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354 絵馬 神社の項でも少し触れたが、絵馬についてはもう少しイメージを膨らませておきたい。 《奈良時代の『続日本紀』には、神の乗り物としての馬、神馬(しんめ、じんめ)を奉納していたことが記されている。しかし、馬は高価でなかなか献納できず、また、献納された寺社の側でも馬の世話をするのが大変である。 そのため、馬を奉納できない者は次第に木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、平安時代から板に描いた馬の絵で代えられるようになった。》 二重括弧はウィキペディアから引用させて貰った。 へえ~と感心して読めばそれまでだが、疑問を持ち始めるときりがない。 だれが唯で高級乗用車を奉納しようか? 奉納された自動車を誰が使うのか? 馬は物凄い財産だったに違いない。 戦後の貧しい時代には、鶏一羽でもどれほど貴重であったか。 まして、山羊、牛、馬などになると、裕福な農家でなければ自分のものとして持つことはなかったろう。 天人が神様だとすると、良い馬を持っているものは神社に持って参れ、褒美を取らせる。という要求が根底にあったと思う。 天人はいつも神社に住んでいるわけではないが、時々やってくる。 褒美は、買うときの普通の値よりも高くないと意味がない。 馬は旅に必要なものだった。神社に馬が繋がれている。それは駅馬みたいなもので、それによって天人は迅速で快適な旅をすることが出来た。 絵馬は何の意味があるか? うちにはこういう馬が居ますよということを示すカタログダだ。 神社に預けても、世話に困る、必要な時に召してくださいというのだ。 盗まれたり、病気になったりしたら大変だ。 馬だけではない、茶目っ気のあるものが、「うちには牛が居ます。」うちには、「美味しい野菜があります。」 「活きの良い魚を準備します。」「美しい反物があります。」「私は足が早く、一日何里を走ります。」 こうなるとどんどんエスカレートして、「武術に優れています。」「算術が出来ます。」などと、売込みが盛んになる。 それで話しがどれくらい成立したか分からないが、このような情報は、市(いち)の代わりに、便利な情報を提供したのではあるまいか? 天人でなくても、取引成立したかもしれない。 また、珍しい事件や事象が起こると、それを絵馬にして奉納することで、新聞の役割も果たしただろう。 上から下へのお達しは詔(みこともり)して伝達するが、下から上への情報はこんな形で届けられていたのかもしれない。 それが、いつの間にか実用的価値が少なくなって、形骸化してしまうと、絵馬を祈願の手段のように変えて商売にしてしまった。 騙す方も、騙される方も、承知でやっているのだからおめでたい。 とはいえ、天人から見れば、無駄な時を過ごしていると見られるだろう。 |