、ブログ友のところに、ヒジキ刈りをすっぽかしたお詫びに持って行きました。 お返しに、ヒジキを頂きました。 エビで、タイを釣ったかも。 早速、夕方には揚げと一緒に炊いたのを頂きました。 美味しかったです。 |
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527-1 弓月の君(4) 人質が逃げたことについて、朝鮮半島側の記録はあるのだろうか? 三国史記の新羅本紀と百済本紀を引用する。 ーーーーーーー 新羅本紀第三・第十八代 実聖 尼師今(在位 AD402-417) 元年(AD402) 元年 三月 與倭国通好 以奈勿王子未斯欣為質 元年 3月、倭国と好(よしみ)を通じ、、奈勿王の子・未斯欣を人質にした。 未斯欣(みしきん)は日本書紀では微叱許智(みしこち)と記されている。 三国遺事・奈勿王条では美海(みめ)、末吐喜(みとき)、末叱喜(みしき)、などと記されている。 ーーーーー-ー 新羅本紀第三・第十九代 訥祗 麻立干(在位 AD417-458) 2年(AD418) 二年 春正月 親謁始祖廟 王弟卜好 自高句麗 與堤上奈麻還來 秋 王弟未斯欣 自倭國逃還 2年(418) 春正月に、王自ら始祖廟に拝謁した。 王の弟卜好が堤上奈麻と一緒に高句麗から還り来る。 秋に王弟・美斯欣が倭国から逃げ還った。 三国史記には上記のような類似の記事が有る。名前も良く似ているので、日本書紀の神功皇后の巻に対応していると思う。 また、その前後に人質を記した条項は無い。 しかし、少し年代が違う。また、人質の期間も違う。 また新羅本紀には 13年(AD368) 十三年 春 百濟遣使 進良馬二匹 13年 春、百済は使者を派遣して、良馬二匹を捧った。 とある、 そして百済本紀に 二十一年 春三月 遣使聘新羅 二十三年 春三月丁巳朔 日有食之 遣使新羅 送良馬二匹 二十七年 春正月 遣使入晉朝貢 秋七月 地震 21年春3月新羅に使節を遣わした。 23年春3月日蝕があった。新羅に使節を遣わして良馬2匹を送った。 緑字は、三国史記の百済本記である。 ところで、 中国の史書、晋書、四夷伝には次の記事がある。 武帝太康元年、二年,其主頻遣使入貢方物,七年、八年、十年,又頻至。太熙元年,詣東夷校尉何龕上獻。咸寧三年復來,〔一〕明年又請内附。 武帝太康元年は西暦280年である。 百済本紀の近章古王27年は西暦280年のことを言っている可能性がある。 これから逆算していくと、新羅に良馬2匹を送ったの百済本紀の近章古王23年は276年になる。 そして馬を受け取った新羅本紀の13年が276年になる。 つまり、新羅本紀の推定西暦は 368-276=92 すなわち92年繰り下がることになる。 すると、人質として倭に在った王子未斯欣が逃げ帰ったとする 新羅本紀の実聖 尼師今の元年(AD418)は、それから92年遡る可能性がある。 するとAD326年になる。 しかも、三国史記の王の年次には一年の相違があることが指摘されている。 一年繰り上げねばならないのだ。 すると、これはAD325年になり、ピッタリ日本書紀の神功皇后五年(AD325)と一致する。 まるで、点と線のように一致するのは、偶然だろうか? しかし、そうすると、新羅の王の生存期間を全部92年動かすことになるのではないか? それは、どうか? しかし、三国史記の編纂は1145年に完成している。 これはまた重大な問題だ。 |
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526-1 弓月の君(3) 320年神功皇后は新羅に出兵し、新羅は毎年馬20頭、船2隻を倭に献ずるという約束をさせた。 その5年後、 五年春三月癸卯朔己酉。《七》新羅王遣汗禮斯伐。毛麻利叱智。富羅母智等朝貢。仍有返先質微叱許智伐旱之情。是以誂許智伐旱而紿之曰。使者汗禮斯伐。毛麻利叱智等告臣曰。我王以坐臣久不還而悉沒妻子爲孥。冀 還本土。知虚實而請焉。皇太后則聽之。因以副葛城襲津彦而遣之。共到對馬宿于鋤海水門。時新羅使者毛麻利叱智等。竊分船及水手。載微叱旱岐令逃於新羅。乃造蒭靈置微叱許智之床。詳爲病者。告襲津彦曰。微叱許智忽病之將死。襲津彦使人。令看病者。既知欺而捉新羅使者三人。納檻中以火焚而殺。乃詣新羅。次于蹈鞴津。拔草羅城還之。是時俘人等。今桑原。佐糜。高宮。忍海。凡四邑漢人等之始祖也。 325年新羅王は汗禮斯伐(かんれいしばつ)、毛麻利叱智(もまりしつち)、富羅母智等(ふらもち)を遣わして朝貢す。 すなわち、先の質の微叱許智伐旱(みしつこちばつかん)を返されたいとの情(こころ)有り。 是に、智伐旱を許す誂え(ねがい)を以って紿(いつわり)て曰く、使者汗禮斯伐、毛麻利叱智等は臣に告げて曰く、我王は臣に座して久しく帰らず而うし妻子悉(ことどとく)沒す。本土に返されるを冀(こいねが)う。 虚実を知りて而してここに請う。 皇太后即ち聴く。因って葛城の襲津彦を副え而して遣わす。 共に対馬に至り、鋤海(すきうみ)の水門(みなと)に宿す。時に新羅の使者毛麻利叱智等は竊(ひそかに)船と水手を分け微叱旱岐を載せて新羅に逃れしむ。 乃ち蒭(かれくさ)の靈置を微叱許智の寝床に造り、詳(つまびらか、そっくり)に病者と為す。 襲津彦に告げて曰く、微叱許智は忽(たちまち)病となり將(まさ)に死なんとす。 襲津彦、人を使わして病者を看さしむ。既にして欺したるを知りて、新羅使者三人を捉える。 檻中に納れ以火を焚いて殺す。 すなわち新羅に詣で、次いで蹈鞴津(とびつ)次いで、草羅城(そうらじょう)を抜いて還る。この時の俘人等は、今の桑原、佐間、高宮、忍海、およそ四邑(むら)の漢人等の始祖なり。 320年新羅に遠征した時に、王子微叱許智を人質に取っていたものと思われる。 325年に3人の使者が犠牲になって、新羅に王子を逃がしたという記事だ。 |
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525-1 弓月の君(2) 弓月王の祖父また曽祖父と思われる功満王は来日して、仲哀天皇、神功皇后に会っただろうか? 少なくとも神功皇后は会っているだろう。 仲哀天皇は神功皇后の口を介して聞いた功満王の言うことを信じなかった。 仲哀天皇は「山に登って海の向こうを見ても、そんな宝の国は見えない」と、馬鹿にしたようなことを言って新羅を討つことを承知しなかった。 そして急死する。 この死が熊襲との戦争で、矢に当たって死んだのか、暗殺か、病気かは諸説ある。 guuchanの想像は、 新羅を討たせよとする神功皇后の神託に対して、仲哀天皇は拒否するが、尚も執拗に神託として迫る神功皇后に対して、ついに怒りを爆発させ剣を抜いたのではないだろうか。 神託の場には仲哀天皇と神功皇后と武内宿禰と3人しか居なかった。 神功皇后を守ろうとした武内宿禰は仲哀天皇を押さえて刀を奪ったかもしれない。 神功皇后は転がり落ちた刀を取って天皇を刺した。 何故このような想像をするかというと、 仲哀天皇が亡くなって臣下に天皇の死を説明するのに、仲哀天皇を哀悼するどころか、仲哀天皇は神託に従がわないから、神罰が下ったのだと言っているからである。 神託はどのようなものであったか? 若能祭吾者。則曾不血刄。其國必自服矣。復熊襲爲服。 神もしも自分を奉るならば、戦争せずにその国は必ず従がうし、また、熊襲も従がう。 またその国は 譬えれば、処女の(目ヘンに緑のツクリ、まよみし、まよびき)の如き宝の国である。 処女の目配せ?流し目?目は口ほどにものを言いというあの誘惑? 神様にしてはいささか露骨な誘いの表現だが、此れが新羅を責めさせようとする中国人の太守の言葉なら理解できる。 この情報によって、倭が多大の利益を得れば、功満王一族をいざと言うときには、日本に招かせる話しも整いやすいということであろう。 大勢の人数を運ぶにはこれまた多数の、従がって国家規模の船舶を必要とするのである。 ここで、熊襲とは何者かということになるが、 これは神武東征の後に残った出身国、邪馬壹國と関係がある。 東征した神武は近畿勢力とも血縁関係を結び、だいぶ出身母体との関係が薄くなってきている。 邪馬壹國には、神武東征以来続けてきた邪馬壹國からの支援(税金)を免れたいという思いがある。 耶馬臺國ができたからと言って、神武東征の後を統治してきた邪馬壹國の為政者達の間には、少なくとも自分たちは対等だという意識がある。 無理に従がわせようとするならば独立しようと言う意見がでてきても可笑しくない。 邪馬壹國の中のそういう意見のものを熊襲と呼んだのであろう。 反逆者、まつろわぬものたちを呼ぶ時の憎しみを込めた侮蔑的呼称である。 新羅は熊襲を支援していた。 新羅は新羅で、朝鮮半島に在って百済に属せられて居たのである。当然課税もあったであろう。 その百済を支援しているのが邪馬臺國(すなわち大和の倭である)である。 もしも熊襲勢力が倭を統一すれば政権を支援した新羅は、その功によって百済からの税を免れることが出来る。 倭が新羅を支援すならば、朝鮮半島における新羅(辰韓)と百済(馬韓)との勢力は逆転する。 その辺は、馬韓、弁韓、辰韓を支配していた帯方郡太守、倭に攻撃するぞ脅させて、間に立って倭に有利な条件で和睦させる自信があったのであろう。 弁韓はもともと倭であるし、馬韓(百済)は倭と同盟関係にあれば、和睦も止むを得なかったであろう。 倭は大量の財宝を賠償として奪った。 熊襲を支援した行為が耶馬臺國を敵視して攻撃したも同じということで、その責任を取らされたのである。 |