まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

不勉強なんですが、死生観について。

2006年08月29日 | 雑感(日記)
多分、いつも行き当たりばったりで書いていて、デリカシーが見られない
そういう内容もございますが、表現方法、リテラシーに関しては、
まだまだ勉強中です。ご容赦下さい。
何の気なしに、書き始めの頃の記事を読み直したんですが、
思わず、「削除」のボタンに手がかかったのは、言うまでもありません。

今と言っていることが、違っています。
書き方が、変です。
考えれば、考えるほど、タイトルをまなびの途中にして、本当によかった。
1年半で、こんなにも、勉強できるんだ。
たまたまだと思いますが、お読み頂いた皆様方には、本当に、
自分には、貴重な「ご縁」だと、感謝いたしております。

500個、書いてしまったらしいんです。いいのかなぁ、大丈夫なのかなぁ。
今でも、全然、未熟だし、発信らしいことできてないし。

そんな中で、ふと思ったんですが、
よく言われていることかもしれませんが、日本、死者に対して独特の感性が
あるような気が致します。

自分が、そういう死生観について衝撃を覚えた本は、本当に若い時期に
読ませていただいた、梅原さんの「隠された十字架」という本でした。
今でこそ、聖徳太子は、実は厩戸皇子とは別で、想像の人物などという説が出、
今まで聖徳太子と言われた「肖像画」ですら、教科書から消えております。
が、死者に対する「怨念」。浄化するための「装置」など、
始めて触れる考えに、うなった記憶があります。

そういう意味で、武士が死への穢れを扱うポジションとして、
あらゆる紛争に対して、全面に出てはきたものの、
国内では、大きな内乱なり、全面的な覇権争いといった、世界でもよくある
状況にならなかったのは、いわゆる死者に対して、独特な感性があった、
そういう風に聞いておりました。(ちょっと強引)

もちろん、残虐な殺し方、残虐な拷問など、できれば、本人に「自殺」してほしい、
そういう死者が持つ「畏れ」「恐怖感」があったんでしょうか、
なかなか、メインにはなりません。
切腹などは、そういう観点で、自分は見ておりました。

だから、例え何かしらの正当性があったにしても、死者に対しては、
それ相応の「弔う」という文化があったと。
さらには、死を、かなり重いものだという、そういう考え方が連綿とあった。
不思議なことに、死者になって始めて、「彼」の人生を「共有」してしまう、
そういう感覚。
そういう「鎮め方」。

今では、祟られるみたいな感覚は、ハリウッド的な、いわゆるモンスター、
ああいうのが「蘇って」襲ってくる、が主流になりかけていますが、
こう、神経をがりがりやられる、不気味さは、日本独特の文化?
鎮めなければ、なんだか、いつも傍で、思いを遺し、憑いて来る。
来るなら来い!が、通用しない、おそろしさ.....。

だが、世界には、色々な考え方があります。
それこそ、死者を踏み越えて、罵倒しても、現世で生きている人間のほうが
絶対だ!とする国や、唯一の神が全てを「公平」に導いてくれる。
教えに背いた人間は、この世との経路を絶たれ、地獄へと回収される。

日本では、地獄と言っても、何か、連中、現世にでてきて、騒いでいますよね。
あれっつ?勘違い?
そうして、縁あるものが、思いを聞いて、鎮めると、昇天していく。
罪あるものも、罪なきものも、我々が、彼らを「共有」して「関わって」、
そして「鎮めていく」という流れ。
こういう風に理解しているんですけど、違うのかなぁ。

そうやって、人は、必ず、浄化できるんだという、それが何だか、独特で、
多分、他国からは、とても理解されない、感覚だと思っておりますが。
そういう死者への対し方、これも、ある種の宗教感覚と言っても過言では
ない気がするんですが。
不勉強すぎます?
ごめんなさい。出直してきます。