禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

観念論と実在論のつづき

2017-01-26 10:05:57 | 哲学

前回は、科学的実在論が必然的に観念論を導き出す過程について述べた。実在論は必然的に観念論を導き出すが、観念論から実在論には戻れない。科学的実在論によれば、我々に直接接するのがセンスデータだけだからである。我々の側から見れば、物そのものの前に感覚の壁が立ちはだかり、物そのものは仮説的推論によって存在すると推定するしかない。

矛盾のない仮説的推論というのは無限にある。例えば、「私は実は培養液に浸された脳であって、今見ている光景は電気的刺激を人為的に外から与えられることによって、見せられているビジョンなのだ」というような説を言い出す人も出てくるわけである。

ならば、実在性を観念そのものに与えて、観念以外のものはないのだ、ということにしてしまおうというのがバークリーの観念論だ。

しかし、このバークリーの考え方にも重大な問題がある。そもそも観念とは科学的実在論から生まれた概念だからである。観念論側から見れば、科学的実在論とは仮説的なものになるが、「観念」という概念そのものが、光、視神経や脳などと同様に仮説の部品であったものだということだ。

であるから、「観念」という言葉は暗黙の裡に『意識の内側にあるもの』というニュアンスを含意している。しかし、バークリーは意識の外側は何もないと言いながら「観念」という概念を使用しているのである。時々、哲学をかじったことのある人が、「山も川も自分の外側にあると思っているものも全部、自分の脳の中にあるんだ。」というようなことを言います。しかし、すべてが脳の中なら、その脳は一体どこにあるんだ、という問題が出てくる。

西田幾多郎はこの問題を『自覚に於る直観と反省』という論文の中で、「英国にいて英国の完全な地図を描く」と言う哲学的な問題として取り上げている。

ここで言う「英国の完全な地図」とは、あらゆる要素を一定の縮尺率で書きこんだものと言う意味である。例えば家一軒々々はおろか、もっと微細なものまですべてが記されているそんな地図である。もちろんそんなものは実現不可能であるが、あくまで思考実験として考えてみるのである。

この地図が例えばどこかの大きな広場で描かれていたとする。と、「英国にいて」とあるので、この広場自体も地図上に記載されていなければならない。ならば当然、この地図そのものもこの地図上に記載されねばならない。

勘のいい方はもうお分かりだと思うが、地図の中の地図にもこの地図が記載されていなくてはならない。というわけで、地図の中の地図の中の地図の中の地図の中の‥‥、というわけで無限に循環してしまう。

すべてが脳の中と言ってしまうと、その脳自体もその脳の中に位置づけしなくてはならなくなるのでこういう問題が生じるのである。

( まだまだつづく 

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