禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

結果を目的と取り違えるべきではない

2017-06-04 18:57:39 | 哲学

進化について考えるとき、人は冷静でいられなくなるらしい。進化論はその中に私たち自身も含まれる。つまり、自己言及的な学説である。本来は客観的であるべき学説に、つい主観を忍ばせたくなるのである。

「キリンは高い木の葉を食べるために首が長くなった。」式の表現をすることがある。問題は「食べるために」という表現である。進化をコントロールするコーディネーターはいない。すべては偶然である。背の高いキリンは高い所にある食べ物を食べることができた、それで生き残っている。それだけのことに過ぎない。進化論というのは、いわば「なるべくしてなる。」という当たり前すぎる原理にのことである。 

何億年もかけて成し遂げた成果が余りに精妙であるために、おそらくそこになんらかの「意志」が働いてかのように見える。結果から見れば、人類は「種族繁栄」を目指しているかのように見える。次に、ある人のブログから、「善」についての定義を述べたものを引用する。 

≪ ウイルスから虫、植物、犬や人間まで、ありとあらゆる生物が何億年もの間、命を賭けてやってきたことは何か、それは子孫を残すことである、いわゆる種族保存である。
ならば、この大自然の、大宇宙の意志というのは、命を賭けて種族を保存せよと言う事ではないだろうか。そうであれば、この大宇宙の意志を絶対的に正しい(絶対善)と言わずに何を正しいと言うのだろうか。ゆえに絶対的に正しい事、絶対善とは種族保存のことである。 ≫

残念ながら、「大宇宙の意志」というものの根拠を我々は見つけることができない。ありとあらゆる生物が何億年も種族保存を目論んできたかどうかは不明である。生物の変異はむしろランダムであったと想定される。過去には生存に適さないおびただしい生物が生まれたとも考えうる。ただ生存するのは生存するのに適したものだけなわけで、当然のことながら、現在生存しているのは「生存に適したもの」だけなわけである。 

人間が種族保存という観点から見て、究極的進化を経たものであるならば、「種族保存が絶対善」であると言っても問題ないだろう。もしわれわれの本能がそこまで洗練されていたなら、その場合には誰もが種族保存を目指しているわけで、種族保存の崇高さを疑う必要など何もなくなってしまうだろうと考えられるからである。もしかしたら、アリのようにシンプルな生き物は、そういう高みにすでに到達している、と言っても良いかもしれない。しかし一方で、善というものが本能とまったく一致してしまったら、そもそも善などという概念は意味をなさないだろうともいえる。 

善というのは基本的には利他行為を指すのだろうが、もともと多義的な言葉なのだろう。もともと複雑な心を持つ人間が、その時々の生活習慣に合わせて恣意的に使用してきたものだ。早い話、戦国時代の倫理と現代の倫理が同じであるわけはない。進化論から得た知見をもとに、善を一意的に定義するという発想には無理がある。 

ダーウィンのいとこにフランシス・ゴルトンという人物がある。進化論から刺激を受けて、人類を人為的に「進化」させようという優生学というものを唱えた人である。それがやがてナチスによる人種政策の思想的基盤となった。彼らには、現に生まれてきた個々の人間の意識には関心を持たない。おそらく、神になり替わって、美しい架空の人間の形を作ろうとしていたのだろう。やはり、ここにも「大宇宙の意志」の読み違いがあるように思える。

横浜 イングリッシュ・ガーデンにて

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