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350 神社 徐福集団は、倭人との交流をどのように始めたか興味あるところである。 倭人はおおむね純朴で誠実であったとはいえ、そうでないものも居た。 やはり、警戒を怠るわけには行かなかった。 彼等は2~3隻の大きな船を連ねてやって来た。 仮に2000戸の港町だったとしよう。一戸に平均10人居たとしても、20000人である。その6割が大人だ。 その半分が女性だ。大人の男子は6000人だ。その2割は老人だ。壮年青年は5000人。 電話があるわけではない。 町としての組織だってあったかどうか。 抵抗しなければ、酷いことはされないとわかれば、だれも負ける戦争を自分からするものは居ない。 天人は、倭人の通訳を通して絶対服従を要求した。 天人の前では、平伏させた。 それは、征服者が最も安心できる応対で、中国の礼法から来ている。 ここで植えつけられた習慣は、江戸時代にまで続いた。大名行列に対して土下座したのもその名残だ。 初期の国頭、国守はすべて天の一族であり、中世の大名も大部分がその末裔だからである。 軽々しく抵抗の素振りを示した部族では、直ちに部族長が捕らえられ、服従を迫られた。 強行に抵抗すれば「まつろわぬ者」として攻め滅ぼされた。 それらの噂は、すぐに全土に広がっていった。 「まつろう」は「服従する」で、祭り、政(まつりごと)、奉(たてまつる)につながっている。 末盧國は、おそろらく初めての「まつろう國」だったのであろう。 天人の訪れたところでは、天人は、倭人に加勢させて、木造の神社を作らせた。 その建築様式は、倭にはないもので、材木が主であった。材木は鉄の道具を用いて、柱や板に加工されたものが用いられた。 高層建築が可能になったのである。床が地表より高くなっているのが大きな特徴であった。 倭人は木を使ってもほとんど丸太のままで、壁は土の盛り上げである。草葺の屋根が大きくその土壁も覆うような形であった。 神社は小さい集落においては祠程度の小さいものであることも珍しくなかった。 社の周囲を切り開いて広場として境内とした。入り口には必ず、鳥居をおいた。 境内の境には注連縄を張って、それから内には無闇に入らないように村人に徹底させた。 天人は鉄の道具を貸し与え、天人のために田や畑を開墾させた。種を与え、それを播かせた。 その収穫の何割かを働いたものたちに取らせた。 天人に、知らせたいことや、願い事があると、絵を描いて神社に奉納した。 すると、天人が何日か、何十日か、あるいは何月かして、来た時にそれらを見て、病気であればクスリを処方した。 植物の種を与えたり、糸のつむぎ方、機織のしかた、その他、竈の作り方、井戸の掘り方、トイレの作り方から、何でも教えてくれた。 奉納されたされた絵馬を見て、見所があるとされたものは家来になることもできた。 天人が来た時は神社に宿泊し、村人が必要な食料を提供した。 神社には、倉庫が置かれ、撮れた食料の保存や、共通の農機具などが保管された。 神社は、天人の宿泊所であり、天人同士の連絡所(郵便局)であり、村人の集会所であり、子どもたちの学校であり、ハローワークであり、結婚式場であり、実に多機能な施設であった。 出生死亡も届けられた。村長(むらおさ)に、それらをきちんと把握させ、報告させた。それらは、租庸調の基礎であった。 また、国民を養う政策立案の基礎となった。 数えること、それが、管理の始めである。 |