私は、自称宗教家ですが、
宗教家らしからぬ事をよく言います。
「 善い事をしたからといって、善い事が帰って来る訳ではない」
「 善行に意味など無い 」
私のこの、言葉に対して、真面目な宗教家や、
信仰者・善人のなかには、
怒り出す人が多くいます。
真面目な宗教家や善人が、
怒る気持ちはよくわかります。
善因善果(因果報応)が仏教の根本教義であり、
それを否定するような人間は、
宗教家ではないと思えるのでしょう。
実のところ・・・私自身も、
以前は、「善人宗教家」と同じ事を思っていました・・・
現在の私は、
因果の法則を、極限まで掘り下げて、
その上であえて、
「 善行に意味など無い 」
と言っているのです。
四角四面な信仰者や、自分が偉い人だと思っておみえの
「善人・先生」は言うでしょう・・・
「 ならば、アンタ!!!悪いことをしても良いと思っているのか!!!
悪い事がしたいなら、すればいいだろ!!! 」
溜息が出ます・・・・
私は、因果の法則を、否定している訳ではありません。
肯定しているのです。
宗教病に犯された「善人宗教家」や、「偉い先生」は、
それすら理解できなくなってしまっている。
私は・・・
強く、熱く、全生命を賭けて、
肯定しているが故に、
「 善行に意味など無い 」と主張するのです。
わたしは、長年、多くの人間を観察し、洞察して来ました。
その結果分かった事、
「 人格と運命に絶対的な因果関係はない 」
これは、あくまで現象的な側面から言っている事です。
言葉の尻を掴もうと思えば、
いくらでも非難する事が可能な発言です。
人格高貴である事に対し、
無意味であると思っている訳ではありません。
偽善でも、「善い行い」をしたからには、
それは、他者に対して、何らかの実益があります。
善因善果・悪因悪果 とは、絶対原則であり、
永遠とうい枠組みのなかで語るなら、
それは誤魔化す事ができな、絶対的な宇宙の法則です。
その、ある意味、「 分かりきった原理・原則 」
という宝刀を、・・・
理不尽な運命に翻弄されている人にたいして、
闇雲に振り回すところに、宗教の功罪があると思える。
恥ずかしながら・・・私も15年前までは、
得意満面になって宝刀を振り回していた人間のひとりです。
ずる賢く利己的な人間が、生涯幸運であったり、
善良な心優しい人が、生涯、不運や苦労の連続だったり。
こういう理不尽な不可解な現象は、世の中を知っている人なら、
誰しも目の当たりにしているはずです。
どうしてのような現実があるのか?
私が思うに・・・
善い人ほど、「 欠く、あらねばならない・・・」
「善い行いをすれば、それが必ず自分に帰って来る」
と強く思い、それを信じ、縛られている。
「 欠く、あらねばならない・・・」とは、
「これをしないとダメだ」という意味。
「善い行いをすれば、それが必ず自分に帰って来る」とは・・・
「善行を積まなければダメだ」という意味。
この、「 ダメだ 」が人間を不幸に陥れる大きな要素なのです。
それ故、善い人、心優しいひと、
正義感の強い人、真面目な人、ほど、苦悩や葛藤が多く、
その意識が、具現化して、結果的に不幸を招く。
自分の内から発する、「ダメだ」という意識(念)を、
取り除かない事には、
いくら、善行をなそうとも、
いくら徳を積もうとも、
いくらお経を読もうとも、
いくら、神仏に手を合わせようとも、
「ダメだ・ダメだ」の念を、更に強固なものにするだけなのです。
ある善良な人は・・・
懸命に「 マトモな行い 」、をしている。
ににも関わらず、迫り来る逆境に、
これでもか! これでもか!!
と言わんばかりの攻撃を受ける。
「 まとも 」な事をしていて、この結果である。
「 まっとう 」な考え方を捨てきらねば、
今生で、その連鎖を断ち切ることなどできない。
「 まとも 」など投げ捨てろ!!!
バカになれ!!!!
これ即ち、「 意味など求めない 」ということ、
善行に意味など無い!!!
その覚悟で、自分が何をなすべきか?
と、問うたとき、
意味など求めず、バカになりきったとき、
自分の内から湧き上がる「良心の声」を聞く事ができる。
良心の声とは、自分の内に宿る神の声
その声を聴くとき、
おのずと自分がすべきことが分かる。
そのなかから、自然に湧き上がる、行為・思考こそが、
善因となり得る。
最善の行為が、最善の願望を造りだす。
結果、願わずしても「 良い芽が実を結ぶ 」
意味を求めめず、バカになったとき、
初めて 「ダメだ」から開放されるのです。
何も考えなくても、何も求めなくても、
必然的、「 絶対的な因果の法則 」が機能する。
何を申し上げたいかというと、
「 善・悪に縛られてはいけない 」
ということです。
・・・・・・
信心深く、善行を積んでいるにも関わらず、
不幸の連続、不吉なことの連続・・・
こういう「 善人 」が発する言葉。
「 私は日々、徳を積んでいる・・・ 」
「 私は、慈善をしている ・・・」
「 私は、親切を心がけている・・・」
「 私は毎日必ずお経を上げている・・・」
確かに立派な行いではありますが・・
この人達、私の眼から見ると、
‘ 型 ‘ に執着するあまり、
その結果を信じて、求めている。
それ故、信仰心や、宗教が「人を不幸にする」
「 善人 」ほど、多くのリスクを背負っている。
結果や、意味を求めた瞬間、それは、
「何々しなければダメだ」になってしまうのです。
こういう駆け引き的な「 心の方向性 」は、
商売上の取引なら、有効だが、
「この世」と「あの世」との間では通用しないのです。
人間の本質は、「 神そのもの 」
善であり、義であり、完全であり、円満なのです。
これを 「 絶対的因果 」と呼ぶのです。