まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

TPPはもっと勉強しないと語れない

2011年10月30日 | 政治
あれだけ、各マスコミ含めは、格差社会、弱者救済に対して
論を尽くしてきたというのに、
こと、このTPPの問題に関して、
極めて内容が浅いのはなぜなんだろう。

TPPはどうやら関税障壁がどうだとか、
貿易がどうだとか、
どうやらそういう話ではなくて、

社会の仕組みを、そもそもアメリカ的に、各国統一化しようという
恐るべき、大きな「テーマ」だと思える。

労働問題にしても、協定を結んだ各国から流入しやすいように、
公共機関は言うに及ばず、社会全体で、
英語表記の書類を整えるのは「当たり前」で、

また、年金に関しても、自己努力で利殖せざるを得ない感じで、
保険・証券と組み合わせてのやり方を強いられることになるだろう。
もちろん、今の国民年金などは解体させられる可能性もある。

厚労省が、妙にだんまりなのは、なぜだか、面白い。

新聞、大手マディアが「推進」役を買って出ているようだが、
先日の公正取引委員会から、
「再販制」といわれる、日本独特のシステムも
当然、議題にあがります。

と言われるや否や、いきなり、各紙面から
TPPへの勢いのある文言が消えた。

再販制とは、ご存じのように、新聞もとより本、雑誌まで、
小売りが、自由に価格を決めることができないという制度で、
長いこと、新聞、出版社が守りとおしてきた世界である。

アメリカでは、新刊も含めて、すべて自由競争。
日本だけが独自ルールでいいわけがない。
もちろん、電波法で守られているテレビ局もしかり。

本当に、マスコミは、どうして、ちゃんと勉強せずに、
適当な「報道」「解説」をするのかしら。
原発問題でも、あの情報弱者ぶりは、そうとう酷かったが、
このTPPの問題においても、

今更ながら、自分たちの「牙城」さえ危ないと、
遅いんじゃないの?
大丈夫なのか。本当に。TPP。

まぁ、資産家や政治家も恐れているのかどうかわからんが、
国民総背番号制。
これも多分、あっという間に、はじまるな。

そういうことなんだと、TPPは。
結構、大変な世界だぞ。
交渉なんて、今の政治家にできるんかいな?

ねぇ、時代の寵児になった古賀さん?
本当に大丈夫だと思います?

コンセプトの違いというだけでは済まない商法。

2011年10月12日 | 社会的全般
ユニバーサル S ジャパン

ディズニーランドと比較すること自体、おかしな話かもしれないが、
10周年をどうやら迎えたらしく、
ややもすると、「終了間近」、引き上げか!と噂が絶えなかっただけに
その頑張りに、敬意を申し上げたい。

で、まず、感心したこと。

アトラクションのクオリティーが、えらく高かったこと。
数は、当然ながら、少なく、あのディズニーと比べるまでも無いが、
待ち時間がほとんど無い、バックドラフトでさえ、
えらい、面白かった。

3Dの映像を流す、その当時は、シュレックムービーだったが、
わざわざ、このために作成されたのか?
は、ともかく、
まじめに「良く」できた作品だった。

ターミネーターですら、映像だけでなく、
役者さんが出演されていて、
これがまったく、見ているこちらが恥ずかしい、なんてことはなく、
まじで、こんなテンションを毎日やられているんですか?
というくらい、
初めてのお客さんは、要するに、驚くのは間違いない。

プールのショーですら、
冬場は、どうしているんですか?
絶対に、夏季のみの公演ですよね?
っていうくらい、普通に、面白い。

ええ、全体的に、あのランドというか、リゾートと比べても遜色なし。
いや、むしろ、そのクオリティーに圧倒された。
コンセプトの違いなんて、どうでもいいんで、面白いかどうかではなく(面白かったが)、

クオリティーの高さに感心しているのだ。
凄い。

と こ ろ が

それ以外、
「笑った」。

まず、外に一時退出、できません。
確か、記事などで読んだ記憶があるが、
食事を園内で取らせるために、外に出さない!とか、そんな内容だった気がするが。

いや、高いよ。食事代。
ランドで450円くらいでいただける程度のものが、700円、800円、
と、平気でします。
ここまでくると、おいしいか、まずいか、なんて論外。
それなりのコストをかけているんだな、って
客に思わせる「仕掛け」も皆無。

食わなかったら、飢え死にするだけでっせ、みたいな感じ。
いやはや直球。これは、思いもしなかった。
外に出られるんだったら、1000%、外へ食べに出ます。まじで。
何も、食べたくありません。この中では。

さらに、グッズ。
気持ちはわかるんだが、商品に値段、貼ろうよ。
まるで時価じゃない。
棚に、プライス表があるから良いってもんじゃないと思うんですが。

余るから、値段表示できないのか?なんて思ってしまうんですが。

さらに、
紙袋のオンパレード。
関西では、紙袋の習慣が王道なのか?って思うくらい。
環境に配慮しているのか?なんて、そういう仕掛けなのか?ここは。

手提げになる収納物は、全て有料。
これにも、笑えるくらい「商魂」という単語が頭から離れません。
すげぇな。

まぁ、入園料が、あそことはほとんど変わらない中で、
優先入場券。
あちらでは、ファーストパスという代物ですが(無論、ただ)、
これが、こちらでは、「有料」。
合わせると、1万円近く払うことになります。

年間パスポートが、安いので、むしろそちらを購入して、さらに優先入場券を買い増せ!
というコンセプトなのは理解できるが、

ランドが「大店法」で規制されていた過去があったように、
あそこは、グッズの売上、食事の売上が半端ない。オリエンタル商店と言っても間違いない。
それくらいのマーケティングの中で、「商売」をおこなっている。

年パスを安くして、何度も、客を呼び込みたいというのは理解できるが、
その程度のアトラクションの数で、パレードは
サンリオピューロランド並み。
だったら、何で稼ぐのかって、そりゃ、規模に問題もあろうかと思うんだが、

食事と、グッズだとは思うんだが、どうなんだろうか?
ええ、もし、仮に、2度目があるのであれば、
ほとんど、買わないし、食べないと思うよ。
で、頑張って、並ぶよ。

これは「負」の循環に陥ると思うんだけど、
まったく、オリエンタル商店とは「真逆」のやり方に見えて、
これは、コンセプトの違いというだけでは、済まないと思うんだが、
こんなもんなんだろうか?

感情というものが、の推敲1

2011年10月10日 | 自分の仕事に絡めて
根拠、薄弱な点もあろうかと思います。
このたびは、思いつくままに、多分、この後、書き直すことも
あろうかと、そういう流れですいません。

考えてみれば、平地に降り立った「種」としては、
最弱の部類に入る我々が、
さらに、特別な肉体的な能力を持たずに、このサイズで、
どうして、この地球の「制圧者」の地位を築くことが出来たのか。

誕生した「子」が、脆弱で手間がかかることは、
当時において、何のメリットもなかったはずでろうに、
ざっくり言わせてもらえば、当たり前のように繁栄している。

それを可能にしたのが、道具の使用だとか、言語の発達だとか、発達した頭脳だとか、
「他」と比べることがおかしいかもしれないが、
それが主たる要因だと、自分も、確かにそう教わってきた気がする。

間違いではないが、その発端は、どうやら「個」を捨てた、
「集団」の組織化の勝利であったらしい。

高高度に組織化を果たした種として、生存と、種の繁栄を築き上げてきた
我々は、その過程で、道具を操り、言語を進化させ、
多分、今に至っているのだと思う。

論点は、そう、我々は、集団であることを
その始めから基本設計として組み込まれている種族なんだという話。

ソースは提示できないが、申し訳ない、こんな流れで進ませていただくが、
特に集団が先なのか、こちらが先なのか、多分、そのどちらでもないかもしれないが、
我々の特異な「道具」としての言語。

これを「手に入れた」ことによって、何が誕生したかというのが、
次の話。

感情である。

自分も長く、人間であることに、何の疑いもせず、今までやってきたが、
この感情。
人間であることの必須要件として、創世記からあって当たり前。
そう考えてきたが、

感情なり、「心」というものは、言葉があって初めて「形」になるものだと、
最近、特に様々な「書」によって理解することができた。

言葉という入れ物がない限り、
感情というものは、自分でも「認識」できません。
原始的な五感に基づく反応は、その都度、何かしらの「表現」を
「記憶」として、反復することは可能ですが、

長きに渡り、集団として世代を重ねてきたこの種は、
相手がいるという幸運と、集団という組織化の過程を得た幸運。
その中で、言葉を獲得できたという幸運。
そして、他者と自己という関係の中で、
特異的に、「心」を言葉によって、獲得できた、

そういう幸運。

現在では、めまいがするほどボリュームがある言葉だが、
その本来の誕生は、そう、「心」の入れ物。
つまり感情のツールなんである。

長かろうが、短かろうが、複雑であろうが、専門的であろうが、
人が話す言葉は、
ほぼ、全部、言い切らせていただくが、
何を喋ろうと、ベースは感情、すなわち「心」の表現である。

演説を聞いても、解説を承っても、
一番先に、いや、まず、見出しになる言葉は何かといえば、
すっきりとした。感動した。つまらなかった。むかついた。非常に理解した。

複雑すぎて、見えなくなっているかもしれないが、
あらゆることに、人は、感情のやりとりを、
どんな関係においても、
テレビの向こうにいる方に向かってもさえ、
行っているということ。

それが次の話になるのだが、

言葉によって、感情を具体的に発見した我々は、
当たり前だが、少しずつ、相手との関係性の中で、
さらに細かく、感情表現を言葉に乗せ換えていく。

これが、トーンであったり、表情であったりも加えながら、
多分、その集団でしか通用しない表現方法も当然あったであろう。
現在でも、この国では通用する表現が、他国では、まるで真逆の意味になるのも、
非常にわかりやすい流れである。

大事なのは、今みたいに、暇だ退屈だ、なんて
心を無くしたみたいな人間が、余裕で生きていける世界ではなかったということ。
即、死が、そこにある世界で、
紡ぎだされる言葉が、その集団の存亡を託してきた流れがあった。

そうして、食料を生産し、抱えることができる人員が増加をし、
集団の規模が拡大し、さらに組織が複雑になり、
階層化があり、能力が細分化され、
集団が、縦列に、横列に、重層化を来たし、

それを可能ならしめたのは、なんでもない。
絶え間ない、対人関係からなる、
感情の細分化に合わせた、言葉の細分化である。

いや、同時かもしれないですね。
言葉の細分化にあわせて、感情の細分化。

受身で居続けた環境が、ではなく、作り変えられることができる
関与できる世界になったということが、
大きな感情表現の「繁栄」に寄与したのかもしれません。

今、我々が、何に悩もうと、何をとらわれていようと、
その「気持ち」が、個体にどういう結果なり影響を与えようと、
あっさりといえるのは、

その気持ちをつむぎだせるのは、紛れもなく、
その本人が、今、所有している言葉の数の分にしか過ぎないということ。

100の言葉しか持ち合わせていない個体は、100しか心の「ひだ」を
認識することができないということ。
1000の言葉を持つ個体は、100の言葉しか持たない個体よりは、
逆説的に、心をコントロールできる道具を持っていることにもなり、

あわせて言えるのは、
その言葉は、何のためにあるのかというと、
何のことはない、

他者との関係においてしか、ないということ。

5000の言葉をもつ個体は、
それだけ、他者との関係性をやりくりするに機能できるであろうし、
逆に、その関係性が複雑になり、言葉の数の呪縛にとらわれ、

ありもしないことを含め、言葉のもつ「想像力」の
バーチャルな関係性を「生み出し」て、自滅していく個体もいるかもしれない。
言葉は、「武器」であるという話もそうだが、

何のことはない、集団を意味づけられている種としている我々は、
その集団内での関係性を破壊させられる言葉が、
普通、最も効果的で、合理的な道具になるというだけだ。

言葉の多さに普通、考えがむかないかもしれないが、
基は、言葉の一つ一つが、感情からつむぎだされたものなので、
お互い、どういう「表現」であれ、

効果的に出された言葉は、届く関係性においては、
最も、効果的に「心」の連帯を結ぶことが出来る。
それが、ポジティブなのか、ネガティブなのかは、それぞれの状況に応じるが。

で、その集団特性を「察する」ことが可能なのも、
「予測」することが可能なのも、やはり言葉でしかなく。
それは、全員が気づいていることなんだが、
奥底で、関わるであろう「個体」に関して、「集団」に関して

必ず、まず、感情が先にたつのである。

繰り返すが、その感情は、あくまでも、その個体が獲得してきた
言葉の数に応じるのは言うまでもないのである。

ここで前半。本当にまとめないと発表できないのは次なんだが、
ちょっと頭、停止。