まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

夏とセミとヒステリーと

2006年08月08日 | 雑感(日記)
夏になると、いつも思うんだが、
せみの鳴き声が、少なくなった。
少し、郊外に出ると、また、木々の多い茂った公園に立ち寄ると、
あの、わしゃわしゃとした、いつもの懐かしい、夏の「音」が聞こえてくる。

見上げると、誰でも捕まえられそうな、緩慢な動きで、
その短い一瞬を、泣き暮らしているかのように。

ただ、物悲しい思いがよみがえる、ひぐらしというセミ。
つくつくぼうしは、なんとなく、思いがけずといった按配で、
聞くことができるが、ひぐらしは、なかなか、耳にすることができない。
夕暮れ時に、かなかなかな、と何かの終わりを告げるような、
そんな声に、せかされるように、道を急ぐ。

今は、その声に、何物も促されることもなく、ただ、あの時の記憶だけが
よみがえってくるばかりだ。

夏といえば、白く焼きつくような一瞬の静寂感。
全てが止まったように、あざやかに思い出される。
追いかけた白球も、振り続けたバットも、飛び込む水際でさえも、
なぜか、濃淡をあざやかに、切り取った情景がスクロールしてくる。
そして、セミの声が、絶え間なく、聞こえてくる。

それと、普段、なにげなく車を走らせているが、
いったいどこまで、このアスファルトは続くんだろうか?
果てしなく引きずり込まれるような、そんな思いに囚われることがある。

あの時、あれほどまでに、走り回った「地面」が、今は、
その区画として、存在を許されているかのように、ただ、1画でしかない。
向かう先、全てが、コンクリートで、覆われている。

特に都会といわれている所は、そのほとんどの地面が、コンクリートで覆われている。
学校の校庭ですら、コンクリではないが、土の地面ではない。
そういう所が多く、存在している。

あれかな?これ、全部めくってみたら、どうなるんだろう。
ごめんね、変なこと言って。
セミって、少なくなっているじゃない?
確か、幼虫の頃は地中で、ご生活されているんですよね?
少なくとも数年間。
木の根っこ?とも言いますが、
怖いですよね。考えたら。
何かが、わらわら、わらわらと。

こういうこと、書こうと思ってなかったんです。
亀田選手について書こうと思っていたんです。
だって、また、人格攻撃始めているじゃないですか。
さも、大衆が言っているように、新聞やら雑誌なんか。
あげく、番組のスポンサーにまで、株主として「見識」を疑うなんて、
非買運動ですか、これすら、「あんな、人格的にも態度でも許せない奴」を
応援するとは何事か!としておこりかねない。

最近、こういう「大衆」のヒステリー現象が多発しております。
これを、確実に、メディアは「促成」させているかのようです。
だって、見出しがそうなんだもん。
NALさんの記事にも、炎上するブログのことが書かれておりました。

ちょっと考えてみますと、
普段、人と社会とに、言葉をもって、シンクロ出来得ない人間達が、
あからさまな「現象」に、感情を短いフレーズに乗せて、
シンクロしようとする。
だから、匿名性は絶対で、むしろそういう「個性」が払拭された「場」を
こよなく愛する。
喜び、悲しみ、怒り、憎悪という、生産的でありようもない、個人のあり様に
シンクロしようとする。

他人が着ている、他人が背負ったストーリー、物語に、
安易なアイデンティティーを感じようとしている。
傷つかない、そんな「場」を探し当てることだけが上手くなって、
まるで訪れた「愛国駅」の駅舎に落書きをしてくるような感じ。
そんな薄っぺらい自己存在の表現方法が、あちこちに表出している。

薄い「皮膜」に覆われた、人間の心を、めくってみたら、
何かが、わらわら わらわら と。