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まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

朝日新聞は、しょうがない。

2007年08月07日 | 歴史
多くの方々が、この新聞の社説に喧々諤々です。
詳細はお読みください。
一部を切り取って、眺めてみたいと思います。

原爆の日―「しょうがない」の罪深さ

  被爆2世である芥川賞作家の青来有一(せいらい・ゆういち)氏は、小説「爆
  心」で、長崎の被爆者の心境をこうつづっている。

  天災ならまだしも、心のある人間が、これほどの大量殺人を犯すわけがない。
  まして、原爆が落とされたのは、長崎市でもキリスト教徒の多い浦上地区だっ
  た。自分たちと同じ信仰を持つ米国人が、そんな無慈悲なことをするとは信じ
  られない。

この事実は存じ上げませんでした。
色々な軍事上の理由が語られていますが、
結局、「核」が非難されているのは、
その攻撃範囲の広さと、その後の生態系までをも、何年も、
不毛にしてしまう、「無差別兵器」だからということです。

  だが、果たして日本の国民は、久間氏の発言を一方的に非難ばかりできるのだ
  ろうか。そんな自問もしてみたい。

  日本はかつてアジアの国々を侵略し、米国に無謀な戦争を仕掛けた。しかも、
  無数の人命を犠牲にして、負け戦をずるずると引き延ばした。その揚げ句に落
  とされた原爆なのだ。

ここが、論争になっている箇所です。

「その揚げ句に落とされた原爆なのだ。」

  久間氏の発言をもう一度、確かめておこう。

  「原爆が落とされて、長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦
  争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、というふうに思っ
  ている」

ええ、朝日の社説と、久間氏の言っていること、
どのくらい違うんでしょうか、ということ。

つまり、「相当な理由があれば」原爆を落とされてもしょうがない、
そういう意識は、久間氏も朝日も、どちらからも読み取れるということなんです。

あるところでは、もちろん「火が点いたように」祭りになっています。
それだったら、相当な理由があるんだったら、
欧米列強、スペイン、ポルトガルなどは、何十発もの核を落とされても
「しょうがない」んだなと。

歴史は、大いなる「失敗の積み重ねである」。
なんてことを誰かが言っていたが、
今日の我々が、どう読み取るか、検証できるか、
そのための歴史でもある。

アジアはまさに欧米列強に占領されつくした。
今でこそアジアということで、各国が、その国家と言語と民族を纏め上げているが、
あの当時は、まさに、民衆が、「奈落の底に」落とされていた時代であった。

その民衆の上に、無差別殺人とも言っていい「超破壊兵器」が炸裂する。
これはもはや「戦争」でもなんでもない。
挙句に落とされた、とか、しょうがない、と言っていいレベルのものではない。
断じて、やってはいけないことなんである。

あれほど、国と言う「権力」を俎上に載せておきながら、
民衆の立場、人権をあれほどまでに言っておきながら、
国の指導者の責任を言っておきながら、
こちらに相当の理由があるから落とされてもしょうがないとは、
実は、この兵器に関しては、断じて言ってはならない。

こういうことを突然言い出すから、朝日新聞は、しょうがないんだ。


日本人は日本というものを、最後まで理解しないんだろうな。

2007年07月09日 | 歴史
先日、内田先生と養老先生の対談ともいうべき本を読んだが、
その中で、「ユダヤ人」とは、いかなるものか。
前半から、本編を通して、その話題が中心になっていた。
そのヨーロッパでは、もちろん宗教上の理由もあろうことと思うが、
実は、自らがユダヤ人として通さなければ、
立地上からも、民族上からも、
ユダヤを規定するものが、確固として「無い」。

民族を規定するもの。
それは、多くは、使用する「言語」の所有に帰する。
日本人といえば、日本語。
その日本語は、当たり前だが、世界で通用する言語ではなく、
いわゆる固有のもの。

その言語が持つ、歴史的な風合いから、多くの共通認識を含んで、
いわゆる「文化的」な連続性をもつものとして、
普通は、そう理解されている。
つまり、民族を定義する理由に言語があげられるのは、
そういう理屈がある。

言語が揺らげば、そのコミュニケーションから始まって、
相互理解が断絶しかねる。
これこそ、この時点で、同一民族としての結びつきが緩くなってくるのは当然。
昔は、アメリカ帰りを揶揄して、
「外国かぶれ」と呼んだ時期があったが、
案外、人間というものは、言葉が持っている「精神的なあり方」。
何を着飾ろうが、何を食べようが、
言葉は、えらい影響度が高い、そう理解したものなんだが。

そういう意味で、ユダヤ人が、ユダヤ人として、
その共通の言語を持つわけでもなく、
世界各国に散らばりながら、
さらに、何を持って「迫害」「重石」など、その背景を語られ、
その責務を負っているのか、
考えてみると、非常に難しくも面白い歴史的な「事象」なんだろう。

【やばいぞ日本】序章 没落が始まった(3)「収まらないな慰安婦問題は」

 「収まりませんよ、慰安婦問題は」と、男は続けた。
 「アメリカの政治で、ユダヤ人が一番多く政治資金を出す。その次はアジア人。
  今、カネを出せるアジア人で、日本に反発する人間がどれだけいると思いますか」
 「そのアジア人たちが、(ホロコースト=大虐殺の歴史を徹底的に追及した)ユ
  ダヤ人の手法を学び、同じことを今度はアジアでやろうと立ち上がった。この
  問題は絶対に終わらない。今回通過しなくても、またやります。今度は世界的
  にやります。首相が事実を認め、申し訳なかったと、国会で明確に謝罪するま
  でやります」

  10年ごとに行われる米国勢調査の結果によると、1990年からの10年
  で、アジア系米国人の人口は倍増に迫る勢いを示した。グローバル化の進展の
  中で、今や米国への移民は1世のうちに成功をつかむことが可能になってい
  る。中国やインドの爆発的な経済成長がそれを後押ししている。
  その結果、米社会に同化した2世、3世になってようやく豊かさを得るという
  これまでのパターンではなく、移民社会が本国とのつながりを強く残したまま
  膨張を続けるという新しい現象がみられるようになった。

  日系人が自らを日系ではなくアジア系と規定するという現象である。
 「日系3、4世で、とりわけ政治に進もうという層はそうだ」
  カリフォルニア州司法副長官で、将来政治家を目指しているアルバート・ムラ
  ツチ氏は、自らを例えに引いてこう話す。同氏が地元の教育委員選に出馬した
  際の選挙事務所幹部は、中国系と韓国系で占められていた。そうでないと、選
  挙に勝てないのである。

  主権国家による国益をめぐるせめぎ合いが国際政治の現実である。その文脈で
  はアジア系とは日本を封じ込めようとする枠組みになりえる。
  問題は、アメリカという世界の最大の政治舞台で進む「アジア系の勃興(ぼつ
  こう)」という名の日本外しに対し、日本が実質的に何の手も打てていないこ
  とである。

この記事では、その主要人物とされている「ホンダ議員」。
彼すらも、その後見人が、止めろといえば、
この議案を取り下げるであろうと言う。

その昔、ボーダレス化という言葉で、
ナショナリズムから解放されるがごとしの解説をされている方々がいた。
今も、そういう話をする人がいる。
確かに日本人は、どうやら世界に散らばった。
アニメだとか寿司だとか、そういう文化も広まった。

面白いことに、日本人は「郷に入れば郷に従え」みたいに、
案外、溶け込もうと、その柔軟性というか、
もう日本的というか、色に染まってしまうというか、
何でも、取り込んでしまう。

その「00シティー」とか「00村」みたいに、
明確な立場を、どうもとりたがらない気がする。
これは、歴史上から言っても、
あの大戦を除けば、大きな戦乱に一度も会わなかった、
さらに語弊があるかもしれないが、
とりあえず、一度も王族の系譜が途切れたことが無い。

そういう、変な安心感。
固執しない、言ってみれば、世界的に「宝の持ち腐れ」のような感覚。
そもそも、グローバル化する世界の中で、
どうやらこの日本人気質。
飲み込まれてしまうのかもしれない。

今、スピリッツで展開されている「日本沈没」。
こういう事態になって初めて、
日本人は、日本人というものを心から理解するのかもしれない。


学問的にナショナリズムって、どうすると起こるのかしら?

2007年03月25日 | 歴史
いくつかの本を読んでいて思ったんだが、
最近、言われ続けている、ナショナリズム。
これ、どうすると、育つのだろう?

よく言われるのは、体外的な「緊張」。
そして、社会問題の「激化」。

特に、ドイツでは、フランスの「増強」に対して、一種、模倣にも似た感じで、
装置として、国家の形態を整えてきたと説明されていた。
国境が、いつでも出入り自由な「陸地」では、
当然ながら、国を形成するに当たって、
様々な、民族的な利害関係の調整がある。

近代、産業が進化すると、
一応、いわゆる、資本家と労働者という、構造的な変化があって、
社会主義やら共産主義みたいな「理念」が、ベースになる。

多分、思いっきり「はしょった」理解で、すまないんだが、
この社会問題は、いわゆる、格差的な話でもあって、
今風な、展開でもあるんだが、
どうやら、「国」が、資本家と労働者の「利害調停者」になる、
そういう考え方は、昔からの「お役目」であったようだ。

で、普通、その調停も、全員に「平等」でいけるなんて、
社会主義国家が「自滅」していることからも自明なように、
出来るわけが無い。
不公平感は、細かい「格差思考」を呼ぶのは事実で、
どの国も、ここで、ナショナリズム的な、民族間対立が「激化」する。

当たり前だけど、「装置」として、国が儲かっている時は、
あんまり「顕在化」しないんだけど、
つい、「先日」までは、帝国主義なんたらかんたらの時代で、
我先にという「弱肉強食」、やったもんがち、の世界で、
食われちまった国は、
国外の脅威と、世界的な格差、不平等を背景に、
先鋭化する「ナショナリズム」が、数え役万として成立してしまったのは事実。

現在では、弱肉強食という4字熟語がありますが、
外資系の間では、とっくに、
「弱肉定食」として、用語が定着しているようです。
ええ、日本のことですよ。

そう、考えてみると、
今の日本って、
どこを、どう学問的に考えると、比較検証をしてみてもいいんだが、
「先鋭化するナショナリズム」が起きるんだ?

他国で言われている、格差に基づいた、社会問題を俎上に乗せた時、
本来的に、学問的に言われる、民族問題なんてこと、
この国であるのかしら?

とするのであれば、国外の「緊張」が、それに火をつける、
唯一の「きっかけ」という話で、
良いか悪いかという問題ではなくて、
これこそ、起こって当たり前、
そういう理解があって、普通なんじゃないだろうか?

というのは、色々な新聞、テレビなんかが、なんだか、若者のナショナリズム化を
盛んに「論議」していて、
悪いだとか、みっともないだとか、怖いだとか、
現象にこそスポットをあてて、喜んでいるけど、

明確に、ナショナリズムは、どうすると、「起こるものなのか」を、
きっちりと、解説してくださる、マスコミさんが、どうしても少ない。
だって、ながーーーい歴史の中で、どの国も、
ナショナリズムって現象は、
ほんのわずかの期間ででてきたもんです。
今、言われている、意味においてですけどね。

こういう書き方で喜んでいる風な、新聞のこと。

2006年12月23日 | 歴史
旧日本軍の「百人斬り」めぐる訴訟 本社などの勝訴確定

  旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う
  「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱っ
  た書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ故人を慕う遺族の気持ちを傷つけ
  られた」などとして、朝日、毎日両新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者に
  出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めた訴訟の上告審で、最高
  裁第二小法廷(今井功裁判長)は22日、遺族側の上告を棄却する決定をし
  た。朝日新聞社などの勝訴が確定した。

正直、今では、色々な物の言い方ができるようになりましたが、
ある時代、朝日ジャーナルやらこの本多勝一氏の本を読んでいた口でした。

最高裁がこのような判決を下したと言うのも、詳細が分かりかねますので、
自分の想像でしか物が言えないので、申し訳ないですが、
報道された時期が、すでに、当事者もおらず、いわば遠い過去のこと、
その報道をもとに、本多氏が書いたと言うこと。

遺族が、賠償金を求める民事訴訟であれば、「棄却」という結果で、
おそらく、「取り合わない」「取り合うことができない」
という感じなんでしょうか。
死亡によって名誉などの人格権は消滅する、
記述は遺族の生活状況などについて言及していない
という地裁における判決が、全てであると言ってよいでしょう。

これまた朝日さんが、「勝訴」という見出しをつける事態、
分からなくも無いですが、
そもそも、そういう報道をした、そのことが、
当時のマスコミの異様な戦争への「無邪気」な加担が見て取れるわけで、

戦争責任という、最近の「総括特集」でも、
マスコミの戦争への加担を「戒めた」ばかりだというのに、
「本社の勝訴確定」というキャッチは、
個人的に、大いに、違和感を感じざるを得ません。

多くの方が、この件でも、例の南京事件においても、
述べられております。
個人的には、当時の情報は、どちらにせよ、多くのプロパガンダを内包していた
と考えております。
もちろん、日本のマスコミでさえ、同じように、
まともな「報道」はしておりませんでした。

そういう意味からして、事実は事実。
その検証を、いまこそ、真摯にすべきであって、
二度と、こういった「悲惨な」ことを、おこさない。
そういう姿勢が問われるべきだと思います。

ご遺族の心中を察して止みませんが、
こと、当時の「報道」です。
名誉の回復が、どういう手続きでなされるか、
自分にはわかりかねますが、
こと、賠償請求といった方法では、
どういう「被害者」であっても、司法ははねつけておりますので、
いたしかたのない「判断」なんでしょうか。

それにしても、事実を検証すべき、ジャーナリストである本多氏が、
この件をもって、「勝利は我にあり、我が正しい」など、
そう思ってしまうのであれば、
心底、大嫌い.....です。

別の観点から見た、国旗・国歌に関して。

2006年09月22日 | 歴史
もう、存分に議論されているテーマなんでしょうか。

式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違憲」 東京地裁

  難波裁判長は、日の丸や君が代が皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として
  用いられてきた経緯に言及。式典での掲揚や斉唱に反対する主義・主張を持つ
  人の思想・良心の自由も憲法上保護に値する権利だと述べた。

  通達について「教育の自主性を侵害し、一方的な理論や観念を生徒に教え込む
  ことに等しい」と指摘。
  その上で、起立や斉唱の強要は思想・良心の自由を保障する憲法19条に違反
  すると判断。

  国旗・国歌は自然に定着させるのが国旗・国歌法の趣旨であることにも照ら
  し、教職員への職務命令は違法とした。

朝日新聞、「大喜び」の判決だったんではないでしょうか。
反対する権利は公共の福祉に反しない限り保護されるべきで、とか、
合理的な基準を逸脱している、とか、主文で言われておりますが、
国を形成する。公共を意味づける。
その「合理的」といわれる内容は、なんなんでしょうか?

「すべての人の人権がバランスよく保障されるように、人権と人権の衝突を調整す
ることを、憲法は「公共の福祉」と呼んだのです」

じゃあ、人権ってなんだ?

「近代の憲法は、国家権力に歯止めをかけて、国民の人権を守るために生まれました」

ということで、本来の発想からして、
国家は、権力機関として、人権を「抑圧」した歴史がある、という位置づけです。
そうさせないために、そうなる可能性があるから、
ことさら人権を尊重する「憲法」ができた。

それで、この手の方々が必ず持ち出す言葉。
日本語の「公」はもともと、「天皇」や「国家」をさしました、というもの。
国の為に、天皇の為に、というあれです。

その60年後。
民主主義というものが、随分と定着を見せて、いまだ、民主主義にかんして、
少数の意見をも尊重するものだ、という「間違った」解釈をされる方々もおられますが、
あくまでも、大多数の意見の集約が、民主的に遂行される、ということです。

その、多分、頂点が、国、という形にたどり着くんだろうな、
そういう「勉強」をしてまいりました。

それぞれの思想・良心、あって当たり前です。
人権同士の衝突を回避する、それが「公共の福祉」ということらしいんですが、
何か、という、具体的なことは、説明できるものではありません。

その回避させるために、その手段として、利害関係を調整するために、
大きなものとして、政治家を選出して、国会の場で、審議して、法案として、
利害を調整していくわけで、それが、民主主義。

その場で、公共の機関、つまり、教育の現場では、国旗・国家に関する取り決めが
法案として、成立しました。

という風に理解してきたんですが、
これでは、民主主義というのも、思想・良心の自由をたてに、「運動」をすれば
希望がかなう!ということなんですか?
いつでも、大多数の「民意」も、ひっくり返せる、ということなんでしょうか?

そうやって、本来、まとまりもない、それぞれの個々人が活動する場の「くくり」
としての「国」を成立させるために、
不満はあっても、選ばれた代議士に信託して、法案をつくらせて、
国づくりをしてきたんだ、と、考えてきた、プロセス。
これって、意味ないんでしょうか?

個人的には、だだをこねても、この国では、やり方次第では、何でもあり!
そう感じ取ってしまえる、判決です。
じゃぁ、あの法案も含めて、あれはどうなんだろう。

ぜひ、教育の現場だけでなく、国連でも、オリンピックでも、スポーツ競技上でも
己の信念を、押し通してください。
何も作り出せず、否定、拒否だけして、
それも含めて、新しい価値を付与する、作り上げていくこともせず、
過去の怨念ばかりをあげつらっていく。
この60年、おびえてばかりいたのかしら。
自分は、もう、この国旗に関しては、平和と自由の象徴として考えておりましたが。

って、これも、駄々っ子のような言い方ですね。
あってるのかなぁ?

引用だらけですが、おろおろしてしまう話です。

2006年01月12日 | 歴史
昨年登場した、スロット台。「アラジンエボリューション」。
「北斗の拳」セカンドエディションを差し止めて出した割には、さえない。
フラッグシップな台なだけに、サミーが心配だ。
また、因縁屋のアルゼがサミー相手に裁判をおこしているし、台が売れないからって
人にあやばっかりつけては負け続けている、アルゼも心配だ。
人の心配をしている暇がある、自分も心配だ。

「社会派くんがゆく 維新編」で、へーと気に入ってしまった「うんちく話」。
トリビアのスーパーバイザーな方だけに、様々なテーマに関連付けて話ができる
その知識の分量には、驚異。そして、読みやすい文章にも、感嘆です。

「ロンドンのテロ」に絡む話題の中での話です。
例の惨事、ロンドン市民が実に冷静だったことを基調に、イギリスの歴史的な背景を解説。
イギリスはIRAなどのテロが少し前まで日常茶飯事の国。現に、王室の一員が
そのテロで命を失っている。
サッチャー首相(当時)はこの事件に報復を行うと宣言、IRAを撲滅することを発表。
IRAも反撃。テロと攻撃の連鎖が止まらない。
IRAの闘士ボビー・サンズは捕らえられ、獄中立候補をして当選するが議会に
出られず、講義のためにハンストを始めた。

サッチャーはそんな抗議を、無視。メシを食わないなら勝手に食うな、と放っておいたら
本当にサンズは「餓死」してしまった。

IRAも黙っていない。サッチャー暗殺を企て、ホテルに爆弾テロを仕掛けたが、
強運!大破したホテルの瓦礫の下でサッチャーは生きていた。
英雄的な消防士、フレッド・ビショップが彼女を救出したが、その作業中にサッチャーが
この命の恩人にかけた言葉が、「足を踏まないでちょうだい!」だ。
へー、へー、へー!すごい。

要するに、民族と宗教というものが絡んだ場合、そこで行われる基本的な行為と
いうのは「殺し合い」なのである。
旧約聖書には異教徒たちのジェノサイドの記述がこれでもかというくらい記載されている。
コーランには「異教徒以外は人を殺してはならない」と書いてある。
そういう単語を、すでにベースとして意識しているのだ。

民族問題も宗教問題も経験していないわれわれが、多民族多宗教国家であるアメリカや
イギリスに何をいったところでまともに聞いてはくれない。

利害でなければ思想でもない、アイデンティティという人間の根本が、他者との
差別化を欲求し、その行き着く結果、他者の抹殺へと人を駆り立てるのである。
これに理由はない。韓国や中国が日本を憎むのは、日本が過去に、あるいはいま現在、
彼らに何か憎まれるようなことをしているからではない。
彼らにとって、そこに日本人がいるということ自体、我慢できないのである。

すいません、レジュメのように文章を拝借いたしました。
多分、一つの真理であると思います。
現に、哺乳類は、同類を殺しあうのは「人間だけだ」という「説」が、
実は間違っていたということが理解されてきました。
こういった事実を、リアルなものとして、実感し、思考できる「経験」を
私はしてまいりませんでした。
だから、本当に、こういう話を聞かされると、おろおろし、今でも「話し合えば」
などと考えてしまいます。

そういった意味で、海外では「隔離された」日本、として有名なんだと思います。

今もって尚、領有権を巡る争い

2005年11月15日 | 歴史
サッカーで、アルゼンチンとイングランドの試合は、1982年に起こった
フォークランド紛争以来、遺恨試合として国民を熱狂させている。
フォークランド紛争は、時のアルゼンチンの国内事情で語られることが多く、
内政の行き詰まりから国民の不満を転化するために、起こされたものとされている。

話は変わるが、
南極観測船「しらせ」が出港 12月半ば、昭和基地へ
という記事。以前にも書きましたが、海洋調査、海洋研究など、日本は特に頑張っていただきたい
分野ではあるが、昨今の国の財政事情。今後の見通しは暗い。
日本が、南極大陸の平和利用の可能性を世界に示す、絶好のフィールドとも呼ばれてはいたし、
世界中の見識のある人達からも、かなりの期待を寄せられていたが、「予算」がない。

そもそも南極はご存知の通り、1961年に「発行」された南極条約というもので、
各国はその領有権やら、諸々の規制を受けている。
当時、冷戦状態であった状況下、南極の地下資源、捕鯨基地など、新大陸への期待もあり
7カ国が先を争うように目指した。
日本も「巻き込まれに」行ったようなもんだが、この国がいったん定めた土地は、
土地ではなく、氷の上であった。
さてさて、その間、特にアメリカとソ連は、宇宙へ向けての技術開発。ロケット開発など
国を挙げての競争時代に突入。
ソ連にどうしても、1歩先に進まれる事実から、アメリカは急遽月面着陸へと強行を
果たすが、懸案になったのは、この先起こる、宇宙空間の領有権。
こんなのないよね。

その広大な宇宙空間を「縛った」のは、意外にも地球の領土である。
不動産にも地上権なんて概念がある以上、「空」はどこまで「空」なのか、なんて
禅問答にも近いが、その空の領有権がイコール、衛星やら航空機の飛行経路にも制約を
与えることになった。
そこでアメリカとソ連は、入り乱れて争奪戦になりかねなかった、「南極大陸」を
条約で保有権、領土権を認めさせないことによって、将来に保険をかけることにした。
というのが実態だったという。

今でも、納得がいかないのは、当時からお近くに国がある、アルゼンチンやらチリやら
NZやらオーストラリア。
アルゼンチンなどは、今でも国民が南極に上陸しては、本当に子供をもうけて、
南極大陸出身者の誕生、と言っては、世界を「震撼」させている。
例のフォークランド諸島も、まぁ、何にもない島なんだが、イギリスの軍艦停泊施設みたいな
感じではあったが、もちろん、アルゼンチンの民間人は、「上陸」そして、フォークランド
生まれ、出身者をつくって、「実効権」をもぎ取ろうとしたわけだ。
「子供」は、いつでも「使者」であり「人質」だ。

なんというか、イギリスは、国を挙げて「戦闘」をおこなって勝利はしたものの、
アルゼンチンは今も尚、領有権を主張。もちろん関連して、イギリスはその南極の「埋蔵されている」
南極の資源開発の前哨基地として、重要視しているのは変わらない。
国土の争いは、実は今世紀になっても、「人事ではない」。

先頭に戻るが、そういった背景があって、イングランドとアルゼンチンの試合は、
「代替戦争」みたいなもんになっていて、特に、アルゼンチンは、「燃える」。
そして、日本も、今も尚、領有権に関しての「当事者」である。
各国が歴史上繰り広げる「外交」は、今もって混迷を極め、より良い指針となる
経験を我々にもたらすことは、ない。
特に、ボーダーレスを声高に叫ぶ人権団体におかれても、移民の受入、移住者の選挙権、
公務員への登用など、この国に多くを求めるが、その対象国が、がちがちの
国粋主義だったりするのが、笑える。

亡命者の数から見た、当時の住み心地

2005年10月05日 | 歴史
色々な雑誌やら、ええ、もちろんマンガを含めて、日々流し読みをしておりましたが、
例の「歴史教科書 10の争点」を読み終わりました。
この本では、教科書の執筆者ではなく、「教科書をつくる会」が、
今節、世に出る教科書を、専門家に評してもらいながら、扶桑社の教科書を
評していただく。そんな趣旨でつくられております。
もちろん、選ばれた専門家の方々は、「つくる会」が選んだ方々なので、
当然といえば、当然なんですが、主張ははっきりいたしております。

各時代ごとに、最新の研究を織り交ぜて、語る専門家のお話は、
しばらく日本史や、世界史に向き合わなかった自分に、新鮮でした。
もちろん、自分にも、つぼに入るテーマはあります。
ただ、一方的な感情によって、論ずるのではなく、史実に基づく。
本当に、勉強のしがいが、ございます。
とはいえ、ちくま系やら朝日系の書籍など、買いたくないなぁ、と思うこともしばしば。
でも、読んでいきます。

今回が、この本による、歴史っておもしろいなぁ、は、最後になります。
テーマが、近現代に入って、とてもホットなジャンルに突入いたします。

一番、史実として、興味が湧いたのは、共産主義と全体主義。
もちろん、ソ連とドイツなんですが、どちらも、元は、民主主義から発展してきた
という学説。
独裁者といわれておりますが、1人の趣向によって、殺戮を行ったわけでなく、
法をきちんと整備した上で、合法的にそのシステムが成立したという点。
これは、過去の歴史事象なのではなく、今もっても、どの国も、陥る可能性を
秘めているというお話には、とても理解ができました。
歴史のアイロニーとして、そのシステムをお互いに学びあっていたはずの
ヒットラーとスターリン。主義に合わない人間を、同じような手法で、合法的に
(その当時の、その国内の法体系ということですが)抹殺していたわけなんですが、
なぜか、ドイツは日本と。そして、ソ連はアメリカと手を組むわけです。
アメリカなんぞは、共産主義なりのシステムに程遠い感覚を持っていたわけで、
どちらかというと、より、日本に近い感覚をもっていたわけです。

まぁ、イギリスを助けるために、日本を煽って、アメリカに戦いを挑ませる、
そうして、参戦に反対していた議会の承認を受けて、この対戦に参加する。
これが、今もっとも言われている内容ですが、
日本は、どうやら、連戦連勝していたドイツ。そして、ドイツも、強力な海軍を
持つ日本を、双方、過大評価したあげくの提携だったみたいで、
情報とは、本当に、そして外交とは、本当に不思議でもあり、難しいものだと。

ここで、面白かったのは、亡命者。
「東欧からの亡命者は5000万人、東ドイツから西ドイツへは400万人、
インドシナ3国を共産党が支配するようになった1974年から80年の6年間
だけで70万人、北朝鮮からは500万人が亡命したと言われております。」

その一方で、搾取され、殺戮を極めたと、昨今宣伝されている、あの併合時の
朝鮮半島。
朝鮮人の日本軍への応募を「認めると」1938年には7.3倍、1943年には
48.14倍という高い応募倍率を示しました。
人口も、他の資料でお馴染みですが、倍?3倍?。異常に増加しております。
亡命者の数字が、出てきていないのですが?
これは、なぜでしょう?
時に、こういった傍流のデータが、明らかになるにつけ、次第に、当時の
史実の関連性が深化してくることは、良いことだと思っております。
単純に戦争が良いこと悪いこと、など、やりたいか、やりたくないか、
そういう次元ではなく、どのように、この国を、世界の奔流の中で、
成立させていくかが、肝要なはずで、巻き込まれないためには、
状況に応じては主導権を握れるほどに、外交戦略を鍛えていくべきであって、
その先に、非常事態の可能性を冷静に踏まえていかないと、
また、場当たり的な選択を(今も、ちょっと、そんな感じですが)繰り返しかねない。
紛争も、戦争も、実は、平時から、我々も、充分シュミレートしておかなければ、
経験のない、認識の無い状態に置かれっぱなしになるわけです。
当たり前なんですが、必要の無い、紛争は嫌ですから。

今日は、宗教と国家だ。稚拙ですが.....。

2005年10月01日 | 歴史
エチゼンクラゲ?越前くらげ?えちぜんくらげ?
表記、調べず書いてすいません。
でも、むちゃくちゃな姿です。TVの映像で見てしまいました。
大きいです。当然、刺されると痛いそうです。大集団です。
団体さんで、日本海沿岸に「漂着」しています。
船にあげられた、くらげ、ぷりぷり、していて、おぞましいです。
足なんでしょうか?下のほう、なんやら、たくさん、うぞうぞといます。
夏に出るの、異常なんですか?


また、歴史の話です。
例の「歴史教科書 10の争点」からでございます。
大日本帝国憲法、という項目から、勉強させていただきました。

確かに、自分が、記憶している、習った内容ですが、
政府が、自由民権運動に迫られて仕方なしに憲法を作った、だったと思います。
ただ、世界史の中で、日本の置かれた状況を考えて見ますと、
日本は、鎖国をしていましたが、完全な鎖国ではありませんでした。
制限をした、通商をしていた、というのが事実です。
地理的な事情もあってか、当時流布されていた、金、銀などの資源的な
情報もあってかのことか、西欧は、この日本に興味があったのは事実です。

当然ながら、海外の情報に無知だった、訳ではありません。
そこに、ロシアからの船やら、アメリカからの巨大な船。
侵略されるアジアの情報。
確かに一部の人間であったかもしれないが、この国の設計を講じていく、
必然であったことでしょう。

憲法では、国体と政体、二元論。あるいは、一元論。論争されていますが、
天皇と、議会なり、国民。この関係。
以降、特に問題になっているところです。
もちろん、多くの皆さんにとっては、自明のことなのかもしれませんが、
すいません、結構、頭に入ってきたことなので、書かせてもらいます。

結局、江戸末期。武器など、フランス、イギリスより購入していたこともあり、
文明というもの、そして、国力(海外に進出する、通商も含めて)など、
規範なりモデルを西欧に求めるのは、成り行きでした。

元来、目にしてきた、キリスト教。「暗黒の中国大陸」といった著作にも
ございましたが、キリスト教の意味合いは、決して、無視できない
しろものであった、ことも事実です。

そこで研究を重ねると、西欧では、国王や大統領はキリスト教の神からの
委任によって国民を支配している。
当たり前ですが、西欧に支配されぬようにするためには、西欧を取り入れる
これが一番です。完全西欧化、は無理としても、通商を含めた、条約関係の
対等を勝ち取るためにも、基準を決めなければ、まずい。
スタンダードを取り入れることに腐心するわけです。

西欧の道徳も、国民統合も、愛国心も忠誠心も、便利なキリスト教。
それに替わるものとして、国体に、天皇を持ってくる。
当時の連中に、今ほどの論争を引き起こすような、強烈な思いは
天皇に無かったように、思いますが、
ある種の劣等感。欧米の視察を終えて、その劣等感を克服するために
「万世一系の天皇」という観念は、強力に作用したにちがいありません。

自由民権運動の評価はありますが、かれらこそ、強行対外路線を叫んだ
連中はおりません。欧米の国力を知らないことも、そして、それだけ、
民衆も無知とはいえ、異人にアレルギーが蔓延していた証左でしょう。

日本は、こういうスタンダードを徹底的に整備して、対等な関係を
諸国と築くこと。これが生き抜く方法だ。
そういう時代背景を理解していかないと、まったくもって、
一部の支配階級が、無知な民衆を抑えるために、天皇を主権にした、
絶対支配システムを構築し、その後、隣国を含めて、搾取に向かった。
なんてイメージになるんでしょう。
その当時、まずは、欧米と、対等になる、という国是があったはずです。
その後、確かに、1910年代に、天皇を主権にした、絶対的な権限を
たてに国が、あらぬ方向に向かいました。

宗教は、欧米では、多少、陰りがあるものの、その際には、いつも
大きな災いもございます。
9.11など、勝手にイスラムとキリストの戦いだと、思ってますから。
そうはいえ、愛国的なものも、道徳も、規範として、当時の為政者が当てはめる。
それが、仮にも、仏陀であろうが天皇であろうが、
その限りにおいて、そうした、ということ。
こういう説明を、今回、この本で、読ませていただきました。

一方的な解釈ではなく、様々に、触れていきたいと思っています。
ただセンター試験などで、一方的な解釈にたった、人々が試験を作るのは
いかがと思います。
「マッカサーはいろいろな民主化を行って日本人民を解放しましたが、
 一つだけやり残したことがあります。それは何でしょう?

   正解  「天皇制の廃絶」


世界史は避けて通れないです

2005年09月29日 | 歴史
本を整理していたら、すっかり購入していたことを忘れていた本が
幾冊かでてきた。
なんか、当時話題になっていたんで、何冊か同系のテーマで購入したんであろう、
「これだけは譲れない 歴史教科書 10の争点」

ハードカバーなんで、先に読むことにいたしました。
ただ、読んでみると、いくつかのテーマ毎に、筆記者が異なるのだが、
事、歴史である。意見など、立場など、そりゃもう、色々あるのは承知。
でも、やっぱり、歴史は面白いんですわ。
まだ、途中ではあるんですが、巷では、聖徳太子は存在しなかった、
に命をかけている、歴史家の集団がいて、ちょっとした論争になっているらしい
など、読んでいて、勉強になります。

大御所の西尾幹二さん。色んな話を、今まで、目にしたり、読んだり
いたしましたが、日本史と言えども、世界史の観点から見た日本。
これも、いい勉強になります。
高校時代、どうも、世界史というと、あの、古代の一連のカタカナ、ながい
人名に、おなか一杯になってしまって、日本史一辺倒という過去があったので、
しばらく遠ざけていました。

しかし、言ってみれば、偏狭な隣国からの教科書問題やら、歴史認識など、
触れ続けていますと、やっぱり、世界的なスケールで、歴史をみていかないと、
本当に理解できない、事実に気づきます。
もちろん、起こった事件、事実は受け止めながら、さりとて、
なぜ、そうなんだ、という因果を含めた理を、知っていないと、
それは、もう、知識ではない。

例えば、「国際的な」という単語一つとってみても、
西欧が感じている内容と、日本が使っている意味合い、違うんですよね。
そもそも、西欧が、スタンダードなので、そもそも、国際的なんて
概念、あったのかしら?
ヨーロッパにおいて、1000年の長きに渡って、平和な時は、5年も
なかった、と言われる、ヨーロッパ。野蛮ですねぇ。
そんで、話合い。ローマ法王が決めたんでしょ。
地球に、勝手に境界を引く。そんで、こっちは、あんた。そっちは、あんた。
有名な「トルデシリャス条約」。
そうして、1914年ごろまでには、世界の84%が欧米によって支配
されていくのです。
なんで、先の言葉。「国際化」。
これ、支配国家が、共同で、その地域を管理する、という意味なんですって。
戦争など、お互い、疲弊するから、共同で管理しようぜ。
だから、満州の国際化、なんて言葉は、日本だけで管理すんじゃねぇ。
お互いで、管理支配しようぜ、という意味なんですって。
だから、日本の国際化、という意味は、日本語の意味で、世界に発信したら、
いよいよ日本も白旗か、と、とられてもしょうがない。
そういうことなんですって。

言葉は、もちろん、歴史に支えられて、その意味を付加、変化させてきました。
当然、国によって、言葉は様々です。
主語にしても、日本は、何種類も使い分けていますが、欧米は、どうですか?
アイヌは、水に関する地形的な言葉をものすごく持っています。
もちろん、木に関する言葉も。
他には、「学力」という言葉は、欧米にないそうです。
しいていえば、アチーブメント。達成力。
我々が、今まで、考えていたこと、知っていたことなど、
それは、ほんの小さな世界の事象に過ぎないということ。
まざまざと、理解できます。
世界の理解は、本当に遠いなぁ。




虐殺 について

2005年05月26日 | 歴史
過去の、ひとつの事象を取り上げて、現在から断罪することは、簡単だ。
特にホットな論議になるのは、決まって、歴史問題だ。

虐殺、という、事案に対して、英訳される単語は、ホロコースト、であり、
国際的に、翻訳されると、ほぼ同一意味として、語られる。
世界的に有名な、ホロコースト、といえば、ユダヤ人の虐殺であった。
ドイツは、ヒットラーによる、ある特殊な事件として、ドイツ人そのものの案件として
捉えていない。
よって、あの世界大戦においては、これをもって、謝罪も国家賠償もしていない。
あれは、特殊な人物がおこしたことで、我々も、被害者であった、という立場だ。

ところで、このホロコーストの論理であるが、いわゆる、優生学。
ヒットラーのオリジナルなんであろうか?
実は、アメリカが発祥であった。
生物学という世界は、肉をほっておくと、ハエがわく。という、自然発生観、の時代が
長きに渡って支配していたが、メンデルス以降、
どうやら、親が持つ遺伝子は2対。
交配時には、その2対がもう一方の2対と混合し、
その子に、遺伝がなされる、それが次第に明らかになってきた。
発生しやすい因子を、優性型。発生しにくい因子を、劣勢型。
現象を、科学的に説明する単語であったが、世界はそうとらなかった。

最初は、社会福祉的な、医学的な見地より、その対策として、遺伝を語ることが
主流であったが、次第に、犯罪にまで援用されると、
時代は大きなブームを、アメリカに、影を落とすことになる。
犯罪を犯しやすい、因子があるんだ。
何をやったか。
断種法である。
そういう、犯罪を犯しやすい、それは、一族を過去に辿っていくと、やはり、その傾向が
認められる。(結構、こじつけだ。科学的根拠なんぞ、ない。見立てだ、噂だ。それで
立証するんだから、魔女裁判みたいなもんだ)しかも、犯罪を犯した本人も、
自分の罪は、そういう遺伝子が、あるからだ。
当然、そう言うよな。
そこで、子孫を残さない、そういう外科手術をする。男だったらパイプカットだ。
遺伝子を憎んで、人を憎まずだ。
これで、社会は、将来の安全を担保される。  となったわけだ。 すごいぞ、アメリカ。
これが、30州以上で採択されたんだ。戦前に。
これに、一番興味を持って、遺伝子の科学者達と手紙のやり取りをして、後に最大限に
採用した、外国人が、ヒットラーだ。

事象は、複合的に伝播し、その節で、意外な発祥をみることがある。
これが現在でも、見落としがちな、ネットワークの恐ろしさであり、真理である。

さて、日本にも、虐殺といわれる事件があった。
が、本来の意味からしても、スケールからしても、あれは、虐殺ではない。
事件である。さらにいうと、南京戦闘である。だから、人数が問題になり、
死者の属性が論議されるのだ。兵隊か、民間人かを。
しかし、中国は、国際ルールにのっとた、戦闘はしない。
まぁ、国際ルールといっても、アジアだから、白人がそう思っても、そうじゃないことは、
今の、民族対立の激化をみていれば、常識は常識ではないのがわかる。
投降をせず、制服をぬいで、民間人の服を着なおして、戦闘を仕掛ける人たちだ。
いい悪いではなく、彼らの常識だった。
それを、現在の常識から判断して、数を増やすのは、いかがなものか。

それに一番近いものは、やはり、広島、長崎であろう。