8月19日~25日 にかけて 広尾にある青年海外協力隊訓練所で平成17年2次隊日本語教師の技術補完研修があった。
平成17年2次隊で派遣される日本語教師は全部で30人。
派遣予定国は 中国 トンガ パラオ モンゴル エジプト スリランカ エルサルバトル ホンジュラス タイ カンボジア 等 様々。
私の赴任予定国は トンガです。 同期で日本語教師としてトンガに行く人は私の他に3人います。
しかしトンガは諸島なので 首都のある本当に2名 離島に一名づつで 私はその離島に赴任します。 島の名前はエウア(Eua)島。
空港のある本島から さらに船で3時間。 インターネットは本島にしかなく Eua島内での主な交通手段は ヒッチハイクという なんとものどかな島です。
今回の研修は 日本のODAの一環として日本語教師の活動意義のようなものを話し合ったり 諸先生方の話を聞いたり 国際交流基金のオフィスに行ったり 自分の派遣国の報告書にすべて目を通したりするのが 主な内容でした。
私は ボランティアで週一回ミャンマー人に教えていただけなので 日本語教師としての経験はほぼ無いと等しい。大学卒業して バイトしながら必死に専門学校のローンを返し ようやく自由になるお金ができたので海外の日本語学校に就職しようと思っていた矢先の JICA合格だった。3年間ずっと落ち続けても諦めず受けてきたくらい 青年海外協力隊は私の夢だったので 確かにうれしかったが 同時に不安もあった。経験のない私が果たして任国でやっていけるのか・・・
JICAから 合格通知とともに 現地で使う教科書が送付され これを基に期日までにシラバスと教案を作るようにとの課題があった。とりあえず この課題をできる限り細かくやっていくしかない。と思い 死に物狂い(笑)で取り組んだ結果 シラバスと教案を合わせたら 大学の卒論並みの枚数になった。
研修一日目 研修を担当してくださる 技術顧問の佐久間先生に自分が不安に思っていること 教案でわからなかったことを質問しにいくと
「あれ?君が井上さん?あの課題を提出した人だよね?いやー あれ すごいね!
今まであんな量を作った人いないよ!よくあそこまで細かくやったね!それで相 談なんだけど 君の作ったシラバスと教案を 今後の資料としてJICA3支部に保 管したいんだけどいいかな?本のような形にしたいんだ」
もう びっくり。 しかも
「君の書いた 筆記試験の論文 僕覚えているよ。あれは満点をあげるよ。あんな に長い文章書く位だから ずっと考えていたんだね。一度日本語教師を辞めよう とも思ったんだよね。」
と言って下さった瞬間 私は溢れてくる涙を 必死に堪えていた。手をグーにして必死にこらえた。
「はい。そうなんです。でも それでも 何か意義があると思ったんです。言葉を 教える以上に何か伝えられるものがあるんじゃないかと。そして まだやっても いないことを 机上の空論で判断することだけは嫌だったんです。 私間違って いませんか?」
「間違っていないよ」
その言葉だけで 私の3年間は 決して無駄じゃなかった。そう感じた。
ずっと落ち続けて 途中心臓も悪くなって もう合格できないんじゃないか。
こんだけやる気あるのに JICAは経験不足なだけで評価してくれない!とふてくされたこともあった。
筆記試験の論文なんて たいして考慮されないだろうと思っていた。でも思いのたけをぶつけずにはいられなかった。
だけど そんな私を 実力もなくただやみくもに諦めずに挑み続けた私を 文面を通して受け入れてくれている人がいた。
才能も実力も無い私が できること 評価されることがあるんだ。
帰り道 広尾駅まで遠回りして すごく久しぶりの「うれし泣き」をした。
世の中 がんばったら それを見ていてくれる人っているんだな。
先生に言われて 思い出した。
ずっと不合格をもらい続けていたとき
本当につらかった。
インドでボランティアの汚い面を見たとき
本当にくやしかった。やめようと思った。
でも
今まで やってきた。 実は結構大変だった。 ひくつになった。 頭がおかしくなった。でもやってきた。
やってきて 本当に本当によかった。。。。 そう思った夏の夕暮れ。
平成17年2次隊で派遣される日本語教師は全部で30人。
派遣予定国は 中国 トンガ パラオ モンゴル エジプト スリランカ エルサルバトル ホンジュラス タイ カンボジア 等 様々。
私の赴任予定国は トンガです。 同期で日本語教師としてトンガに行く人は私の他に3人います。
しかしトンガは諸島なので 首都のある本当に2名 離島に一名づつで 私はその離島に赴任します。 島の名前はエウア(Eua)島。
空港のある本島から さらに船で3時間。 インターネットは本島にしかなく Eua島内での主な交通手段は ヒッチハイクという なんとものどかな島です。
今回の研修は 日本のODAの一環として日本語教師の活動意義のようなものを話し合ったり 諸先生方の話を聞いたり 国際交流基金のオフィスに行ったり 自分の派遣国の報告書にすべて目を通したりするのが 主な内容でした。
私は ボランティアで週一回ミャンマー人に教えていただけなので 日本語教師としての経験はほぼ無いと等しい。大学卒業して バイトしながら必死に専門学校のローンを返し ようやく自由になるお金ができたので海外の日本語学校に就職しようと思っていた矢先の JICA合格だった。3年間ずっと落ち続けても諦めず受けてきたくらい 青年海外協力隊は私の夢だったので 確かにうれしかったが 同時に不安もあった。経験のない私が果たして任国でやっていけるのか・・・
JICAから 合格通知とともに 現地で使う教科書が送付され これを基に期日までにシラバスと教案を作るようにとの課題があった。とりあえず この課題をできる限り細かくやっていくしかない。と思い 死に物狂い(笑)で取り組んだ結果 シラバスと教案を合わせたら 大学の卒論並みの枚数になった。
研修一日目 研修を担当してくださる 技術顧問の佐久間先生に自分が不安に思っていること 教案でわからなかったことを質問しにいくと
「あれ?君が井上さん?あの課題を提出した人だよね?いやー あれ すごいね!
今まであんな量を作った人いないよ!よくあそこまで細かくやったね!それで相 談なんだけど 君の作ったシラバスと教案を 今後の資料としてJICA3支部に保 管したいんだけどいいかな?本のような形にしたいんだ」
もう びっくり。 しかも
「君の書いた 筆記試験の論文 僕覚えているよ。あれは満点をあげるよ。あんな に長い文章書く位だから ずっと考えていたんだね。一度日本語教師を辞めよう とも思ったんだよね。」
と言って下さった瞬間 私は溢れてくる涙を 必死に堪えていた。手をグーにして必死にこらえた。
「はい。そうなんです。でも それでも 何か意義があると思ったんです。言葉を 教える以上に何か伝えられるものがあるんじゃないかと。そして まだやっても いないことを 机上の空論で判断することだけは嫌だったんです。 私間違って いませんか?」
「間違っていないよ」
その言葉だけで 私の3年間は 決して無駄じゃなかった。そう感じた。
ずっと落ち続けて 途中心臓も悪くなって もう合格できないんじゃないか。
こんだけやる気あるのに JICAは経験不足なだけで評価してくれない!とふてくされたこともあった。
筆記試験の論文なんて たいして考慮されないだろうと思っていた。でも思いのたけをぶつけずにはいられなかった。
だけど そんな私を 実力もなくただやみくもに諦めずに挑み続けた私を 文面を通して受け入れてくれている人がいた。
才能も実力も無い私が できること 評価されることがあるんだ。
帰り道 広尾駅まで遠回りして すごく久しぶりの「うれし泣き」をした。
世の中 がんばったら それを見ていてくれる人っているんだな。
先生に言われて 思い出した。
ずっと不合格をもらい続けていたとき
本当につらかった。
インドでボランティアの汚い面を見たとき
本当にくやしかった。やめようと思った。
でも
今まで やってきた。 実は結構大変だった。 ひくつになった。 頭がおかしくなった。でもやってきた。
やってきて 本当に本当によかった。。。。 そう思った夏の夕暮れ。