まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

遅いけど、「国家の罠」を読みました。

2008年01月18日 | 本・映画
久々に理解をしながら読んでいった。
そういう気持ちを持って向かえた本。
「国家の罠」。文庫化されていたので、大変ありがたかった。
だって、また最近、ハードカバー、高いと感じるようになっちゃって。

こういうノンフィクションは、特に文庫化される際に、
巻末に作者が「その後」をかいてくれたり、
サービス版が追記されたりすることがあるので、
非常にお得感があります。

とはいえ、当事者が書かれたものだけに、
かなり、筆者に「力」がないと、読む方も、感情的な部分を察知して、
ひどく冷めることもあるのだが、
この本には、ほとんど見当たらない。

で、よく理解できました。
そんじょそこらのマスコミさんが、最近、この「案件」に
コメントも解説も加えないし、鈴木むねおさんに、
当時のことを蒸し返すこともしなくなった訳を。
今さら何ですが、遅いですが、よおく理解できました。

例の外務省をめぐる、鈴木氏と田中氏。
むねおハウスと呼ばれた案件に関しての三井の偽計取引など、
有罪か無罪か、さらに、国策捜査が是か非かという、
これは、もはや表層の出来事であって、
我々が知ることができなかった、いわゆる外交の「作業」なり「仕事」というものが
どういうものか、どういうリアリティーを経ていくのか、
非常に興味深く、得難い「経験」をさせてもらいました。

作者が、その時、その状況下で、それぞれの立場があって、その背景があって、
それを思い馳せながら、
まさに自分にふりかかった「状況」を分析していく。
これは、相当にタフな精神力。
さらに、相当、そんじょそこらじゃ得られない「経験」をされている。
もしくは、依拠する精神世界を持たれている。
じゃないと、できません。

それに、この記憶力。どこまでノンフィクションなのかフィクションなのか、
そう思わせるくらい、緻密。明晰。

もちろん、関係者にとって、是非もあろうし、
「意見」もあろうことなんだろうけど、
この本を読んで、不思議と、出演される方々に、嫌な感情を持てない。
作者の被告人を、踏み台にした方々など、
作者に肩入れするなら、なじゃそりゃ!なんて感想を持ってもいいのだが、
そういう書き方になっていない。

この本は、そういう意味で、人間関係を「生業」にする関係者にとっては、
なんだか、面白い参考書になるかもしれない。くらい。

多分、相当量の、裏打ちされたリアリティーがあってこそのもので、
読み解くことができる「利害」の関係に、焦点をあてられる、
そういう作業ができるからこそ、からかもしれない。
ええ、利害関係に無頓着になると、
おおよそ、人間関係に関する対応、評価は、ほぼ一方的になりますから。

えっつ?こういう内容の本ではない?
だって、ベストセラーだし、みんなとっくに読んでいるだろうから、
なぞっても、自分より「うまい」人なんか、ごまんといるから....。

ただ、国策捜査を位置づける、いくつかのファクターをお考えになられていたが、
この作業こそは、ご本人が仰っていたように、
その後の「歴史」が明確にしていくのであろう。
作者が書いている、日本の構造変化に関する記述は、自分には、今一度
読み直さないと腑に落ちない、ことも、あった。
が、結局、日露平和条約が不成立で、北方領土に関する展開が、
遅滞せざるを得なくなって、
その「犠牲」として、祭られた。

ご本人にとって「嫌」かもしれないけど、あまりにも平凡すぎるこの「見方」こそが、
この日本の「捜査」の限界点として、特に、記憶しておいた方が
良いのかもしれない。
がっかりだけどね。

でも、田中真紀子氏。
あの当時、熱狂してしまった有識者なり、マスコミの方々。
支持を繰り返し、あげく、本まで上梓してしまった文筆家の方々。
しばらく、表を歩けないね。
今でも、ブックオフに行くと、結構、その手の本が並びまくっているけど、
残るんだよね、活字って、怖いよね。


この映画は、ちょっと勘弁してください.......。

2007年12月04日 | 本・映画
「ディパーテッド」。
次第にがらんとなる、旧事務所にて、空いた時間、見る。
レオナルドデカプリオ、マットデイモン、ジャックニコルソン。

香港映画のリメイクということなんですが、
個人的に、こういう映画、あんまり見たくないなぁ。
香港映画は見たことも、知りもしなかったんで、
タイトルだけでレンタルしてしまったんだけど、
こういう映画だったんだ。

「潜入捜査」ということが、どういうリアリティーがあるのか、
本当にしらないんだけど、
いやいや、これ、やっぱり、当事者は「大変だ」。
ネタばれになるんで、詳細は見てくださいとしかいえないんだけど、
ついつい、集中してみてしまうタイプとしては、
もう、次の展開が、嫌で嫌でしょうがなかった。

もっと楽にみればよかった。

それだけ、作りが良かったんだと言われればそうなんだけど、
「彼女」といわれる、精神科医がいなかったら、
誰も、報われない。
悲しむ人もいない。
そう、実は、悲しい場面がひとつもない。

さらに爽快感も、全く無い。
よく、こんな映画作るよなぁ、と見終わった後に、そう思うくらい。
ふところ深いよなぁ、ハリウッドわ。

ただただ、デカプリオの潜入捜査。
彼の翻弄されていく、苦悩と、壊れようと、怯えなんか、
もう入り込んじゃって、きつかった。

『インファナル・アフェア』の方は、3部作ということで、
もっと、それぞれの作りこみがしっかしているんだろうけど、
この作品は、よくよく考えてみると、
なんで?なんで?という、「彼らが感じる」不条理さをも、
勝手に、痛いほど感じてしまう、
それくらい、彼らの背景が、もう少し欲しかった。

まぁやるしかないよねぇ、とか、しょうがないよねぇ、
なんて「流せる」背景が見当たらないだけに、
可愛そうにが先に立っちゃって。

だもんで、確かに作りは、それだけにいいんだろうけど、
この手の映画は、ちょっと、勘弁。
できれば見たくないなぁ。

ああ、マットデイモン。
彼の、こういう役も見たくなかったなぁ。
これは勝手な意見なんで、「ボーン.....」の印象だけで語っていますが。
でもオーシャンでの「抜け方」もいいんで、
なんでもこなせるんだなぁ。
彼との遭遇は、グッドウイルハンティングなんで、
そういえばそうだよね、なんて、
また素人の知識で何を言っているんだか。
ごめんなさい。


007の中では、一番面白かったんですが......

2007年10月25日 | 本・映画
007 カジノ・ロワイヤルをたまたまDVDで見た。
リメイクとはいえ、ボンドの1作目という話に、古い時代考証か?
と勘違いしながら、違和感を持ってみていたが、
「新ボンド1作目」という?ことらしく、
ええ、途中で理解しながら見ることができました。

はい、個人的に1番おもしろかったです。
相変わらずのテンポのよさが利いていて、はでな仕掛けとか、
最新鋭のメカとか飛び道具など、そういうのこそありません。
むしろ、綿密な駆け引きとか、絶妙な行動力とか、機転とか、
まぁ、スパイ物の「本領」といった感じで、
多分、無理な流れもあったんでしょうが、
結構な必然性を感じながら、堪能することができました。

一発でカタルシスが起きるような展開よりも、
じわじわと、その結果に至るプロセスを、むしろ無理なく魅せられる快感。
ずばっと大きな流れが展開し、
なんでなんで、という間もなく、事態はあっさりと展開。
その中にも、結構必然的なストーリーが含まれていてとか、
むしろ、みている方が、ボンドになった気がして、
客観的に鑑賞するというよりは、
同時進行できる見方ができました。

セリフも、こんなにボンドって台詞が多かったっけ?
という掛け合いのシーンでは、
インテリ的な人間観察力を見させていただきましたが、
そうだよね、でなければ、スパイなんか勤まらないよね。

すぱんと、結構重要な配役も、振り向いたら殺されてしまうし、
ああ、殺される時って、前口上なんて無いんだよね、って、
そういうもんだってよく理解できたし。

すいません、とても長々と打てる環境ではないので、
こういう内容で、今日はすいません。
でも見た方がいい映画だと思います。


新聞社は、自らの手で、崩壊していくのだろうか?

2007年10月24日 | 本・映画
河内孝氏の「新聞社」新潮新書刊を読ませていただきました。
最近は、いくつかの本を読みながらも、書評など、できる時間もなく、
1冊の本をだらだらと読んでいるような状態でした。

この本、新聞社という「ビジネス」が、とうに破綻しかかっていることを、
長く勤め上げた毎日新聞の実態を表しながら、
真剣に、生産的に書いております。

ネットに新聞は殺されるか、という話に行きがちですが、
著者は、それでも新聞社の「役割」を信じ、
その改革も含め、問題点を指摘し、
新聞社が、結果的に、その「事業の拡大」が、大手メディアの独占を生み、
結果的に「言論」の自由さえも封じ込めることになった。
そこに焦点をあてていきます。

実は日本ほど、その「ニュース」といわれるものを中心にした、
情報産業は、異常なほどの「寡占化」そして「グループ化」が激しい。
例えば、ビジネスが成り立っているのかわかりませんが、
新聞発行数第1位、中国(人の数が違いますから)でさえ、
8865万7千部の中で、発行紙数、1035紙。
日本は第2位とはいえ、7036万4千部で、発行紙数、107紙。
アメリカは、5462万6千部で、発行紙数、1,457紙。

宅配というビジネスモデルがある以上、それ以外のスタイルが、
なかなか通用しない日本では、
産経新聞が、かなり大胆な改革をしていますが、
それでも宅配業者の「壁」やら「歴史」に逆らえず、
本紙を「駅売」することは、結果的に関東、東京でしかできませんでした。

問題になっている再販制度を含め、
実は、そのまんま「構造改革」もできず、ただひたすら「利権」ともいうべき
旧来のスタイルを維持し、
「電波」を手中に収め、広告代理店と「曖昧」な関係を保持し、
実は、言いたいことも、やりたいことも、
その「多くのしがらみ」の中で、何もできずにいるのが
日本の新聞社であるという事実。

情報の「受け取り方」は、事実さえ間違えなければ、
それこそ非常に多様であるはずで、
その多様性を「皮膚感覚」であれ「実感」としてであれ、
理解し始めた人間が、特に、ネットを中心にシフトしていった事実。

「速報性」といった、その昔、新聞が得意にしていた分野も、
そんなもん「共同通信社」とか、せっかくそのタメに作った会社があるんだから
問題を深く掘り下げた、これこそジャーナリズムという紙面を
作ればいいのに、呪縛から解けずにいる。

また問題は、テレビを始めとし、あらゆるメディアの統合を、
結果的に推し進めてしまったのも、ある意味、この国にとっては、
不幸な事態だと思われます。
NHKが、政治の圧力を受けやすいという話も聞きますが、
どのテレビも、結果的に、親会社?の新聞社の「意向」と、
それに絡むスポンサーの意向から、完全にフリーになることはできません。

それは、多極化チャンネルなど、本来であるなら、
ラジオもFMも、テレビも、これだけのインフラが整備されながら、
ちっとも情報の多様化が進んでおりません。
何が、これを「阻害」しているのでしょうか?

もちろん、多様化とはいえ、「好きなもの」しか聞かない、見ない。
極端に言えば、そういう「層」が多くなってきて、
一方で、短絡的な、偏狭な意見をぶちあげる人間がいるのも事実です。
そういう意味でも、「総合紙」というのは、必要なのかもしれません。

ええ、実は、ネットが新聞を殺すかというのは、命題が誤りで、
新聞が新聞を自らの手で殺しているのか?
というのが、本当は正しそうな感じが致します。
色々な見地から、ちょっと多くの考えをいただけた本です。
実は、面白かったです。


週刊朝日を読んでみた。

2007年09月20日 | 本・映画
久しぶりに事務所におります。書かせていただきます。
にしても、今月は、きつさがピークだなぁ。
業務は、多分、順調なんだろうけど、
まったが効かないのは、支払日なんだよなぁ。

活字が「目に入らなくなる」という、相変わらずの精神状態な時、
週刊誌とかマンガに逃げ込みます。
で、週刊朝日。
もう、安倍さんが「落ちた」んで、狂喜乱舞。
「安倍逃亡」という文字を、週刊朝日という題字よりもでかく、赤く。
もう、総理大臣が、この時期において、
「いなくなってしまった」という事態。

はっきり言って、国内問題のみならず、対外的な問題が大きいのに、
組まれた特集でかかれる内容は、とにかく「ゴシップ」の嵐。
早野透、朝日新聞のコラムニストに至っては、
「岡崎久彦サン、櫻井よしこサン、みのもんたサン。安倍さんを囃した人たち、
 もう偉そうにしないでね」
いやー、子供の喧嘩状態。
囃した(はやした)人たち。だって、 すごいね。

一方、「政治とカネ」問題で、岩井教授と萩原経済ジャーナリストの対談。
これは、当たり前ですが参考になりました。
 「有権者と一緒に確定申告せよ!」
考えてみれば、当たり前のことですよね。

岩井「アメリカなんかは事実上そうなんです。普段は青色申告と一緒で
   政治家の活動費用は税務署が認める範囲に限られている。
   だから向こうの人間は、「何で日本は脱税で取り締まらないのか」
   って言うんですよ」

萩原「カネがないと政治ができないという状況があるから、人の目を
   くらましてもかき集めているわけですよね」
岩井「経団連が献金を再開する時に、財界の人たちは、バランスシートも
   見せずにカネがかかると言われても話が通らないと主張した」

萩原「特権の一つで「文書通信交通滞在費」ってありますね」
岩井「あれは 第2の給与 といわれるカネでね、年間1200万円も
   出るんです。杉村太蔵議員が喜んでいたカネです。」
  「ほかにも、年間300億円が税金から出ている政党助成金や、
   さらに立法事務費もある。
   議員にかけるカネとしては世界一です」

なるほど。これを見たら、政治家。2世、3世が多いの、納得できました。
父の代、それは、利害、利権など、地域に根ざした方々が多かった。
結果的に、政治家の力は、ものカネを地域に還流することがステイタス。

「地盤を引き継ぐ」という話が、今でも普通に言われているのは、
「政策を引き継ぐ」という話にならないことからも、「自明」。
2世、3世は、「ばんそうこう大臣」の覇気の無さをみても、
彼が、どういう風に、何を期待されていたか、
わかろうというもの。
そういう風にしか、見れない。

2重計上など、普通、「犯罪」です。

というか、この間、工学博士と世間話をJAXAの中でいたしましたが、
とにかく、政治家に、専門家がいない。
特に工学系、化学系など、理系の専門家がいない。
文系ばっかり、これでは技術立国など、言っているだけで、
話にもならない、と嘆いていました。
そういえば、IT革命、ITを、イットと呼んだ首相が過去にいたような。

つまり、カネの問題。
こういうど素人の政治家が、国家の予算やらカネの管理なんかできるのか、
もう無理だろうという話。
公務員改革とか言っているけど、
人件費を「圧縮」するのは、企業で言えば、
無能な連中が、最後にやる手段。
えへっつ。

最後に、神足裕司コラムニストが回答者だった、
「天下無双のよろず相談所」なんですが、本当に、神足さんが回答しているのか?

Q 「中国の食材が危険だと聞いて、家で作る料理しか信用できなくなりました。」
神足「ここだけの話ですが、もはやわれわれは中国製の商品なしには生活でき
   ません。
   でも、わずか30年前には日本製の食品もずいぶん怪しい添加物を使って
   いました。中国もそれくらいたてば、安全な食品を輸出できるのでは
   ないでしょうか。」

あっはっはっは。
日本が過去に「怪しい添加物」を使っていたのは知っています。
というより、どこの国も使っていました。
ただ、猫とか犬とか、人すら、それで死んでしまったこと、あったっけ?
ていうか、やってること、知らなかったとかいうレベルでなくて、
鉄板で「犯罪」でしょ、明確になった事実では。

しかも良く聞くと、工場も「騙されていた」と言っている。
偽のシールも出回っている。
明らかに、善意の取引を「騙して」、金儲けに走っている。
こういう背景と、過去の日本のいでたちを引き合いに出すなんて、
これ、本当に神足さんが書いた文章なんでしょうか?

それとも、彼独特の、その程度の「お国レベル」なんだから、
しょうがないよね、と、あえて突き放した、
言い方なんでしょうか?
まぁ、媒体が「朝日」なんで、書ける内容も慎重にしないといけませんから。


「今」の加害者を本当に更正させることができるのか?

2007年08月17日 | 本・映画
吸い込む空気が、ここまで体温と一緒であると、
不快を通り越して、言い知れぬ不安感が増してくる。
ビルの間を、影を求めて、縫うように歩いても、
日差しに曝されると、観念したかのように、最短距離を通っていこうと、
何も考えられなくなってくる。
こういう日に、スーツ姿で街を歩くのは、ちょっと危険だ。

「この国が忘れていた正義」中嶋博行著 という本を読んだ。
全くの不勉強で申し訳ないんだが、犯罪小説というのか、一度も読んだことが無い。
が、この著者の「視点」「切り口」。
正直、文章の読みやすさを含めて、衝撃的で、
個人的には、知人に、是非にとお奨めしたい本。

考えてみると、昨今、様々な「裁判」が、マスコミを通じて我々は
知るところになるのだが、
犯罪には、加害者と、被害者がいて、
この国では、特に、加害者の「更正」「教育」、
つまり加害者の「人権」を最大限に考慮する、ということが「強く」理解できる。

ところが、である。
この本によれば、罪が確定して、刑務所でお勤めするが、
なんと、再犯率は、ことによっては6割を超えるという。
毎年、犯罪者の「更正」を目的に、様々な、至れり尽くせりの環境で、
毎年使う予算は、なんと2200億円だ。

この本はいう、人権という概念。
これは、国家権力など、時として、横暴になる「力」に対して、
あのフランス革命の時に「考案」された概念で、
あくまでも、一般人同志で起こる、加害者と被害者の間には、
守るべきなのは、被害者の「人権」であって、
加害者のそれではないだろうと、という感じ。

アメリカなどは、当初は、「治療型」の犯罪者の更正を目指していたが、
結果的に、「更正プログラム」が、多大な金額をかけたのにもかかわらず、
機能せず、「正義モデル」が導入される。
痛ましくも、残酷な、再犯者が起こす事件が連発したからだ。

当然、最悪の犯罪者には、究極の「排除」である死刑というシステムがあるが、
日本で、昨今言われている、人権がらみのおためごかしとは異なり、
海外では、
仮に死刑を廃止した場合において、
国がとれる、被害者への救済処置。
加害者の絶対的な無力化を、同時に行っている。

日本ではどうか。
実は、何にもなされていない。

さらに刑務所では、空調が効いた部屋で、
懲役刑にもかかわらず、週の労働時間が40時間がきっちり守られ、
残業は一切無く、
あまつさえ、最近では、近くのコンビニを利用できるとか、
許可さえ下りれば、家族以外の友人知人とも面談が可能とか、
その、被害者とのバランスを考えると、
まさに日本は、「犯罪者パラダイス」である。

さらに、刑事事件と民事事件。
ご存知のように、刑事事件は、国が、どんどんやってくれるが、
受けた被害を「原状回復」させるために、
被害者がとらなければならないのは、民事裁判で、
これは、当たり前だが、全部、確定するまで「自費」。

そして、仮に判決が出たとしても、出たとしても、
加害者に、支払い能力が無ければ、
実は、「一銭もとれないことは珍しいことではない」

これほど、被害者にとって地獄のような、泣き寝入りのような、
犯罪者にとって、天国のような国は、どこを歩いても見つからないであろう。

作者は、死刑の廃止とか云々ではなく、
被害者にとって、最大の「支援」をしていきたいと、全編を通して訴える。
死者にたいして、当たり前だが「原状回復」などは無理にしても、
この社会では、それを金銭に置き換えて、償わさせるという手段がある。

つまり、本当に、懲役刑をやるんであれば、
民間に、がっちりやらせて、その確定した金額を「返済」するまで、
働かさせるというのが、「最低限」の償いとして有効ではないかと。

以前新聞配達員として、幼女を略取、殺害した小林薫は、
何度も繰り返している「再犯者」であった。
あのマイケルムーア監督が描いた、ボーリングコロンバンという映画で、
住を乱射する若者も、実は、再犯者であった。

いずれも、「更正プログラム」が、全く、機能していなかったことに、
我々は、もう少し、しっかりと、国に対して、意見を求めたほうがいいのではないか?
例えば、イギリスでは、何百万台というカメラが町中に張り巡らされている。
1日に3回以上、撮影されている計算になるらしい。

国家安全というと、いきなり、別の意味で噛み付く連中もいるようだが、
その為に、納税もし、住みやすい環境を望むのは当たり前で、
死刑廃止だとか、加害者の人権だとか、
本当に、犯罪者が「更正」できているのか、できるのか、
どういう無害化ができるのか、できないのか、
議論は、まさに、そっちから手をつけるべきであろう。

いじめの問題でも、いじめる側を「排除」することは、
教育で行うべきことではないと、
日本は、何かにつけて、なんというか、「大岡裁き」が好きだよね。
もう、やられた側にも、何らかの問題があるんじゃないかという「過失」主義を、
いい加減考え直さないと、
理解しづらい事件が連発している中で、
我々一般人が、「無気力」になってしまいそうだ。

いつもながら、端折ってしまいましたが、
是非、この作者の考えを、読んでみてください。


パイレーツオブカリビアン3。感想文。

2007年07月02日 | 本・映画
パイレーツオブカリビアン ワールドエンドを
映画の日に見ました。
近代が進む中で、旧世代の海賊達と、海を新たな秩序で制圧しようとする
東インド貿易会社。
大きな枠組みは、多分、そういう話し。

このイメージでしか物事を理解できない自分としては、
きっちり拝見したんですが、
もう一度、見ないとだめかもしれない。
約3時間にも及ぶ長時間ながら、内容は、意外にもてんこ盛りでした。

これから、ネタばれの話をいたしますので、
万が一の場合は、お許し下さい。

海賊の族長達が、一堂に集まり、海賊達を殲滅しようとする東インド貿易会社に、
どう対応するか。
なんて、大仰なんですが、
豪快な海上戦は、見られません。
あくまでも、スパローとタナーとエリザベスとデイビイジョーンズの戦い。

ええ、とにかく、海のことですから、
全員、毎度、ずぶ濡れシーンの連続です。
よくもまぁ、凝った服装をされているなぁ、あれじゃ、動くの大変だろうに
そう思っているんですが、
本当に、ハリウッドですか、娯楽作品。
凄いパワーでつくるよな、と毎度感心させられます。

作品を、どのように見るか、鑑賞するか、考えるか。
もう、こういう一連の作品は、度外視していいんじゃないでしょうか?
この今日、こういう「訳もわからない」、度外れた作品なんて、
そうそう見れるもんではありません。
リング3部作もそうですが、評論家の皆様、様々に言われるとは思いますが、
もう、ありがたい限りです。出会えて。

私が、生涯初めて見た映画が、「ギララ」という怪獣映画だとお話すれば
もう、私の感性なり力量のご判断がつくと思うので、
勝手に言わせていただければ、
多分、出るだろう3部作のセットDVD。買うだろうな。きっと。
Xファイル。全巻所有している私にとって、
当然の話です。

さて、内容のことなんですが、
エンディングのシーンで「泣ける」という話がありますが、
ええ、泣けません。
というより、デイビージョーンズから、成り代わったターナー。

なんで?
この「呪い」は、1代限りの話しでないの?
どうして、引き継がれるの?
で、ジョーンズの呪いから解放された、「刑期」が残っている兵隊さん。
船の一部となって、その呪われた船、いくら傷ついても、
彼らによってこそ、修復されてきたんだろうなと、
勝手に思っていましたが、
皆、変な、海洋生物に模した、怪獣でしたが、
全員、人間に戻っていますが、
どうして、そのまんまで、海中生活ができるのか、
そればっかり、気になって気になって、
気づいたら、エンディングでした。

カリプソという海の化身?といわれる「女神」。
これも、エリザベスに引き継がれるの?
10年に1度、会うのをすっぽかしたら、
ターナーも、イカかタコのお化けになってしまうのかしら?

もう、この最後のところだけが、気になって気になって、
ファンタジーだから、何でもOKという人間なんですが、
ここだけ、できれば、もう少し、必然性のある、伏線をはって欲しかった。
確かに、ありましたが、よわーーーーい、と思うんです。

まぁ、アステカの呪いの金貨は、じゃぁどうなんだ、と言われれば、
もう、何でもありで結構なんですが、
ずーーと、海の死者を「葬る」使命があって、
実は、今も、ターナーが根気良くやっているんだとか、
そういうんだったら、
そういうファンタジー、好きです。
そうしたら、多分、そこで、ぼろぼろ泣いていたと思います。
私的には。

そういうことでないと、デイビージョーンズの、
あらゆる苦悩と、純化された「想う」心。
軽くなってしまう。
単なる、お化けになってしまう。

ええ、つまんないことなんですが、そこだけです。
でも、2度目、見るときは、もう、多分、気にしてません。
いいんです、心の準備が出来ていますから。
こんな感想で、すいません。


慰安婦という問題。力不足ですが。

2007年06月30日 | 本・映画
米下院外交委員会で決議された、従軍慰安婦の問題。
正直、自分が考えを述べる、何かができる、という次元を超えたレベルにあるが、
一応、色々な考えを参考にするのは必然と、
「慰安婦」問題とは何だったのか 
中央公論新社から出版された本を読んでみた。

著者は、大沼保昭氏 
「アジア女性基金」の創設から、この問題に関わった方。
アジア女性基金は、7年3月にその使命を終えたが、
10年以上の歳月を通して、何をされたか、どうお考えになったか、
非常に興味をもっていた。

個人的には、このような「戦後処理」の問題について、
戦時の状況を、現在の尺度ではかる考え方には、組しない。
だから、戦争を憎む。戦争に反対する。
そういう発言をされている方々が、
往々にして、「この侵略戦争」と言う言い方をされるが、
当時の世界状況は、全てが、今で言う、何の「道理」も見出せない、
戦略戦争であったのは事実。

よって、侵略戦争だからこそ、我々が悪いことをした、だから謝罪しなければ
ならない。
そういう文脈は、失礼ながら、基本的には使用したくない。

何事も結果として、負ける戦争をおこし、ひいては、国民のみならず、
様々な方々を、悲惨で残酷な「戦乱に」巻き込み、
多くの「被害者」を出してしまった。
この事実こそ、冷静に断罪しないといけない、と思う。

(だからと言って、勝つ戦争だったらいいのか という話も良く聞くが、
 ここでは、戦争の是非論を話しているのではない。
 個人的に、戦争ほど最低な外交はないと、考えている。)  

世界的にも、第一次世界大戦の反省から、
様々な「敗戦国」に対する処理が考えられ、
いずれにしても、公平さなんて、もともと戦争に厳然たるルールなどないわけで
勝者がいかに裁くかに掛かってくるわけで、
それでも、2度と「立ち向かわせないように」
さりとて「恨みを買わないように」
そして「もうこんな戦争は不毛だから平和を希求するために」

そういうわけで、国家賠償のルールをつくってきたと理解している。
よって、サンフランシスコ条約なども、
冷静に、生産的な将来を築くために、「大人の解決」を
講じたんだとも、理解している。

さて、そこで、突然沸き起こった「従軍慰安婦」問題。
朝日新聞が火付け役だったことは、紛れもない事実だったんだが、
これまた個人的に思うんだが、
あの戦時中に、国家機関として、兵士のための「性処理施設」を
きっちりと「運営」したのは、日本だけだったんじゃないかなと。

当たり前だが、戦時下、古来より、どこでも野蛮な事実を散見できるし、
現在でも、当時の「爪あと」は、見受けられる。
あのスターリンでさえも、
あれほどモンゴロイドを憎んだのは、それが原因だという話さえある。

もちろん、そういう施設を管理すれば、
当然だが、それを目指して、どういう悲惨な「商売」成立してくるか、
それによって、訳も分からず幼いうちから、
人生を翻弄された女性が、痛ましい過去を背負うことになったか。

必然として、「増長」させてしまったのは、紛れもない事実であっただろう。
だからといって、戦火の中で、奔放に規律もなく、
無残な事実を野放しに出来るわけでもなく、
これこそ、現在の尺度で、計る事が出来ない、難しさがある。

この著者は、アジア女性基金創設から、非常に苦労を重ね、
もちろん、その戦後処理という、大変難しい内容に立ち向かわれてきた。
いわゆる「大枠」で講じられた「国家賠償」の取り決め。
被害を受けた個人レベルを、到底、救済できる訳ではないからだ。

個人を救済するために、医療補償として、考えながらも交渉するも、
韓国では、「反日ナショナリズム」の中で、
それを「受け取ることは、この先さらに求める、国家賠償請求にマイナスに
なることだ」と、もう、暴論に近いんだが、
補償を受け取る奴は、「裏切り者だ」。
韓国自身が遺族、被害者に送る、補償を打ち切ったり、
もう、かえって、大変な騒ぎをおこす当事者になってしまったりした。

ところが、同じ被害国として、この組織が認定した国。オランダ。
インドネシアを植民地にしていた関係で、
オランダ人も、「慰安婦」として、被害にあっていた。
同じく、個人レベルの被害者への救済として、国家間賠償が終了したといえども
根深い個人賠償の火種がくすぶっていた。

ところが、
 「オランダでの償いは、おおむね被害者から評価され、深い満足感をもって
  受け入れられた。」
オランダ政府も、支援団体も、非常に協力的で、
もちろん、アジア女性基金のスタッフの、心からの償いの労を、
どうあれ、深い感謝で受け入れ、どうあれ、許す。
そういう「交流」ができた。

実は、ここで、この本の意義を見てしまって、この先、どうしようか、
考えてしまった。
もちろん、中国は戦火になり、朝鮮半島では、日本人として、戦火に駆り出され、
オランダと内容が違うといえば、かなり違う。

ところが、様々な国家賠償を取り決め、履行し、国家間で条約も締結し、
さらに、資金も、援助も行い、謝罪についても繰り返し行う中で、
なぜか、ある2カ国だけが、この「負の連鎖」を超えられない。
生産的に、将来を見据えた、相互の「交流」ができない。

我々でも、仮に、謝罪し、償いをすることに関しては、
できる範囲ですることはやぶさかではない。
そして、完全とはいえないかもしれないが、「感謝と満足」を表明していただければ
思ってはいけないかもしれないが、こちらも深い「癒し」が得られる。
そして、多分、深い信頼が築かれ、2度と間違いは犯さない、
そういう「更生」の場を与えてくれる。

のに、どうもあの2カ国。
とことん、食らいついてくる感じなのだ。
どんな冷静な表現を考えても、もはや「いじめ」にも似た感覚を覚える。
絶対にこの負の連鎖を断ち切ろうと、思っても見ない方々。
そういう絶望感すら感じる時点で、
この先、どういう生産的な「処理」ができるといえるのだろうか?

そう思った時点で、この慰安婦問題。
もう、どんな手を尽くしてもこの2カ国と交流が出来ない。
こちらも「更生」できえない。
乞う考えたら、まるで不毛な問題に思えて、
この本ですら、もう、読もうという気力がなくなってきてしまったのだ。


ビジュアルで読む、細胞の話

2007年06月19日 | 本・映画
「新・細胞を読む―「超」顕微鏡で見る生命の姿」
講談社ブルーバクス。

正直、多くの本を購入できない事情から、以前、購入していた本を、
ひっくり返しては、読んでいる最中なんだが、
この本、一家に一冊!
お勧めの本でございます。

確かに、ハッブル望遠鏡で撮影した、宇宙の深遠を探る「写真」とか
そういうものは、必ず、揃えてしまう「口」なので、
この手の本が、必ずしも、必読の本であると言う表現は、
間違っているかもしれない。
ええ、個人的に、好きなだけです。

我々を構成する細胞は、約60兆個ともいわれておりますが、
以前にも書いたとおり、もともとは、1個の細胞が分裂してできたもの。
もう、この辺から、このボディーというものは、
ファンタジーすぎて、ついていけません。

細胞一つとってみても、顕微鏡で撮った写真やら、イラストは、
学生の頃からお馴染みではありますが、
ミトコンドリアまではOKとしても、リソソームとか、ゴルジ小体とか、
ATP回路とか、もう、突然「牙を向けられると」、
僕は、暗記物苦手だから.....。
という挫折を味わうことになります。

しかし、この本では、「写真」、しかもカラー。
きれいなイラストまでついていて、まるで、「ニュートン」という雑誌を、
見ているようです。
もう、特別な知識なしでも、充分、わが肉体の深遠を、
かなり、理解できること請け合いです。

ミトコンドリアにしても、植物で言う、「葉緑体」みたいなもので、
こいつがいないと、こいつがいないと、
我々どころか、細胞自身、生きていけません。

なぜ、こんなものを「装備」できたのか、これこそ、生物の発生の「謎」の
原点でもあるんですが、
この本では、丁寧に解説も加えています。
今では、ほとんどの設計図を人間側というか、主体の細胞に「強奪」され、
エネルギー生産のみに特化され、まさに奴隷状態。

とはいえ、ミトコンドリア。
酸素と栄養、結局、人間が食べ物を食し、酸素を吸入するこの営みは、
このミトコンドリアに、頑張ってもらうためのもので、
ええ、ほとんどそれに集約されてしまうという事実。
ええ、ミトコンドリのために、我々は、息をして、腹を空かしているのです。
そう考えると、しばし呆然でした。

ただ、このミトコンドリアは、「母系遺伝」で、父親の設計図はゼロ。
そのため、意外にも、一旦コピーが劣化してしまうと、
そのまま、それが遺伝してしまうため、
思わぬ「遺伝病」の原因が明らかになっています。
本では、見るも無残な状態の写真が掲載されていて、
さらに、このミトコンドリアが不全で、死産の子供もいると言う話。

たまには、人間と言う、思索をする生き物という、難しい話はおいて置いて、
自分を構成する、一からの話に耳を傾けてみるのも一興です。
これを読むと、納豆で痩せられるとか、ありがとうと「声をかけると」
水の結晶がきれいになるとかの、不思議話に「耐性」がつくこと請け合いです。

現在も読み進めております。
よろしかったらどうぞ。


内閣の仕組みがよくわかりました。

2007年05月24日 | 本・映画
「構造改革の真実 竹中平蔵大臣日誌」

本当は、亡くなった橋本さんが作り上げようとしたシステム。
内閣を強化して、政策を強力に推進する。
財政諮問会議もそうなんだが、
単なる「御用聞き」そして、省庁の「代弁者」に堕してしまった政治家。
橋本さんは、どのような結果があるにせよ、
政策を講じてこその内閣を目指されたんであろう。

というのは、この本を読んで、小泉さんがどうのこうの、
構造改革がどうより、
今までと異なって、どのように、政策が論議され、法案化されていったか、
よくわかります。

我々が目にした政治といいますか、国会は、
起きた問題に関して、与野党入り混じっての「つるし上げ」大会。
なぜ、それが起こってしまうのか、なんて検証し、
建設的な法案を目指すのではなく、
ひたすら、「説明」しろ。
「説明になっていない」
のオンパレード。

どういうわけか、その最中に、予算も、大事な法案も可決されてしまう。
まぁ、予算委員会のみ、バラエティーに富んだ質問をしていいコーナーなんで、
そう見えてしまうのかもしれませんが。

とにかく、政治家を指して、「彼はOO族だから」という言われ方をされますが、
それは決まって、政策通という話ではなく、
その省庁の「利害関係者」であり、陳情団の「団長」。
いかにその省庁のテリトリーを拡大させるかを腐心する感じ。

よって、大臣なんて、所詮、飾り物で、
週刊誌などには、省庁が気に食わないと、ワンマン大臣と呼び、
省庁の利害を代弁する者には、「良く解かっている方」なんて感じで、
関係のバランスが描かれたりする。

ところがあの内閣では、様相が異なる。
大臣が一堂に集まって、ベースになる方針をめぐって、
まずは、省庁のピーアールをする。

当然、省庁の事務方のペーパーを読むだけの人間もいたらしいが、
かなりやり込められたらしい。
この日本において、政策と言うものが、総合的に、大臣と言われる方々が、
議論を通して関わっていくと言う、この光景。
初めてだったんじゃないだろうか。
ある大臣は、「こんなに議論したの始めて」
と時間も内容に関しても驚いていたという記述もある。

年功序列で、特段、勉強もしてこなさそうな政治家が、
次こそ、俺が大臣だなんて、今までは、「名誉職」みたいな感じだったが、
あの時は、かなり大変だったんではなかろうか。

もちろん、リーダーは、あの小泉さんだ。
海外では、当時の混乱した日本において、
「何を先にやるか」という順番を明確にし、実行した人間として
評価が今でも高いと言われている。

で、とにかく、自分もそうなんだが、
彼がやったこと、やろうとしたこと、疑問も異論もあるのだが、
ある意味、「後に検証」できる政策を講じた、
初めての内閣ではなかったか。

とにかく今までは、あれが悪いといわれれば、
その為の方策を講じ、あれがまだまだと言われれば、
それだけを治しにかかる。

そうではなくて、予算にしても、数値目標を取り入れたり、
政策にしても、数値目標の上、年次計画を発表したり、
とかく、省庁が、一番嫌がることをやったのは事実。

主従関係というのか、なんだか初めて、省庁の足かせを排除した内閣。
そういうものが、この本によって理解できる。
もちろん、凄まじい「抵抗」「妨害」「姦計」などあったようだし、
後にどのような評価がされるのかわからないが、
竹中さんの奮闘振りが、非常によくわかり、

さらには、今までの、内閣の運営って、
大臣の仕事って、
どうやってたの?何やってたの?

こういう風にできたのも、あの橋本さんが仕掛けたシステムあってのこと。
悔しがってんじゃないかなぁ、
橋本さんは。


久々に、うっかり、涙腺がゆるんでしまいました映像。

2007年05月23日 | 本・映画
いつも「小太郎ぶろぐ」、お世話になっております。

動物の映像をこよなく愛している自分として、
読みもしない「ナショナルジオグラフィック」。
これ、動物だけではありませんが、全部購入いたしておりますが、
どうでもいいですね、
今回の、
「待ち受けるライオンに気づかないバッファロー」



8分ほどの映像です。

Battle at Kruger


集団で移動をしているバッファロー。
先頭を歩く、これはリーダー的な個体なんだろうが、
先方に待ち構えるライオンに向かって、一本道を進む。

いやーん、まるで、今の自分みたい。

そんな感想をもちながら、いやーな気持ちで見ていました。
あとは、見てください。
久々に、うっかり、涙腺がゆるんでしまいました。

多分、見た方も多いかと思いますが、
どうぞ。


かくいう私も、マスコミ報道を鉄板で信じていました。

2007年05月12日 | 本・映画
本が少しでも読めるようになったことは、前進かもしれない。
「官僚とメディア」 魚住昭著 

最初、お勤めになられた共同通信社と私、みたいな回想録かと思いましたが、
中盤から、後半にかけて、いやいや、ちゃんとした構成になっていたんですね、
御見それいたしました。
何の気なしに手にした本ですが、ラッキーでした。

個人的に、関心があった「耐震偽装建築」のこと、
思いがけずも書いてありましたが、
えっつ?
結局、こういうことだったんだと、
ちょっと読んで見て、ショックでした。

というのは、あの「事件」。
さんざん、マスコミだ、ブロガーだ、政治家だ、専門家だ、司法だと、
多くの人間を巻き込みながら、
結局、印象に残ったのは、ヒューザーの小嶋社長と、イーホームズの藤田氏。
そして、堂々巡りする行政と、被害にあった消費者。

ところが、この本を読むと、なんのことはない、
姉歯一人でやったことで、
あの「事件」に登場した誰もが、誰一人として、この事件に「加担」していなかった。
これが、裁判の過程で、明確になっていったのだ。

おいおいおい。
どういうことなんだよ。これ。

著者は、その過程なりを調査した上で、こういう推論を下す。
  国交省は必要以上に偽装物件の危険さを強調し、偽装を見逃したイーホームズ
  やゼネコン、デベロッパーらを悪役に仕立てることで自らの責任を逃れようと
  したのではないかと思わざるを得ない。

あの国会で、一躍有名になった民主党の議員さんも然り。
さらに煽るだけ煽って、悪役を仕立て上げたマスコミもしかり、
誰もが、無能と呼ばわった、官僚なり行政の連中の「操作」に、
まんまと「踊らされて」しまったわけである。

情けない。

  今回の事件は、勉強不足のあほな建築士がきちんと検討されている合理的な
  設計の結果を真似しただけです。
  なぜそうなるのかの技術的な裏づけをせずに形だけ真似した(所謂偽造ですが)
  だけのことです。

笑ってしまうのは、例の、偽装の元になった、「計算プログラム」。
これって、大臣認定ソフトだけでもなんと106種類。
なんでこんなにあるんだ?
ということで、
こっちでやると、0.4。こっちでやると、0.9。
という風に、すでに行政側が、退去命令を撤回した物件もある。

  事件があらわにしたのは、建物の安全を支えるはずの建築確認システムが
  完全に形骸化し、機能しなくなっていたということだった。
  国交省の官僚達はおそらくそのことに薄々気づきながら、何の手も打たずに
  放置してきたのだろう。

  この事件で問われるべきは国交省の官僚たちの責任だった。

  それを問う声はあまりに細かく、官僚達はほとんど無傷のまま生き残った。
  その代わりに生贄として差し出されたのが小嶋であり、木村、篠塚であり、
  藤田たちだったというわけだ。

国交省の官僚達は、その五ヶ月間、どういう風に逃げ回っていったか。
その情報の大半は国交省を発信源としている。
国交省の「担当記者」たちは、それと気づかぬまま、
官僚達の生き残り戦略に「加担」させられたのだ。

記者クラブで、もう、客観報道と言う大名分をかかげ、
その情報の大部分を、もちろん、タダで、もらいうけながら、
5W1Hという、その定形的なスタイルに則って、
検証もせず、1人称で語ることもせず、
ひたすら、何かに「加担」させられていく、マスコミ。

どうやら、本当に、新聞、テレビなどは、この先、慎重に考えていかないと、
思いも寄らないことを、見せられるに違いない。
やばいなぁ。
この本を読むまで、小嶋社長のこと、本当に、意図的にやったと、
思っていました。やっていなかったんですね。はぁ~。
被害者だったようです。はぁ~。

他にも、色々な事件を、丹念に調べた記録が残っております。
いい、時事研究になります。


そういえば、日本という国しか選択肢がないよなぁ。

2007年05月08日 | 本・映画
「リバタリアン宣言」という本を読みました。

非常に読みやすく、すでにリバタリアンの本をいくつか読んでおりましたが、
妙に挑戦的なところも、皮肉めいたところも無くて、
多分、どんな方にもお奨めできる本ではないでしょうか。

あいにく、明晰な頭脳を持ち合わせていないので、
解説なんておこがましいのですが、
福祉的な政策を、強力に推し進めると、
当然ながら、政府が肥大化するのは間違いないことで、
「再配分」を通してこそ、いわゆる平等化が図れない。

そういえば、憲法に保障されている「自由」。
ある番組で、この文言が話題になっていましたが、
これは、行政に対して、政府という「権力構造」に対して、
保障されている「自由」である。

やみくもに、自由、自由という、その言葉。
憲法で理解されているのは、行政に対しての自由であるのだと。

ところが、平等、福祉、弱者救済、平和を希求する方々が、
その理念は、自分にも理解できますが、
一方では、なんらかの自由を、基本にして叫ぶ一方、
その各人の自由を、どうしても制約しかねない政府、行政の役割を、
非常に期待している。

この本でも紹介されていますが、
例の耐震偽装問題にしても、また、教科書の問題にしても、
さらに、例のジェットコースターの問題にしても、
監督官庁の監督力、並びに、法整備に関するまで、
国に対する、いわゆる「不法行為」
そして、公正性を保持するようにと、声をあげています。

あくまでも、そう感じてしまう、ということで書くならば、
あまりにも最近、個人の自由を、最大限、主張しながら、
一方で、何かあった場合、国がなんとかしてくれなければ困る。
そういう風潮が加速しているように思われます。

その思想的ない立ち位置は、リベラルでもリバタリアンでも、
どちらでもない、いってみれば、子供の駄々にも通ずるものが見受けられます。

例えば、国として、教育の問題に絡むと、
結果的に文化、教育など、そもそも論として、日本の「税収」期待に繋がるわけで
将来的な見地からして、頑張る道理があるようですが、
学力テスト、そして、バウチャー制もしかり、
突然、子供の人権の侵害に繋がる、とか、学校経営のシステムの崩壊につながり、
結局は、弱者にしわ寄せがくるであろうという観測。

さらに、再配分を、強力に推し進めると、
あれやこれやで、独立行政法人やら公益法人など、その数、3987法人。
補助金交付額は、5兆5395億円。

もちろん、数も多い、国土交通省など、車検とか、そういう
いわゆる「公的業務」に携わる業務。
これまた、我々が、結果的に造り上げて、望んできた「方策」でしょう。
これもまた、再配分の結果ということにもなります。

特に英語圏の方々は、英語という、非常に強力なツールを持っています。
要するに、その言語が通用する「国」が、いくつも用意されているために、
自分の考えに合った国と、「契約」することが可能。

ところが日本では、よほど腹を括らないと、
もう、選択肢が、この国にしかない。
そういう意味で、大きな「キャピタルフライト」が起こりにくい。
そのため、案外、日本風、社会主義的な政策を維持できてきた、
とも言われています。

作者は、いわゆる無政府主義という考えでは無く、
選択肢が豊富な、契約的な社会を念頭に、国というか、政府という権力構造の
不必要性を、簡単に言うと、描いておりますが、

以前、ある方が、新聞配達を生業にする若者に、
「もっと向上心を持て」という話し、随分、「祭り」になったようですが、
各人が、自己責任において、それを明確に意識しながら、
自分にフィットした「社会と契約」するということ、

ナショナリズムを超える、効果的な方策とされていますが、
今の日本の現状をみると、
とても、そういうことを、各個人が認識できるとは、思えない。
すでに、どこかしら、日本という国に、寄りかかっている自分がいるわけで、
この「感覚」は、多分、変えることって、かなり無理。

考えると、ますます、煮え煮えになってしまいますが、
リバタリアンの主旨は、良く理解もできます。
一方で、リベラルという、平和的な平等社会も、
変に、結果平等にしてしまおう社会に行き着くと、それも変だ。
という中で、色々、勉強しようと思っております。


新聞の終焉を計れる、本。

2007年03月19日 | 本・映画
中公新書ラクレがよくやる企画。
「社説対決・五番勝負」
ネット上では、各新聞の社説を併記して、論評するのが定番だ。
だって、面白いんだもの。

もちろん、昨今の、日本を巡る論点において、
特に朝日新聞と産経新聞。
大概、両極にあるので、様々に取り上げられているが、
産経新聞は、発行部数が少ない。
その分、折り込み広告が入らない。
そういう訳で、定期購読に、どうしてもつながらない。

この間、朝日新聞が、中面で、新聞5社の社説を集め、
さらに論説委員の許諾を受け、論点を絞って、対比させる紙面を作っていた。
最近の朝日新聞は、ナイーブな戦略を、よくとる。
必ず、意見が異なる人間を登場させ、
一方的ではない、という紙面づくりを心がけている。
が、レイアウトが、偏っていたりして、本意をすぐに読み取れるところが可愛い。

唯我独尊的に頑張っているのは、これに漏れてしまう東京新聞。
色々なところで、祭られていて、面白い。
毎日新聞も、本当に、部数の点では、影響力が悲しい。

この手の本は、昔まで、一方的に朝日新聞を叩く、調子のものが多かった。
が、この中央公論。
読売新聞の傘下に入っているので、立ち位置を理解していないと、
ちょっと読み解けない。

ええ、案外、読売新聞に「好意的」な感じは否めません。
が、総じて、朝日なるものに懐疑的。

その五番勝負で、「教育再生」を担当した諏訪哲二氏。
これは、読めました。
学術的な観点から、どうしても、他国には甘く、自国には厳しい、
朝日のダブルスタンダードぶりを、ちゃんと解説し、
さらに、各新聞にも論評を加える姿勢は、よかった。

特に目を引いたのが、「ジェンダーフリー」を担当した桜井裕子氏。
「男女共同参画」に関して、理念を超えて、
ある種の激烈な「権利闘争」として、各個人が本来もっている自由な生き方を、
否定するきらいがあることを、きちんと述べている。

旧世代の政治家も、免罪符的に、検証もすることなく、
女性の管理職の比率を金科玉条にして、
建築関係の入札でも、それを理由に、排除されているなど、
年間、数兆円規模といわれる、これに費やされる予算に、疑問を投げかけている。

特に、性差を否定する、よく聞かれる、早い段階から「性」について
授業で学ばせ、結果的に性を煽る現象が、他国に比べ性病への罹患率、
中絶の増加など、混乱と「旧世代のモラル」らしいが、崩壊につながることを、
論理的に解説されていた。

結局、こう、通して読んでみると、新聞の特に社説。
現状追認、そして、やおら転換。
自説拘泥。学術的ではない、など、いやいや、破綻しまくっているんですが。
どうやら、テレビと歩調を同じにしているのからか、
大衆を舐めきっているのか、
反省も、検証もない、言い放し状態であることが、よく理解できる。

それだけ、情報が、任意に取り出せる時代になってきたということで、
そろそろ、本格的に、新聞の「役目」が終焉に近づいてきたんだなぁ、
そういうことがとってもよく理解できる本、でした。


学ばない子どもたち、働かない若者たち ①

2007年03月05日 | 本・映画
あいかわらず衝動で購入してしまった、「ラゾーナで駐車料金を
チャラにするために」、第2弾。
(3000円買い物をすると、2時間半無料になります)

「下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち 」 内田樹著

この方がどういう人なのか、わかりません。
しかも、全部読んでおりません。
が、第1章を読ませていただいて、正直、彼の「視点」に驚きました。
個人的に、もっともアンダーラインを引いてしまった本になりそうです。

彼はこのように「語り」始めます。
 「先生、これは何の役に立つんですか?」
 (小学校低学年の)子供達がそう訊いてくるわけです。
 そのような問いに対して、教師は答えることができない。できるはずがない。
 そんな問いが子供の側から出てくるはずがない、ということが 
 教育制度の前提だからです。

そして、「オレ様化する子どもたち」の本を引用し、つなげます。
 「学校が 近代を教えようとして 生活主体や 労働主体としての
  自立の意味を説く前に、すでに子どもたちは立派な 消費主体としての
  自己を確立している」

勝手に要約してしまいますと、
消費主体とは、つまり、お金を通すことで、全てが「等価交換」できてしまう、
そこには自分にとって、役に立つか、興味がわくか、
「オレ的に見て」有用性が確認できなければ、あっさり棄却してよい。

そういう「立場」を、あっさり獲得してしまっているという事実。
例え、それを判断する知識も経験も技量すらも未熟であっても、
彼がそう判断してしまえば、それで済んでしまうという事実。

「何のために勉強するのか?この知識は何の役に立つのか?」
 という問いを、教育者もメディアも、批評性のある問いだと思い込んでいます」
「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は、ことの有用無用について
 その人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています」

 この個人的な判定の正しさには実は「連帯保証人」がいるのです。
 「未来の私」です。
 「私」に自己決定権があるのは、自己決定した結果どのような不利なことが
 わが身にふりかかっても、その責任は自己責任として、自分が引き受けると
 「私」が宣言しているのです。

著者は、自分探しというキーワードにも言及しますが、
むしろ、私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにある、
と述べ、
ある程度、物が解って来た時点で、
笑える話ですが、自分が他人から、同じように「判定」された際に、
こういう方々は、実は、「不満」を持つ。

ええ、消費主体である彼らは、同時に、同じように他者によって、
しっぺ返しをくらうわけです。
当たり前ですが、訪れる「自己決定、自己責任」など、
取ろうともしない、できない、リセットする。
恐ろしい、無責任な連中が、出現してくる。

問題なのは、まさに勉強する、学んでいく、という作業が、
その時点で、享受できる利益を、即座に確認できる程度の「生易しい」
そういう作業ではないということを、
実は、教えている側の人間ですら「わからない」にも関わらず、
誰も、しっかりと、明確にしていない。

「それがわかるには、100年早いわ!」
という昔ながらの言い切りがありましたが、
消費主体として、何もかもを、はっきり言って、何の作業も、働きかけをも
することなく、存在できるという、
近代にして、初めて、経験する社会が出現しているという事実です。

デジタル的だとか、距離感がとれない若者達とか、
理解できない世相を、様々なメディアが特集しておりますが、
今時の「若い親」までも、
自分にとって「意味」のないものに、対価を払うことなど、無意味だと、
給食費の未払い問題など、多分、そういう「考え方」が、「あり方」が、

圧倒的に、この国に「蔓延」している。

これを、著者は、「学びからの逃走」という表題を与えております。
書くにはまだ早い段階なのですが、
最後まで、読み通すのが、非常に楽しみです。
また、感化されやがって、という声も、ございましょうが、
個人的に、この数年、もっとも「すとん」と、入ってくる内容でした。

まだ未消化なので、お許し下さい。