まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

突然、ふと思ったこと

2008年06月18日 | 雑感(日記)
唐突に戻ってまいりましたが、世の中に復帰できるのか、どうか、
かなり微妙な状況であることは、依然、変わりありません。
言ってみれば、かなり、大変。

久しぶりに、若い連中を「管理」する仕事をしているが、
(管理なんておこがましいけど)
昔に比べると、自分のことだが、
結構、余裕を保ちながら、やっていけているのが笑える。
年をとった証拠かもしれない。

その分、相手がどのように思っているのか、こればかりは、感覚でしかないが、
たぶん、大丈夫そうだ。

最近、メディアそのほかで、社会性の欠如、というお題目が盛んだが、
こういうくくりは、非常に捉えどころがなくて、議論が抽象がかってしまう。
若者の、理解できない行動なり、犯す犯罪など、
どのように議論を尽くそうとも、
それを一般化できるものもあれば、できないものもあるんだということ。

それを、様々な識者なり、事例を並べきって、
議論を尽くそうとしたり、
彼、彼女なりの「言動」を、愚にもつかないものを、
並べ立てて、プロファイリングしようとしたりして、
かえって、変な擁護にもつながるような始末にさえなりがちで、

ダメなものは、どんなに言を尽くそうが、事情を述べようが、
やってはいけないものは、やってはいけない。
若かろうが、年をとっていようが、
北海道開発局の、談合を唾棄する時と、同じような強い口調で、
ねぇ古舘さん、
やってはいけない、という強いメッセージこそが、
本当は、必要なことなんではないのかしら。

ただ、思ったことは、
相変わらず、人間関係は、そこそこ面倒くさいことは事実で、
その昔、悩みやストレスは、お金が解決してくれるもんだと、
そういう納得の仕方をしていた時期もあったが、

いやいや、お金なんて、そこそこの手段でしかなく、
根本は、やっぱり、とどのつまり、この人間関係でしか、
悩みもストレスも発生しない、なんてことを、
この時分、ようやく理解できた気がする。

当り前か。

自分が存在していく上で、自分を認識する上で、
「他人」は、絶対条件で必要なことで、
特に、集団でしか生存を維持できなかった人間としては、
案外、不可欠な歴史的、生物的限界もあったろうけど、

相手の存在を、縁も因果も含めて、理解しながら、
こっちの存在も、含めて理解をしていただく、
そういう共生関係の必然を、もう少し
当たり前のこととして、認識していかないと、
ああいう、おかまいなしの、「自分のことをわかってもらえない」
という一方的な考え方のモンスターを生んでしまう。

悪いけど、変な「オンリーワン」幻想が、
結果的に、自分を支えてくれもする、評価の「原泉」である他者を、
無残に踏みにじってしまう、
こういう馬鹿な顛末を引き起こすわけで、
まさに、ある意味、本末転倒なんだろうけど。

社会性とか、そんな大きすぎる枠組みで、思考しようとするよりも、
1対1から、複数を含めた、
小さい関係から、
その他人とのかかわりの、持つ、意味なり意義なり必然を、
実は、案外、おざなりにしてきてしまったような気がする。

そんな最近でございました。
自分の状況は、棚に上げて、ね。