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394 倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト) (4) 赤字、緑時は参考のために載せました。 飛ばして読んでも差し支えありません。 於是亦木大之命以覺白之天御子自此於奧方莫使入幸 荒甚多今自天遣八咫馬(烏)今自天遣八咫烏故其八咫馬(烏)引道從其立後應幸行 故其八咫烏引道從其立後應幸行 故隨其覺從其八咫烏之後幸行者到吉野河之河尻時作筌有取魚人 爾天御子問汝者誰也答曰僕者國名謂贄持之子【此者阿陀之鵜飼之祖】 從其地幸行者生尾人自井出來其井有光爾問汝誰也答曰僕者國 名謂井氷鹿【此者吉野首等祖也】即入其山之亦遇生尾人此人押分巖而出來 爾問汝者誰也答曰僕者國名謂石押分之子今聞天御子幸行故參向耳【此者吉野國巣之祖】 自其地蹈穿越幸宇陀 故曰宇陀之穿也 是にまた高木の大の命、覺(さと)してかく申された。 「天つの御子、此より奧つ方へ入り幸さしむ莫(なか)れ。 荒ぶる、甚(いと)多し。今、天(あめ)より八咫の馬を遣す。その八咫の馬の導く。その先立てる後ろより幸行かしめよ。」 故、其の教え覚しに従って、その八咫の馬の後ろに従い幸き行けば、吉野河の川尻に至れり。 時に、筌(うえ)を作りて魚を取る人有り。 爾くして天つの御子、「汝は誰ぞ」と問いき。 答えて曰く、「僕は國つ。名は贄持(にえもつ)の子と謂う【此は阿陀(あだ)の鵜飼(うかい)の祖(おや)】」。 其の地より幸行けば、尾(お)生(お)いたる人、井より出で來たり。 其の井に光有り。 爾くして、「汝は誰ぞ」と問いき。 答えて曰く、「僕は國つ、名は井氷鹿(いひか)と謂う【此は吉野の首(おびと)等の祖(おや)】」。 即ち其の山に入れば、また尾生いたる人に遇いき。 此の人、巖(いわ)を押し分けて出で來たり。 爾くして、「汝は誰ぞ」と問いき。 答えて曰く、「僕は國つ、名は石押分(いわおしわけ)の子と謂う。 今、天つの御子、幸行(いでま)すと聞くが故、に參い向う耳(のみ)【此は吉野の國巣(くず)の祖】」。 其の地より蹈み穿(うが)ちて宇陀(うだ)に越え幸しき。 故、宇陀の穿(うがち)と曰う。 緑字の読み下しを多少現代文風にしたものとを載せた。 しかし、これでは、何も新しいものはない。 そこで、guuchanの解釈を施す。 木大神がまた(夢の中で)、是よりれより奥には、一人で行かせてはならない。いま、天(あめ)より八咫の馬(これはguuchan読みだ。これは古来ヤタガラスと読まれてきた。日本書紀で馬でなく烏に書いてあるからだ。) 高木大神と読まれているが影印では「高」の字がない。ただ前後の関係からそう読んでいると思う。 八咫の馬か、八咫烏かについては、先に論じたので興味のある人はそちらを参照していただきたい。 日本書紀では、八咫烏と書いてあるが、出典は古事記と同じ筈だ。 ヤタガラスなら、その根拠を書紀は示すべきであった。 guuchanは「八咫の馬(はっしのうま)」と読む。「咫」は長さの単位で、1咫は18cm。 八咫の馬(はっしのうま)は高さ144cmの大馬ということになる。 日本産の馬は小さかったらしいが、天(あま)の大陸系の馬は大きかった。 横刀と共に、高倉下は馬も献上したと思う。 それに従って幸行けば、吉野河の上流で、魚を取っているこの地を預かる国守の贄持之子だと言った。 これは今の阿陀(あだ)の鵜飼の祖である。 また行っていると、尾の生えた人が井戸よりでてきた。 その井戸は光っていた。名を聞くと井氷鹿(いひか)と言った。 2000年前だから尾の生えた人が日本にも居たかもしれない? その血がわれわれにも流れて居るかもしれない? 冗談じゃない。たった2000年前である。 尾のある人とは?どう解釈したらいいのか????古事記がストップしていたのも、ここで悩んでいたことも一因だ。 そして、これも暗誦術だと思った。 尾の生えた人→尾の有る人→国の名に尾が有る人→尾張の人 次に、巌を押し分けて出て来る人も尾の生えた人だった。 ジンムテンノウ即位の時に列席している中に尾張丹波臣と言うのが有る。 これこそ尾の有る人だ。 後に愛知県の方の国を任されたのであろう。 井戸が光って居たと言うのも暗誦術だ。井氷鹿(いひか)という人の名を覚えるために、作ったイメージだ。 巌を押し分けて出来たと言うのも暗誦術だ。 石押分(いわおしわけ)という名を記憶するために、人が巌を押し分けて出て来るイメージを使ったのだ。 ついでに言うとワケは別(わけ)で、天(あめ)の領地をいい、オシは忍(おし)で、武力を意味する天の官職命だと思う。 吉野の国巣(くず)とあるのは、意味は吉野の国主であろうと思う。 其の地より蹈み穿(うが)ちて宇陀(うだ)に越え幸しき。故、宇陀の穿(うがち)と曰う。 これも暗誦術だ、宇陀という地名と穿(うがち)と言う地名を記憶するために作られたイメージだ。 頭の中で、神武東征軍が、地面に穴が明くほど高く腿を上げて行進しているイメージを想像して宇陀と穿ちを記憶してください。 もう、宇陀と穿ちがあなたの頭の中にしっかりと記憶されたと思います。 そればかりか、尾張丹波の臣のイヒカや、イワオシワケの名も記憶に入ったはずです。 |
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382 倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)(3) 赤字、緑時は参考のために載せました。 飛ばして読んでも差し支えありません。 故倭伊波禮毘古命從其地迴幸 到熊野村之時 大熊髮出入即失 爾倭伊波禮毘古命忽爲遠延 及御軍皆遠延而伏【遠延二字以音】 此時 熊野之高倉下【此者人名】齎一横刀 到於天御子之伏地而 獻之時 天御子即寤起 詔長寢乎 故受取其横刀之時 其熊野山之荒自皆爲切仆 爾其惑伏御軍悉寤起之 故天御子問獲其横刀之所由 高倉下答曰 己夢云 天照大 高木二柱之命以 召建御雷而詔 葦原中國者 伊多玖佐夜藝帝阿理祁理【此十一字以音】我之御子等 不平坐良志【此二字以音】 其葦原中國者 專汝所言向之國 故汝建御雷可降 爾答白 僕雖不降 專有平其國之横刀 可降是刀【此刀名云佐士布都 亦名云甕布都 亦名布都御魂 此刀者 坐 石上宮也】降此刀状者 穿高倉下之倉頂自其墮入 故阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝取持 獻天御子 故如夢而 旦見己倉者 信有横刀 故以是横刀而獻耳 そうして、カムヤマトイワレヒコノミコトは、その地より廻って熊野村にきたとき、 大熊が突然出没した。 こうしてカムヤマトイワレヒコノミコトも、軍も気が遠くなって伏せた。 此の時に、熊野の高倉下(たかくらじ)一ふりの横刀(たち)を齎(も)ちて、 天つの御子の伏せし地に到りて獻(たてま)つる時に、天つの御子、即ち寤(い)ね起きて、 「長く寢ねつるか」と詔(の)りき。 故、其の横刀を受け取りし時に、其の熊野の山の荒ぶる、自から皆切り仆(たお)されき。 爾くして、其の惑(おえ)伏しき御軍(みいくさ)、悉く寤ね起きき。 故、天つの御子、其の横刀を獲(え)し由を問うに、高倉下(たかくらじ)、 答えて曰く、「己が夢に云う。 天照大・高木の、二た柱のの命(みことのり)以ちて建御雷(たけみかづち)のを召して、 『葦原中國(あしはらのなかつくに)は伊(い)多(た)玖(く) 佐(さ)夜(や)藝(ぎ)帝(て)阿(あ)理(り)祁(け)理(り)【此の十一字は音を以ちてす】。 我が御子等(たち)、平らかならず坐(いま)す良(ら)志(し)【此の二字は音を以ちてす】。 其の葦原中國は專(もは)ら汝が言向(ことむ)けし國。 故、汝、建御雷の降るべし』と詔りき。 爾くして答えて、『僕、降らずと雖ども、專ら其の國を平げし横刀有り。 是の刀降すべし【此の刀の名は佐(さ)士(じ)布(ふ)都(つ)のと云い、 またの名を甕(みか)布都のと云い、またの名は布(ふ)都(つ)の御魂(みたま)。 此の刀は石上宮に坐します】。 此の刀を降す状(さま)は、高倉下が倉の頂を穿ちて其より墮し入れん。 故、阿(あ)佐(さ)米(め)余(よ)玖(く)【阿より下の五字は音を以ちてす】 汝取り持ちて天つの御子に獻れ』と白(もう)しき。 故、夢のえの如くに、旦(あした)に己が倉を見れば、信(まこと)に横刀有り。 故、是の横刀を以ちて獻る耳(のみ)」。 漢文の原文と、緑字の読み下しを多少現代文風にしたものとを載せた。 しかし、これでは、何も新しいものはない。 そこで、guuchanの解釈を施す。 ジンムテンノウが熊野村に来た時、大熊が出没した。 ジンムテンノウも軍も気が遠くなって伏したとある。日本書紀ではその熊が毒気を吹いたとある。 冗談ではない。如何に大きな熊であろうと熊が出たぐらいで、大将から兵隊まで気が遠くなって、倒れてしまうような腰抜け軍隊で戦など出切るわけがない。 そんな風に解釈しては、東征軍に失礼だろう。 想像して欲しい。遠征して来て、初めての土地で山に分け入って居るのだ。 道案内は居ただろうが、現代のように地名や目印を書き込んだ地図があるわけではない。 山道を進んで来ると、遠くにちらちらと集落が見えてくる。 近寄って行くと大きな集落のようだ。 これは敵か見方か。どういう人たちが住んで居るのか? 敵ならどういう武器を持ち、どれ位の人数が居て、どれくらい強いのか? 用心するのは当然だ。 少し遠くに引いて様子を見ただろう。 あるいは、様子を探らせる間、休憩して一眠りしたかも知れない。 大熊とは何か?それはこの熊野村のことだろう。大きな村だったので大熊としたのだろう。 初めての土地の名の「熊野」をしっかりと脳裏に刻むには大熊が出たという話しにしておくと熊野という地名が覚えやすい。 そしてそこは大きい村だったということだ。 次に、 そこに、高倉下(たかくらじ)という人が、 「あなた方をお待ちしていた」と言って現れ、一振りの刀を献上した。 高倉下いわく、 「天照大神と高木神が高天原で話し合っている夢を見た。 。あそこは建御雷神(たけみいかずちのかみ)を呼んで、『東征軍が苦労しているようだ。あそこはあなたが出雲と話し合って天(あめ)に譲ることに決まったところだ。あなたがもう一度行ってくれ。』と言うと 建御雷神は『わたしが下るまでもない。そのとき使ったこの横刀(かたな)を持っていけばよい。』 と言われた。 刀は倉の屋根に穴あけて、そこから投げ入れるというのだ。 「阿(あ)佐(さ)米(め)余(よ)玖(く)」とは何か? 朝目翌ではないかと思う。翌朝の目覚めのことだろう。 この話の意味は 高倉下が現れた。 倉下は高建御雷神が出雲の大国主命の息子の建御名方(タケミナカタ)のを追い詰めた戦に参加して力有ったものと思われる。 すでに、高建御雷神は亡くなっているが、高倉下はこの地が天(アメ)の領土であることを知っていて、この度も力になると言っているのだ。 倉の天井に穴あけては、これも記憶術だ。 「高倉下」という字を覚えるには、これを映像化するとき、高い倉の天井から刀を下げるとイメージして脳裏に刻む。 この刀が、実際に石上宮に奉納されていると書いてあるから、宝刀はあったのだろう。 ジンムテンノウは熊野において、荒ぶる神を高倉下の助勢を得て簡単に倒すことが出来た。 日本書紀によると、これは神武即位の3年前ということになる。 これらの話を報告したのは東征軍に従軍した従軍記者だ。 即ち語部(かたりべ)である。 彼等は、従軍中いちいち、木簡に書き留めるなどできない。そんな木簡などの資材を運ぶことが出来ないだろう。 脳裏に刻むしかない。そのとき、熊野村や高倉下という名を忘れないように脳裏に刻むために、こういう物語にして帰ってそれを報告しただろう。 この話の中の、事実の部分は正確に報告されたものがあったはずだ。 他方、その語り部は、この暗号めいた話を宴席などで披露して、みんなで笑ったかもしれない。 従軍した人たちにはよく分かっただろう。そしてうまく地名や人の名が織込まれた話しに笑い興じて誉めそやしたに違いない。 この物語を一度聞くと、自分たちが東征軍でどんな風に戦ったかを、子孫に語ることができた。地名や人の名を間違えずに正しく伝えるのに大いに助けになったに違いない。 しかし、事実を知る人が死んでしまって、物語だけ残され、それが数世紀を経て新しく解釈されるととんでもない神話になってしまったのだ。 |
徐福が間に合わなかったのでお花をアップしました。 | |
392-1 ルリマツリ イソマツ科プランパーゴ属 今朝、咲いているのに気がついた。 プランパーゴという名前がなかなか出てこない。 諦めて何かべつのことをしている時、ふっと「プランパーゴ」という名が出てきた。 記憶って不思議だなあ。 | |
392-2 プランパーゴの花弁 花弁のブルーの色がなんとも言えず綺麗ですね。 青い瞳に魅せられます。 | |
392-3 ホオズキ ナス科ホオズキ属 M夫人の庭で、青いホオズキと赤いホオズキを撮りましたが、青いホオズキに気がつかない人も居るでしょう。 | |
392-4 ホオズキ ナス科ホオズキ属 折角ですから花も載せておきましょう。実にばかり気を取られているので、あれ?花はどんな花だったかな? 何ていうこともあります。白い花ですが、形は茄子に似ていますか?。 |
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391 中国の史書に現れる倭(3) 『晋書』 下記の緑字部分は、三世紀の中国の皇帝、晋の武帝が発した詔(みことのり)だ。 読んでいて胸がすかっとした。 現代の政治家や官僚、公務員に読ませたい。 泰始四年(268年)六月丙申朔、詔して言った。「郡国の守及び相は、三年に一度、自らの属する県を巡察せよ。その時期は必ず春とせよ。 これは、古に、諸侯が天子に自分の職務について報告し、教化を広め、徳義を浸透させる手段であったものである。 官吏を査察し、風俗を視察せよ。礼律を遵守し、度量を吟味せよ。老人達を見舞い、自ら彼らに会え。 囚人を調査し、冤罪を解明せよ。政治や行刑の得失をつぶさに見、人民の憂いや苦しみを知れ。 遠近を問わず、朕自らが臨むが如くにせよ。五教(註80)を篤く諭し、農作に励むことを奨励し、学問をする者を督励し、正典に尽力することを思え。 つまらない技芸を為してはならない。遠きに尽くし近きを正せ。 身分を問わず、学問を好み道理に篤く、父兄によく仕え忠実で信義があり、清廉で行いの抜きんでた者は、推挙して位を進めよ。 父母に孝行せず、一族において目上に仕えず目下を慈しまず、礼に背き常道を逸し、法に従わぬ者は、糾弾して処罰せよ。 田畑が拓かれ、生業が修められ、礼教が整っており、禁令が行われている。 こうであるならば、それは高官の有能さ故である。人々が困窮し、農事が荒廃し、奸盗が発生し、刑罰が煩雑で、上下の序が乱れ、礼や義が盛んでない。これは高官の非である。 こうした高官で、官にあって公正廉潔で、私事を顧みず、謹厳で節義を通し、名誉を飾りたてぬ者も、考えや行いが欲深く下劣で、諂い汚職をなして登用を求め、公正なる節義が無く、己の一門が日増しに富裕になってゆく者も、謹んで視察せよ。 清廉なる者を称揚し貪汚なる者を排除し、善良なる者を推挙し邪悪なる者を弾劾する。これが朕自らは政の大綱を統ぶるに手を下さず、地方長官に業績を要求する所以である。嗚呼、戒めんかな」。 (田中愛子訳) 煩雑な法律を次々と作ることが良い政治ではない。 そういうものを作れば作るほど、天下りや役人にしか分からなくなり、民はお役所任せにする他なくなる。 するとどうであろうか?任された役所が忠実に仕事をするのでなく、乱脈の限りを尽くし私服を肥やす。 法は簡単にすること、そうすれば議員、天下り、公務員の数も減らすことが出来るだろう。 医者や、科学者、技術者が減り、公務員や天下りや弁護士ばかり増える。 この国は誰が支え、食べさせるのか? 緑字部分は 漢籍訳出プロジェクト「漢々學々」 から引用した。 |
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390 中国の史書に現れる倭(2) 『晋書』 266年 - 倭の女王が晋に朝貢する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。 『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)。 日本については東夷伝と武帝紀に書かれている。 邪馬台国についての記述がある。 266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したものとされている。 太康10年(289年)の条には、「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」とあり、 絶遠の国が日本であるといわれる。 ウィキペディアに、上述のような記述があるが、ブルーの部分が晋書になかなか見つからない。 ついに、晋書を邦訳したものがネット上で見つかった。 漢籍訳出プロジェクト「漢々學々」 この武帝紀(訳出担当田中愛子)の中に、該当する訳文を見つけた。 十一月己卯、倭人が来てその産物を献上した。南北の郊外で円丘(註63)と方丘(註64)とを合し、冬至の祭祀(註65)と夏至の祭祀(註66)とを南北の郊外で合した。 これは泰始二年(266年)の項である。 註63 円い丘。南の郊外にあり、皇帝が冬至に天を祀る丘である。 註64 四角い丘。北の郊外にあり、皇帝が夏至に地を祀る丘である。 註65 南の郊外で冬至に皇帝が天を祀る祭祀。 註66 北の郊外で夏至に皇帝が地を祀る祭祀。 晋書は645年頃(唐の時代)に成立している。 266年晋を訪れた倭の使節は、円丘と方丘が合わされたのを見ている可能性がある。 そこで、皇帝が冬至と夏至に祭祀を行っているところを目撃している可能性がある。 それが日本の前方後円墳のデザインにヒントを与えているかもしれない。 |