まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

脳のシステム

2005年01月28日 | 教育、文化、少子化
脳は、五感から入力を受けた「情報」を、抽象化することによって、
エッセンスを抜き出して、記憶する。
よって、異なる形状のリンゴでさえも、だいたいが合っていれば
リンゴと認識できる訳だ。(でなければ、20年ぶりに会った友人なんか
すぐに、ああ!なんて話しにならない)
普遍化ができていなければ、推測もできないという訳だ。

面白いことに、脳は普遍化を強力にするために、脳の各部分を強化するらしい。
例えば、動く、この部分に積極的に反応する箇所、何ヘルツを対応する箇所、
結構様々に特化した部分があるということだ。
そのなかで、快楽を司る部分がある。

受けた(入力された)情報を、脳が処理をする場合、
その各部分の連合が、簡単にいうと成立し、スムーズに出力できた場合、
その処理された一連の作業が、快楽として連動し、どうやらプログラムとして
定着するらしい。
ストレスは、得た情報が、うまく連動しない。つまりうまく出力できない。
快楽として信号の受け渡しができない。そうらしい。

子供の頃に、目標を立てて、なんらかの結果を出すことを不断に行うという教えは、
処理をする、その連動をスムーズに行うための回路を沢山作る、
それに尽きる。
処理されたストレスは、次に同じシチュエーションが起こったとき、
体に過剰な反応を起こさせない。そういう生化学的な反応になるらしい。

ようするに、情報を受け、分析し、判断する、そして実行する、といった
一連の作業が苦も無くできる、それは、いかに子供の頃より
簡単な工程を繰り返し、覚えこませることができるかにかかり、
将来、学力とは別の、あいつは「できる」という評価につながってくるはずだ。

一方、しなかった場合。
リアクション大魔王になります。
入力された情報に、回路がすぐ、あれに直結いたします。
たるい、うざい、めんどい、なんでぇ、死ね。
いやー、結構おります。
つまり、エスケープすることによって、ある意味難を逃れることで
その場が成立したことを、回路的に脳がOKしてしまった。
そうすると、その脳は今後様々に入力された情報を、まずこの回路に
あてて出力します。
ばか 誕生です。
何しろ、なにもやらなくても(出力しなくても)なんか生きていけますから。
人生に目標?夢?
複雑なシステムを作り上げる、崇高な脳を作りもしないで、
考えられない奴に限って、無作為な放言をしますよね。
で、国が悪い。親が悪い。あなたが悪い。
これも、そうすることで、その場を処理できてしまった事実があるんでしょう。
思いっきり、脳が記憶してしまいました。
もう、機能的に逃れられません。

勉強は、子供に与えられた、簡単な人生ゲームです。
大人になると、もっと複雑で、いちいち処理できる時間など猶予がありません。
つまり、負けると食えなくなるのです。
そのわずかな時間、期間の中で、誰と比較するのでもなく、継続できるか、
自分もそうだった、反省を込めて。

子供たちとのコミュニケーション考

2005年01月26日 | 教育、文化、少子化
子供たちが、恐らく最初にする行動は、
当たり前だが、コミュニケーションである。
これが、戦略も、手段も、方法も、可愛そうになるくらい、ベイビーだ。

単純なのだ、まずは、こっち向けよ、俺の話を聞け。
まず、これに勝った者が、一抜ける。
要するに、私が何者かを、一方的に語りまくる、戦いが起こるわけだ。
これに、やや遅れをとった連中は、まず、話をあわす。
いきなり、不安定な母集団ができるのは、こんな事情からだ。
勝利者は、それでも色々と稚拙な吸収力を持って、マンガやら、テレビやらで
仕入れるのだろうが、敵を作ってみたり、何かに詳しくなってみたり、など
自覚をして、集団を維持しようとする。

ところがだ、学校は、機会平等だといいつつも、
結果平等を推し進めてきた。
まあ、才能を、発見し、育成できる器量を持った、先生がいるとは思えないんで
これまたやむない事であろう。
つまり、ここは俺の、私の領分で、自己主張をかませる範囲を、
結果消していることになるもんだから、まあ、単純な母集団が
勢いを削がれることなく継続するわけだ。
敵とみなされた連中が、回復できる場がないし、
突飛な才能を発揮しようと、つまり抜き出るチャンスの子を、
教師が評価できないものだから、変わった子、として、あとは、転校しかないね。

これが、小学校、中学校とくだらなく続く。

塾では、親分が、塾長だ。
つまり、ある目的を念頭に置いた、戦略的な集団として機能すると、
公平であれば、回復するチャンスが平等にあれば、
いじめすら、なくなる。

これを学んだ。

塾はユニークだった

2005年01月21日 | 雑感(日記)
もともと教師を希望していたこともあって、塾の講師を選んだ。
大学のサークルの先輩が、その先輩が経営する塾に講師として出向いたためで、
単に、紹介を受けた、ということである。
願ってもない。

サークルは歴史を研究するといったもので、濃く、暑い、いや熱い、多くの人間がいた。
どちらの翼に偏るか、当然左だ。
本多勝一から始まって、朝日ジャーナル、筑摩系、毎日系、などなど。
詰め込まれたし、思う存分に感化された。
もともとノンポリであった自分にとって、思想が人の行動原理に直結する事実を
ここで学んだ。
本を読む、年間冊数の目標を立てる。そういったこともした。
だからといって、人との距離感を鍛える訓練にはならなかったし、
ましてや、有利な餌場を確保するための、戦略なり、思想を磨くことも
またできなかった。

ただ合宿と称して、樽酒を浴び、まさに3畳一間の下宿に入り浸り、
何を議論することも無く、先輩諸氏の高学を拝聴し、代返、代筆、麻雀。
ああそれから一方的な恋もし、旅行にも行き、目的も無く、今更ながら、
あの時は、それなりに楽しかったな~、などと、悲しくて、今は言えない。

塾の講師は、やがて、毎日となり、常勤講師へと、塾長補佐へと移るにつれ、
そのサークルを辞めることとなり、大学の出席日数も自然、最低日数に限られた。

少人数の、いわゆる補習塾である。
一部進学塾を体現する児童、生徒はいたものの、高校入試を前提とした教室である。
ここは面白かった。
後に、宗教家になる講師もいたが、それ以上に、OBの子供たちを巻き込んだ
塾外での活動も特筆ではあった。

自己認識の方法

2005年01月17日 | 教育、文化、少子化
比較をする、こと、からでしか、あらゆる関係は証明できない。
当然のこととして、自分を知ることも、他人を知ることによってのみ
成立する。

環境が変わることは、人として、あらゆる意味でチャンスだ。
移った先で、その環境の先住者である他人も、己を省みるチャンスのはずだ。
それぞれ、環境をシャッフルする意味は其処にあるはずだ。

しかしだ、そのようにとれない人間が多くいることは、こと5月にイベントを
多く発生させるこの優しい社会が証明している。
5月病は、もともと、他人の目を持ち合わせる勉強を怠った、
結局、我儘な人間に用意されている、エアポケットのようなものだ。
自分で自分を理解できないことを、目標が、人間関係が、会社のあり方が、
など、実に多くの言い訳をしつらえる。
言ってみれば、自分は悪くは無いんだが、他人なり社会が正当に評価してくれない
という全くの「他人のせい」の爆裂だ。

餌を得るために、せっかく社会が複雑にしてくれて、ビギナーもプロも
相応に場を用意していただける環境があるのにもかかわらず、
己の選択責任を棚に上げる人間の多いこと多いこと。
ロジカルな組み合わせが多くなればなるほどリスクが増大することは
当然。仕組みが確立されている「仕事」はリスクがない。
ただそれだけのことで、そこに優劣も尊卑も介在しない。
その観念が日本にはない。

餌を施す、そのシテムが長く日本に続いたた一方、
近代、相続法による、結果平等主義にその止めがなされた。
餌を得る作法を、観念的に制約する。
システムとしては、失敗した共産主義に見られる方法が、
良し悪しは別にして、資本主義陣営にいる日本のあり方のダッチロールに結びつく。

転校は、奔放に過ごすことを許された己に強烈な負荷を与えた。
初めて、まっさらな他人の評価を浴び続け、己の存在理由の崩壊がおきた。
結果、内向的に、ただ、自分が言った内容、とった行動が、どう評価されているのか
そればかりを気にする人間がそこにいた。
どんな仕打ちをうけようとも、家の消失前の学校環境は、そういう意味で、幸せだった。
一度目の転校は、そのようにして始まった。

結婚のメリット

2005年01月14日 | 教育、文化、少子化
結婚のシステムは、既に崩壊している。

個を単位とするよりは、集団を単位としたほうが、当たり前とはいえ
生産性と、効率は良い。
人間は生物の頂点に立つ。それは、そうなるための戦略を獲得できた、
と言う意味において、正しい。1固体の純然たる優位性ではない。
家族から群れへは、その戦略がシンプルに発動したものと理解できる。
それは確かに正しい選択肢であったはずだ。最近まで。

文化、文明の話には立ち入れないが、こと日本においては、男性が優位である事情は
変わらない。
その優位な状況を、享受できるレベルに達したものは、実は結婚願望はない。
子を作る。その目的にのみ、その選択をするはずだ。
そのレベルを体験できていない、もしくは理解しえていない、いわゆる若い雄は、
子を作るという目的以前に、性衝動をコントロールできえていない。
一方、機会が平等であれば、そのシステムを享受できうる女性も、困難な中、
自力でそのレベルに到達しているものもいる。
その者も同じように結婚に対してのメリットを感じていない。

今現在、個体数を増やす、絶対的なメリットは無いのだから。

無茶を承知で言えば、結婚は、あくまでも一人前で無い人間が、
そのものの衝動をコントロールできなかった、そのたどり着いてしまった結果に過ぎず、
ましてや2人あわせても、プラスにもなっていない、
本来の目的を考えてもいない愚挙。

といいつつも、子ができたしまったことで、家族を成立させてしまった本人が
ここにいるわけで、この単位によって、意地でもメリットを創出させねばならない、
と考えることは、無理なからぬことと放言する私を、そっとしておいて欲しい。

多動症候群としてあった自分の過去を、一つ振り返って、
移動する机以外に、その日の最後に開催される、児童だけのホームルームが
修羅場であった。
裁判と言われる会が、最後に催され、教師は立ち会わない。
学級代表が取り仕切り、一日の、大密告大会となる。
こちらは動いて、騒いでなんぼの人生だ。
原告多数に被告ひとり。
判決は、明日一日、息を吸わないでください。
こういう無理な判決が下されるわけだ。
そして最後、姿勢のよかった人間から議長の判断で下校が許される。
こちらは動いて、騒いでなんぼの、、、、、。
当然最後だ。最悪は、揺れ、姿勢を矯正するとの自己判断で、
その場に立たされ、矯正係よろしく2名が脇について、
足の動きを両脇からチェックするわけだ。
しかも、それぞれの手に画鋲をもち、揺れ幅数センチのチェックをかける。
ささるわなぁ。動くわなぁ。疲れるわなぁ。
傷だらけになって、チェックマンが疲れ、議長が夕方のTV時間が気になる頃、
ようやく解放となる。

きっと、それを許していたあの教師は、疲れていたのだろう。
確かに、こんな子供を目の前にして、途方にも暮れたことであろう。
理解はできる。
今は、なんとも思っていない。

多動症候群

2005年01月13日 | 雑感(日記)
恐らく、人と人とを結びつける最強のツールは、通貨である。
何を行うにしても、最終的にはそのものに収斂されていく。
人間が生き物として成立している以上、えさ、なり餌場を確保することは
至上命令であり、それに結び付けられるあらゆる情報は、全ての感覚を通して
「是」、とするシステムになっているはずだ。

現在の、えさであり、餌場を管理するものは、つまり通貨である。
生き方は、人それぞれではあろうが、万人がそのシステムからは逃れられない。
混迷を極める精神のありかたは、その通貨に対するアプローチの方法を、
選択肢をいかほど所持しているかによって、着地できるはずだ。

実は、驚くほどシンプルなあり方なのだ。そう思っている。

なんにせよ、通貨にふれたことになるであろう、体験は小学校6年のときである。
生活は、苦しくなかった、はずだが、したものは、新聞配達である。
親の体面も、相当にある時代に、この仕事。
問題児だったんであろう所業に、酒屋の出の母は、なんとか見守ってくれた。
1ヶ月とはいえ、配達所の所長も、考えてみると、どう思っていたのか、
今は、顔も思い出せないが、迷惑だったのかもしれない。

今となっては、自閉症なる病と認定されている、子供の症状。
自分は、多動症候群に近い状態であった、と最近母より聞いたことがある。
そういえば、公立の、日教組が非常に強い学校だったが、
教師の机の横に、黒板を背に授業を受ける自分の記憶が、なんだかある。
その机は、廊下にあったり、校長室にあったり、と、動く机だ。
気がつくと、なんのリズムか、机をコンガにしたて、ばっかんばっかん叩きまくって、
はっと我に返る。多くの異常を見る目。廊下に速やかに連れ出そうと寄ってくる教師。
一度ではない。よく覚えている思い出だ。
本当に、迷惑な子供であった。
なにしろ、記憶なので脈絡が無いので、シチュエーションが明確で無いのだが、
授業中、(当時は、教室の中で、教師がタバコを吸えた。これも驚きだが)
何度も、切れたタバコの買出しに走らされた。体のいい追い出しだったのであろう。
本人としては、全く、暗くも無い記憶であるが、それも火災の一件で、
体験の連続を免れることとなり、過去の記憶として、単に格納された。


そこから始まる

2005年01月12日 | 雑感(日記)
父親が公務員ということもあり、生活構成を考えない転勤が常態化していた。
もっとも家賃は安い。
現在、大いに盛り上がる世論に返す言葉も無いのだが、確かに生活は楽だったはずだ。
70年代、80年代と社会の主軸を勤めた人間たちは、戦後、もっとも金銭的にも、
人生のプロセスにおいても、勝ちを享受できた層であろう。
それが、今、世界をこうしてしまった当事者でありながら、子供らに社会奉仕だなぞ、言える身分でもなかろうに。
今流行の、自己責任が最も欠落していた層でもあった。

そうはいえ、借りの宿とはいえ、裏手の家の風呂の空焚きで、角に密接していた4軒が全焼した。
小学校5年の出来事だ。

当家は角地で、正面に公園が、細い路地を挟んで、右向かいが墓地と、密度の高い平屋の
群れの中では好条件ではあったが、全て木造の建築物だ。
明け方ということもあり、新聞配達の人間に、急増ででっちあげたぶりきの塀をたたかれて、
事態を理解した。

柱が1本でも焼け残っていると、全焼にならない。保険のあざとさを理解したのもこの頃。
急遽、焼け出された内、2件にはプレハブ住宅が用意された。
意外な体験だった。

これを機に転校が数回始まることになる。
後に、成人になってその地を訪れたのだが、それ以来建物が建つことなく、駐車場として
そのまま使用されていた。
4軒があった、その区画にだ、とめられる車の数が4台というのには、笑えた。
成長の激しい時期に、時を断絶した空間は、当たり前だが、成長するはずもなく、
距離感も、何もかも想像以上にミニチュアの世界が広がっていた。
確かにその公園で野球の真似事をしたはずだが、今の自分のサイズでは
キャッチボールも不可能であった。
飛び越え損ねて落ちたどぶ川も、渡りが1メートルもない側溝にすぎなかった。
しばし、たたずみはしたが、幼い頃からの友達すら覚えていない自分にとって
相変わらず根無し草のような思いを感じた1日ではあった。