社団法人 いのちを守る親の会 理事長 大熊良樹 氏 のブログより
大熊氏の許可をいただき、 転記させて頂きます。
大熊氏の許可をいただき、 転記させて頂きます。
以下、「 大熊良樹ブログ 」 より転記
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移ろい変わるものが 「現象」 である。
全ては 「諸行無常である」 とはこの 「現象」(影の)事である。
全ては都合により 「善悪」 にとらえられがちであるが。。
生かす力そのものは
光りであり 「善」 以外の何物でもない。。
その光に「思い」というスライドを映して・・
人生の銀幕に「日々」を 投影して生きているのである。。。
悪い状態、苦しいこと、辛い状況は 「諸行無常」 である。
( それは「影」 (一次的姿(幻影)であるからだ 。)
何とありがたいことであろう。
「諸行無常」は悪いことばかりでもなく、
ありがたいことでもある。
救いである事も 忘れてはならない。
因果は、一分一厘 晦(くらま)ませない。
これは、私の今生における大きな気付き である。
同時にそのような「相対因果」 を超える事のできる
さらに大きな (唯神實相哲学の)自覚(さとり) を 戴いた。。
有り難いことである。。
10代20代・・武道の修行。
20代30代・・厳しい社会経験。
30代・・修行僧などの体験を
経る中で・・一分一厘くらいは
がんばれば、因果は 変わるのでは。。。
良いことをすれば
過去の悪業も消せる(相殺)できるのでは。。。
と思っていたのでした。。。
帳消しにならなくても、
一分一厘くらいは誤魔化せるのでは、、と思っていたのである。。
しかし。
違っていた。
「因果の法則」 と言うのは。。。
良いことをしたら良いことが起こり、
悪いことをしたら 悪いことが起こる、
そのことも、法則であり事実ではあるが。。。
その事に 止まらない。
人間の本性
「生命の實相」は、明哲(至上の智慧)であり、
玲瓏(至上の純粋)である。
(宗教的な表現をすれば、神仏である・・・)
良いことをしたら、良いことをしたと知り。
悪いことをしたら、 悪いことをしたと知るのである。
その事は絶対に、誤魔化せないという事を
体験として38歳の ある体験で知ったのです。
良いことをしたら、 良いことをしたとを知り。
悪いいことをしたら、悪いことをしたと「いのちが知る」のである。
すでに・・この事自体を
「因果応報」が完結した姿といえる。
結果、どうなる かではない。
中国の古典にも、
天知る、地知る、人知る、吾知るという
言葉があるけれど。。
古より・・人は・・・
「お天道(てんとう)様」 は全てを観て おられるという。
全ての全てがそれを「知る」と言う事である。
因果は、一分一厘 晦(くらま)ませない。
それは、自分の
「いのち(霊)」を一分一厘誤魔化せないという事である。
無限生長の途上の中で、その「データ―(課題)」が、
絶妙に巧妙に・・・
人生脚本の中に組み込まれるのである。
その人の嗜好や価値観に合わせた生長のための
人生芸術(ドラマ)を描き始めるのである。
その巧妙さがあまり
に絶妙で、時間差や変形の応酬があるために、
100の悪業があるから
100の苦難があるなどとは
いえないのであるし・・・
これこれの悪業があるから
これこれの報いがあるなどという、
との心を迷わせる指導は一度もしたことがない。。
むしろ、こうこうすれば
こうなるのですよと言う。。。
「善因善果」を
説く事が宗教者の 聖使命であろう。。。
「因果律」に基く、
単純評価や人生鑑定における
数値化した単純分析は難しいのである。
人生における「人生脚本」。
当然「脚本」をかくのも自分。
演じる「主人公」も御自分である。。
共演者は・・・
縁の深い「仲間」である。
現象は、心象といい、こころの現れであり、
皆さんの心の 「合成」 (共同演出芸術) でもあることが
素晴らしい留意点である。
だから、単独でないので「調和」が大事であるのである。。
恨むと不幸が起こり、
喜ぶと、喜び事が 呼び寄せられる。
「在り方」は、即、関わり方」である。
いのちは、ひとつ と言われる所以でもある。。
「いのち(霊)」を 一分一厘誤魔化せないと書いた。。。
また・・・
悪いことをしたら、悪いことをしたと
いのちが 知るのである。
と書いた。。。
吾らは、いのちを 一分一厘誤魔化す生き方ができないのである。
清明心をして 「 清明 (せいめい) 」 というのは・・・・
「 生命 (せいめい) 」の本質が清明心
「 清き明るき心 」 であるからだろう。
清明心こそ
「 神こころ 」である。 ほどけ(仏)である。
・・・・・・・・・・
相対因果(現象)を超える道は ・・・・・・ ?
絶対因果(實相)を知ることです。。
それはなんでしょうか・・・・・?
それは・・・人間が・・・・
神(至上)であり、
仏(ほどけ)であり、
限りなく素晴らしい本質を持つという、
自覚 [さとり] であります。。。
自己のいのちを信じることが
できないと、ひとのいのちも
信じる事はできません。。
しかし信じようが
信じれまいが人間は神の子。
(神の凝(こ)=凝固)であり、
本来・・仏様なのである・・・・・・
だから、本来のそれを生きれないと、
苦しい思いでいっぱいになるのです。
狂おしい思いで いっぱいになるのですよ。
これが
「絶対因果律」です。
いのちを裏切らない 生き方をしよう。
人は知らずして全てを 知っている。
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以上、
社会教育家 和来紘太郎 の本名ブログ 大熊良樹
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/11956293.html より転記。
全ては 「諸行無常である」 とはこの 「現象」(影の)事である。
全ては都合により 「善悪」 にとらえられがちであるが。。
生かす力そのものは
光りであり 「善」 以外の何物でもない。。
その光に「思い」というスライドを映して・・
人生の銀幕に「日々」を 投影して生きているのである。。。
悪い状態、苦しいこと、辛い状況は 「諸行無常」 である。
( それは「影」 (一次的姿(幻影)であるからだ 。)
何とありがたいことであろう。
「諸行無常」は悪いことばかりでもなく、
ありがたいことでもある。
救いである事も 忘れてはならない。
因果は、一分一厘 晦(くらま)ませない。
これは、私の今生における大きな気付き である。
同時にそのような「相対因果」 を超える事のできる
さらに大きな (唯神實相哲学の)自覚(さとり) を 戴いた。。
有り難いことである。。
10代20代・・武道の修行。
20代30代・・厳しい社会経験。
30代・・修行僧などの体験を
経る中で・・一分一厘くらいは
がんばれば、因果は 変わるのでは。。。
良いことをすれば
過去の悪業も消せる(相殺)できるのでは。。。
と思っていたのでした。。。
帳消しにならなくても、
一分一厘くらいは誤魔化せるのでは、、と思っていたのである。。
しかし。
違っていた。
「因果の法則」 と言うのは。。。
良いことをしたら良いことが起こり、
悪いことをしたら 悪いことが起こる、
そのことも、法則であり事実ではあるが。。。
その事に 止まらない。
人間の本性
「生命の實相」は、明哲(至上の智慧)であり、
玲瓏(至上の純粋)である。
(宗教的な表現をすれば、神仏である・・・)
良いことをしたら、良いことをしたと知り。
悪いことをしたら、 悪いことをしたと知るのである。
その事は絶対に、誤魔化せないという事を
体験として38歳の ある体験で知ったのです。
良いことをしたら、 良いことをしたとを知り。
悪いいことをしたら、悪いことをしたと「いのちが知る」のである。
すでに・・この事自体を
「因果応報」が完結した姿といえる。
結果、どうなる かではない。
中国の古典にも、
天知る、地知る、人知る、吾知るという
言葉があるけれど。。
古より・・人は・・・
「お天道(てんとう)様」 は全てを観て おられるという。
全ての全てがそれを「知る」と言う事である。
因果は、一分一厘 晦(くらま)ませない。
それは、自分の
「いのち(霊)」を一分一厘誤魔化せないという事である。
無限生長の途上の中で、その「データ―(課題)」が、
絶妙に巧妙に・・・
人生脚本の中に組み込まれるのである。
その人の嗜好や価値観に合わせた生長のための
人生芸術(ドラマ)を描き始めるのである。
その巧妙さがあまり
に絶妙で、時間差や変形の応酬があるために、
100の悪業があるから
100の苦難があるなどとは
いえないのであるし・・・
これこれの悪業があるから
これこれの報いがあるなどという、
との心を迷わせる指導は一度もしたことがない。。
むしろ、こうこうすれば
こうなるのですよと言う。。。
「善因善果」を
説く事が宗教者の 聖使命であろう。。。
「因果律」に基く、
単純評価や人生鑑定における
数値化した単純分析は難しいのである。
人生における「人生脚本」。
当然「脚本」をかくのも自分。
演じる「主人公」も御自分である。。
共演者は・・・
縁の深い「仲間」である。
現象は、心象といい、こころの現れであり、
皆さんの心の 「合成」 (共同演出芸術) でもあることが
素晴らしい留意点である。
だから、単独でないので「調和」が大事であるのである。。
恨むと不幸が起こり、
喜ぶと、喜び事が 呼び寄せられる。
「在り方」は、即、関わり方」である。
いのちは、ひとつ と言われる所以でもある。。
「いのち(霊)」を 一分一厘誤魔化せないと書いた。。。
また・・・
悪いことをしたら、悪いことをしたと
いのちが 知るのである。
と書いた。。。
吾らは、いのちを 一分一厘誤魔化す生き方ができないのである。
清明心をして 「 清明 (せいめい) 」 というのは・・・・
「 生命 (せいめい) 」の本質が清明心
「 清き明るき心 」 であるからだろう。
清明心こそ
「 神こころ 」である。 ほどけ(仏)である。
・・・・・・・・・・
相対因果(現象)を超える道は ・・・・・・ ?
絶対因果(實相)を知ることです。。
それはなんでしょうか・・・・・?
それは・・・人間が・・・・
神(至上)であり、
仏(ほどけ)であり、
限りなく素晴らしい本質を持つという、
自覚 [さとり] であります。。。
自己のいのちを信じることが
できないと、ひとのいのちも
信じる事はできません。。
しかし信じようが
信じれまいが人間は神の子。
(神の凝(こ)=凝固)であり、
本来・・仏様なのである・・・・・・
だから、本来のそれを生きれないと、
苦しい思いでいっぱいになるのです。
狂おしい思いで いっぱいになるのですよ。
これが
「絶対因果律」です。
いのちを裏切らない 生き方をしよう。
人は知らずして全てを 知っている。
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以上、
社会教育家 和来紘太郎 の本名ブログ 大熊良樹
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/11956293.html より転記。