禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

せこさが憎い‥

2017-06-05 10:18:11 | 哲学

人は、それは良いとか悪いとかよく言うが、良い悪いを哲学的に論じようとすると結構難しかったりする。何事も根源的に突き詰めていくと虚無(ニヒル)に突き当たってしまうからだ。
ことの良し悪しとか善悪の根拠は、我々の人性(human nature)に求めるしかあるまい。

子供の頃、こぶとり爺さんの話を聴いて、正直爺さんは報われて良かった、嘘つき爺さんはひどい目にあってざまあみろ、と思った。学生の頃、特攻隊員の遺書を読んで涙が出るほど感動した。このような経験は誰でも共通しているのではないだろうか。

正直や献身は美しい。嘘つきや抜駆けは醜い。私たちは心底からそう思うのである。それは私たちの人性に刻み込まれている、と私は考える。

だから私自身も正直で献身的な人間でありたいものだと思っている。ところがだ、自分自身を振り返ってみるとちっとも正直でも献身的でもない。悲しいことだがそれが現実である。

なぜだろう?

人間は虎やライオンのように強くはない。馬のように速く走れない。猿のように木の上で難を逃れて生活をすることもできない。個体としての能力は極めてひ弱で、野生で生きて行くことはとてもかなわないことだろう。人間は社会的動物として、協力し合うことによって生き延びてきたのである。お互いに騙し合うことはタブーであったからそれが可能であったと言える。

人間は部族間でも争う。命をかけて戦う気概の無い人間ばかりの部族は生き残れない。だから今生き残っている我々は、命をかけて戦い勝ち抜いてきた部族の末裔である。

ここでひとつ問題がある。グループとして生存するためには、その集団のために命を惜しまず戦う気概のある戦士が多いほどよい。しかし、当然のことながら、先頭切って命がけで戦う戦士は生存率は高くない。個体として生き残るためには勇猛すぎることはマイナスである。

集団の危機が差し迫れば差し迫るほど、勇敢さが称揚され抜駆けは許されなくなる。命を惜しむものが多ければ結局その集団は生き残れないのである。そして、当然命を惜しむものに対する牽制があった方が集団の生存のためには適している。

第2次世界大戦の末期には、特攻隊なるものが編成された。私の叔父も選抜されて予科練に入ったのだが特攻前に終戦隣命拾いしたのである。その叔父が言うには、「みな、われ先に志願した。命を惜しむものなど誰もいなかった。」ということである。

一朝ことあれば命を投げ出す、という性質は我々の人性に刻み込まれているのだと思う。しかし、私はこのことについて祖母が放った言葉を忘れることができない。彼女は「予科練に選ばれたのは皆貧乏人の子ぉばっかりやった。その時の教師の顔は死んでも忘れん。」と憎々しげに言ったのである。

彼女の言葉には、息子が予科練に選ばれたという名誉を喜ぶ気持ちはない、潔さが称揚される中で何とか自分の血脈の生き残りを模索する人々への牽制の憎しみがあるだけである。

私たちの人性には、献身と正直さを美しいとするものがある、それは確かなことである。そして少し複雑なメカニズムであるが、自己犠牲が必要とされる場合にはそれに従うが、意識的にしろ無意識的にしろ自分だけは何とか犠牲を免れたいという性向も持ち合わせている。それと同時にどうしても自己犠牲が免れ得ないものであるときは、他人の抜駆けへの強烈な牽制意識も持ち合わせている。

考えて見れば、私はアンビバレントな価値観を持ち合わせていると言わざるを得ない。正直さと献身を素晴らしいものと感じながら、決して自分はそうなりきることはできない。他人のせこさを憎み軽蔑するが、実はそれは自分がせこいからなのである。

進化論的観点から見ると、そうであったからこそ生き残ってこれたとも言える。何十万年もの間厳しい生存権をかけて私の先祖は駆け引きに勝ってきたとも言える。その結果、実は私が本当に美しいと思える人やはっきり醜いと言える人は淘汰され、ある意味不完全な価値観をもつ私たちが生き残ったわけである。

進化論をたてにして、自分を正当化しようとしているわけではない。進化論を目的論的に使用するのはダーウィンの精神に最も反するところである。悲しいことだが、単なる事実として不完全な私が生きているということである。

東京 三鷹市 山本有三記念館

コメント (2)
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