禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

私がオリンピックに反対する理由

2021-06-13 08:02:30 | 政治・社会
 一昨日(6/11)の東京新聞の一面を見ると、「コロナで自宅死 119人」というタイトルが目に飛び込んできた。今年1月から5月末までの5か月間に、コロナに感染して自宅療養中に119人の方々が亡くなられた。人口1憶二千万の日本では、毎日数千人の人々が亡くなられているのだから、5カ月で119人くらいは大した数字ではないとみる見方もあるかも知れない。人口割にすれば百万人に一人、宝くじに当たるような確立である。大局を見る政治家にしてみれば、取るに足りない数字なのだろう。

 私はそういう不条理な死は一人でもあってはならないと考える。人はいずれ必ず死ぬものだから、人事を尽くしたのちに死ぬのなら、それは致し方が無いことである。しかし、受け入れ先がないために入院も出来ず、必要な手当てもなされないまま病状が悪化して死ぬ、本来なら生きながらえていたはずの人がである。われわれはじっと手をこまねいて、それを傍観していたことになる。絶対にあってはならぬことである。オリンピックをやる余裕があるのなら、その費用と人材をコロナ対策に振り向けるべきではなかったか。オリンピックを断念すれば、少なくとも東京都の自宅療養者は選手村に集中させることが出来る。医療スタッフをオリ・パラ用に振り向けるの余裕など、初めから有りはしない。オリンピックを断念しさえすれば、それに関わっている東京都の職員を全部コロナ担当に振り向けることが出来る。コロナ感染者の濃厚接触者の範囲を広げて、もっと精力的にPCR検査を拡大していれば、感染をもっと縮小できたはずだ。

 このままオリンピックを強行して、一応表面的には、それが成功裏に終わる可能性は十分にあると思う。しかし、おそらくオリ・パラ期間中にも自宅療養中に亡くなられる方がおられるはずだ。亡くなられたご本人とその周囲の方々にとっては、「なにがオリンピック、何がパラリンピックだ。」という思いを禁じ得ないはずである。そういう人々から目をそらし、私達は「やったー! 金メダルだ!」などと盛り上がっていてよいものだろうか? そんなことはあってはならないと思うのである。

 今回のことがあって得た唯一の収穫が、「国際オリンピック委員会(IOC) がいかに愚劣な団体であるか」ということが分かったということだろう。日本に入国するオリンピック関係者は絞りに絞った結果約9万人になったという。その内選手が約1万5千人ほどである。あとの7万5千人は? 監督やコーチなどにしては多すぎる。ジャーナリストも何万人も必要ない。直接大会の運営に関わりのないIOC関係者が多すぎるのである。なかでも、115人のIOC委員を中心とする、いわゆるオリンピック・ファミリーが5千人もいる。一体何しにくるのか? 実際の大会の運営にはなにもタッチしない人ばかりなのである。しかもうるさいことに、先方の方からその待遇に細かい注文を付けてくる。「委員の移動用に公道に専用レーンを設けよ。」、「(委員のために)ホテルのバーは営業時間を夜遅くまで延長し、ミニバーにはコカ・コーラ社の飲料を置く。 」、「会場のラウンジに温かい食事を用意し、メニューは定期的に入れ替える」 等々、具体的な内容は次の記事の内容を見てもらえばわかるだろう。
 クリック ==>「オスロ五輪招致撤退はIOCの接待要求のせい」

 ノルウェーはさすがに民度の高い国である。訳の分からない特権階級の理不尽な要求に対し公金を使えないと判断した。文明国はそうあらねばならないと思う。翻ってわが日本はどうだろう。開催国の栄誉をものにする為、公金をわいろとして使った疑いがある。当時のJOC会長の竹田恒和はフランスの捜査当局から贈賄容疑をかけられている。

 スポーツは確かに素晴らしい。一流の選手が全身全霊を打ち込んでいるのを見ると誰もが心を揺さぶられる。しかし、そのこととオリンピックの陳腐さは矛盾しないということは知っておかねばならない。
 
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おごらざる人も久しからず

2021-06-07 14:25:57 | 仏教
 太田道灌は若い頃多少傲慢なところがあったらしく、父親がそれをたしなめる意味で「おごれる人も久しからず」とたしなめたところ、道灌は「おごらざる人も久しからず」と答えたらしい。という逸話が小林秀雄の「私の人生論」で取り上げられていることを、小林の実妹である高見澤潤子の「兄 小林秀雄」を読んで知った。

 道潅とその父親のやり取りの仔細はよく分からないが、理屈としては道灌の方が正しいのである。高見澤も「兄は、『諸行無常』という言葉も昔から誤解されていて、一切の現象は、変転して常住でないと解釈されているが、『常なし』というのは心なしということで、全く心ない理法、非人間的な理法ということだ、それを人間が受け入れることは難しい、まともにみる事が出来ないから、目をそらしてしまったというのである。」と述べている。

 ここで「心なし」というのは非情であるという意味である。そこに予定調和的な要素というものはみじんもない。おごれるものだろうがおごらざるものであろうが、無常はそのようなことについては一顧だにしない。つまり、この世界と我々の間にはなんの約束もない。無常観とは、なんの保証もない世界の中に放り出されている実存を意識することに他ならない。

 仏教に関しては、因果応報ということもよく言われるが、これはせいぜい、「タバコを止めたら長生きできる。」というぐらいの意味に解釈しておくべきだろう。因果応報を信賞必罰のように解釈するのは間違いである。仏教には神さまはいないのだから、賞罰を与える主体というものは存在しない。身も蓋もないことのように思えるかもしれない。が、たとえ報われようと報われまいと、常に善い生き方をしなさいと教えるのが仏教である。

 「念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん、 また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもつて 存知せざるなり。」 
 
 上の言葉は、歎異抄の第2条の一部である。念仏を進める親鸞自身が、念仏を唱えれば浄土に行けるか地獄に落ちるか、どうなるか分からないと言っている。一見無責任なことを述べているようにも見えるが、親鸞にはもう念仏にすがるしかないという諦念、それが信仰への覚悟となっているのである。第2条の文言は以下のように続いている。

 「たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、 念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふら う。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける 身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すか されたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もお よびがたき身なれば、とても、地獄は一定すみかぞかし。」 
 
 もともと「地獄は一定すみかぞかし。」とは無常をそのまま受け入れる覚悟のほどを言うのである。その覚悟ができた時、自分が「柳は緑花は紅」という当たり前の世界の中にいることを再発見するのである。当たり前のどこが有難いのか? というかもしれないが、実は当たり前であることは当たり前ではないのである。

 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
                    (ウィトゲンシュタイン)

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アネマ・エ・コーレ(魂と心)

2021-06-01 16:58:06 | 哲学
 1960年から70年代にかけて、日本にカンツォーネブームが興ったことがある。私が中高生の頃、同級生の多くはビートルズやグループ・サウンドに熱を上げていたが、私はジリオラ・チェンクェッティという美貌の女性歌手により惹かれていた。それ以来今に至るまでカンツォーネは大好きである。そのチンクェッティのレパートリーの中に、「アネマ・エ・コーレ」という歌がある。「魂と心」という意味である。アネマ(anema)はラテン語の anima が語源で、アニミズムやアニメーションも語源を同じくする言葉である。

 それで、以前から気になっていたのだが、魂と心はどう違うのだろう? どちらも目に見えないものだから、ひとまとめにして「心」とするだけではいけないのだろうか? それで、インターネットで「魂と心 違い」で検索してみた。そうすると、なんと9千万件もヒットした。様々な人がいろいろな見解を述べている。もともと見えないものについて論じている訳なので、その解釈がいろいろ出てくるのも致し方ないことなのだろう。これはAさんの魂と心、これはBさんの魂と心、これはCさんの‥‥、というふうに並べて比較することができれば、魂と心の一般的な概念化は可能だが、それはできない相談である。つまり、魂と心について厳密な定義は存在しないにもかかわらず、われわれは日常的に、「魂と心」を口にして何か言い得たような気になっているのが言葉の不思議さである。

 いろんな説があるが大まかに集約すると、感情・理性・知性といった精神活動を「心」と言い、その心をつかさどるものを「魂」と言うのだろう。ある意味で、心というのは他人にも「見える」ものである。あの人は優しいとか冷たいとか、賢いとか、喜んでいるとか‥‥。それに引き換え、魂の方はその様子が全然うかがえない。なら、「心」だけですべて説明できるのではないか? 「魂」という概念は必要ないのではないか?
 
 それが必要である理由があるのである。心だけでは、それが「私の心」であることを説明できないからである。心が外部からうかがえる精神活動であるなら、それはすべて脳を中心とした神経系の働きという即物的なものに還元されてしまうからである。つまり、全く同じ脳を作れば、それらはまったく同じ心だということになってしまうし、人間と同じような高等な精神活動ができるAIは我々と同じような心を持っていると言えることになる。しかしそれだと、地球上には何十億といる人間のうち、なぜ私はよりによってこの私であるのかが説明できない。この世界はこの私の意識から開かれている世界である。この私の唯一性というものは、物質的現象として還元されてしまう心だけでは説明できない。どうしても、ほかならぬ私の「魂」というものがなければ説明できない。

 このような考え方の是非は脇に置くとしても、「魂」という概念が生まれてきたのはこう言った事情によることは間違いないと私は考えている。 

 もし、心だけがあって魂のない人間がいたとしても、外見的な振る舞いからはまったくそのことは分からない。しかし、その人は高度なAIを備えたロボットと変わらない。生気のない、いわゆるゾンビと言われるものであると考えられるのである。理論的に言って、生気のある人間とゾンビは全く区別がつかない。そういうところから、いわゆる独我論(自分以外はすべてゾンビではないかという考え方)に取りつかれる人も出てくる。

 ここで述べた「魂」というものは、一般化できない。他者の魂というものは理論的に言って、見ることはできないからである。したがって、このような考え方が間違っているということも正しいということもできないが、個人的には超越的な概念を作り出すような考え方は好きではない。
コメント (1)
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